自民族言語表現の重要性5(近現代用語を日本に頼る中韓2)

昨日まで紹介したように、日本の政府要人に限らず朝鮮へ赴いた各分野の経営者〜中間管理職・教育者・技術者あらゆる分野でこぞって(最もナーバスな軍人養成でさえも)人種差別なく現地人材養成に心を砕いてきた結果、日本が朝鮮に戦前に作った各種近代インフラ関連技術者7〜8000人の内、朝鮮人技術者が1200人前後(軍人で言えば、日韓交渉時に戦前日本の士官学校で訓練を受けたことのある朴正熈大統領がいたように)育っていたことが日韓交渉後の経済発展に大きな役割を果たせたのです。
このやり方は東南アジア諸国占領政治でも同じですが支配期間が短すぎたので残せた成果が乏しいだけであって、それでもわずか3〜4年しかない占領期間中に育てた人材が日本撤退後のビルマやインドネシア、ベトナム等各地の独立機運の高まりと独立運動の核になる(ビルマのネ・ウイン将軍のような)人材が育っていたのです。
戦後の民間済進出でも同じやり方で、欧米植民地支配では数百年以上にわたる現地人自信喪失目的教育の結果、(やる気を失って)民度が退化する一方であったのに日本が進出すると現地人の自信回復教育や働き方改革や技術指導したので、すぐに新興国となって経済発展がはじまった原因です。
韓国〜台湾の急成長を見て欧米では日本教育の遺産によると言えないために儒教教育の成果として報道し日本メデイアも追随していましたが、その後の東南アジアの成長(中国でも満州地域の発展速度が早い事など)とその到達点を見ても、日本戦前教育の期間差に成果が比例する関係が「疫学的に?』に(上位者が働かない習慣・・研究者でも教授様は自分で実験はしない・・逆に儒教教育が足枷になる関係が)証明されています。
日本支配時の教育遺産の重要性については、中国でも同じです。
中国の改革開放後に日本技術を導入すると東北3省が急発展できたのは旧満州国時代に日本が教育制度を整え技術者養成を行ってきた結果一定の技術者や教育成果(努力すれば報われる意識)が残っていた事によると言われているのと同じです。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/中国東北部
中国東北部(ちゅうごくとうほくぶ、中国語簡体字:中国东北 (拼音:Zhōngguó dōngběi))とは、中華人民共和国の東北側外縁に存在する地域であり、歴史的に満州と呼ばれていた地域である。狭義には遼寧省・吉林省・黒竜江省の東北三省(旧称:東三省)の総称。中華人民共和国における地域をブロックに分けた区分では「東北区」と呼んでいる。
文化
「・・文化教育施設、教育普及率と進学率は中華人民共和国の中で高い水準にある。そのうち、遼寧省の高等教育の普及率は中国で最高である。主な科学研究機構はハルビン市、長春市、瀋陽市、大連市に分布し、そのうちで光学機械、冶金、軍需産業の研究水準が最も発達している。」
日本との関係
清朝時代の満州は荒野が目立つ辺境の地であった。それは満州族の祖地であるため漢人の入植が制限されたからであり、近代にはロシアの極東進出にも晒されたからである。19世紀後半にはロシアの脅威を受け清朝が一転して植民を促したことで漢民族の人口は増加し土地が農耕によって開墾された。満州国統治時代になると、日本から資本が投下され鉄道や発電所など近代的なインフラが整備された。日本の傀儡政権とはいえ、安定と発展がもたらされた満州国には日本人開拓団の植民はもちろん、当時内戦中だった中国本土からも多くの移民が流入した。その結果、人口が建国時の約3000万から約4500万に膨れ上がった。新京(長春)、奉天(瀋陽)、ハルビン、吉林、チチハルといった近代的な都市が形成された時期でもある。戦後、中華人民共和国の統治下に入った後は改革開放が始まるまで中国随一の工業地帯として同国の経済を支えた。
