表現の自由市場論8(補助対象審査の矛盾1)

愛知トリエンナーレ「不自由展」の場合、市場評価されない不満を通り越して「公的補助せよ!」というもので、内部自治侵害に対する抗議ではなく市場で評価されないことに対する逆ギレです。
ゴッホだって生前は現在ほど評価が高くないというだけであって、公的支援なくとも現在に作品が残っているのは彼の理解者や友人も盟友もいたからです。
ゴッホの真実については、以下に詳しく紹介されています。
https://www.asuka-g.co.jp/column/1903/010913.html
要は、ゴッホの才能を見抜いた辣腕の画商であった辣腕の弟テオが月極固定額(生活供給)で作品を買い受け、毎月送金していた・弟が面倒見ていたのではないらしいのです。

ゴッホは描いた絵をテオに送る代償に、毎月150フランを受け取り始めました。これは現在のお金で言うと毎月15万~23万円の報酬を得ていたとみることができます。
この援助というには決して少なくはない金額から、もうひとつ深い関係性が見えてきます。兄弟はただの家族愛だけでつながっていたわけではなかったのです。

テオはこのころパリでは名うての画商でした。兄のただならぬ画才を見抜いていました。そして、ゴッホの生活を支援する代わりに、ゴッホの作品を独占的に扱う契約をした‐それが真相だと、この本では説明しています。
以下省略

独占供給契約で名画を囲い込み、名をあげてから、売り出そうとしていた矢先にゴッホが自殺しいざ儲けようとしていた肝心の画商の弟も半年後死んでしまったので生前市場に出るとがなかったに過ぎないようです。
学問の自由とか創作の自由というのは、権力による迫害さえなければ、ベストセラーにならなくとも一部の支援者や気に入って買ってくれる友人がつくものです。
細々とした創作で良いことではないでしょうか。
千葉市美術館関係で言えば、田村一村の作品を収集していますが、見ると千葉在住時の作品には素人の私から見れば普通の絵描き程度のようでしたが、奄美諸島に移住してからは別人のような作品に変化しています。
千葉在住時高く評価されなかったのは、(素人目には)当然のように見えますが、それでもこれを支持する人 (彼の場合千葉在住の姉だったかな?)もいて画家専業で(ある程度売れたのでしょう・個人蔵の作品も出品されている)生きていけたのです。
千葉在住時に自分をもっと高評価しないのはけしからん!と抗議行動したり、補助金を出すべきと政治運動して世論が支持したでしょうか?
日本が民主国家か文化国家かの問題ではないでしょう。
愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」は、(市場評価の低い作品制作への現在補助金要求である点で)現時点自由市場評価主義と矛盾し対立するものですが、ゴッホ作品死後の評価を引き合いに出す論評は、(ゴッホの場合約50〜百年後?)時間差ズレを無視した意見です。
すなわち出品審査基準は現役プロ・現在自由市場で高評価を得ている者(審査員)の価値観によるので、現役が時間差を克服できるわけがない以上は、結果的に時間差審査専門家と言えないはずです。
現役売れっ子・時流に乗っている美術界大物・審査委員が将来を見通すプロでないことがゴッホを例にして証明されている以上、ゴッホのような大物が評価されないことがあることから「芸術の分からない素人は黙ってろ」と言う主張が成り立つでしょうか?
自分が特別な「目利き」という証明をしない限り現役界の大物というだけでは、俺たち「現役のプロに任せろ!」という資格がないでしょう。
不自由展で審査委員らが評価しているのは作品の現在評価であり、専門グループ内では高評価しているが自由市場で評価されない不満を社会にぶっつけたものと理解すれば一貫性がありそうです。
ネット報道で知る限りですが、内容を見ると日韓対立の原点ともいうべき慰安婦像の設置や昭和天皇写真の拡大パネル?を燃やすなど過激な?政治主張であり、これが「自由市場」では芸術でないとして評価されないのを専門家が「芸術作品」というのだから「公費負担で行え」という点の根拠としているのは、ゴッホの比喩とは何の関係もない筈です。
芸術家や学者等は思想の自由市場論を基本としながら、内容審査は自分らに任せろという主張は内部序列をどうするかの範囲内なら一理ありますが、公費補助対象を決める基準になると、「審査員の評価の方が市場より確かだ!」という主張にすり替わっているようになります。
この矛盾をぼかすために市場評価されない作品に補助金を出すために生前市場評価されなかったゴッホを持ち出しているように見えます。
ゴッホに関して一般に流布している美談は、ゴッホを美化するために作り上げられた美談・・もしかしたら自由市場評価もトキには間違うから目利きの審査が必要という二重基準を設けるための深謀遠慮と結合した虚構だったのかもしれません。
日本では有能な人材は最後まで埋もれっ放しの事例は考えにくい社会と8月16日に書きましたが、西欧だって本当は自由市場が賢いのですが、その上をいく目の利く商人である弟が独占的巨利を貪るために公開売出し時期を待っていたに過ぎないようです。

