ところでわが国行政基礎単位となっている(市町村と言うように最小単位として想定されています)村は、明治政府になって初めて採用された行政対象としての区域概念ですが、(それまではご存知のように「何とかの庄」や「何々郷」の名称で、その関連でムラの庄屋や名主・郷士がいたのです)明治になって何故使い慣れていない漢字「村」をイキナリ持って来たか不明です。
私の家族は東京大空襲で焼け出されて母の実家に帰ったのですが、私の育った田舎は、約1kメートル四方程度の大きさの水田地帯◯◯村でしたが、(当然一つの生活単位としては大きすぎるので、10個前後の集落・・大字に分かれていました)この行政単位を◯◯むらと表現していました。
千葉で弁護士をしていると、例えば市原市の在の人がもとの隣の集落のことを言うのに「何々そん」の人と言う漢字読みをする人が多いのに驚いたことがありました。
市原市の場合、昭和30年代の大合併で市原郡が全部一つの市になってしまった(ちなみに君津郡も同じく君津市1つになっていますので、意外に思い切った県民性です・・千葉県と言っても旧上総、下総、安房の三国が1つになっているので、かなり気風が違うのでしょう。)ので、元の隣近所の村の人を表現するのに「◯◯そんの人」と言うのでした。
(今ではこうした古い人も少なくなってしまったでしょうが・・・。)
私の場合◯◯村(むら)で育ち、自分の住所を書くのにも何時も何々村(むら)大字何々何番地と書き慣れていたので、「むら」と言う表現に既に馴染んでいましたが、多分市原市内の農村地帯の場合「村」と言う漢字の訓読み・・「ムラ」が定着していないうちに全部合併してしまって1つの市になってしまい近くに◯◯村がなくなってしまったからでしょう。
我が国では一般日常用語としては殆ど利用されていなかった漢字で誰もその(訓の)読み方を知らなかった「村」を、明治政府がイキナリ導入したから、馴染みのない漢字読みがそのまま戦後まで市原郡方面では定着していた可能性があります。
実生活範囲と関係のない観念的な行政区域だからそれでいいだろうと言う考え方もあたったでしょう。
現在での道州制論を主張している人が「道」や「州」を訓読みしている(・・意味なんかどうでも良いじゃないかと言うことでしょう)人を見かけないのと同じです。
「村」は従来の集落であるムラよりも規模が大きく、生活共同体的一体感もないので、日本語の何に当てはめて良いのか迷う人が多かったので、訓の読み方が直ぐには普及しなかったので、何々「ソン」と漢読みのママの地域が多かったのではないでしょうか?
「村」(そん)って何だろうねと言っていて十分馴染まないうちに市原郡の場合、戦後更に町村合併で1つの市になってしまい村がなくなってしまったのでそのまま「ソン」と言う言い方が残ってしまった印象です。
明治政府の方針は、従来のムラあるいは郷・庄等の自然発生的集落(水田農耕に必要な最低単位)を大字(おおあざ)小字(こあざ)と命名し、その上の行政単位として「村」を作りその読み方を放置していた可能性があります。
生活圏とかけ離れた観念的行政区域だったのがその後生活圏が広域化していき、あるいは行政区域に合わせた一体感が出来て来た場合、広域生活圏を村をあらたな「ムラ」と読む人が増えて来て、村の訓読み・・ムラが普及し始めたかもしれません。
従来ムラとは生活に必要な生活集団の単位・ムレでしたから、国民意識では政府の強制する字(あざ)こそがムラのつもりでしたので、広域化・一体化が進まなかった地域では、これを「ソン」と読んだままだった可能性があります。
私の育った農村は平らな水田地域でしたので、広域生活圏が意外に早く一体化して行った可能性があり、市原の場合、小規模な丘陵の繰り返しでその間に小規模な水田が湖のように点在している風土ですから、丘陵を隔てた各地域は行政だけ一体化しても生活圏としてはいつまでも一体感が育たなかった可能性があります。
ちなみに村の漢字の成り立ちを見ると、木の所に人が立ち止まって思案すると言う意味らしいです(寸は胸に手を当てて考える意味)が、その後どういう発展・事情によるか(私には)不明ですが、いつの間にか田舎のことをあらわすようになって行ったようです。
明治まで我が国では一般的使用例のない漢字が、これが行政単位として明治政府にイキナリ何故採用されたのか意味不明(私が今のところ知らないと言う意味)です。
