「こおり」2と「さと」(郷と里)1

漢字の本家でさえも仏教伝来時に意味と関係ない、既存漢字の表音を音写して間に合わせていたのですから、朝鮮半島でも漢字の音を借りて朝鮮半島のいろんな言葉に漢字を割り当てる慣行があったと見てもおかしくないでしょう。
朝鮮での一定の地域単位をもしかして評と言う漢字で表していたのが日本列島に伝播してそのまま日本での利用が始まっていた場合もあるでしょうから、和語の「こおり」を何故「評」の漢字に当てていたのかを素人が詮索しても意味ないのかも知れません。
大宝律令を導入するにあたっては、社会の骨格を決める大規模な法制度導入である以上は、(今で言えば、首相や大統領、議会と言っても国によって権限が大幅に違うように)制度的にどのような権限あるかどのように運用されているかなど深い実態調査に基づく制度導入が必要ですから、表面的な漢字の意味だけでなくかなりの制度研究が進んだものと思われます。
明治時代の欧米制度導入にあたっても、西洋語の皮相的な単語翻訳だけでなく(王とか議会というだけでなく議会や総理・王にどんな権限があるかなど具体的調査を経てドイツ式の法制度導入に至ったものです)欧米の実態研究を行なってからの立案でした。
ウイキペデイアの大宝律令の記事です。

大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、大宝律令として完成した。

上記の通り丸20年かかって中国の実態研究と日本の実情のすり合わせをしています。
明治維新後明治22年の明治憲法制定までの期間とほぼ同様です。
制度研究の結果、漢字の意味を深く知って利用するようになってくるとそれまでの音を借りただけの「評」では意味のない利用法・文化的ではない・恥ずかしい利用法だとなったように思われます。
大宝律令導入にあたって中国の郡県制度の地方単位を導入するにあたって意味を含まない「こおり」に対する当て字を「評」から意味を含んでいる郡に変えたように思われます。
どの漢字であろうと和語でいう「こおり」であったことが変わりないので、日本列島では、一定の集団が固まって(こおる→塊の意味らしいですので)住む地域を単位としていたことになります。
流域文化圏を基礎としたムラ社会ほど濃密すぎない程度の地縁血縁の緩やかな集合体・・その後地域ごとに倭国100余国と言われる地域集団領域と古代の評(こおり)→郡の領域とはほぼ重なるのではないでしょうか?
郡(こおり)は、後世戦国時代の地方豪族の領域ともほぼ重なるように思われる重要な地域単位になっていた(江戸時代にも一定規模以上の藩に郡(こおり)奉行が置かれていました)と思われます。
「こおり」=隣接する郡は気候風土というほど大きな差がないのですが、どこか隣接の郡とは違う気風がある印象で、千葉県では山川で隔てられていないにも拘らず印旛郡と千葉郡、市原郡、君津郡など、郡によって気風が違う印象を受けます。
関東平野以外ではもっと大きな差があるでしょう。
「こおり」には、下位単位としてのサト(里・これも漢字表記であって和語は今もサトのままです)が、大宝律令で割り当てられていますが、日本の基礎集落はムラですから、このとき自然発生的集落をいくつか集めてサトという中間的単位を創設したように思われます。
(このコラムで「思われる」という書き方は全て調査研究した論説によらない私の直感的思いつきを書くものです)
こおり・評を郡に変えるにあたって同一支配者に属するいくつかの「こおり」を集めて大規模にしたものでしょうし、こおりの規模を大きくすればその中間的単位が必要となり律令制の模範とする中国に「里」の制度があったのでこれを律令制導入時に当てはめたようです。(条里制と学校で習う制度です)
「こおり」ごとに支配者が違えば一つにまとめるのは抵抗がありますが、大和朝廷成立前にはいくつかの「こおり」を支配する豪族の大規模化が進んでいたでしょう。
戦国時代に上杉や信長が、まず尾張国や越後国内で親世代が築いた郡単位の勢力を徐々に広げて国内統一→周辺国進出、最終段階で全国区の戦いになるのが普通ですので大和朝廷成立時には、歴史に残る出雲や吉備とか越前の勢力は数カ国にまたがる勢力を持っていたでしょうし、その配下武将も数郡程度の支配地を持つ中規模豪族がいたものと推測されます。
信長や信玄等の勢力拡大につれて配下武将も大名に成長していたように、大伴氏や葛城、蘇我等の大豪族は大和朝廷内の有力豪族としても、それでも大和朝廷が大きくなるにつれて・・本拠地以外に勢力の根を扶植していたものと思われます。
武田信玄配下の有力武将(12将)はそれぞれ勢力に応じた支配地を持っていたように、地形の複雑さから直接支配地が限られる・・足利政権の脆弱さが顕著でしたが・・中央権力の弱さが日本列島の歴史でした。
戦国時代に多い勢力拡大時における被占領地の国人層に対する本領安堵方式は、先史時代から続くものであったことは各地の神々がそのまま残っていることがその証拠でしょう。
地形の複雑さが、直接統治に無理があったために峠を越えて勢力拡大しても一次的支配しかできないので、大軍で押し寄せてもいつまでもいられないので引き上げるまでに地元に協力組織を構築視して帰るしかなかった・・いざという時に戦役に応じる義務・兵力提供義務程度にするしかなかったのが現実でしょう。
この結果負けた方の地域名も残るので、ムラの上の中規模単位もそのまま残ります。
明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。