表現の自由市場論7(公的補助要求の矛盾2)

我々弁護士会の主流的意見が世間とかなりずれていると見ている人がかなりいるでしょうし、内部的には強制加入団体が多数派の政治観による〇〇反対運動を行うことに対する不満も出てきます。
自治組織だから世間常識を気にする必要がないということでしょうが、弁護士会にに限らず、伝統的に自治権意識の強い組織の場合、(一般人より高みにあるというエリート意識が強いからか?)間違っている時流を正さねばならないという正義感を持つようになる傾向があります。
憲法学者〇〇名の声明など出すのもそうした意識の現れでしょうが、政治を決めるのは人民・・庶民大衆であるべきと日頃いっているにも拘わらず、 庶民はなにもわかっていないから間違いそうになると観ちゃいられない・・しゃしゃり出ていき教えてやるという本音・・後見人意識が出るようです。
言いたいことを言えてる組織ほど世間常識との乖離が進むので、世間が受け入れてくれない不自由感が強くなる面もあるでしょう。
映画その他業界内では警世の立派な作品を作ったのに収支が合わなくで興行に乗せられないのは、社会が間違っているという方向になりやすいのでしょうか。
個人の生き方でいえば、社会でうまくいかないのは全て自己責任と言うのでは、(ゴッホのように)苦しくて生きていけないので社会が悪い・あいつが悪いと責任転嫁するのが生きる知恵でもあるでしょう・・。
そのマグマが溜まって自己(集団)主張を社会が受け入れない「不自由自体が許せない」と言うアッピール展覧会になったのが、「不自由展」だったのでしょうか?
グループの意見が社会で受容されないときに昨日見たように国連人権員会などでいかに日本社会が歪んでいるかアッピールするNGOになり、体力系は過激派になってテロに走るのでしょうが、国内で合法的反日活動に活路を見いだすのは、まだましな方かもしれません。
例えば安保法案反対集会等を弁護士会等が自費で行うのは勝手(内部で不満があるのでそこまでやっていないと思いますが・・)としても、社会のために運動しているのだから反対運動に「公的補助を出せ」となると行き過ぎじゃないの?と言うのが大方の批判的空気ではないでしょうか?
識者はゴッホのように生前報われない例を出して「誰も芸術の評価はできない・・まして素人においてオヤ!」と言うイメージを膨らませた上で、だから不自由展の「展示内容批判は許されない」という結論に持っていきたいようです。
発表時点での自由市場評価が低い点はゴッホと同じですが、ゴッホの場合時間差で自由市場評価された場合が、表現の不自由展の場合には、同時点で自由市場評価されない不利を(市場=素人にはわからない)プロの目で再評価して製作資金補助と発表の場を与えようとする試みが大違いです。
言論自由市場論は商品交換の場の議論を比喩的に流用している以上は、その物ズバリではない・・適用できる限界等を議論しないと不正確のままでないか、というのがこのシリーズテーマですが、ゴッホの例をも同様で、ゴッホの生前評価が低かった点と「不自由展」のどこに関係があるか明らかにしないまま、比喩して不自由展批判シャットアウト・聖域化や「専門家に任せるべき」としてしまうのは、議論の目くらまし効果を狙ったもののように見えます。
