弁護士会執行部の支持基盤5(派閥・政党の効用3)

アンケート調査などしなくとも自分の意見を言いたければ、総会で反対意見を述べれば良いのかも知れませんが、繰り返し書くようにムラ社会的人間関係のある集団内で、政治論で面と向かって反対論を展開するのは難しいものです。
一応派閥があれば、その代表として演説をぶつ分にはその派閥が少数であっても割に気楽です。
派閥や政党がこう言う必要から出来て来たのであって、複数政党があってこそ本来の民主主義社会と言える根拠がそこにあります。
1党独裁・・エリートなのだから臆することなく集団をバックにしなくとも個人が堂々と反対意見を言えば良いという形式論では、結果的にいつも全会一致になってしまう共産主義国家で蔓延していた弊害を見ると明らかです。
自分個人意見として主張するのは気が引けるが、あるグループ代表として言う分には「あの人は代表としてして言っているのだから、個人的な恨みっこなし」と言うことでしこりが残らずに後で談笑出来る暗黙の了解があります。
ただ個人でも自分から立ち上がって反対論までは展開しないものの、質問が回って来れば「敢えて言えば反対」とか「賛成」とか言う程度の表明の場合、意思表示の障壁が低くなります。
まして、投票の秘密があれば更に意思表示が簡単です。
投票の秘密は閉鎖的人間関係濃密社会でこそ、重要な制度です。
派閥のない地方単位会では、出身委員会の取り扱うテーマと関係のないテーマに関しては、支持基盤ゼロみたいなところがあって、委員会から上がって来た結論に抵抗するには自己の信念だけ(知り合いに意見を聞くなど個人的感触)を頼りに、一般会員も執行部も孤立して戦うしかない傾向があります。
とりわけ政治的問題はセンシブルですから、しこりを残したくないためにバックアップする集団がない限り大方の個人はひるんでしまい、事なかれ主義で同調・・黙認してしまう傾向になります。
ある町内会で放射性廃棄物保管地になるのに反対署名を集めようと言う人がいて、回覧で署名簿を回したところ、町内人口の3分の1程度しか集まりませんでした。
(政治的効果としてみれば、3分1も集まったと言う人もいるでしょう・・反対者が3割もいるので、市として拒否すると言うか、7割が反対していない→賛成していると見るかの違いです。)
この結果を見れば分るように「我が市に持ってくるなんてとんでもないことだ」と息巻いている人の目の前で「そうかな?」と思っている人がかなりいたことが推定されますが、提案者の目の前で(反対に)反対するのは難しかったことがわかります。
これが複数以上の政党や派閥があって、複数の議論を戦わせてくれれば、一般会員がそのどちらが良いかの投票程度は簡単ですし、アンケートに答え易くなります。
弁護士会こそ、会内の大方の意向を知るために個別テーマごとに・・双方から論者をたてた討論会を開いたりあるいはワンイシューでアンケートをとり、またはネット投票等で意向調査する実益が(判断のよりどころのない)執行部にとって大きいと思われます。
会員数が少ない上に事務所があるので(一般家庭人相手と違い、通信関係はリアルタイムに近くなります)、ファクス、メール等で1〜2週間内に緊急意見を募れば良いことです・・。
アンケートは単純に「◯◯法案反対か否か」の◯×方式で反対の場合、「会の名で反対活動すること」に賛成か否か◯×方式で回答を求めれば簡単です。
選挙と違って拘束力がありませんが、(執行部がこれをどう解釈して行動するかは別です・・)執行部が知り合いにちょこっと意見を打診する程度よりは、裾野が広く有用でしょう。
当面は単なる一般会員意向確認手段に過ぎませんから、厳格な多数意見かどうかまで要求せずに執行部の判断材料とする程度で先ず始めれば良いと思われます。

