自然人と法人2(実存主義)

現行民法制定の起草委員であった富井政章氏の現行民法典編纂過程に関する民法言論がネットに出ています。
ウイキペデイアによれば富井政章氏は以下の経歴です。

民法典論争では、フランス法を参考にしたボアソナードらの起草にかかる旧民法は、ドイツ法の研究が不十分であるとして穂積陳重らと共に延期派にくみし、断行派の梅謙次郎と対立したが、富井の貴族院での演説が大きく寄与したこともあって旧民法の施行は延期されるに至り[1]、梅、穂積と共に民法起草委員の3人のうちの一人に選出された。商法法典調査会の委員でもある。

著書発行は1922年ですが、自分が明治29年成立の民法典起草委員であったときの歴史証言になる論文です。
以下私権の享有主体に関する部分の引用です。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%B0%91%E6%B3%95%E5%8E%9F%E8%AB%96

民法原論 第一巻総論
作者:富井政章
1922年
第3編 私権の主体[編集]
第1章 汎論
権利の主体たることを得る者は法律上人格を有する者即ち自然人及び法人の二とす。
何れも法律に依りで人格を有する者なるが故に法律上人と称すべき者なることは一なりといえども民法は便宜上世俗普通の慣例に従い人なる語を狭義に用ヰたり。即ち民法に所謂人とは法人に対し専ら自然人のみを指すものと解すべし。
権利の主体たることを得るを称して権利能力と謂う。
民法に所謂私権の享有とは即ちこれなり。権利能力は法人に対してその範囲に制限ある外何人といえどもこれを有するを原則とし身分,宗旨,姓,年齢等に依りで差別あることなし。即ち私法上においては各権利の主体たることを得るものとす。
而して権利の目的物たることを得す。
この公の秩序に関する原則にして何人といえどもその人格を放棄することを許さざるなり。彼の奴隷及び准死の制度の如きは既に歴史上の事迹に属し近世の立法例は特にこの原則を明示することを必要とせざるに至り。
但し私権を享有する程度には差別あり。或一定の身分を有すること又は受刑の結果等に因り特種の権利能力を失う場合なきに非ず然りといえどもこれ何れも特例にして人格を具有せざる一階級の者あることを認める趣旨に非さるなり。
権利能力に対するものを行為能力と謂う。
行為能力とは法律上の効果即ち権利の得喪を生ずべき行為を為す適格を謂う。行為能力に法律行為能力と不法行為能力の二種類あり。何れも意思の発動に外ならざるが故に権利能力と異なりで意思能力を具えさる者はこれを有せず。例えば嬰児又は喪失者の如し民法において無能力者とは法律行為能力を制限せられたる者を謂うなり。

人は権利の主体であり客体たるを得ず・・すなわち人身売買・・奴隷制禁止の思想です。
民法制定の沿革部分(引用しませんが)によれば、旧民法と新民法の違いは細かい解釈の変更ではなく総論を置き、重複を避けるなど体型整備が基本でドイツのパングステンシステムを採用した程度の変更であったことが分かります。
ボワソナード民法(旧民法)はもともとナポレオン法典・・近代市民法の原理を骨格にするもので、新民法(現行法も)近代法の精神等の内容面で大きな変更がなかったようです。
以上によると「私権の享有は出生に始まる」との大宣言(人種性別等によらず全面的平等理念)は、明治初年頃には日本社会の支配的意見だったことがわかります。
世襲というか設計図(今風に言えばDNA配列)が生まれる前から書かれている人生も辛いものでしょうが、実存哲学のように自分で切り開く自由も辛いものです。
「能力次第だから自由にしろ」と言われ、自由恋愛と言われても自分で相手や職場を探せる能力ある人は限られる・・環境のせいにする逃げ場がないのは、凡人にはつらいもので、精神疾患が増えます。
サルトルはこれを「自由の終身刑」とも主張しているようです。
楽直入氏の日経連載「私の履歴書」が今日で終わりましたが、楽焼きの伝統を承継する楽家の長男として生まれた(伝統承継の義務?)苦しみを経て成長していく過程に心打たれますが、それでも家業(生まれる前から書かれている設計図通り)生きるかは慣習・利権継承の問題であって法が強制するものではない・家の伝統を守らず別の道に進むかを決める決定権は本人にあります。
徳川期に大老の家柄に生まれた酒井抱一が栄光の武門を世襲する恩恵を受けるより、一介の絵師になったように、世襲制といってもリアルにみれば、世襲の恩恵より大きなチャンス(個人能力)があればその権利を拒否し枠外に踏み出すことが可能な社会でした。
世襲制といっても世襲する義務があるのではなく、相続権?を行使するかどうか自由のある社会でした。
たまたま安定成長時代に入ったので、よほどの才能がある人以外には将来が保証された相続を選ぶ人が多かった時代だったという程度のことでしょう。
大老というビッグネームを捨てた(跡取りではなかったので、ハードルが低かった)彼以外にも、西行に始まり、芭蕉、平賀源内その他武士・世襲の家禄)を捨てて、文化人になって行った人(山東京伝や滝沢馬琴など)が一杯います。
楽直入氏の生き方を読むとまさに実存者の行き方です。
苦しかったといえば、高名な彫刻家を父に持つ高村光太郎も「僕の前に道はない・・」と同じような苦しみを抱き続けたのでしょう。
高村光太郎氏も父の権威に反発しながらも、詩だけでなく結局?彫刻もやっています。
戦後思想界を風靡したサルトルの実存主義は、行動主義でもあったので・・共産革命や市民・学生運動に結びつく傾向があってソ連崩壊後輝きを失って行きますが、私にとっては青春の一コマ・・セピア色の残映です。