「こおり」(評→郡)1

日本古来の「評(こおり」がいつから郡の文字に変わったかの新井白石らの論争は出土木簡によって勝負ついたようですが、これによれば律令制定後一斉に「評」(こおり)がなくなり「郡」(これも和音では「こおり」)表記しか無くなっていることが分かっているようですから、律令制徹底のために郡に限らず里(さと)など土着用語が全て中国伝来制度表記圧力が働いた様子がうかがわれます。
と言うより廃藩置県を起点に日本の地方制度が抜本的に変わり今の都道府県制度ができたのと同様の地方制度・統治形態の大規模変化があって、廃藩置県で小さな国が(伊豆、駿河、三河の国が静岡県に)一つの県になり、小さな集落がいくつかよって小字(アザ)になり、さらに大字(あざ)の集まりが村になり、村が成長して町になり市が生まれ、市が大きくなってその中に中央区江東区のような区制ができたように、後漢書に言う百余国が大宝律令制定で六十余国に統合されて地方単位が大きくなった時代でした。
それまでの豪族の支配地・・後漢書に言う百余国・・私のイメージでは、現在の郡の地域がいくつか集まって国に昇格したので、元の地元豪族支配地が郡になったということでしょう。
大宝律令で郡になる前には「評」(こおり)が使われていたとしても和語としてはいずれも「こおり」であったことは明らかですから、「こおり」とは何かこそ重要でしょう。
「こおり」とは、水がに凝る(ニコゴル)状態・・固まった状態を表す和語らしいですが、(私の思いつきですが、物事が滞ると言う時の「とどこおる」も同じ用例でしょうか?)物が塊になっている状態を和語で「ひ」とも言いますので、固まった状態の「こおり」を「ヒ」とも言い表していた時代があり・今でも氷川(ひかわ)とか表現することが多いのは周知の通りです。
律令制前に入っていた漢字の用法として?こおり・「ひ」に該当する万葉仮名として「評」をヒ・万葉カナ分類で言えば、略音仮名様式での利用だったのではないか?
当時の漢字利用は音を利用しただけで、漢字の意味と関係はなかったという想像です。
https://japanknowledge.com/image/intro/dic/manyougana2.jpg
には万葉カナの詳しい説明がありますが、
その中の

略音仮名(有韻尾字,韻尾を捨てる)
安(あ),散(さ),芳(は),欲(よ),吉(き),万(ま),八(は)

の一種でないかな?と素人的想像するものの、上記に掲載されている表にも「評」は出てこないし、万葉仮名と言っても漢字はある日一斉に大量輸入されたのでなく、人の交流等を通じて大陸から4〜5百年以上かけて順次に伝わった歴史があるでしょう。
紀元前の前漢時代のことを書いている後漢書に倭の百余国の記載があることからして、当時から人の往来があったことが確かですし、紀元後701年の大宝律令制定前の700年間の交流によって、じわじわと漢字が流入していたことが明らかです。
表音と言っても古くは南方系の呉音が入り、その後漢音が主流になって行ったようですから漢字に接する時代によって発音自体が違う上に「評」はもともと朝鮮半島由来とどこかで読んだ記憶です。
万葉仮名といえば日本独特の工夫かというとそうではなく、これをひらがなやカタカナにまで仕上げたのがすごいのであって音を当てるだけならばどこでもやっていることでしょう。
漢字のご本家中国自体が仏教伝来に当たって、サンスクリットの音をそのまま漢字の表音に当てはめた漢字の仏教典を作っていることから見ても、(お経の中にはいろんな梵語を漢字の音で書いた音写がいっぱいありますが、例えば仏教と言っているブッダという漢字自体、サンスクリット語の音に似た発音の漢字を当てたものです。
ブッダに関するウイキペデイアの記事です。

仏陀とは、サンスクリット語の「buddha」の音写語である。この「buddha」は「知れる人」という意味であり、古代インドから「経験的に知る」ことをさす√budhという語根の動詞で示される。
また、「目覚めた人」という意味もあり、このように考えるときには、√budhを「眠りから目覚める」という意味でとる。この意味では、ジャイナ教でも仏陀という言葉を使っている。さらに発展させて「覚った人」というように理解され、「the enlightened one」と英訳され、漢訳でもしばしば「覚者」と訳されている。

現在フランスを仏蘭西→仏というのと同じで、本来ほとけ様の意味がありません。
日本で盧舎那「仏」とか「〇〇仏」」というのは単なる音訳であり、和語の「ほとけ」という意味は日本人がつけた意味です。
和語でいう「ほとけ」様とはどういう意味でしょうか?
仏教思想が入った頃には当然同じ思想が日本列島になかったので、覚者を意味する語彙自体がなかったでしょう。
どのようにして仏を「ほとけ」と訓で読むようになったのか今の私にはわかりません。
すぐに思いつくのは古事記の「ほと」の記述ですが、そこからなぜ覚者の意味が出てくるか不明ですので、「ほとけ」自体も漢字の音から出た可能性がありそうです。
http://www.daianzi.com/howa/datadata/howa0133.htm
によれば「ほとけ」というようになった語源をいくつか紹介されていますが、以下が私にはしっくりきます。

第三に、中国では古い時代、「ブッダ」のことを、「浮屠」「浮図」(ふと)と音写することがありました。
なにか陰惨な感じのする文字ですが、これは中華意識のなせるワザのようです。
そこで、仏教徒のことも、それに応じて、「浮屠家」(ふとけ)、やがて、ブッダその人も「浮屠家」と呼ぶようになりました。
これが我が国でなまって「ほとけ」となった説。

当時日本には高度な哲理が未発達で悟るなどの内面をあらわす和語自体なかったので(勝手な想像です)音をそのまま採用したと見るのが落ち着きが良そうです。
現在社会でコロナ型ウイルスやロケット、テレビ、パソコンなど従来の日本語にない単語が入ってくると無理に日本語化せずにその音をそのままカタカナで使うのと同じだったでしょうか?

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