あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離9
  (表現の自由市場論18と世論軽視論の矛盾10)

京都弁護士会や東京弁護士会の論理構成は、表現の自由と公的施設利用(あるいは補助金支給)基準問題とは次元の違う問題であるのにあえて?これに触れず、「表現を萎縮させる効果」を言うのは、いかにも憲法で禁止する検閲類似行為があったかのような誤解を招く(ための意図的ずれ?)主張ですが、公的施設が使えなくとも検閲に当たらないばかりか、芸術表現に萎縮効果は出ません。
ほとんどの平均的作家は、公的企画展に出品できなくとも、人権重視論者の金科玉条としている自由市場で腕を磨いています。
公共美術館の企画展などで出品できる現役作家は、むしろ限られているのが現状でしょう。
不自由点に関する報道の限りでは自由市場で相手にされていない作家+日韓対立系の韓国主張に焦点を当てる試みのように見えます。
最終判断権を芸術家に委ねるべきとの主張は、芸術系の実績のない津田氏を芸術監督に任命して作品取捨選択権を(政治的主張)を与えてきたのと矛盾します。
企画=作品選択経緯に関するウイキペデイアの記事を引用します。

2017年7月18日、あいちトリエンナーレ芸術監督選考委員会[注釈 2]は、あいちトリエンナーレ実行委員会に対し朝日新聞論壇委員[31] の津田大介を「バランス感覚に優れ、また、情報を整理する能力にも長けていることから、いろいろなアイデアや意見を取り込んで、トリエンナーレを創り上げることができる」などの理由から芸術監督として推薦し[32]、同年8月1日に津田は芸術監督に就任した[30]。実行委員会の大村秀章会長(愛知県知事)は津田に「とんがった芸術祭にしたい」と委嘱状を渡した[33][
津田は「芸術監督に与えられている権限は大きい」と決定権を握ると学芸員が提出してきた作家を「ピンとこない」と退けて陣頭指揮を執る[35]。津田は話題性を集めるため「ジェンダー平等」を仕掛け「日本初」を目玉にした宣伝活動を展開する[35]。2019年3月27日、津田は記者会見を開き、国内外79組の出典作家を「男女平等」に選考したと発表して「あいちトリエンナーレ2019」を全国紙で紹介させることに成功する[27][36][37]。また、あいちトリエンナーレで恒例となっていたプロデュースオペラを廃し、音楽プログラムを新設して[38][39]、ニュースサイト「ナタリー」で津田の共同創業者を務めた大山卓也[40] をキュレーターに任命した[41]。津田の芸術監督就任を批判したオペラ歌手の畠山茂に対して、津田はツイッターで以下の反論を行っている[42]。

こんな僕ですが一応文化庁主催のメディア芸術祭で新人賞なるものをいただいた経験もありまして、その審査した人たちや、芸術監督を選出したあいちトリエンナーレの有識者部会(アート業界の重鎮多し)をみんな敵に回す発言になりますけど、大丈夫ですかw

2019年3月27日に「表現の不自由展・その後」の企画を決定。津田は企画の意図について、あいちトリエンナーレのアドバイザー東浩紀(表現の不自由展を巡る混乱の責任を取って8月15日に辞任)との対談で以下のように説明している[43]。
公立美術館で撤去されたものを、『表現の不自由展』という展覧会を持ってくる体(てい)にして全部展示してやろうというそういう企画で。おそらくみんな全然気づいてないけど、これが一番やばい企画なんですよ。おそらく、政治的に。

津田芸術監督の経歴をウイキペデイアで見ると以下の通りで芸術系の経験皆無・・どちらかというとパフォーマンスに優れているので大手メデイアに重宝されてきたように(もともと知らない人なので以下のウイキペデイアをちょっと読んだだけの印象ですが)推測されます。