思想や表現分野では何かというと「自由市場に委ねよ外部介入を許さない」というのが学者の決まり文句ですが、そういう主張者の多くが、一方で「自由市場に委ねるな!+公的資金投入せよ」「補助対象の決定は専門家が審査する」
「外部者の介入を許さない」と言う二段構えの論理をセットにしています。
企業研究ほど直接的でないにしても理系でいえば、大学や国立研究機構等の研究には巨額資金が必要ですし、巨額公費を使う以上は、多種多様な研究対象の中で、専門家の意見を聞きながらも、国策としてどの分野に(予算制約ある中で時間順を含め)優先的助成するかは、高度な政治判断が必要です。
現在でいえば国防予算やデジタル化促進、失業対策、コロナ対策でもどの分野に優先順位を与えるかなど・・。
経済学分野でも〇〇経済学が台頭している場合、その学派の見解を立証するにはある種統計データが必要とする場合、実態調査が必要になる場合もあります。
どの学派の調査に重点的予算配分するかも民意を受けた政府の判断事項です。
芸術や思想家方面だけ外部審査を許さない、政府はお金だけ出せば良いという自分勝手な主張がいつまで続くのでしょうか?
コロナ禍で乗客激減の航空会社その他企業が、どこの国でも金融支援(補助金や融資)は欲しいが国に株式を持たれる・出資だけは極力阻止したいと言うのが基本姿勢です。
その理由は経営の自由度が下がるからです。
借金は返せば自由に戻れるが、出資を受けるといつ支配が終わるか不明になるからですが、芸術も学問も、首までどっぷりと補助金に浸かっていて自由など自慢できるのか!という批判が聞こえてきそうです。
文楽や歌舞伎、能狂言等々の各分野への補助自体やめるかどの規模にするかは時の民意次第ですので、何が芸術かの基準は自分らで決めると言って天皇の肖像写真を燃やすのが自由というならば、その分野への補助金を絞ることに民意が動きそうです。
あるいはこの展覧会主催する関係者の展覧会企画への補助・協賛企業が増えるか減るかでしょう。
もともと慰安婦像を自己資金で買い取って自宅に飾りたい人がいるか疑問ですが・・。
表現・報道の自由、大学の自治、弁護士会自治等々(映画界ではエログロ映画がはびこっても「映倫」など自分らで決めると言う仕組み)です。
相撲協会やプロ野球界でも芸能界でも本当の意味の自由競争に揉まれている業界は皆、(営利企業でも)不祥事が起きると内部調査→自主処分先行が原則ですが、その対応が世論と食い違うと地盤沈下していくので世論動向に敏感です。
大手で顧客名簿情報漏洩すると法的責任以前に一人500〜1000円補償するなど率先して発表するのはこの表れです。
この数日で言えばモーリシャスで日本船籍タンカーの原油大規模流出事故ニュースが出ていますが、器量側は国際法上の賠償義務を果たすと言えば良いというのではなく、誠意を持って対応する記者会見し、政府も高官派遣対応しているのは国際世論動向が気になるからです。
自主規制とか自治とは言っても大枠は自由市場の支持に根ざしているので、自治を錦の御旗にしているグループでも世論動向無視するとその業種自体衰退しかねませんが、教条的・今風に言えば原理主義系は、せっかく自治(学問の自由)があるのに「世論に阿る必要があるのか?」と「不自由」に対する不満が高まるようです。
この種の意勢力が強い組織では(強気論ばかり横行し、常識論者は居場所をなくす「純化路線」で)世論から浮き上がる一方となり、旧社会党や昭和40年代後半以降の過激派組織になっていくようです。