漢字の数は膨大にあって日本ではほとんど使われていない漢字が今でも大量にありますが、村もその一つで・・明治までは普通には知られていなかった漢字です。
元々「木の下で胸に手を当てて考える」などと言う漢字を使うのは、よほど物好きの教養人しかいなかった筈です。
例えば、幕末の松下村塾が有名ですが、これは地方組織としての「ソン」ではなく、上記の意味・松の木の下で思索する・・それも「立ち止まって」と言うところが、時代の転換期に吉田松陰が主宰した塾として解釈すればオツなものです。
松蔭は杉家で生まれ吉田氏の養子となっただけで、氏としては松には特別関係がなく、一般的には寛政3奇人の高山彦九郎のおくり名にちなんで松蔭を名乗るようになったとも言われています。
伯父のやっていた塾名が元々松下村塾だったので、これに合わして松蔭と号したのか不明ですが、いろんな意味を合わせてこの号を名乗るようになった時には、既に樹下で立ち止まって思索することの意味を掛けていたのではないでしょうか。
松下村塾の命名自体は伯父の玉木文之進だそうですが、彼自身幼少時から松蔭を鍛え上げた逸材ですから、塾名を考えるときに当時一般的名称ではなかった「ソン」をつけるにはそれなりに深い意味を考えていた可能性があります。
ちなみに松蔭が生まれたのはいろんな解説では旧松本村とあるので、如何にも生まれた江戸時代当時から松本村があったかのようですが、これは萩市に合併される前の名称・・明治以降の市町村制の名称で書いているのか、江戸時代から松本村が存在していたのかまでは分りません。
地元の古い記録を見る必要があります。
(と言っても地元に行けばそれほど難しい事ではありませんから、まじめに解説する気ならば、そこまでちょっとした手間をかけるべきです。)
松蔭が生まれ育った場所としては「団子岩」と言われる高台とされていますので、私の想像では当時から松本村があったのではなく、前者・・明治以降の地方制度でその地域をまとめて松本村となっていたのが、戦後の市町村合併で現在の萩市になった程度の意味で、「旧松本村で生まれた」と観光案内や解説書に書いているのではないかと思います。
ちなみに萩焼は萩城下の松本で開窯されたとも言われますので、松本と言う地域名は古くからあった可能性があります。
宮本「村」の武蔵と言う表現も実は誰かが、(いろんな人がいろんな説を書いているので「宮本村の武蔵」と誰が言い出したか知りませんが・・)本を書いた当時最小単位であった村が昔からある行政組織のように誤解して広めたものかもしれませんし・・。
松下村塾の名を知っている人は無数にいるでしょうが、「村塾とは」立ち止まって考えるための塾だなどとは、殆どの人が思いつかない哲学的にひねった名称ですが、(私一人の独自解釈です・・)「村」と言う漢字にはこうした深い哲学的意味の使用例しか日本にはなかった筈です。
明治政府が(吉田松陰先生を贔屓にしていたのは分るとしても・・)意味の難しい「村」をイキナリ末端地方行政組織の名称に何故したのか政治的意図が不明です。
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むらと邑
邑の漢字の成り立ちは服従している土地・・被支配地のことですが、殷代には王の都(直轄地)を意味していてその後次第に諸候の領地を意味するようになり更に時代が下がって来ると、、もっと下位の関係にも使われるようになります。
秦の改革者公孫鞅・・商鞅が孝公から商の地の邑を賜った(紀元前340年頃)ので商の君主と言う意味で彼を商鞅と言いますが、孝公自体が諸候でしかないので当然諸候の領地よりも小さかったでしょう。
このように時代が下るに連れて単語のインフレが進み、もっと小さな単位の地域を表すようになったので時代によって単位の意味が違いますが、いずれにせよ元々上位者から賜る(時代によって大小があっても)支配地・周囲を囲まれた領地の意味・・後世の封土と同じような用法だったらしいのです。
封建の封とは、封じると言う動詞の意味からしても一定地域に封じ込める意味合いが強いものです。
いろんな文書で「邑を賜る」と言う表現が多いのはこのせいです。
邑は上位者から賜る領地のことですから、我が国に当てはめれば徳川政権時代における旗本知行地に該当するでしょう。