現在の日本とも関わりが深く、日本に居住する中国人の3割以上は東北部の出身である[2]。日本で学ぶ中国人留学生は、この地域の出身者が最も多い。中国の中では比較的親日的な地域とされており、日系企業の進出が多い地域の一つである。
在留中国人の出身地は、遼寧省 (16%)、黒竜江省 (10.6%)、吉林省 (8.3%) の東北3省で約35%を占め、これに台湾を加えると4割を超える(2009年)川嶋諭/ジャパンビジネスプレス2011.03.05掲載
中国でも日本統治下だった元満州地域の方が発展性が高い現実を見ました。
韓国の戦後成長の基盤に戻ります。
日韓条約後日本経済援助と企業の進出による技術指導の結果急成長ができたのは、敗戦で日本人が帰国してしまったあと、独自に産業を起こせるほどの技術者がいなかったので産業が衰退する一方だったとはいえ、中間技術者まで育っていたので・・・軍で言えば、朴正熈大統領が将官級まで昇進していなかったが、中堅士官まで昇進していたのと同様です・・彼らが日韓交渉後の発展の基礎になったという数字をどこかで読んだのですが、今になるとどこで読んだか探せません。
朴正熈大統領の経歴は以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95日韓併合後の朝鮮半島に朴成彬と白南義の末っ子として生まれる。朝鮮名では朴正、日本名では高木正雄と名乗った[3]。大邱師範学校経て学校教師を務めていたが、やがて軍人を志して同じく日本の影響下にあった満州国の軍官学校(士官学校)に志願入隊する。卒業後は成績優秀者が選抜される日本の陸軍士官学校への留学生となり、第57期生として日本式の士官教育を受ける。帰国後は満州軍第8団(連隊)副官として八路軍や対日参戦したソ連軍との戦闘に加わり、内モンゴル自治区で終戦を迎えた。
1965年の日韓交渉時のパク大統領自身が日本の士官学校で教育を受けた人材であったことからも分かるように、いろんな分野で日本教育の遺産が役立っていたことは確かでしょう
漢字を捨ててしまったハングル社会に戻ります。
ハングル一本では抽象的概念を利用した思考訓練には不向きといわれていますが、ハングルはひらがなのような完全な表音文字に過ぎないといえるか気になります。
韓国人の多くがひらがな思考で生きていると言われますが、ノー(脳)タリンは別として普通の知能の人がひらがなのようなもので表現した幼児が理解する程度の熟語レベルで物事を考える社会・・単純思考で現在の高度社会が成り立つのか?そんなことが可能かな?と言う疑問でしょう。
日本敗戦から日韓基本条約までの20年間はこの結果、どんどん退化する一方であった20年間の理解としては納得ですが、1965年の条約成立後日本の経済・技術援助でどんどん成長を初めてからすでに50年経過して先進国の仲間入りしている現在の理解にそのまま当てはめるのは無理がありそうな印象です。
各種思考訓練の基礎になる言語表現ツール・・ハングルとはなにか?ですが、私は現在流通しているハングル自体を知りません。
李氏朝鮮第4代王の世宗の推進した「訓民正音」は(漢字の素養がないものに発音を教える記号)」「民を訓(おし)える正しい音」と言う意味らしいですから、これを元にして表音記号に過ぎないという考え方が普通に流布されているのかもしれません。
しかし、これは独自文字を持つことに反対する諮問機関・知識層の反対(知識層は既得教養・西欧のラテン語や朝鮮の場合、漢語理解能力習得による教養独占の優位性を守るためにいつも守旧的立場です)を押し切るために世宗が言った政治的方便だったと思われます。
漢字とひらかなの中間的なものであった上に、表音文字にしては、ハングルの文字数が多すぎるのはこのような背景・・実質がある結果でしょうか?
