表現の自由市場論7(公的補助要求の矛盾2)

我々弁護士会の主流的意見が世間とかなりずれていると見ている人がかなりいるでしょうし、内部的には強制加入団体が多数派の政治観による〇〇反対運動を行うことに対する不満も出てきます。
自治組織だから世間常識を気にする必要がないということでしょうが、弁護士会にに限らず、伝統的に自治権意識の強い組織の場合、(一般人より高みにあるというエリート意識が強いからか?)間違っている時流を正さねばならないという正義感を持つようになる傾向があります。
憲法学者〇〇名の声明など出すのもそうした意識の現れでしょうが、政治を決めるのは人民・・庶民大衆であるべきと日頃いっているにも拘わらず、 庶民はなにもわかっていないから間違いそうになると観ちゃいられない・・しゃしゃり出ていき教えてやるという本音・・後見人意識が出るようです。
言いたいことを言えてる組織ほど世間常識との乖離が進むので、世間が受け入れてくれない不自由感が強くなる面もあるでしょう。
映画その他業界内では警世の立派な作品を作ったのに収支が合わなくで興行に乗せられないのは、社会が間違っているという方向になりやすいのでしょうか。
個人の生き方でいえば、社会でうまくいかないのは全て自己責任と言うのでは、(ゴッホのように)苦しくて生きていけないので社会が悪い・あいつが悪いと責任転嫁するのが生きる知恵でもあるでしょう・・。
そのマグマが溜まって自己(集団)主張を社会が受け入れない「不自由自体が許せない」と言うアッピール展覧会になったのが、「不自由展」だったのでしょうか?
グループの意見が社会で受容されないときに昨日見たように国連人権員会などでいかに日本社会が歪んでいるかアッピールするNGOになり、体力系は過激派になってテロに走るのでしょうが、国内で合法的反日活動に活路を見いだすのは、まだましな方かもしれません。
例えば安保法案反対集会等を弁護士会等が自費で行うのは勝手(内部で不満があるのでそこまでやっていないと思いますが・・)としても、社会のために運動しているのだから反対運動に「公的補助を出せ」となると行き過ぎじゃないの?と言うのが大方の批判的空気ではないでしょうか?
識者はゴッホのように生前報われない例を出して「誰も芸術の評価はできない・・まして素人においてオヤ!」と言うイメージを膨らませた上で、だから不自由展の「展示内容批判は許されない」という結論に持っていきたいようです。
発表時点での自由市場評価が低い点はゴッホと同じですが、ゴッホの場合時間差で自由市場評価された場合が、表現の不自由展の場合には、同時点で自由市場評価されない不利を(市場=素人にはわからない)プロの目で再評価して製作資金補助と発表の場を与えようとする試みが大違いです。
言論自由市場論は商品交換の場の議論を比喩的に流用している以上は、その物ズバリではない・・適用できる限界等を議論しないと不正確のままでないか、というのがこのシリーズテーマですが、ゴッホの例をも同様で、ゴッホの生前評価が低かった点と「不自由展」のどこに関係があるか明らかにしないまま、比喩して不自由展批判シャットアウト・聖域化や「専門家に任せるべき」としてしまうのは、議論の目くらまし効果を狙ったもののように見えます。
思想や表現分野では何かというと「自由市場に委ねよ外部介入を許さない」というのが学者の決まり文句ですが、そういう主張者の多くが、一方で「自由市場に委ねるな!+公的資金投入せよ」「補助対象の決定は専門家が審査する」
「外部者の介入を許さない」と言う二段構えの論理をセットにしています。
企業研究ほど直接的でないにしても理系でいえば、大学や国立研究機構等の研究には巨額資金が必要ですし、巨額公費を使う以上は、多種多様な研究対象の中で、専門家の意見を聞きながらも、国策としてどの分野に(予算制約ある中で時間順を含め)優先的助成するかは、高度な政治判断が必要です。
現在でいえば国防予算やデジタル化促進、失業対策、コロナ対策でもどの分野に優先順位を与えるかなど・・。
経済学分野でも〇〇経済学が台頭している場合、その学派の見解を立証するにはある種統計データが必要とする場合、実態調査が必要になる場合もあります。
どの学派の調査に重点的予算配分するかも民意を受けた政府の判断事項です。
芸術や思想家方面だけ外部審査を許さない、政府はお金だけ出せば良いという自分勝手な主張がいつまで続くのでしょうか?
コロナ禍で乗客激減の航空会社その他企業が、どこの国でも金融支援(補助金や融資)は欲しいが国に株式を持たれる・出資だけは極力阻止したいと言うのが基本姿勢です。
その理由は経営の自由度が下がるからです。
借金は返せば自由に戻れるが、出資を受けるといつ支配が終わるか不明になるからですが、芸術も学問も、首までどっぷりと補助金に浸かっていて自由など自慢できるのか!という批判が聞こえてきそうです。
文楽や歌舞伎、能狂言等々の各分野への補助自体やめるかどの規模にするかは時の民意次第ですので、何が芸術かの基準は自分らで決めると言って天皇の肖像写真を燃やすのが自由というならば、その分野への補助金を絞ることに民意が動きそうです。
あるいはこの展覧会主催する関係者の展覧会企画への補助・協賛企業が増えるか減るかでしょう。
もともと慰安婦像を自己資金で買い取って自宅に飾りたい人がいるか疑問ですが・・。
表現・報道の自由、大学の自治、弁護士会自治等々(映画界ではエログロ映画がはびこっても「映倫」など自分らで決めると言う仕組み)です。
相撲協会やプロ野球界でも芸能界でも本当の意味の自由競争に揉まれている業界は皆、(営利企業でも)不祥事が起きると内部調査→自主処分先行が原則ですが、その対応が世論と食い違うと地盤沈下していくので世論動向に敏感です。
大手で顧客名簿情報漏洩すると法的責任以前に一人500〜1000円補償するなど率先して発表するのはこの表れです。
この数日で言えばモーリシャスで日本船籍タンカーの原油大規模流出事故ニュースが出ていますが、器量側は国際法上の賠償義務を果たすと言えば良いというのではなく、誠意を持って対応する記者会見し、政府も高官派遣対応しているのは国際世論動向が気になるからです。
自主規制とか自治とは言っても大枠は自由市場の支持に根ざしているので、自治を錦の御旗にしているグループでも世論動向無視するとその業種自体衰退しかねませんが、教条的・今風に言えば原理主義系は、せっかく自治(学問の自由)があるのに「世論に阿る必要があるのか?」と「不自由」に対する不満が高まるようです。
この種の意勢力が強い組織では(強気論ばかり横行し、常識論者は居場所をなくす「純化路線」で)世論から浮き上がる一方となり、旧社会党や昭和40年代後半以降の過激派組織になっていくようです。

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