旗本あるいは徳川直参大名の知行地は、徳川家から賜るものでしたから小分けされていたこと・・1つの集落が何人もの旗本の知行地に分かれていたことを12/08/03「千葉の歴史6(千葉県と江戸時代の知行地・・行政単位)」以降繰り返し紹介していますが、知行地はどんなに小さくとも自然発生的なムラの範囲と一致しているとは限りません。
その点戦国大名や江戸時代でも戦国大名の系譜を引く大名家の場合、一定水準以上の家臣や国人層は先祖伝来の固有の領地を持っていてその経営をしていましたから、その領地は上位者から貰ったのではないので知行地とは言うのは間違いです。
邑は自然発生的集落のことではなく、上位者から賜った領地としてみれば、徳川期の知行地と本質が似ています。
これが言葉のインフレで次第に小規模になって行きついには我が国の村のような小さなものになっていたとしても、我が国の自然発生的に人家が集まったムレ→ムラとは、成り立ち・意味が違うようですから、いろんな書物で単純に「むら」と翻訳していても気をつけて読む必要があります。
元々我が国のムラは自然発生的・・動物の群れみたいに、灌漑農業に必要な単位から生まれた最小単位集団を意味するものですが、中国の場合、商業社会が民族の始まりであったことを繰り返し書いて来ましたが、こういう場合、未開地に橋頭堡を築くとそこで自給するために急いで農地を切り開いたのでしょうが、これはまさに現地人の襲撃を防ぐために柵で囲まれた地域で始めるものです。
この場合、集団規模が大きければ大きいほど異民族からの襲撃を防ぐのに有利ですから、我が国のような最小単位の発想はありません。
中国では正式に皇太子や皇后になることを冊立と言いましたが、冊立の冊は柵の木偏がなくなっただけのことですから、中国古代で進出地において橋頭堡を確保し自給自足出来るようになったとき・・イザとなれば本国からの応援が必要としても日常的にはその地域であるていど自立・自衛できるようになったこと・正式に地位が固まることから来た熟語でしょう。
そのうえ、我が国の集落の発生は小川が細かく別れて流れている川水の利用の便宜で始まったものですがから少人数の家族で始めても良いのですが(最初は灌漑の土木工事は不要です)中国の場合未開地へは船で進出するので橋頭堡開設は一定の大きさの川のほとりに限定されます。
大きな川の場合、川の直ぐそばに基地を築いたり農地を開墾出来ませんので、ある程度本流から離れた場所まで水を引かねばならないので灌漑技術が発達したし、そのための一定規模以上の集団行動が必要でした。
中国(に限らず地中海世界)では、大きな川沿いに交易のための集団が移動して来て物資の集散地で交換するために野営したり一定期間継続使用するために、食料自給のために植民する屯田兵目的で始まって行くものです。
こうした場合、敵襲を防ぐために早期完成が必須でしかも一定規模の土木工事・・灌漑が必要ですから、農地開墾は始めから組織的に行う必要があったように思われます。
結局は、地中海・・西洋の植民地政策同様に中国では屯田兵的開拓団が入植して行くことが中心・・城壁で囲まれた都市国家がまず出来てその周辺に柵で囲まれた農地が広がるようで、自然発生的な我が国のムラ(これが大きくなって都市になるの)とは成り立ちが違うような印象です。
我が国の縄文・弥生時代の稲作の最初について、04/06/06「治山治水の必要性3(水運と河港都市)」その他で書いたことがありますが、湿地状態の谷津田とか幅数メートル程度の細流が縦横に流れている状態でそこから、川の縁をちょっと引っ掻いて(当時はスコップ一つないのですからそんな程度の土木工事がやっとでした)水を引いて稲を植えれば始められる状態から水辺の生活が少しずつ始まったので、大規模な土木工事・・組織力を始めっから必要とはしていなかったのです。
この辺の歴史の違い・・・中国では昔から団体でやる国でしたから、共産主義時代に集団農場制度等に親和性があったゆえんでしょう。
夫の養育義務1
女性の経済力低下に比例して、好き勝手に男が家に帰って来なくなると女性が生活出来ませんし、女性が働くようになっても子育て中の女性の収入が少なくなることから、男性の責任を強化する方向へ進みました。
これからは男性個々人の責任と言うよりは社会全体で、子育て支援して行こう・・すなわち子供手当・教育費手当の増額方向にあるのは明らかです。
身分保障される役人はあまり働かない、あるいはどの商売でもリスクのない方式を採用すると発展が停まるように、夫婦関係も法で生活保障されると安心した妻によるサービス意欲が低下するのは必然です。
