表現の自由市場論5(ゴッホは例外か?2)

ところで生活パターン等民衆生活様式や苦悩等が変わるから芸術の市場評価が変わるのですが、後の評価が優れていると言えるかはまだ不明ではないでしょうか?
歴史評価でわかるように時代が変われば評価も変わる・百年後に評価が上がっても二百年後にはまた下がっていることが多いものです。
歴史評価ほど芸術評価が変わらないのは権力=政治との距離感・民衆の心(本音)は政権交代によっては変わらないからです。
硬直した政治制度の場合、政権交代はダム決壊のように一気に崩壊しますが、社会変化は徐々に進んでいて民衆の心情も生活変化に合わせて徐々に変わっていく状態・政権交代によっては一気に変わりません。
我が国の場合、どの時代でも民衆直結政治・・ボトムアップ社会でしたので政治体制変化によって、過去の文化が無価値になることはない・・(中国の場合王朝崩壊ごとに前王朝の文物を全否定・・破却埋めてしまう習慣・・何も残っていないので、中国王朝の遺物を見たければ日本に来るしかないと言われますが、)新しい時代の芽吹きは政権交代前から起きているので新たなヒダが増えるだけの社会と16日に書いた所以です。
江戸時代には前期安土桃山時代の文化を承継発展させたものですし、江戸時代から明治維新への変化は外来文化が怒涛のように入った点で劇的でしたが、それでも民衆・文化人を含めて洋風文化を江戸時代にかなり取り込んできたので民衆が見事に適応できたのです。
明治初期中期には、江戸文化の深い理解を背景にしていた漱石等の文豪、俳句を生き返らせた正岡子規や歌舞伎の河竹黙阿弥等後世に残る名作の数々、洋式軍隊でさえ、幕藩体制下の武士道精神が基礎的規律として働いていて一糸乱れぬ展開可能な軍隊(超音速・デジタル化等々精密化すればするほど、動物的運動体形成能力が有利に働くでしょう)スポーツで言えばサッカーなど阿吽の呼吸で大量の人員が一糸乱れぬ行動が得意な体質は100年〜2百年でできるものではありません。
産業界も江戸職人の精密加工技術の粋を工業技術に活かすなど文化の連続性が明らかです。
絵画だけでなく意匠系では粋を尊ぶ文化が、今でも国際的な優位性がありますが、将来の我が国文化の発展の礎になるでしょう。
いつも書く例ですが、夏に冬物を着ていたら「きちがい」かと思われますが、冬になれば、真夏に冬物を着ていた人が先見の明があったと言えるかは別問題です。
芸術といっても受け皿社会と無縁ではありえないので、ゴッホとか先駆者といってもホンの少し変化の予兆を早く嗅ぎ取ったので次代に高評価を受けた程度の時間差でしょう。
秋口に早めに季節感を取り入れればおシャレですが、真冬物を着ればダサいだけです。
日本の場合・・時代による精神の病み具合の変化がそんなに大きくありません。
詩歌でいえば、万葉集〜古今〜新古今、連歌〜俳諧〜俳句〜明治以降の新体詩、現代詩などどんどん変わっていきますが、だからと言って万葉の心も俳聖の精神も明治維新当時の漱石の文体や藤村の詩情などが否定されるわけではなく新たな襞が積み上がっていく社会です。
啄木的心情に対する
ただし都会人2〜3世以降が増えてきたので、現在では地方出身者の心情を背景にする啄木的心情に共感を覚える人は減っていくし共感度合いは下がるでしょうが・・。
理解はできるので、否定までする人はいません。
日本ではこの程度の差です。
思想家憲法学者芸術家、革新系文化人が金科玉条的に持ち出す、言論表現自由市場論は、自由競争に委ねるべきと言いながら市場蔑視公的資金を求める(庶民蔑視・エリート意識を前提にしている)体質を抱えている点で矛盾を抱えています。
自由市場で評価されない弱点カバーのために、彼ら主流派にとっては公的補助が必須ですが、「公的資金注入対象審査は業界自主規制審査によるべきで、外部介入を許さない」という主張です。
これが大学の自治、教授会の自治、学問の自由その他自治を求めるグループの基本主張です。
8月14日書いたように市場評価も専門家の審査も現時点での近未来の評価を取り込んでいるものですから、今回の「不自由」展出品作品審査は現在主流派審査員が行う以上(五十〜百年先の芸術家がタイムスリップして審査員になるのではない以上は)、現在価値観による評価になるしかないので、後世高評価される芸術作品としての審査に合格した作品を出品して評価を市場に求めるのは不可能です。
ゴッホを持ち出すのは目くらましでいかないように見えます。
不自由展については、制作費補助金が出る前提で制作したのに補助金が後で出ないと言われると困るという報道がありましたので、製作費さえママならない不自由をかこつ作品展ということになりそうです。
権力による自由市場妨害がない社会では、制作コストさえまかなえれば自由市場参加可能です。
制作費も出ない程度の評価をうけている以上、本来の自由市場論によれば市場退出が原則です
ラーメン屋寿司屋、あるいは製造販売業でもすべてコスト分以上の売り上げがなければ市場退出が原則です。
お歴々が、思想表現の自由市場論を掲げる以上は、プロが採算割れすれば市場退出すべきでしょう。
政治を否定しながら、政治力で延命させようとしているとすれば、邪道そのものです。