表現の自由市場論6(公的補助要求の矛盾1)

愛知トリエンナーレ展は、そもそも補助金目当てに出品していたものであって、(画家でいえば個展売り上げのように)自由市場競争による資金回収を予定していなかったことになります。
(ネット情報によるだけで実物を見ていませんが)韓国が日本大使館前に慰安婦像を設置しているほか世界中で設置運動していることで日韓関係が緊張している中で、これと同じ少女像を芸術作品と主張して展示しているようですが、これを芸術作品としてお金を出す人がどれだけいるか?
あるいは昭和天皇陛下の写真拡大した物に火をつけて燃やすパフォーマンスが芸術行為?と評価してお金を出すひとがほぼ誰もいないので出品する場所がないし、製作コストが賄えないのではないでしょうか?
昭和天皇の写真を燃やすパフォーマンスがどういう芸術意味があるか不明ですが、(政治意味はあるでしょうが)ともかく、専門家が「芸術とさえ銘打てば何をしても国庫補助すべきか」という素人意見をどう評価するかでしょう。
ゴッホでさえ生前評価は低かったというアッピールが効き目を持つのでしょうか?
逆は真ならずの原理通りで現在低評価であれば、すべて将来高評価という図式はあり得ないので、(将来高値が決まってれば、その含みで今高値がつくのが現在相場です)市場相場を超える将来性は誰も決めようがない(個人的にそう信じる人が自己資金で収集するものであって公的資金投下不可能)ことを15日書きました。
公金支出は民意によるべきもの・民意=特別なエリート意見ではなく平均的価値観ですので、評価時点の自由市場評価によるべきです。
市場評価があるものは補助金なくともペイするはずですから、プロ作家活動に公的補助を要求すること自体自己矛盾になります。
必要なのは、16日に書いた学校教育等の育成資金程度でしょう。
芸大美大等出てから作品で勝負できないのは、あるいはプロの世界に入ってから成績を出せないのは能力がないという市場評価であり、収入不足分を公的補助金でプロ・・野球やテニス選手を続けるべきではありません。
後進国が産業育成用の関税や政府補助制度が許されるのと同じで、成長途上の期間限定であるべきです。
芸術作品かどうかはプロ集団が自律的に審査するから外部者は介入すべきでないというのが学問の自由論同様で、愛知トリエンナーレ「表現の不自由展その後」に対する批判論者もそういう書き方・・外部非難にたじろぐ方が悪いという断固展示を続行すべきだったという批判のようです。
テーマが「表現の不自由展」というので、「表現の不自由」に対する抗議展のようですが、それが猛反発を受けて大騒動になったので、政治目的点とすれば日本が如何に表現が不自由な社会であるかの印象付けには大成功したことになるのでしょうか?
この展覧会(批判的論調も結果的には自主判断優先です)擁護論?では、ゴッホを持ち出して論を進めるのが一般的印象ですが、ゴッホは死後であっても結果的に自由市場で高評価をうけたので有名になっているのであって、市場評価を受けない作品に政府が資金援助する必要があるかその基準がどうあるべきかの論争についてゴッホを持ち出す関連性がありません。
不自由とは何かですが、処罰される不自由ではなく、特定の政治主張作品の公的支援をするのは行政の中立性に反するので受けにくい(特定立場にとっての)不自由を言うのでしょうか?
そうとすればゴッホは政治主張で冷遇されたのではないので、ゴッホを持ち出すのは焦点ズラしになります。
今回の不自由展で強調される「不自由」とは?死後に評価の高まる未来評価・審査ではなく現役プロ審査員間では現在評価が高いが自由市場での評価が得られない「不自由」を言うのでしょうか?
社会の価値観・民意と業界主流価値観があっていない?不自由・・・そういう視点でいえば、親中韓関係言論人が慰安婦騒動以来報道姿勢が偏っているという批判を受けるようになると、「日本に言論の自由がない」と国連人権員会に申し立てて、国連人権委員会委員が対日調査に来て「不自由」を主張する人たち(だけ?)から事情聴取して日本では表現の自由が侵害されている趣旨の意見を記者会見で表明して大騒ぎになったことがありますが、(その頃このコラムでも紹介しました)こうした運動と連動した動きと言うべきでしょうか?
その頃に発表されていなかった論文が見つかりましたので論文冒頭一部だけ紹介しておきます。
題名からすれば、日本人による海外での反日世論形成運動批判論のようです。
引用部分しか読んでいませんが、大学の専門誌に発表されている研究論文ですので、相応の実証研究したのでしょう。
http://harc.tokyo/wp/wp-content/uploads/2019/09/d0363de0bd15fae48728443c6c35f860.pdf
国連の「対日勧告」と反日NGOの関係についての歴史的考察
髙橋 史朗(麗澤大学大学院特任教授・ モラロジー研究所教授)