September 22, 2010「家庭サービスと外注」前後で連載しましたが、妻のサービスが低下すると雄・夫は家に帰る楽しみがなくなって外注に頼るようになって行きがちです。
これが進めば進むほど逆に夫の家庭離れを防ぐために、婚姻費用分担義務と言う法整備・社会思想が確立(教育の成果)され、これに合わせて、今では殆どの夫がそう言うものだと思って良いお父さんに変身して毎月給与を持って帰るので、相互にそれなりの不満があっても何とかなっているのが現状でしょう。
夫になった以上は家庭を大事にしなければならないと教育されて育つと、そういうものだと思って素直にそうする人が増えてはいますが、妻のサービスが低下してくると何のために家庭が必要か疑問に思う男も増えて来る筈です。
これが独身率上昇に繋がって来ている筈です。
現在の法的経済保障は婚姻中に限られているので、婚姻解消にならないように妻もある程度は婚姻継続に努力はしますが、夫の経済力に何らかの危機が発生すると日頃の不満とのバランスが崩れて簡単に離婚に発展するようです。
この危機に際して、封印されていた母子一体感が復活して来ます。
母子一体感は総ての動物にとって子育てに必要な原理ですが、(鳥はつがいで結構やっていますが鳥は鳥類であって動物ではない?)どうして男親も育児に参加する必要性が強調されるようになったのでしょうか?
母子一体感については、04/07/10「母子一体感6(父子の絆2)」間で連載していますので今回はその続きとなります。
文明らしきものが始まって以来近代に入るまでは、遊牧民や地中海世界を除けば世界中が農業社会(小さな島を除けば漁民は主役ではありません)でしたから、基本的には大家族あるいは小家族であっても周辺の親類縁者・一族が小家族・核家族で手に負えない事柄・・冠婚葬祭、家の普請等に限らず灌漑農業では共同作業が結構ありますので、これらについては外延の共同体で助け合う社会でした。
子育てに関しては、地域の女性同士の助け合いが成り立つ社会でした。
この外延関係が次第に縮小し、外延どころか、親兄弟も離ればなれに住むことが多くなって、親族間の助け合いさえ消滅し、核家族化して来たのが近代社会・・都市住民ですが、こうなると子育て中の女性が頼りになるのは夫しかいません。
ですから、夫の役割重視の流れになって来たのは当然です。
農村社会の夫の役割は、村落共同体の共同労働に参加したりする程度でしたから、その役割を果たす夫がいないと肩身が狭いことはありましたが、夫が家出したからと言って食うに困ることはなかったのです。
子育てに関しても近くに親類縁者が一杯いて相互扶助関係が濃密でしたから、夫の手助けなど殆ど要らない社会でした。
ついでに村八分について書いておくと、外延に頼る従来の農業社会では村八分になると、核家族の一家の労力だけでは処理しきれないことが多かったので、死活問題だったのです。
朝早く起きて電車に乗って出勤し夜中に帰って来る今の都市住民場合、町内から爪弾きになっても日常生活に何ら痛痒を感じないのとは訳が違います。
ちなみに村八分の「むら」とは明治以降の行政単位の村ではなく、群れる・群がるのムラのことでしょう。
ライオンその他の動物には適正な数のグループがあるように、我が国水田農業をやって行くのに必要で最小規模のグループ単位・・たぶん灌漑設備維持管理に必要な人数で決まっていた可能性があって、それ以下ではムラの公共財を維持出来ないのでこれ以上(と言っても大きければ良いのではなく集落から歩いて物を運べる・・農地と往復出来る程度の距離の範囲の内の地域の耕作地で養える人口規模に限定されます)の集落をむらとかムレとか言っていたのでしょう。
本来我が国のムラとは共同作業の必要な範囲の集落と言う意味になります。
村落共同体は共同作業に必要なムレから始まっている以上、そのムレから村八分にされると生きて行くのが大変になるのは、ライオンでも何でも必要に応じて群れができている以上は・・ムラ=ムレからはずれると生存が脅かされるのはその成り立ちからして当然です。
団体で旅行したがる人は「個」としての旅行能力がないからでしょうし、大きな集団生活しか出来ない動物は少数では生き残れないからでしょう。
と言うことは、今の都市社会でもなお群れたがる習性の強い人は、過去の習慣から抜け出せないのか集団に頼らねば何も出来ない・・心が弱いだけのことでしょうか?