津田 大介(つだ だいすけ、1973年11月15日 – )は、日本ジャーナリスト

概要[編集]
東京都北区滝野川出身。父親公男は社会主義協会派の活動家で、日本社会党(現:社民党)の副委員長高沢寅男の議員秘書も務めた[2]。しんぶん赤旗にて、中学生時代に「赤旗」を読んだことが「物書き」になるきっかけとなったと述べている[3]
・・・1年間の予備校生活を経て早稲田大学社会科学部と明治大学政治経済学部に合格し、早稲田大学を選択した[4]。就職活動では出版社を志望するもすべて面接で落とされ、卒業後はパソコン系編集プロダクションのアルバイトとしてライター活動を開始する。1999年に会社設立[5]。
2000年代
2002年、個人運営ニュースサイト「音楽配信メモ」(ブログ)を開設。
2006年、株式会社ナターシャ設立・取締役( – 2014年7月)。
2006年 – 2008年、文化審議会著作権分科会において複数の小委員会で専門委員を担当[10]。
2007年、Twitterアカウント(@tsuda)を開設。
2007年、小寺信良(コラムニスト、AV・音響機器評論家)・白田秀彰(法学者、法政大学社会学部准教授)らと共同でインターネット先進ユーザーの会(MIAU、現インターネットユーザー協会)を設立。現在、一般社団法人*インターネットユーザー協会(MIAU)代表理事。
2008年 – 、特定非営利活動法人情報通信政策フォーラム(ICPF)副理事長( – 2014年3月)
2008年 – 、デジタル・コンテンツ法有識者フォーラム設立・発起人。
2008年 – 、コンテンツ学会設立・発起人。
2008年 – 、特定非営利活動法人ブロードバンド・アソシエーション「P2P関連問題研究会」委員

2000年代の経歴を一見すると次々と誰かと〇〇組織を立ち上げてきたことが分かりますが、(短期間にいくつもの組織立ち上げで同時並行で何ができるの?と言う疑問があり、組織実態が不明です。
名刺にはいくつもの肩書を書けるでしょうが・・。
名称で実態が分かるのは政府系委員会の専門委員になったというだけですが、それも任期2年一回でお払い箱?のような印象です。
この経歴を見ると、シールズを立ち上げた奥田愛基氏の経歴と酷似しています。
時間軸でいえば、津田大介氏の成功例をなぞってメデイア界が、10年遅れで次世代育成の思惑で過保護にデビューさせたのが奥田氏だったような印象です。
津田氏の過去発言内容等を知りませんが、朝日新聞論壇委員になっているところを見ると、多分朝日新聞系の期待する気の利いた「とんがった」発言でモテはやされてきたのでしょう。
芸術監督になる直前の2010年代の経歴を明日引用します。

あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離8(表現の自由市場論17と世論軽視論の矛盾9)

ウイキペデイア引用続きです

表現の不自由展」展示中止に関する論説[編集]
新聞各紙はテロや脅迫で表現の自由を奪う行為に対しては厳しい批判で一致していたが、主催者側の落ち度については論点が分かれた。
いちトリエンナーレを後援している朝日新聞[123] は、8月6日に社説で「一連の事態は、社会がまさに「不自由」で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい。」と掲載し、不自由展に否定的な世論への批判を行った[
産経新聞から「非常識な展示会に批判が相次いだことは、国民の常識感覚の表れである。それを「『不自由』で息苦しい状態」といい、「病理」とまで断じる感覚はおかしい。」[125]。「慰安婦像などに対して芸術作品としての妥当性には踏み込まず、表現の自由の議論に持ち込むことを避けている」[126] などの批判が行われた。
読売新聞は「展示作品が物議を醸すことが予想されたのに、反発を感じる人への配慮や作品の見せ方の工夫について、検討が尽くされたとは言い難い。」「結果的に、脅迫を受けて展覧会を中止する前例を作ったとも言える。その事実は重く受け止めなければならない。」[129]、企画者は「表現(本来的に謙虚な営みであって、最初から表現相手に対する敬意を前提にしている)」と「主張(一種の自己拡張の行為であって、根本的に相手に影響を与えて変えようとする動機に基づいている)」という言葉を取り違えている[130] などの批判を行った。