はじめに  昨年11月21日付産経新聞社説は「『反日宣伝』の撤回を迫れ」と題して、「国連委が反日 宣伝の場」と化している点を問題視し、「政府は嘘を許さぬ発信を改めて心すべきだ」と 訴えた。このように国連の人権理事会や各種の国際条約に基づく諸委員会が「反日宣伝の 場」と化しているのは、日本の左派NGOが「国連NGO」の資格を取得して、「反日宣伝」の 意見書を提出して積極的に委員へのロビー活動を行い、それが委員会の対日審査の最終 見解に反映して、日本政府への厳しい勧告となり、この「国連人権マッチポンプ」方式が 国内に甚大な影響を及ぼす絶大な効果があるからである。
以下略

  2019秋冬 歴史認識問題研究 本文.indd 9

事務次官(補助職トップ)

過去は別として現行法を前提に事務職中「官名」がつく基準を私の直感で区別すれば、官名での公式行為がそのまま行政処分や司法効力が生じる権限を有するものを「官」というべき」という意見を1月10日に書きました。
事務次官に戻りますと、事務部門で最高位に昇進しても(民意の洗礼を受けていないので)事務・裏方部門の長でしかないので各省次官は次官名で国家意思を表明する権限はありません。
次官とはその官名での副官ですらない・・補助事務部門トップという程度の意味でしょう。
副総理、副大臣、副大統領副委員長等は正官と同じ格式・選出母体が同じ場合であるからこそ、正官に故障あるときは副委員長等が職務代行できる官名です。
古代から位階によって補職できる幅が決まっていました。
このために藤原北家嫡流の初任は5位だったか正6位だったか?かなりの高位から始まる慣例でした。
源三位頼政が四位の地位に止め置かれ殿上人になれる資格である三位に昇格する希望がないことを嘆いた歌を作り、これを知って驚いた清盛が急ぎ従三位に昇格させた故事が知られています。)

のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな

戦後憲法では社会的身分、門地による差別は許されないので、国民主権の精神から民意による洗礼があるか?が原則的区別になりました。

憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

民意洗礼を受けていない次官は、選出母体資格が大臣と違うので大臣に故障があっても対外的効力のある国家意思発令権限を持っていませんが、せっかく事務部門トップまでなったのだから、長年の功労を愛でて退職前のほんの1〜2年限定の最後を飾る名誉を与えよう・ということになったのでしょう。
・・退職直前1〜2ヶ月前に一階級特進させて、ヒラを課長、部長〜局長で退職と言えれば名誉なことですから、お手盛り的特進があると聞きますが・・その精神でしょうか?
ちなみに各省次官は概ね1〜2年で勇退するのが慣例です。
事務次官に関するウイキペデイアの記事からです。

おおむね、行政職、法律職又は経済職の国家公務員採用I種試験(旧上級甲試験)を通過して省に採用された事務官のキャリアが事務次官に就任する。任期は存在しないが、慣例的に1年から2年とされており、それまでに勇退(依願退職)して後進に譲る慣行である。

上記暗黙の自発的退職慣例を前提に短期間だけ1階級特進の暗黙の合意があったとすれば、次官の地位に長年年居座り続けた防衛省の守屋次官は暗黙のルール破りだったことになります。
事務次官の実質的権限を見ると内部文書にしか過ぎないものの、次官通達発行権限がある・・局長は局長通達する権限がありますが、司法権ではないので法の公権的解釈権はないものの、法を実際に運用する主務官庁の定める法の運用基準の最高レベルである次官通達は、実務上大きな影響力を有している・通達行政と言われることから、実力に合わせて官名を与えても矛盾しないとしたのでしょうか?
事務次官に関するウイキペデイアの解説の再引用です。

事務次官は、各府省においてキャリアと呼ばれる高級官僚の中でも最高位のポストである。その影響力は大きく、各府省の実質的な最終決定権を有するともいわれる。府省内外にわたる人的資源、調整能力を必要とするポストである。