ところが個体としては弱い・旧来型種族人の方が、群れたがる弱者の集団の力を利用して、群れたくない本来強い筈の人をいじめるのですから、個体としては強い猛獣が集団の威力を利用する弱い人間に負けているのと同じです。
ところで、中国で言う「邑」にもムラと訓を当てますが、その違いは何でしょうか?
婚姻費用分担義務5(持参金2)
江戸時代でも、大名から大身の旗本あるいは御家人などへ順次地位が下がってくると娘が持参金としてまとまった領地(の収入)まで持って行けることはなかったでしょうし、自作農でも農地を分与して持参しようがないので実家の経済格差に応じて結婚に際しての夫婦財産関係の実情は違っていたのでしょう。
大地主は別として、一般農家の場合女性は貴重な労働力とカウントされて嫁に行く印象でした・・・養って貰うのではなく嫁ぎ先の貴重な労働力として農家では考えられていましたから、離婚すれば待ってましたとばかりに引く手アマタだったとも言われていたことを以前紹介したことがあります。
当時庶民の女性は働き手として期待されていたので、明治生まれの私の母親の世代までは、何かと言うと如何に「自分が働き者だった」かを自慢するのが常でした。
現在でも女性の自慢は、如何に自分が社会的に有能で、バリバリ働いているかではないでしょうか?
パートで働いたり一般会社の下働き程度ですと子を産むのと天秤にかけて子を産む方に傾く人が多くなりますが、一定の高学歴者・・・女性裁判官・高級官僚などではキャリアーに穴があくのを恐れて子を生む人が減って来ています。
子を産む性と入っても、仕事に就けるレベル次第と言うところです。
勿論下働きであっても女性の美徳は几帳面にコツコツ働けることであることは同じですから、男に比べてどこの会社でも女性はよく働きます。
白魚の手などと言うのは最近の褒め言葉であって、昔(と言うか最近まで民話や文学作品などで)はごつごつした骨太の手が働き者だった証としてほめる文章が多かったものです。
特に農家では女性のこつこつと真面目に働き続ける性格は貴重なものでした。
男は灌漑に関する土木作業(これはしょっ中あるものではありません)や、牛馬を使う田起こし等の一時的作業が中心で、持続作業には向きませんので後は祭りの準備や寄り合いなどで時間をつぶしていたのです。
上級武家の妻や、現在のホワイトカラー層以外の庶民では昔から現在の共働き以上の貴重な労働力でしたから、自分の食い扶持を持って嫁に行くどころではなかったのです。
ホワイトカラーその他専業主婦・・高度成長期に一時的に形成された結婚すれば妻を養うしかない・・無駄飯食いになる前提で、夫婦のあり方や離婚を考えると間違います。
むしろ離婚したくとも夫が同意しないと離婚出来ないので、離婚出来るための三行半と言う簡略な書式が考案されたと見ることも可能です。
庶民に取っては、嫁に出すのは働き手を出してやるだけでしたから嫁いで行く娘の食い扶持を実家で仕送りする必要がなかったので、持参金自体考えられもしなかったし、仮にあっても形式的なもので良かったでしょう。
逆に一定のお金をもらえる関係だったと言えるかもしれません。
野球選手のスカウトが甲子園活躍選手の親に契約金を用意したりするのと同様に、嫁入りに関しても結納金として受け入れ側がお金を用意する習慣が出来たのはこのせいです。
嫁入り時の結納金支払習慣がいわゆる人身売買と悪く言われる前金の支払習慣の原型になったかも知れませんがし、いずれにせよ育ち上がった女性はお金を前金で渡すほど役に立ったと言うことです。
このように婚姻する階層によって下に行けば行く程、女性の働きが重視されていましたので、その働きによる夫婦生計の一体制が強まって行く関係だったのです。