朝日、産経、読売それぞれの日常的スタンスを反映する主張になっています。

「表現の不自由展」に対する評価[編集]
日本美術家連盟は・・実行委員会の運営手法を批判し、『対立を避け、平穏でフラットな空間を「公共」に求める流れに対し、愛知県が一歩踏み込んで、受け入れる「表現」の幅を広げようとした姿勢は評価できるものです。しかし、この展示に対する反応の大きさを見誤り、足元をすくわれ、結果的に「表現」の側に立つことの困難を印象づけることになりました。』と評した
日本共産党はあいちトリエンナーレ2019を「いまの日本に横たわるゆがんだ歴史認識、憎しみや差別をあおる勢力をあぶり出すとともに、それに抗し内外で連帯する姿を示した意義は大きい」と評した[182]。
林道郎上智大学教授は「表現の自由という概念が人々に内面化されていないことを痛感した」と述べ、欧米式の自己主張を重視する教育が行われていないことに原因を求めた。また、抗議の背景には「日本が経済大国でなくなりつつあること」を指摘し、「自己と国を重ねている人には耐えがたいのだろう。だから国の方針に反する存在に不満をぶつける」と分析した[

美術家連盟は運営手法に問題があったという程度でお茶を濁し、共産党はいつもの通りであり林道郎上智大学教授は昭和40年代まで一般的だった「欧米に比べて日本の民度のが低い」という決まり文句での評価です。
こういう決まり文句しか言えない人が大学教授をしているとは不思議ですが、他にもいろんな意見があるはずですが、この程度にまとめるのはウイキペデイア編集者のレベルなのでしょうか?
ところで、この騒動で誰が得したかの分析が重要です。
この騒動の結果、韓国の立場を代弁する運動家が今後公的(制作費)補助を受けて自由に使えるようになったのか?
ウイキペデイア引用続きです。

8月26日、韓国のソウル大学校日本研究所のキム・ヒョジン教授は慰安婦像を再展示するための戦略として「日本の少女像に対する反発を指摘するよりは、『表現の自由』の問題を浮き彫りにすることが、さらに訴求力のある戦略」と分析した。「少女像を強調すれば強調するほど、むしろ平和の少女像を口実に展示会を攻撃する日本国内の嫌韓論者に反対根拠を提供するのではないか、熟慮する必要がある。」「日本の市民社会は依然として『検閲』に対して強い反感を持っていて、これは重要な連帯の根幹になりうる」と報告を行った[
京都弁護士会は「公権力が、表現内容に異議を述べてその中止を求めることは、表現活動に多大な萎縮効果をもたらすものであり、到底許されるものではない。」と会長声明を発表[189]、同月29日には、東京弁護士会も「公権力が、表現内容に異議を述べてその中止を求めることは、表現活動に多大な萎縮効果をもたらすものであり、到底許されるものではない。」
愛知県弁護士会が「公共の場における多様な表現の保障は、民主主義の意見形成の過程を支えていくために不可欠であり、多数意見と異なる少数意見の表現、特に時の権力者の意見に反する少数意見であっても、多数派の意見と同様に最大限の保障がなされなければならない。」「河村市長の発言と行動は、行政庁の長である市長が企画展の展示物である表現の内容に対して異議を唱え出品者の表現行為を止めようとするものであり、憲法21条2項との関係において適切さを欠くものである」
河村は「名古屋市民の多くにとって、激しい嫌悪感・不快感を催し、国民感情に著しく反すると思われる作品群に対し「便宜を供与」(公共施設の使用許可等)し、公金(愛知県民税・名古屋市民税・国税)を使うことが著しく不適切であると考えられるがゆえに、その「(展示の)中止を含めた適切な対応」を求めたもので、「中止そのもの」を求めた訳ではありませんし、個々の作品の「表現の規制」を目的とした行為ではありません」と反論を行った。