村の哲学

ところでわが国行政基礎単位となっている(市町村と言うように最小単位として想定されています)村は、明治政府になって初めて採用された行政対象としての区域概念ですが、(それまではご存知のように「何とかの庄」や「何々郷」の名称で、その関連でムラの庄屋や名主・郷士がいたのです)明治になって何故使い慣れていない漢字「村」をイキナリ持って来たか不明です。
私の家族は東京大空襲で焼け出されて母の実家に帰ったのですが、私の育った田舎は、約1kメートル四方程度の大きさの水田地帯◯◯村でしたが、(当然一つの生活単位としては大きすぎるので、10個前後の集落・・大字に分かれていました)この行政単位を◯◯むらと表現していました。
千葉で弁護士をしていると、例えば市原市の在の人がもとの隣の集落のことを言うのに「何々そん」の人と言う漢字読みをする人が多いのに驚いたことがありました。
市原市の場合、昭和30年代の大合併で市原郡が全部一つの市になってしまった(ちなみに君津郡も同じく君津市1つになっていますので、意外に思い切った県民性です・・千葉県と言っても旧上総、下総、安房の三国が1つになっているので、かなり気風が違うのでしょう。)ので、元の隣近所の村の人を表現するのに「◯◯そんの人」と言うのでした。
(今ではこうした古い人も少なくなってしまったでしょうが・・・。)
私の場合◯◯村(むら)で育ち、自分の住所を書くのにも何時も何々村(むら)大字何々何番地と書き慣れていたので、「むら」と言う表現に既に馴染んでいましたが、多分市原市内の農村地帯の場合「村」と言う漢字の訓読み・・「ムラ」が定着していないうちに全部合併してしまって1つの市になってしまい近くに◯◯村がなくなってしまったからでしょう。
我が国では一般日常用語としては殆ど利用されていなかった漢字で誰もその(訓の)読み方を知らなかった「村」を、明治政府がイキナリ導入したから、馴染みのない漢字読みがそのまま戦後まで市原郡方面では定着していた可能性があります。
実生活範囲と関係のない観念的な行政区域だからそれでいいだろうと言う考え方もあたったでしょう。
現在での道州制論を主張している人が「道」や「州」を訓読みしている(・・意味なんかどうでも良いじゃないかと言うことでしょう)人を見かけないのと同じです。
「村」は従来の集落であるムラよりも規模が大きく、生活共同体的一体感もないので、日本語の何に当てはめて良いのか迷う人が多かったので、訓の読み方が直ぐには普及しなかったので、何々「ソン」と漢読みのママの地域が多かったのではないでしょうか?
「村」(そん)って何だろうねと言っていて十分馴染まないうちに市原郡の場合、戦後更に町村合併で1つの市になってしまい村がなくなってしまったのでそのまま「ソン」と言う言い方が残ってしまった印象です。
明治政府の方針は、従来のムラあるいは郷・庄等の自然発生的集落(水田農耕に必要な最低単位)を大字(おおあざ)小字(こあざ)と命名し、その上の行政単位として「村」を作りその読み方を放置していた可能性があります。
生活圏とかけ離れた観念的行政区域だったのがその後生活圏が広域化していき、あるいは行政区域に合わせた一体感が出来て来た場合、広域生活圏を村をあらたな「ムラ」と読む人が増えて来て、村の訓読み・・ムラが普及し始めたかもしれません。
従来ムラとは生活に必要な生活集団の単位・ムレでしたから、国民意識では政府の強制する字(あざ)こそがムラのつもりでしたので、広域化・一体化が進まなかった地域では、これを「ソン」と読んだままだった可能性があります。
私の育った農村は平らな水田地域でしたので、広域生活圏が意外に早く一体化して行った可能性があり、市原の場合、小規模な丘陵の繰り返しでその間に小規模な水田が湖のように点在している風土ですから、丘陵を隔てた各地域は行政だけ一体化しても生活圏としてはいつまでも一体感が育たなかった可能性があります。