裁判官や検察官の決定は、担当検察官や裁判官がその事件に関して公式発言や文書発行すれば直ちにその効果が出る仕組みです。
検察官は検察一体の原則によって、事件処理について上司の決裁がいりますが、これはあくまで内部問題であって決裁なしに勾留請求や公判請求しても釈放しても内部規律違反に過ぎず、検察官が起訴した・釈放指揮等 があったという公式効力が生じます。
裁判官の場合、内部的にも決裁があり得ず、(そういうルールを作れば憲法違反です)担当裁判官が担当事件については「良心と法にのみ」従って裁判することになっています。
各省の省代表としての決定は、各省大臣が決定権者であって総理が不満かどうかをどの程度忖度するかは大臣の裁量です。
総理は大臣裁量が気に入らなければいつでも大臣を罷免できることで、政府の統一性を保障している事になります。
個別政策のつど、罷免しているのでは効率が悪いし一々総理の意向を伺わないと決断できない人では間に合わないので、総理の基本方向に沿った言動権限行使できると信用できる人を大臣起用し、各省大臣は総理の意向を忖度して行動するのは憲法の期待し予定している原理です。
逆に一々総理の基本政策に反対したい人がそのまま閣内にいるのでは政府施策の一体性が維持できないので、こういう意見がある場合には大臣就任打診に対して辞退すべきでしょう。
あるいは就任後意見相違が多くなれば、行動を共にできないとして閣僚辞任すべきでしょう。
大臣も自分の意見と違う次官や局長では、各省の統一政策を実行できないので本来局次長等の幹部の補職について発言力があるべきですが、年次昇進や順繰り人事などの慣例で行われることから、大臣の下位官僚(事務職)に対する影響力が減殺される仕組みになっています。

グローバル化と格差28(所得再分配1)

中国での工場労働者の賃金との差額(約400万円超)は、高度技術者(研究者やソフト関連・金融所得その他汎用品製造以外をまとめてこのコラムでは書いています)の働きによる収入を召し上げて再分配していることになります。
1つの企業で言えば、海外の儲けを本国還流することによって、本国の労働者は自分の働きに関係ない収入分配を受けていることになります。
これを国単位で見れば法人税その他公的負担で集めた資金で各種インフラを整備し社会保障を充実させて再分配していることになります。
月収40万円の内数万円補助ならばまだやって行けるでしょうが、中国では月収数万円できる仕事を日本国内でしている人に対して38万円前後も補助して40万円も払って行くのでは国際競争上無理があります。
地域的に見れば地方交付金で所得の低い地方への資金再分配を通じて地方での公共工事を地方の経済実力以上で高額発注させているのは、地方の公共工事関連者の高度な生活保障をしていることになります。
地域で経済が完結している場合、産業のない地方の役人や裁判官、教員等は近代産業の少ない後進国並みの給与水準・・月額数万円で良い筈ですが、それが全国一律高賃金(だから地方ほど役人の就職人気が高いのです)になっていること自体が、補助金の結果です。
本来地方に仕事がなければ需要供給の関係で公共工事の単価も安くなる筈なのに都会並みの高い相場になるのはこのメカニズムによるものです。
所得再分配用に召し上げる資金が多いとその分、公租公課負担が諸外国よりも高すぎる結果になるのは当然です。
これが企業・稼げる人の負担増(国際的に見て累進税率や高過ぎる法人税等の高負担社会)となり、高負担を逃れるために富裕層や企業本社の海外移転を促進していることにもなります。
所得再分配は民族同質性・・一体意識による助け合い精神の発露であってそれ自体尊いことですが、行き過ぎると労働意欲を殺ぐだけではなく閉鎖社会ではない現在では、国際競争力にも関係するので1国内だけで完結する時代の道徳をそのまま良しとするのは間違いです。
どの程度の格差修正が妥当かについては、グロ−バル化の進んでいる現在では国際競争力との比較で決めて行くのが合理的でしょう。
格差修正は国力次第であるのは、一般家庭でも同じことです。
失業した息子夫婦あるいは貧窮で困っている親戚がある場合、その一家・親戚全体の収入の範囲内で助け合うしかないのは当然です。
過去の蓄積の範囲で援助する場合は競争力には関係しませんが、日々の収入に上乗せして援助しようとすると、国際競争力に目を配らざるを得ません。
(ラーメン屋が親戚を援助したり息子の学費捻出のために過去の貯蓄から出すなら問題がありませんが、ラーメンの単価を上げて対処するとしたら・・近隣の単価を無視出来ません。)
現在の日本は、3月8日に紹介した平均賃金の例で言えば、工場労働者の賃金を月額2〜3万円が国際水準であるとしたら40万円との差額約37〜38万円を過去の貯蓄・・投資収益から援助するならば問題がないでしょうが、これを製品単価に反映すると問題が起きます。

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