韓国側は今後検閲論の土俵で(親韓派系とは書いていないですが、)弁護士会等が頑張れば、今後日本政府資金で慰安婦像製作し展示する道が開けたと期待しているようです。

あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離7
  (表現の自由市場論16と世論軽視論の矛盾8)

専門家意見重視論は共産党がはっきり支持しています。
共産党自身性奴隷論を主張しているようですが、自党の主張にあっているからそのように主張しているだけなのか不明です。
共産党の主張によれば、共産党批判の主張集会開催を演劇とか芸術表現と銘打てば、公費補助しても良いかのように見えます。
ISなど過激派集団を支持している勢力が少ないので、IS糾弾集会や演劇などないのと同じで、わざわざ社民党反対や共産党反対の政治集会や講演会を開く右翼もいないでしょう。
もともと国民の大方に相手にされていない(過激派集団を含む)政治集団は、自分らを非難相手の集会が開かれるリスクがほぼ皆無という気楽さもあるのでしょうか?
政治集団が公的設備を安く使えるようにすると大きなメリットを受けるのは、国民支持のほとんどない過激派など(国民支持が少ないどころか嫌われている過激派政治集団にとっては、(例えば赤軍派反対の)自分らを標的にした政治集会される心配もないし)魅力ある制度かも知れません。
芸術祭を名乗れば、広告ポスターなど公立施設の名で出してくれるし、願ってもないことになるでしょう。
コミュニテイセンタ集会室などをサークルのように(毎週1回)年間使用申し込みをして、毎週日曜はAセンター、火曜日はBセンター、水曜日をCセンターという風に事実上回転させながら、(今は固定電話不要で移動式事務所でも十分です。)事務局みたいに使えるようになるのかな?
過激派集団は事務所を持ち、借りるのさえ大変だから大助かりでしょう。
議論すべきは政治活動に補助金を出したり公的施設を使ったりする便宜を与えないという基準が容認されるべきかどうかが先決すべき論点でしょう。
これが決まれば、政治主張の展覧会か、商業目的かの基準が憲法違反になるか?の問題となり、さらにその基準に違反するかどうかの判定は第一次的には行政機関の使用許否決定であり、それを最終的に決めるのは裁判所です。
主催した芸術家集団や政治家、商売人が自分でこれは商業目的でないとか、政治目的でないとか決めるべき権利ではありません。
コンサートや落語の演目決定はその主催者の自由でしょうが、その落語や音楽の時間が半分まで後の半分が政治家の選挙演説、または商品展示即売会と分かれば、その分については使用許可できないと決めるのは第一次的には施設の権限です。
愛知トリエンナーレ「不自由展」では、芸術監督がどういう企画するかの自由と、それを施設許可権者が政治目的部分不許可するかは別の問題なのに、企画者と許可権利者の権限分離がはっきりしていなかったとすれば議論を混乱させている原因でしょう。
知事が実行委員長になっていても許可権者としての知事の行為には、使用許可申し込み受け付けから始まる決裁手順があるべきなのにそれをしなかったのでしょうか?
あるいは担当部局が実行委員長の知事意向を忖度して許可すべきとしてしまったのでしょうか?
今回の争点は、もともと使用許可条件の問題であり、憲法論や芸術か否かの問題でないと思われます。
具体論・実務論では不利なので、しゃにむに芸術論や憲法論に引き寄せる傾向の主張が目立つ感じです。
内部決定を自由にできる自治権と、それを外部強制できる権利とは別次元です。
不自由展擁護論を見ていきますが、概ね、この違いを敢えてごちゃごちゃにしているように見えます。
ウイキペデイア引用続きです