表現の自由市場論4(ゴッホは例外か?1)

日本列島の場合いつも書きますがボトムアップ社会で、民衆レベルが高いので特定権力者の保護のあるときだけ文化の花開くのではなく、芸術に理解のある有名権力者が出てもその影響がある程度です。
江戸時代の浮世絵、落語、歌舞伎、浄瑠璃各種(八犬伝や東海道中膝栗毛など読本等々は庶民消費力・・文字通り自由市場によるもので、権力者の保護と関係ないのが明らかですし、古くは万葉集を見ればわかるように貴族や地方支配層に限らず民衆も性別、地位を問わずおおらかに歌を詠み、それがよければその地域で支持・広範に流布し伝承してきたものを国家事業で編纂したものです。
平安時代以降の伊勢物語や源氏物語に始まる王朝時代の女流作家の日記等(平家物語等のの戦記物)の著作物も特定権力者の秘蔵で成立するものではなく、多くの人に口コミで広まり、需要があってこそ多大な努力で(印刷でなく手書きで写すので相違が生じるし全巻揃って残りにくい)書写され広範に流布してその多様な写しが何々本という系列で残ったものです。
ちなみに飛鳥時代にはすでに印刷技術があって貴重な漢籍お経などは印刷された国産自然発生系は書写しかされなかったようです。
彫刻でさえ、民衆がありがたく拝む対象・実用品(円空仏のように)として成立し、秘仏ご開帳のたびに大衆が押しかける対象として生き残ってきた・・火事のたびに仏像や絵画古文書などを命懸けで運び出して残ってきたのは、末端下人に至るまで文化(良いもの)を愛で、あり難く崇拝する気持ちが行き渡っていたからでしょう。
東博の法隆寺館に行くといかにも個人蔵だったらしい小さな仏像が大量に展示されていますが、有名寺院の立派な仏像だけでなく名もない小さな仏像、個々人が大事に念持仏とし愛蔵されてきた歴史が分かります。
愛知トリエンナーレ「不自由」展に戻ります。
他人の金(公金給付補助基準を)で審査する以上は、平均的価値観・・その時代の目(世相・時流に流される)による基準しかあり得ないはずです。
現在低評価・・売れてない作品・制作費の補助がいる作家・市場評価の低い作品から後世に残る優秀作品、論文を各界現役実力者=現在市場高評価を受けている芸術家や思想家の審査委員(お歴々が)が審査するのは自己矛盾です。
彼らが本気で良いと思うなら自己の作品発表等で世に問うべき→一定方向へ業界内基準を変えて行く努力をすべきで、日展/院展であれ芥川賞、登竜門的音楽祭、博士論文その他の審査で入選させ引き立てれば済むはずです。
業界内基準を引きあげる努力をすべきで、それをしないで、いきなり公的機関でクー・デター的展示を強行する必要があるでしょうか?
「入賞→プロ仲間に入るレベルに達していない」と評価した同じ審査委員らが将来高評価を受けるはずという眼力を持って審査委員を務めるのは矛盾でしょう。
「逆は真ならず」で現在低評価=将来性が高いことになりません。
草野球程度の人材を創作に参加させる・・草野球程度レベル未熟者の作品展の機会を与えるのは、その分野の次世代継承者や消費の裾野を広げるためと、アマチュア的市民の自己実現機会を与えるために各サークルごとの展覧会の場を自治体等が設けていますし、各分野ごとの育成や支援制度の必要を否定するものではありません。
これらは市民サービスや教育制度充実の問題であって、ゴッホのように生きているときに高評価されなくとも、後世高評価されることがあるから異次元評価の仕組みを作ろうというのとは方向が若干違っています。
今回の「不自由」展で出品された作品がゴッホのヒマワリのように、後世高評価される芸術作品としての評価でなく、(ネット情報によるだけで実物を見ていませんが)テーマ通り政治色が強すぎることによって政治中立を前提にする公的支援を受けられない「不自由さ」を訴える作品を選んだ意図が出ているようです。
不自由とは何かですが、政治主張するには公的支援を受けにくい不自由を言うのでしょうか?
昨日まで紹介した論者はゴッホの例を比喩的に持ち出し、時勢に合わなくとも・・と言うのすが、これも比喩であって不自由展の強調にゴッホの例を持ち出すのは論点のスリ替えです。
ゴッホが生前より死後の方が高評価になったことを誰も否定しないことと、今回の不自由展とどんな関係があるかの説明がありません。
ゴッホの例を持ち出すことによって、「現在」市場評価はあてにならないと言えても、それは市場評価にも時間差があることが分かる程度で、だからと言って今の専門家が市場評価より優れていることにはなりません。
その時点での専門家の論評が同時点での市場動向に影響力を持っているので、(市場が受け入れる価値観同時性があるからこそ当時の一流批評家で理想作者となっているのです)百年単位以降の評価を予測評価できることの証明にはなりません。
百年単位先の予知能力を開発した立証がない限り現在業界首脳・審査員が英知を絞っても無理ではないでしょうか?
どういう根拠で自分らに限って100年先の価値が分かると言えるのでしょうか?

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