上記政治的解決のための公式意見は政府を縛るかも知れませんが、言語は生きものですから需要に合わせて変わっていくので実態に合わせて解釈すべきで額面通りに受けとると間違いのもとです。
支配層は欧米の異民族支配と同じで既得権益死守のためにハングル普及を極力妨害してきたためにその後朝鮮では「ただある」というだけで日常的に発展できませんでしたが、日韓併合後日本政府が庶民レベル底上げには漢文読解力を庶民全部に求めるのは無理があることから、朝鮮にはハングルがあることに目をつけてハングル教育を強力に推し進めたのでこれが庶民に普及するようになりました。
いわば庶民ほぼ100%の文盲状態脱皮は日本政府によるハングル教育開始によるものです。
政治的方便とすれば公式意見としてはまさに発音記号でしかないのですが、ハングルが日常的に使われるようになれば、表音のみでは不便なのでなんらかの意味が入ってくるのは、自然のなり行きでしょう。
他方でハングルには同音でいくつもの意味を持つので間違いやすいとも言われている実態とも合います。

朝鮮民族の意識改革(宇垣総督の功績1)

昨日引用の続きです。
「当時の朝鮮農家の最大の問題は労働時間の少ないことであった。田の除草、施肥、更に堆肥作り等に、内地の農民並に働くことを求めたのである。更に冬作として麦、レンゲ草、菜の花等を奨励し、畜産、民芸品製作を奨励した。この方針の民間への徹底を図るため、青年団、婦人会を積極的に組織化したのである。ここで注目すべき事は、これらの団体は反日運動の温床になるとして、それまでは極めて抑制的な対応をしていたものを、積極的に活用を図ろうとしたことである。これらの会合は正規の会議も重要であるが、会議の前後に交わされるインフォーマルな会話、交際が極めて重要であり、反日運動に対する自信がなければ実施できない政策である。」
・・・・この宇垣時代に始まった農業の生産性の向上、工業の急激な発展は、第3表に示すような急激な社会変革を起こしたのである。強盗件数の減少、就学率の向上は生活レベルの向上を窺わせ、、電力消費量の急激な上昇は、今日の韓国発展の原動力と言えよう。」
「この農村振興運動が始まる数年前から自力更正が叫ばれ、京畿道を中心に普通学校(小学校)の卒業者に対し課外指導が行われていた。親から田の一部を借りさせ、先生と共に耕作法の研究が行われていたのである。彼らの熱心な農業への取り組みは周辺農家の2倍以上の収量を得たのである。最初馬鹿にしていた親もその成果に次第に脱帽し、彼らは若き農村指導者に育ちつつあったのである。この卒業生指導は1927年京畿道に始まり、1935年には普通学校の6割で13千人の卒業生を対象として、一人3年から5年間に亘り実施されていた。
 この卒業生指導をより組織的に実施するため、1933年京畿道に農事訓練所を設置したのを皮切りに、1935年以降全道に農村青年訓練所・女子訓練所が設置された。この運用は各道に任せられたため、名称・実施要項等、多少道により異なる。多くは1ヶ月の短期コースと1年間の長期コースに分かれ、長期コースでは寄宿舎に入れ、合宿訓練した。
道によっては卒業生指導を受けた者を入所資格としている所もあり、これにより卒業生指導が止められたわけではない。ここで重視されたのは農業実習と共に精神指導であった。この精神指導について日本への隷属意識を植え付けるものであったと非難されている。しかし私はここで植え付けられた「為せば成る」「協同の精神」と言ったものがセマウル運動の成功に繋がったのではなかろうかと考えている。日本の戦後成長もこの精神なしには考えられない。
 1938年になると内地との交流が始まった。岩手県の青年道場に50人派遣したのを皮切りに、1944年6月までに女子約3百人を含む約3千人が、約1ヶ月内地の訓練所や農家に派遣され、内地の農業技術を実習した。この中には内地の人手不足をカバーする目的のものもあったが、農具の違い等を身を以て体験した事は、速効性はなかったとしても、必ず得るものがあったと確信する。」
第3表 朝鮮産業革命の成果

昭和2年 昭和7年 昭和12年 昭和17年
農業生産高 千万円 86 86 122  