展示再開への動き
日本ペンクラブ・・・日本軍『慰安婦』問題解決全国行動は・・・「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター・・・、日本YMCAが・・日本キリスト教協議会の金性済総幹事が・・展示再開を求め・・・。
日本バプテスト連盟の加藤誠理事長も抗議声明を発表した。
アムネスティ・インターナショナル日本は・・・河村たちの発言を「日本軍性奴隷制について、その歴史的事実のみならず、人権侵害に対する国家責任や被害者の尊厳などをも否定する言動である。」と批判し、「日本政府は『平和の少女像』の展示を攻撃する今回の公人の言動に対して、これを是認することなく公式に反駁し、日本軍性奴隷制の被害者の尊厳を傷つける発言をくい止めるための具体的な措置を取らねばならない。」と声明を発表した[92]。
平和の少女像の展示中止を歴史修正主義との闘いとする運動も行われた。
法学者の田島泰彦が「公権力が許す範囲で表現の自由を認めようとする流れが安倍政権にはある。
荻野富士夫小樽商科大学名誉教授や醍醐聰東京大学名誉教授らが加わって「歴史修正主義とのたたかいでもある」と決起した[119]。また、日本史研究会も2019年度の大会で「歴史の学術研究の成果を無視し、隣国への差別意識を助長する歴史修正主義及び排外主義に反対するとともに、昨今の事態に深い憂慮を表明し、表現・言論・学問の自由の重要性を強く社会に訴えるものである。」と声明を発表した[120]。

以上いろんな専門分野の人々の声明らしいですが、要は慰安婦の性奴隷制を否定するのはけしからんという政治論が基本であり、公費助成対象がどうあるべきかの議論ではありません。
専門分野と言っても議論の立て方は思い込み集団レベルのイメージです。
歴史修正主義批判論に対する意見は、8月24日に書きました。

あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離6(表現の自由市場論15と世論軽視論の矛盾7)

声なき声とは何かですが、ある総会の経験ですが4〜5年前に対立議案で議長采配に不公平感があると会場が一斉にザワメク一種のブーイングあり、事実上軌道修正になったことがあります。
ツイッターのごとく瞬時に異議を出すほど頭の中で整理ついていないが、なんとなく違和感がある時の重要な発信方法です。
あるいは、説明に納得しているようにうなづく人が多いのと不満そうな顔をしている人など場の雰囲気も重要です。
2020年春から始まったコロナ禍によって、急速に広がりつつあるズーム会議では、この表情や声なき声の変化を議長は読み取れない点をどう補正するかの問題が残ります。
気心の知れた4〜5人の意見交換には、合理的ですが、面識のない者同士の多数会議にはかなりの不便がありそうです。
私は9月初めの日弁連全体委員会にズーム出席回答していますが、何年も続いている会議体で今年度新任委員の顔を知らない程度ですので、その他の委員の声を聞いているだけで誰が発言しているかもある程度わかるのですが、ズーム会議が数年も続くと全く面識のない人ばかりの会議になっていくとどうなるかです。
党派的策略で自派に有利な議事進行し結論を得たいなら便利ですが、日本の場合衆議を持ち寄ってよりよい知恵を探るための会議が普通ですので、お知恵拝借目的の会議向けにはどうやって補正するかが重要です。
まして国民一般ではいきなり降って湧いたような事件に直面すると結論的感想だけがなんとなく言えるが、何が問題か理路整然と言えるほどの予備知識もないのが普通で、黙っている人が多いものです。
こういう人の声は擁護論・反対論共に出にくい・声の大きい人・メデイア界に知られている人だけの意見になります。
結局メデイア界で日頃重宝されている文化人?メデイアと価値観共有している人・中心に拾われる傾向ですので、世論を読み違えるのではないでしょうか。
今回の不自由展芸術監督・津田大介氏は朝日新聞の論壇委員という肩書きでどういう仕事かすっきりしませんが、ともかく朝日新聞好みの主義主張で知られている人なのでしょう
ウイキペデイア引用続きです。

