表現の自由市場論4(ゴッホは例外か?1)

日本列島の場合いつも書きますがボトムアップ社会で、民衆レベルが高いので特定権力者の保護のあるときだけ文化の花開くのではなく、芸術に理解のある有名権力者が出てもその影響がある程度です。
江戸時代の浮世絵、落語、歌舞伎、浄瑠璃各種(八犬伝や東海道中膝栗毛など読本等々は庶民消費力・・文字通り自由市場によるもので、権力者の保護と関係ないのが明らかですし、古くは万葉集を見ればわかるように貴族や地方支配層に限らず民衆も性別、地位を問わずおおらかに歌を詠み、それがよければその地域で支持・広範に流布し伝承してきたものを国家事業で編纂したものです。
平安時代以降の伊勢物語や源氏物語に始まる王朝時代の女流作家の日記等(平家物語等のの戦記物)の著作物も特定権力者の秘蔵で成立するものではなく、多くの人に口コミで広まり、需要があってこそ多大な努力で(印刷でなく手書きで写すので相違が生じるし全巻揃って残りにくい)書写され広範に流布してその多様な写しが何々本という系列で残ったものです。
ちなみに飛鳥時代にはすでに印刷技術があって貴重な漢籍お経などは印刷された国産自然発生系は書写しかされなかったようです。
彫刻でさえ、民衆がありがたく拝む対象・実用品(円空仏のように)として成立し、秘仏ご開帳のたびに大衆が押しかける対象として生き残ってきた・・火事のたびに仏像や絵画古文書などを命懸けで運び出して残ってきたのは、末端下人に至るまで文化(良いもの)を愛で、あり難く崇拝する気持ちが行き渡っていたからでしょう。
東博の法隆寺館に行くといかにも個人蔵だったらしい小さな仏像が大量に展示されていますが、有名寺院の立派な仏像だけでなく名もない小さな仏像、個々人が大事に念持仏とし愛蔵されてきた歴史が分かります。
愛知トリエンナーレ「不自由」展に戻ります。
他人の金(公金給付補助基準を)で審査する以上は、平均的価値観・・その時代の目(世相・時流に流される)による基準しかあり得ないはずです。
現在低評価・・売れてない作品・制作費の補助がいる作家・市場評価の低い作品から後世に残る優秀作品、論文を各界現役実力者=現在市場高評価を受けている芸術家や思想家の審査委員(お歴々が)が審査するのは自己矛盾です。
彼らが本気で良いと思うなら自己の作品発表等で世に問うべき→一定方向へ業界内基準を変えて行く努力をすべきで、日展/院展であれ芥川賞、登竜門的音楽祭、博士論文その他の審査で入選させ引き立てれば済むはずです。
業界内基準を引きあげる努力をすべきで、それをしないで、いきなり公的機関でクー・デター的展示を強行する必要があるでしょうか?
「入賞→プロ仲間に入るレベルに達していない」と評価した同じ審査委員らが将来高評価を受けるはずという眼力を持って審査委員を務めるのは矛盾でしょう。
「逆は真ならず」で現在低評価=将来性が高いことになりません。
草野球程度の人材を創作に参加させる・・草野球程度レベル未熟者の作品展の機会を与えるのは、その分野の次世代継承者や消費の裾野を広げるためと、アマチュア的市民の自己実現機会を与えるために各サークルごとの展覧会の場を自治体等が設けていますし、各分野ごとの育成や支援制度の必要を否定するものではありません。
これらは市民サービスや教育制度充実の問題であって、ゴッホのように生きているときに高評価されなくとも、後世高評価されることがあるから異次元評価の仕組みを作ろうというのとは方向が若干違っています。
今回の「不自由」展で出品された作品がゴッホのヒマワリのように、後世高評価される芸術作品としての評価でなく、(ネット情報によるだけで実物を見ていませんが)テーマ通り政治色が強すぎることによって政治中立を前提にする公的支援を受けられない「不自由さ」を訴える作品を選んだ意図が出ているようです。
不自由とは何かですが、政治主張するには公的支援を受けにくい不自由を言うのでしょうか?
昨日まで紹介した論者はゴッホの例を比喩的に持ち出し、時勢に合わなくとも・・と言うのすが、これも比喩であって不自由展の強調にゴッホの例を持ち出すのは論点のスリ替えです。
ゴッホが生前より死後の方が高評価になったことを誰も否定しないことと、今回の不自由展とどんな関係があるかの説明がありません。
ゴッホの例を持ち出すことによって、「現在」市場評価はあてにならないと言えても、それは市場評価にも時間差があることが分かる程度で、だからと言って今の専門家が市場評価より優れていることにはなりません。
その時点での専門家の論評が同時点での市場動向に影響力を持っているので、(市場が受け入れる価値観同時性があるからこそ当時の一流批評家で理想作者となっているのです)百年単位以降の評価を予測評価できることの証明にはなりません。
百年単位先の予知能力を開発した立証がない限り現在業界首脳・審査員が英知を絞っても無理ではないでしょうか?
どういう根拠で自分らに限って100年先の価値が分かると言えるのでしょうか?

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