ちなみに村の漢字の成り立ちを見ると、木の所に人が立ち止まって思案すると言う意味らしいです(寸は胸に手を当てて考える意味)が、その後どういう発展・事情によるか(私には)不明ですが、いつの間にか田舎のことをあらわすようになって行ったようです。
明治まで我が国では一般的使用例のない漢字が、これが行政単位として明治政府にイキナリ何故採用されたのか意味不明(私が今のところ知らないと言う意味)です。
漢字の数は膨大にあって日本ではほとんど使われていない漢字が今でも大量にありますが、村もその一つで・・明治までは普通には知られていなかった漢字です。
元々「木の下で胸に手を当てて考える」などと言う漢字を使うのは、よほど物好きの教養人しかいなかった筈です。
例えば、幕末の松下村塾が有名ですが、これは地方組織としての「ソン」ではなく、上記の意味・松の木の下で思索する・・それも「立ち止まって」と言うところが、時代の転換期に吉田松陰が主宰した塾として解釈すればオツなものです。
松蔭は杉家で生まれ吉田氏の養子となっただけで、氏としては松には特別関係がなく、一般的には寛政3奇人の高山彦九郎のおくり名にちなんで松蔭を名乗るようになったとも言われています。
伯父のやっていた塾名が元々松下村塾だったので、これに合わして松蔭と号したのか不明ですが、いろんな意味を合わせてこの号を名乗るようになった時には、既に樹下で立ち止まって思索することの意味を掛けていたのではないでしょうか。
松下村塾の命名自体は伯父の玉木文之進だそうですが、彼自身幼少時から松蔭を鍛え上げた逸材ですから、塾名を考えるときに当時一般的名称ではなかった「ソン」をつけるにはそれなりに深い意味を考えていた可能性があります。
ちなみに松蔭が生まれたのはいろんな解説では旧松本村とあるので、如何にも生まれた江戸時代当時から松本村があったかのようですが、これは萩市に合併される前の名称・・明治以降の市町村制の名称で書いているのか、江戸時代から松本村が存在していたのかまでは分りません。
地元の古い記録を見る必要があります。
(と言っても地元に行けばそれほど難しい事ではありませんから、まじめに解説する気ならば、そこまでちょっとした手間をかけるべきです。)
松蔭が生まれ育った場所としては「団子岩」と言われる高台とされていますので、私の想像では当時から松本村があったのではなく、前者・・明治以降の地方制度でその地域をまとめて松本村となっていたのが、戦後の市町村合併で現在の萩市になった程度の意味で、「旧松本村で生まれた」と観光案内や解説書に書いているのではないかと思います。
ちなみに萩焼は萩城下の松本で開窯されたとも言われますので、松本と言う地域名は古くからあった可能性があります。
宮本「村」の武蔵と言う表現も実は誰かが、(いろんな人がいろんな説を書いているので「宮本村の武蔵」と誰が言い出したか知りませんが・・)本を書いた当時最小単位であった村が昔からある行政組織のように誤解して広めたものかもしれませんし・・。
松下村塾の名を知っている人は無数にいるでしょうが、「村塾とは」立ち止まって考えるための塾だなどとは、殆どの人が思いつかない哲学的にひねった名称ですが、(私一人の独自解釈です・・)「村」と言う漢字にはこうした深い哲学的意味の使用例しか日本にはなかった筈です。
明治政府が(吉田松陰先生を贔屓にしていたのは分るとしても・・)意味の難しい「村」をイキナリ末端地方行政組織の名称に何故したのか政治的意図が不明です。

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