展示に対する政治家の批判

あいちトリエンナーレ実行委員会会長代理を務める河村たかし名古屋市長は、大阪市の松井一郎市長から、あいちトリエンナーレで慰安婦像の展示が行われていると質されたため、翌日に会場視察を行った[104]。河村は『平和の少女像』だけではなく皇室関連の展示についても問題視し、実行委員長の大村に対して『表現の不自由展』の中止を含めた適切な対応を求める公文を8月2日付で発していた[105]。吉村洋文大阪府知事(大阪市長時代にカリフォルニア州サンフランシスコ市が慰安婦像を公共物としたことに抗議して姉妹都市関係を解消した経歴を持つ)は「表現の自由は保障されるべきだが、反日プロパガンダと国民が思うものを、愛知県が主催者として展示するのは大反対。」と批判、大阪市の松井一郎市長も「税投入してやるべき展示会ではなかったのではないか。個人が自費で様々な会合をするのは否定しない。」 とした上で、大村に対して展示したことについての説明責任を求めた。神奈川県の黒岩祐治知事も『平和の少女像』を「極めて明確な政治的メッセージがある。それを税金を使って後押しするのは、表現の自由より、政治的メッセージを後押しすることになる。」など政治家からは展示反対の表明が相次いで行われた[106]。
自由民主党は日本の尊厳と国益を護る会が『平和の少女像』の展示について「『芸術』や『表現の自由』を掲げた事実上の政治プロパガンダだ。公金を投じるべきでなく、国や関係自治体に適切な対応を求める」と声明を発表し[107]、日本維新の会も杉本和巳衆院議員(比例東海ブロック)が「公的な施設が公的支援に支えられて行う催事として極めて不適切」として、展示中止を求める要望書を提出した
河村は、あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行として、名古屋市民に対して『平和の少女像』に関して以下の声明を公開した[109]。

声明文略

芸術監督の津田大介は「政治家は、表現の自由に対して権力を行使できる立場であり、もう少し発言は抑制的であるべきだと思います」と批判し[71]、また、津田を論説委員として擁する朝日新聞も「行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められる。」と批判を行った[1
日本共産党も、政治家による展示中止を求める動向を検閲行為として批判し、日本による「性奴隷制」の加害の事実を認め、被害者への謝罪と賠償の責任を日本は果たすべきという立場から『平和の少女像』の展示を支持する表明した[111]。

いよいよ専門家?と称する人らの本音が出てきました。
「選任した芸術監督の裁量に判断を委ね」という朝日が直接的ですが、国民世論などに「おもねるな?」という専門家の自主判断重視論です。
この方向性の主張は、専門家集団利益共通なので応援を受け安いのでしょう。
しかし検閲そのものではなく補助行政・・税金で公的補助すべき基準・学問研究もどの分野の研究に補助金をつけるかは専門家の意見によるのではなく、国会で決める予算・・政治判断であるべきことを書いてきました。
公的施設使用基準として営利事業や特定政治利用への補助を許すべきか、その線引きをどの程度にすべきかは具体的政治判断でありその判断は民意によるべきです。

あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離5(表現の自由市場論14と世論軽視論の矛盾6)