情報開示・透明性の重要性(オリンピック競技場)2

国家や組織は、先ず大枠の予算を決めてその枠内しか執行してはいけないのが基本ルールです。
大枠予算(国家予算は単年度主義ですから、ここでは正式な予算を言うのではありません)を予め決めておかないで、先ずやることを決めて、それに合わせていくらでも費用を出す・・既成事実としてあとで予算化して行く・・国会で問題になっても今更変更出来ないと押しきって行くやり方では、(独裁国家同様)組織運営の基本ルール違反です。
受諾段階で直ぐに総額どの程度の予算規模でやるかの基本方針を決めてから、その枠内で分野ごとに割り振って行き、分野別に分野別予算の準備活動にはいるべきだったでしょう。
国立競技場は、いくらの予算を(国と都との分担その他)割り振られていたかの肝腎の情報がマスコミには出て来ません。
大枠予定「予算」も無視した提案では意味がないのですが、デザイン提出者が提案段階で工事予算まで読み切る・・資料提出するのは無理があるとすれば、「◯◯の予算内で出来るならば」と言う留保条件付き決定にすべきです。
ただし弁護士会の例でこの後・・明日書くように、(単年度主義ですから)まだ準備段階(調査費等の予算計上程度?)であって、工事費等は国家予算に計上していないから法的な意味でのルール違反ではないのかも知れません。
オリンピック問題で書いている「予算」とは、法律上の予算ではなく、正式な予算化する前に決めておくべき「大枠予算合意があるべきでしょう」と言う意味ですので、この意味で以下お読み下さい。
工事費に責任を持たないコンセプトは、審査にはいる前の書面審査で失格にすべきか、応募期間が短か過ぎて計算したり工事費用証明する時間がないならば審査決定後何ヶ月内に(Aクラスの工事業者の引き受け証明を)提出しないと失格するなどの条件をつけるべきではないでしょうか?
工事業者を別途入札で決める仕組みの場合には、大枠の工費が分るように基本設計まで一緒にコンセプト提案者に提案させて、世界の例えば複数〜10社以上の企業が施工出来る技術基準であることの保証・証明をつけさせて現行(現地)の標準工事代金の計算書を添付させるなどの工夫で何とかなるでしょう。
(その後の資材や工事費高騰には責任がありません)
こうして見て行くと、提案があった場合に予算枠内に収まっているか、このデザインで施行出来る業者が何社あるか(世界中どこも施行出来ないとか1社しか出来ないのではその1社がやめたりゴネラレルと工事業者がいなくなどリスクが大き過ぎます)などの適格審査してから審査委員会に出すべきだったことになります。
審査委員としては、当然予算内の提案だし施行出来る企業があると事務局で選んで上がって来たとすれば、委員会の責任ではありません。
国立競技場工事費高騰問題は、決定手続の仕組み自体に法的(枠組み決定)に抜かりがあった・・発注者の事務方(コンペをどう言う条件で行なうかの枠組み決定や標準工事費を要件にした場合、計算や単価に誤りがないかの調査など)・・組織委員会?幹部の責任が大であると言うべきでしょう。
この点、主務官庁の文科省には学校校舎程度の発注経験しかなかったことが、少しだけ報道されていましたが、そこに問題があった可能性もあります。
公立高校や大学の校舎程度あれば経験内で予測可能ですので、業者間で競らせれば一定の数字が出て来ますが、今回は従来経験のない分野でした。
経験のないことに遭遇した場合に応用が利くかによって、前例踏襲するしかない能力で出世して来たのか?・・責任者に求められるべき本来の能力が問われることになります。
文科省には工事発注経験がないとしてもオリンピック組織委員会の事務方トップには元財務相次官・・野党同意が得られずに日銀総裁になり損ねた武藤敏郎氏が就いているのも皮肉な巡り合わせです。
大蔵→財務省の事務方トップと言えば予算を人質に権力行使している組織トップですから、この人が「予算(上記のとおり正式ではないと言う意味です)」無視または軽視の事務執行の責任者になっていたとすれば、??となります。
文科省の中堅役人が引責辞任させられていますが、国民が問題にしている予算と関係なくコストばかり膨張することに対する歯止めになるべくその任についている専門家である彼が何故責任をとらないのか不思議です。
彼が就任したときには既にコンペの方式が決まっていた後だったかも知れませんが・・。
そこでネットで調べてみたところ意外な事実が分かりました。
「新国立競技場 国際デザイン・コンクール報告書」によると24年夏ころから始まっていて秋には終わっていることが分ります。
彼が就任したのは2014年ですから、その前に全て終わっていたことが分ります。