工業生産高 千万円 31 35 87
1人当り国民所得 89.9 78.1 110.7
発電量 百万KWH 2,698 (4,860)
就学率  %  17.4 18.2 30.7 49.6
強盗件数 1771 1261 727 394

農業・工業生産高:1934-1936年平均価格表示
1人当たり国内支出 単位 円 以上溝口他『旧植民地経済統計』
発電量:昭和17年記載数値は昭和16年分  朝鮮総督府殖産局『電気事業要覧』
就学率:正規学校就学率  古川宣子論文より作成
強盗件数: 朝鮮総督府『統計年報』
以上は本体のホームページが無くなっていて、トップに行けないので誰の論文かわかりませんが、きちんとした引用論文の明示もあって確かな数字に基づくようです。
欧米の植民地支配を受けた多くの民族は、朝鮮人に限らず現状を受け入れるだけで古代から生きてきた大まかな傾向があります。
しかも植民地支配に都合がいいので欧米による劣等民族意識の刷り込みによって、さらに前向きの気力を喪失させられていたように見えますが、李氏朝鮮では、同一民族でありながら、ヤンパン支配貫徹のためにヤンパン以外は「人」扱いされない状態で約600年も支配して来たので心底劣等意識に追い込まれ・・やる気を無くしてきたように見えます。
シンガポールのリークアンユー氏が日経の「私の履歴書」に書いていましたが、「自分たち現地人は欧米人にはとても叶わない別のもの」・・犬が人間を見るような見方?・・であったが、日本軍の来てあっという間に英軍を蹴散らしたのを見て受けた衝撃が書かれています。
その意識変革を図り成功体験を持たせ、これがようやく身についてきた結果めざましく農村の収穫が上がり、工業生産にも適応できるような人材が育ち始めた時に敗戦になったことがわかります。
このように、日本統治によって初めて庶民が前向き・・集団で考える経験を与えられた・・李氏朝鮮も欧米植民地支配政策では反抗のタネになるとして厳しく規制していたのですが、日本はこの習慣の大事さを積極的に教えたのです・・。
日本では昔から、小集落ごとの「寄り合い」で何ごとも決めていくのが普通ですから・・歴史以来朝鮮人が初めてこれらの経験をしたので、韓国独立後自立に向けた国づくりにこの経験が大きな効果をもたらしたようです。 
父親のパク大統領は戦前の日本のやり方が良かったことを知っていたので、日韓交渉がなると、農村近代化のためのセマウール運動を展開するに際して宇垣総督の片腕として実務をしていた人を韓国に招いて指導してもらっているようです。
こうした自信を持たせる・・努力すればなんとかなるという教育経験のない点が、アメリカ支配下にあったフィリッピンとの違いのようです。
文字教育に戻しますと、日本統治期間が短かったのでこのような影響を受けた人材の層が少なかったことと、特に文字その他の文化を身につけたとしても多くの庶民にとってはまだメッキ程度だったので漢字教育廃止がきまると、多くがハゲ落ちてしまった印象です。
日本でも・・明治3〜40年代生まれでは、尋常高等小学校卒程度が普通でしたが、それでも日常生活でいろんな漢字が出回っている結果、自然にいろんな漢字を理解して朝日や日経等の日々の新聞を読み、帳簿をつけて社長や課長その他の法律用語・日本で明治以降に作った漢字も理解し、英語もある程度カタカナ表記である限りラジオやテレビが何であるかを理解して生きてきました。
この辺は私の親世代ですので伯父など身辺で実例を見て育ちました。
我々も社会に出てから見聞きして習得したものが圧倒的多数ですから、社会生活上受ける影響力の大きさが分かります。
7月29日経朝刊の文化欄「傍にいた人」の連載シリーズには、小説家の大正生まれの叔父が学校に行けなかったが自学自習で資本論まで読破していた話が出てきます。
日本では学校で教えるか外国の強制があるかどうかではなく、・・宇垣総督が教え込んだ自発的動機がどこまで韓国に根付いているかです。
学校で教えなくとも目の前で漢字が氾濫しているかどうかは重要です。

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