自己顕示欲もあるが批判されるのが怖いというのが普通なのでしょうが、芸術家は業として自己「主張」する以上は、そのくらいは甘受すべきです。
自己実現と称して言いたいこと・表現したいことをそのまま表現すれば被害を受ける・・不愉快におもう相手も同じ権利を持つ国民ですので、今後付き合いたくないというのもその人の自由です。
道路を歩く自由があっても信号を守る必要があるように、人を突き飛ばして歩く自由はありません。
今回の争点は政治主張を公費で行う点に問題があるかどうかであって、政治主張に公的補助すべきでないとなれば、展示品が芸術作品かどうかの基準不要です。
営利目的利用禁止の場合、芸術作品であっても販売会のような展示方法は許されないのと同じです。
特定政治主張に補助できないとなれば、営利目的禁止ルールに違反して売っているか否かの判断は、売っている絵画が芸術品かどうかの議論不要なのと同様に、今回の展示は芸術品かどうかではなく、政治主張を色濃く含むかどうかの判断だけです。
例えば講演会で講演者の著書を入り口で頒布しても販売が主目的でない場合営利目的利用とみなさないのと同じで、講演内容や絵画作品の内容がジェンダー克服を訴えるものであっても、政治活動を主目的にしていない限り内容による規制は抑制的運用が基本です。
政治活動に国公費補助すべきでないという世論があったとしても、政治色があれば即否定すべきではなく、「これは幾ら何でもひどい程度」かどうかは次の実務的判定作業になります。
多くの人が政治主張のための展示と受け止めるかの判断は民主国家においては、民意で決めるべきで、芸術組織の優先的判断権があるはずがないでしょう。
私立の展示場でいくら政治主張作品を展示しようと売りさばこうと自由な社会で、「公的補助で広告し、制作費補助しないことが検閲機能を果たしかねない」という懸念からいきなり憲法論を持ち出して不自由論の結論に至るのは論理の飛躍ではないでしょうか?
市場出品で採算が取れれば、公費で宣伝をする必要がないのですから、表現の自由の思想学会主流の自由市場競争に委ねる意味では、市場評価されていない事実こそ重要です。
コミュテイセンター等の公的集会室その他利用は、営利目的利用禁止が普通ですが、この規制が産業活動の規制にあたるという批判を聞いたことがありません。
展示即売会等に公費補助するのは、施設設置目的に反すること明らかで、それで足ります。
国民が、政治主張に国費を注ぐことに賛成しているかどうかさえ議論し決めれば良いことでしょう。
国政選挙の候補者には一定の範囲で国費での政見放送を認めていますが、このことはそれ以外を除く趣旨と解すべきでしょう。
無制限に認めれば、政治家が我も我もと資金集めパーテイなどに公共施設利用申し込み始めれば収拾がつかなくるのは、目に見えています。
政治主張に公費補助すべきでないという意見が、国民多数ではないでしょうか?

ウイキぺデイア引用続きです。

展示に対する世論の反応[編集]
週刊文春が8月3日~5日に行った「平和の少女像」の展示に関するアンケート調査(期間、対象者810人)では、「賛成」は16.2%、「反対」は74.9%という結果であった[99]。産経新聞がFNNと合同で実施した世論調査でも、「平和の少女像」などの作品が展示されるべきアートであるかについて、「思わない」が64.0%、「思う」が23.9%との結果が出た[100]。

これが普通の声なき声・・結果でしょう。
専門家がしきりに憲法論、表現の自由を守れ論を展開し報道もその紹介ばかりが続いていましたが、今引用中のウイキペデイアでも以下引用していきますが、市民の声がでないどころか、正面からの否定論は産経と河村市長だけで他は批判論を少しあげていますが、内容的には実質擁護論であって運営手順がまずかったという方法論にすぎません。
ウイキペデイアで見る限り声ある声は、擁護論中心・・どんな主張するのも個人勝手としても公費補助までする必要あるのか?「いい加減にしたら!という気持ちが報道で全く紹介されない状態でも世論調査すれば上記結果が出たようです。
専門家の意見や声高い人の意見は、肝心の「公費補助のあり方」に対する意見がなく関係ない憲法論や歴史修正主義者とか、表現の自由、芸術性は専門家の判断に委ねるべきだ、「素人が、役所、政治家が口出すべきことでない黙ってろ」式の意見ばかりです。
芸術であればなんでも許されるものではなく、芸術であれ思想であれ法秩序違反があれば、その違法性を議論すべきものです。
政治活動の自由も、国法秩序を破る権利はありません。
政治活動や思想、芸術発表だけで処罰されないというだけであり、その発表のために公道や他人の家を利用するには、相応の許可を得ないで行うと、住居侵入罪や道路交通法違反等の処罰をうけます。
それが芸術活動や思想発表のためであったかの理由を問いません。
今回の争点は公的施設利用許諾条件違反かどうか、愛知県には東京都のように政治利用禁止ルールがなかったとすれば、愛知県の政治姿勢に問題があったのであり実行委員会に問題があったのではありません。
ルールがあるのに県知事が違法許可したのかが重要です。

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