I デザイン競技の概要・応募状況
応募・審査スケジュール
‹応募› ・募集要項交付開始 ・登録受付期間 ・質疑受付期間 ・質疑回答 ・作品受付期間
‹審査›
・技術調査期間 ・技術調査会議
・予備審査
・一次審査 一次審査(平成24年10月16日)・二次審査対象作品発表 ・二次審査(11 月 7 日(水))
・審査結果決定 (有識者会議) ・審査結果発表
・表彰式
((株)日本総合研究所都市・地域経営戦略グループシニアマネージャー) (東京理科大学工学部第二部建築学科教授)
平成24年7月20日 平成24年7月20日〜平成24年9月10日 平成24年7月20日〜平成24年8月20日 平成24年9月3日 平成24年9月10日〜平成24年9月25日
武藤氏就任は昨年(26)1月ですから、就任2年前から決まっていたルールに基づいて選定されていたことを後で変えられなかったのは当然で、彼の責任ではありません。

ヘイトスピーチ論 6(定義の重要性)

ドイツでは(何に対する言論が処罰されるの正確には知りません)ナチス犯罪否定言論自体が刑事処罰されるらしいので、ドイツ人の内心では、いろんな疑問が起きても公式発言が許されていません。
20日に書いたように、内心では「本当はどうだったの?」と言う疑念が広がっていると思います・・これを刑事罰で抑圧しているのでは、百年単位の経過で無理が出るだろうと言うのが私の想定です。
日米開戦にいたった経緯や戦争中の米軍による国際法違反の住民虐殺を目的にした焼夷弾攻撃などの残虐行為、対日戦後処理でも日本は不満が一杯あります。
個別の問題でも、たとえば、「バターン死の行進」を例にすると、日本からすれば日本兵が食べないで優先的に米兵捕虜に与えていたのに・・米兵から見れば、根っこを食べさせられた虐待となりますが、日本人にすればごぼうなどは貴重な食糧です。
この種の言い分を耳がたこになるほど大人から聞いて私は育ちました。
こういう言い分がドイツに全くないとは思えません。
以下は私の記憶では頼りないないので、ネットからの、引用です。
http://kenjya.org/sonota3.html
「バターン半島死の行進」での司令官・本間雅晴中将は、マニラ裁判で死刑になっている。でもこの行進はトラックがなかったからで、日本兵だって歩いていた。決して捕虜を殺すために歩かせたわけではない。
ここで重要なのは、フィリピン戦でマッカーサー軍は本間軍に破れており、マッカーサーは命からがらオーストラリアに逃げている。これは「復讐」である。
                 《渡部昇一 「自ら国を潰すのか」》
自分たちでさえろくに食べられないでいた日本軍に、いきなりその統制下に入った8万の捕虜に十分な食糧を与えられる余裕があるはずはないし、ましてこれだけの人数を運ぶトラックやガソリンも持っていなかった。食うや食わずでひたすら歩くのが日本軍の常であったため、これを虐待だとは思わなかった。
   《若槻泰雄 「日本の戦争責任」 他の著書「「在中二世」が見た日中戦争」》