明治以降サラリーマンと言うか都市労働者が法的対象の中心になってくると、農作業時代に比べて女性の賃金が低かったことから、次第に女性の地位が低下して行った感じです。
有産階級でも貨幣経済時代になると持参金は名目的になって行きます。
(タンスや着物を持って行くくらいでしたが、今では一生涯分の着物を予め用意して行くなどあり得ない・・5〜10年先に着る洋服など今では想像出来ませんのでこの習慣もほぼ廃れたと言っていいのではないでしょうか)
持参金や持参した領地の上がりで自給出来ない階層・・専業主婦層が法の対象・主役中心になって行った(ブルジョワではなく中間層や庶民が法の対象になってくる)ことが、2010-12-6「婚姻費用分担義務4」まで紹介した同居協力の義務・・すなわち婚姻費用分担請求権が法定されるようになった社会的基礎でしょう。
ちなみに夫婦同居協力の義務は、今とは言い回しが違いますが、結果として明治に出来た民法・・すなわち現行民法が戦後改正される前からありました。
明治の規定と戦後の同居協力義務規定は、家の制度や男尊女卑思想・・一方的な関係から相互関係に変更しただけです。
民法親族編旧規定
(戦後改正されるまでの条文)
第二節 婚姻ノ効力
第七百八十八条 妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル
2 入夫及ヒ壻養子ハ妻ノ家ニ入ル
第七百八十九条 妻ハ夫ト同居スル義務ヲ負フ
2 夫ハ妻ヲシテ同居ヲ為サシムルコトヲ要ス
第七百九十条 夫婦ハ互ニ扶養ヲ為ス義務ヲ負フ
現行条文
第2節婚姻の効力
(同居、協力及び扶助の義務)
第752条 夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。
夫婦財産制2(持参金1)
庶民レベルまで豊かになって一定の資産が形成されたとき(持ち家政策によるマイホームを獲得した場合)でも、原則夫婦対等の共有が推定されます(・・両性の本質的平等原理の判例上の帰結です)から、この夫婦財産制に関する大きな節・・大量の条文が何故あるのか利用価値がなくて不思議な感じを抱く人(一般の人には関係がない・・条文を見る学生や法律家だけですが・・・)がほとんどでしょう。
しかし、我が国の民法とは市民の法(Code civil des Français)の翻訳であり、(我が国は都市国家の経験がなく市民=有産階級と言う概念がなかったので、ただの「民」法としたことになります。
ちなみに我が国では、シチズンの概念がなかったのでこの翻訳として市民と言う漢字を持って来たのですが、このうち「市」だけ抜いた「民」の概念が昔からあったので、民法として無産階層も含むとしたのは我が国の独創です。
天皇家以外は民(たみ)と言う区分けからすれば、民法と翻訳したのはあたっていますが、フランスなどで言うブルジョワジーやシティズンを何故我が国の社会で「市民」の翻訳語が幅を利かすようになったのかこそ、問題かもしれません。
市とは、マーケットのことですから、我が国の市民とは、都市住民と言う程度の意味でしかありませが、彼の国では、教養と財産のある名望家のことでしたから、大分ズレています。
ただし、今では欧米でも言葉のインフレで、生活保護所帯でも市民civil・citizenと言っているかもしれませんし、citizenshipを数十年前から、市民権とは言わずに公民権と翻訳する事例が増えています。
市民の法と翻訳すれば、都市住民以外に関係のない法律となってしまいますので、ここでは、明治初め以降最近まで流通していた翻訳語の妥当性について書いています。
たまたまその後の進展で世界中が大衆社会化して来たので、有産階級の市民だけの法から無産の庶民までが法の担い手になる時代が来たので、意外に先見の明があったことになります。