こう言う具合にモノゴトには、いろんな言い分があるのですから、弁解のチャンスが必要です。
刑事罰で言論弾圧して解決出来るものではありません。
マッカーサーの個人的怨恨による復讐に対する復讐?これを防ぐにはアメリカによる謝罪・・本間中将に対する名誉回復・損害賠償がその内、日程に上らざるを得ないでしょう。
ヘイトスピーチの定義を全く決めないで、マスコミが一方的に(基準のないまま恣意的に?)自粛して報道しない弊害に戻ります。
犯罪の範囲を決めないで「悪いことをするな」と言うだけで、「悪いことをするなと前もって言ってあったろう」と専制君主のご機嫌次第でイキナリ処罰されるのでは困ります。
刑事罰には「罪刑法定主義」が近代民主国家の要件になっている所以です。
最近は、刑事罰さえ主張しなければヘイトスピーチの定義がいらないかのような風潮で誤摩化していますが、それは危険です。
「ヘイトスピーチが行けないから自粛しましょう」と言うだけで、定義を明らかにしないままですと、マスコミは恣意的基準で報道から除外出来るようになるのでマスコミを支配しているグループが事実上報道規制する弊害が起きます。
国民の方も自粛すべき範囲がはっきりしないから間違いのないように「少数・・朝鮮民族民族が何をしていてもその批判をやめよう」「危ないことに近寄らないように」となり易く仮に勇気を出した批判があってもマスコミの方で朝鮮関係の批判論は「無視して報道しない」と言う方向へ誘導する・・朝鮮人に限定した少数民族に関する言論不活発化・・事実上の報道規制を期待していることになります。
これでは朝鮮人が何しても報道しなかった「戦後占領政治の延長・焼き直し論じゃないの!」と思う人が多いのではないでしょうか?
マスコミが言論の自由によって成り立っている以上は、ヘイトスピーチ自粛を主張し、疑いのある意見は一切無視して報道しないと決めるに際しては、その定義をはっきりさせてからにするべきです。
専門家が議論しているのかも知れませんが、ヘイトスピーチの定義論を私は聞いたことがありません。
ヘイトスピーチの定義を曖昧にしたまま・・・・一般人に知らせないのでは「民をして知らしむべからず恐れさすべし」と言う前近代的手法です。
現状では、「ヘイトスピーチをする人は人道的配慮が足りない・恥ずかしいことだ」と言うイメージ刷り込みばかりで、外国人の中で在日だけが何故日本人よりも手厚く保護され、他の外国人よりは数々の特権を享受出来ているか、享受出来るべきかの説明がありません。
従来は戦時中に連れて来られた可哀相な人達だからと言うのが言い訳でしたが、これがマスコミと米軍と朝鮮人の合作によるでっち上げた虚構であったと暴かれてしまったので、今は何の反論も出来なくなったのでヘイトスピーチ論で在日朝鮮人の特権批判をマスコミ報道から、葬ろうとしているように見えます。
ドイツのように刑事処罰法がなかったので、幸い虚構が暴かれたのです。
(もしも禁止法が制定されていれば、朝鮮側の虚構主張に対する批判だけで刑務所行きになったのかな?・・恐ろしいことです)

朝日新聞吉田調書3(見出しの重要性)

昨日書いたように、報道と人権委員会「見解」の書きぶりに対して基本的に良く出来ていると評価していますが、気になる書き方がありますので一部だけ紹介しておきます。
大見出し等はそのままでも?記事内容に書いてあれば、印象は和らいだろうと言う趣旨の期待的意見が書かれている点です。
(この部分は本音と言うよりは、厳しく事実認定したので朝日に対するリップサービス程度の意味かも知れませんが、念のため批判しておきます)
26年12月30日「マスコミの情報操作1(羊頭狗肉)」以来書いているように、大見出しは何を書いていても内容で矛盾していることさえ書いておけば(は言わないまでも?悪質性が軽減出来たと言う程度か?)良かったかのように誤解しかねない部分です。
確かにないよりは少しは良かったと言う見方も出来るでしょうが、海外向け英字報道の大見出しに「所員の9割が命令に(公然と)拒否して逃亡」と出されていた場合、先ずその見出しのコピーが大量に出回るのが普通ですから、記事内容にややこしいやり取りを記載さえすれば良かった・・と言うのでは、意図的な「角度をつけた」報道がはびこる一方です。
まして今回は「見解」によれば、「A4版400ページ」に及ぶ専門用語中心の難解で膨大な資料と言うのです。
前後の記載を羅列的に記載しただけでは、表題記事と矛盾する可能性があることが読者に分った可能性があると言ってもちょっと斜め読みして理解するのは容易ではありません。(ほぼ不可能でしょう)
「見解」によれば、専門用語が多くて専門家でないとわかり難いことを理由に原発取材プロの朝日の記者2名だけが読み込んで記事にしたと言う認定ですが、関連資料を1読して素人が「表題と違って職員の9割が逃げた訳ではない」と分るくらい単純ものならば、そのプロが何故読み間違ったと言えるのか・・朝日の主張と明白に矛盾するでしょう。
・・99%の素人は、仕事や家事その他で忙しいので、ニュースがあってもその都度資料まで読み込む時間もないので、見出し等で判断するのが普通です。
私もニュースの見出し程度しか見る暇がないのが日常ですが、今回は正月休みがあったので、「見解」原文に当たる時間がありましたが、多くの人はニュースで「こう言う見解」が出たらしいと言う誰かのまとめ記事くらいしか読まないでしょう。
(余談ですが、長距離電車通勤をしていないので駅頭などで週刊誌を買って読む暇もないので、新聞に掲載されている週刊誌の広告を見て、こういうことが今の話題になっているのか?程度の情報収集が普通になっています・・詳細に読み比べるプロと違って、一般人に対する影響力としては、このように「見出し」の書きぶりが大部分を決めていると言うべきでしょう)
委員会見解(3)では、原発取材資料の専門性の結果・社内で「専門的知識を持つ人材でも2〜3日は必要」と認定しています。
まして私のような部外者は、仕事に出る前や寝る前に新聞やネットの見出し程度読むのがやっとであって400ページもの資料自体を1週間もかけて読んでいられません。
以下は報道と人権委員会(PRC)の見解全文(2)の一部引用です。