この偶然の結果、わが国の民法は明治30年から現在まで命脈を保っていられたとも言えますが、それでも(月賦販売法・貸金業法・消費者法など特別法に頼るのは)限界が来たので、(会社の規模が大きくなって、従来の本社ビルでは入りきれなくなってあちこちのビルに蛸足のように散らばっている状態を想像して下さい)現在民法の大改正論議・・骨格から作り直す論議が進行中です。
話を夫婦財産制に戻しますと、市民=ブルジョワジー・資産家がそれぞれ先祖伝来の資産を持ち寄って結婚するための法であったとして見れば、婚姻制度の始めに夫婦財産契約関係に多数の条文が用意されているのは、企業で言えば共同企業体を構成する契約の原始的なものですから、歴史的遺産としてならば理解が可能です。
と言う事は、市民社会でない(大衆社会です)我が国で、今でも大量の条文を何故温存しているの?と言う疑問になります。
今は持参金など殆ど考えられない大衆社会化が進み更には女性の社会進出が活発になって結婚後の稼働を中心に自己資産を持つようになっています。
これからは、結婚前に有していた(親から貰った)静的資産の財産契約ではなく、結婚後に獲得する夫婦資産の有り様を別に考える・・制度化する必要のある時代です。
婚姻後の年金分割制度はその一事例と言えるでしょう。
年金分割については、12/19/06「離婚と年金分割制度6(一部分割のメリット2)」前後で連載しています。
民法親族編旧規定
(戦後改正されるまでの条文)
第三節 夫婦財産制
第一款 総則
第七百九十三条 夫婦カ婚姻ノ届出前ニ其財産ニ付キ別段ノ契約ヲ為ササリシトキハ其財産関係ハ次款ニ定ムル所ニ依ル
第七百九十四条 夫婦カ法定財産制ニ異ナリタル契約ヲ為シタルトキハ婚姻ノ届出マテニ其登記ヲ為スニ非サレハ之ヲ以テ夫婦ノ承継人及ヒ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス
第二款 法定財産制
第七百九十八条 夫ハ婚姻ヨリ生スル一切ノ費用ヲ負担ス但妻カ戸主タルトキハ妻之ヲ負担ス
2 前項ノ規定ハ第七百九十条及ヒ第八章ノ規定ノ適用ヲ妨ケス
第七百九十九条 夫又ハ女戸主ハ用方ニ従ヒ其配偶者ノ財産ノ使用及ヒ収益ヲ為ス権利ヲ有ス
2 夫又ハ女戸主ハ其配偶者ノ財産ノ果実中ヨリ其債務ノ利息ヲ払フコトヲ要ス
第八百条 第五百九十五条及ヒ第五百九十八条ノ規定ハ前条ノ場合ニ之ヲ準用ス
第八百一条 夫ハ妻ノ財産ヲ管理ス
2 夫カ妻ノ財産ヲ管理スルコト能ハサルトキハ妻自ラ之ヲ管理ス
第八百二条 夫カ妻ノ為メニ借財ヲ為シ、妻ノ財産ヲ譲渡シ、之ヲ担保ニ供シ又ハ第六百二条ノ期間ヲ超エテ其賃貸ヲ為スニハ妻ノ承諾ヲ得ルコトヲ要ス但管理ノ目的ヲ以テ果実ヲ処分スルハ此限ニ在ラス
第八百三条 夫カ妻ノ財産ヲ管理スル場合ニ於テ必要アリト認ムルトキハ裁判所ハ妻ノ請求ニ因リ夫ヲシテ其財産ノ管理及ヒ返還ニ付キ相当ノ担保ヲ供セシムルコトヲ得
第八百四条 日常ノ家事ニ付テハ妻ハ夫ノ代理人ト看做ス
2 夫ハ前項ノ代理権ノ全部又ハ一部ヲ否認スルコトヲ得但之ヲ以テ善意ノ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス
現行民法
第3節
夫婦財産制
第1款総 則(第755条~第759条)第2款法定財産制(第760条~第762条)
(夫婦の財産関係)
第755条 夫婦が、婚姻の届出前に、その財産について別段の契約をしなかったときは、その財産関係は、次款に定めるところによる。
(夫婦財産契約の対抗要件)
第756条 夫婦が法定財産制と異なる契約をしたときは、婚姻の届出までにその登記をしなければ、これを夫婦の承継人及び第三者に対抗することができない。
以下省略