 (1)本件記事には「所長命令に違反 原発撤退」の横見出しに関わる吉田氏の証言のうち、割愛された部分がある。前述の「伝言ゲーム」について述べた部分(〈1〉)と、「よく考えれば2F(第二原発)に行った方がはるかに正しいと思った」と述べた部分(〈2〉)である。
 これらについて、取材記者たちと担当次長らは、意図的に掲載しなかったわけではないとし、連動していた朝日新聞デジタルには、いずれの部分も載っていると説明している。
 (2)仮に掲載していれば、それだけ読者の判断材料も増え、記事の印象も随分、違ったものになっていただろう。「所長命令に違反 原発撤退」との主見出しに対しても、組み日当日、社内で疑問が広がった可能性もある。

以下は「見解」(3)の文書です。
「専門的な知識、用語の多いテーマであることから、記事内容や見出しの適否を検討するには、担当記者以外の専門的知識を有する記者にも、2、3日の余裕を持って閲覧させるべきであり、部長、担当次長もそのように指示すべきであった。少なくとも、初報記事の関連部分は開示すべきであった。
さらに、特報部が科学医療部、政治部と打ち合わせた18日の会議には、朝日新聞デジタルの特集サイト用のプロローグ部分の予定原稿及び2本目の「フクシマ・フィフティーの真相」の予定原稿が示されていた。後者には、その後に引用されなかったことが問題となる証言部分が載っていた。しかし、19日当日の紙面作りの過程において、デジタル紙面の予定原稿は編集者や他の記者たちに示されなかった。20日付紙面に対応する吉田調書の記載部分やデジタルの2本目の予定原稿が社内で一定程度、共有されていたら、見出しと記事内容は異なったものとなった可能性がある。朝日新聞デジタルでは4月ごろから複数のスタッフも加わって、予定原稿づくりの作業が進められていた。しかし、本紙の編集センターでは、組み込み日当日になっても秘密保持を理由として情報の共有がなされていなかった。行き過ぎというほかない。」
第2に、19日時点でも、見出しや記事内容について多くの疑義が社内の各方面から出されていた。しかし、これらの問題提起はほとんど取り上げられることなく終わった。担当次長は、大阪本社からのデスク会前後での指摘は認識しているが、他からの指摘は認識していないと述べている。紙面の最終責任者はGEであり、当日の責任者は当番編集長だが、これら責任者には伝わっていない。なぜなのか、その原因を点検する必要がある。」

共謀罪と犯意2

労働分野でいろんな働き方が増えているように社会全体で非定型化が進んでいますので、犯罪認定も定型行為をするまで放置しておけなくなります。
領土侵犯が漁船や不法移民の浸透によるように・・・数十年前から社会問題化しているイジメや虐待、スローカー等も非定型化繰り返しによる新たな分野で、定型行為発生まで放置することは許されません。
中国漁船が単なる密漁か侵犯のデモンストレーション行為かあるいは、避難を装って侵犯目的で上陸したのか、本当の避難行為か・・主観的意図を重視せざるを得なくなるのが現在です。
こうなると、昭和30年代まで一定の勢いを持っていた主観派刑法学の見直し・・復調が始まるし、その智恵を再活用する必要があるかも知れません。
この後で社会防衛思想の復活傾向を書いて行きますが、これも主観派刑法学基礎思想の復調に連なるように思われます。
私が大学の授業で習った刑法の先生は主観派刑法学の先生でしたが、司法試験では客観派の団藤教授の本を基本書にして勉強したので、主観派のことは授業で聞いた以外には詳しく分っていませんが、復活すれば懐かしいことです。
共謀罪法反対論の論拠になっている「近代刑法の理念に反する」と言う意見は、このような客観派と主観派で過去に争って来た論争の違いも下地になっていて、現在主流を占めている客観派から見れば、主観派刑法学・新派の復権が危険だというのが、反対論の論拠になっているのかも知れません。
(今の実務家は、殆どが客観派刑法学の経験しかないと思うので・・共謀罪は近代刑法原理に反するという主張は客観派刑法学の理念に反するという意味かもしません。)
これでまでの司法実務では、共謀罪が出来ても主観要件だけでは認定が困難過ぎることから、昨日まで書いたように実際には共謀罪で立件出来るのは、内通者から逐一の会話録音やメール情報等が入手出来たときなどに限定されてしまう結果、「1万件に1件も立件出来ないのではないか」と言う私のような意見の論拠にもなります。
要は、現行の殺人予備罪同様にもしも証拠のきちんとあるときでも実行するまで待つしかないのではなく、万1証拠のそろったときに適用出来るように法整備して準備しておくだけ・・備えあれば憂いなしと言うことではないでしょうか?
共謀罪は法律自体に危険性があると言うよりは、運用の問題・・実務で濫用が起きないようにする、健全な司法インフラ充実の有無や、弁護側の努力等にかかっていることになります。
個人的犯罪・・ストーカー等や秋葉原事件のような事件では共謀することは滅多にないでしょうが、共謀罪の客観証拠収集にひっかかりやすいのは組織暴力団やテロ組織です。
遠距離移動が多いので、組織人は毎回顔を突き合わせて相談出来ないので、ついメールや電子機器による連絡に頼り勝ちですし、組織多数者間の共謀になるとそのうちの一人でも、精巧な録音装置をポケットに忍ばせておくとこれが証拠になります。
録音機器や連絡メール等電子的記録等にどこまで犯意と言える事柄についての計画=特定犯罪実行の共謀と言える程度の痕跡が残っているかにかかって来ます。
共謀罪制定反対論者は、具体的な犯罪計画があって、その経緯に関する(15〜16日に書いたようにうまく検挙出来る事件が万に1つしかないとしても)客観証拠があっても、計画段階であるかぎり処罰すべきではないと運動していることになります。
犯罪を犯すのは社会弱者?であるから彼らが気持ちよく犯罪計画出来るように運動しているとでも言うのでしょうか?
ストーカーは一方的思い込みも含めて広くいえば恋に敗れた人ですから、一種の弱者に違いないですが、違法行為を個人で妄想する段階を越えて第3者と計画するようになった段階=共謀するようになれば、危険性が高まり、許された一線を越えていると思われます。
個人が思いつきでイキナリ反抗に及ぶのに比べて、他人と共同して行なうようになるとその危険性はより高まります。
組織暴力団員の組織としての犯罪も、社会的弱者が徒党を組んだ結果の一態様と言えます。
全て犯罪者は基本的に社会弱者ですが、(いじめっ子も家庭内不遇その他弱者であることが多いのですが・)原因究明は犯罪を減らすために必要と言う別次元の問題であって、弱者ならば、犯罪を犯しても良いと言う論理にはなりません。
犯罪=処罰と言う社会ルールが古代からどこの国にもあるのは、社会弱者であっても1線を越えれば処罰すべきだと言う世界全体に共通する古代からの合意です。
ストーカー犯罪が頻発している外、秋葉原事件等個人的大事件もたまに起きます。
組織暴力団ではなくとも共謀・・一定数以上の計画に発展した段階では、(秋葉原事件は個人犯罪ですから、共犯者の必要な共謀法では防げません)その計画が証拠によって裏付けられる場合に限って何らかの社会防衛行為の準備が必要です。

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