日本統治・義務教育化によるハングルの普及

ただし世宗がハングルを導入するためには「表音文字に過ぎない」と言い訳するしかなかったほど周辺支配層の反対が強かったことから分かるように・・・支配層は欧米の異民族支配と同じで既得権益死守のために・庶民のレベルアップを阻止するためにハングル普及を極力妨害して1900年ころまで成功してきたようです。
この結果、朝鮮ではハングル文字が「ある」というだけで、日常的利用に発展できていませんでした。
日常利用されていなかった結果・・・ハングル表記ルールさえ決まっていなかったのですが、文字利用のルールがないと混乱しますので、後記のとおり日本政府がハングル文字の教育を始めるにあたって1912年に日本政府が制定した「諺文綴字法」によります。
それまでは「いろは」のようなルールすらない状態でしたが、日韓併合後朝鮮人民レベル底上げのためには、日本同様の教育制度化を必要として学校制度の構築に力を注ぎましたが、文字を見たこともないような人を相手に漢文の授業では無理があるので、漢文読解力及び漢文での文字表現を庶民全部に求めるのは無理があることから、日本のような漢字仮名交じり文の発想・・朝鮮には古くからハングル文字があることに目をつけてこれを整理しルール化(諺文綴字法)してハングル教育を強力に推し進めたのでこれが庶民に普及するようになりました。
朝鮮民族の言語は古代からあるのですが、考えを文字表現できるようになるとならないのではその後の文化発展には大違いです。
思考の途中で文字化するとその先に思考が進みやすくなるだけはなく脳内概念での整理も進みますので、文字を持つ民族と持たない民族とでは人間とその他の動物との分化に匹敵する・・人類が言語会話能力を持ったことによって、その他動物との知能格差が生じたほどの格差が生まれます。
朝鮮で庶民向けハングル文字の教育システム化によって庶民に文字文化の普及が始まるとすぐに庶民向けの流行本・いわゆるタクチ本が発行されるようになった結果がこれを示しています。
日本では古代から庶民向けの絵草紙や歌舞伎,浮世絵〜落語その他多くの文化が発達したのは、庶民向け文字の発達によるところが大きかったと思われます。
西欧ルネッサンスの始まりとなるダンテの神曲は、ラテン語ではなく地方言語であるトスカナ語で書いたことが重視されるのはこの点にあり、・.これを中学生の時に習ったときに自国の文字文化に慣れ親しんでいた私はこの事自体・自民族の文字表現がなかったことに驚きました。
・・西欧は、以後ラテン語の呪縛から逃れて身近な言語文字を介して日常の事象を浅く広くあるいは深く思考するチャンスを得られることによってその後約4〜500年後に宗教への懐疑〜モンテスキューなどの思想家を生み、市民革命やイギリスの産業革命につながったことになります。
8月2日現在のウイキペデイアの記事からです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE
「李氏朝鮮は清国の従属下にあり漢字が重視される一方、ハングルは軽視され、公文書でも採用されることもなかったが、李朝末期(1886年)になって開化派と井上角五郎の協力により朝鮮で初のハングル使用の新聞・公文書(官報)である『漢城周報』(1886年創刊)が発行された[37]。また、一般人(特に女子)のための教育機関は皆無で、大多数の朝鮮人は読み書きができない状況だった[38][39]。
日本統治下になると学校教育における科目の一つとしてハングルと漢字の混用による朝鮮語が導入されたため、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた[40]。1911年に朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、朝鮮語は必修科目としてハングルが教えられることとなった[41]。朝鮮語の時間以外の教授言語としては日本語が使用された。総督府は1912年に、近代において初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用諺文綴字法を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理・統一のための新正書法である諺文綴字法を作成し、それを用いた。識字率の上昇によってハングルで書かれたタクチ本が1920年代から1930年代にかけて流行した[42]。
いわば庶民ほぼ100%の文盲状態脱皮は、日本政府によるハングル教育開始・強制によるものでした。
この成果で、以下に紹介するタクチ本の大ヒットでもわかるように、庶民の思考力や表現力が急速にレベルアップして行きました。
政治的方便としての公式意見としてはハングルはまさに発音記号でしかないのですが、ハングルが日常的に使われるようになれば、表音のみでは不便なのでなんらかの意味が入ってくるのは、自然のなり行きでしょう。
他方でハングルには同音でいくつもの意味を持つので間違いやすいとも言われている実態とも合います。
上記タクチ本とは、恋愛小説どのジャンルがあるようですから、相応の内面表現ができることになります。
タクチ本に関するhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%81%E6%9C%ACによれば、『洪吉童伝』『沈清伝』『春香伝』といった古典小説[1]のみならず、『長恨夢』などの新小説[1]、『金庾信実記』など歴史上の人物を扱った小説[1]、1923年に悲恋の果ての自殺(情死)事件 (ko:강명화 자살 사건) を起こして話題となった平壌の妓生・康明花(カン・ミョンファ)を題材にした小説[3]などがある。このほか、ジョーク集[1]や、さまざまな歌を載せた雑歌集[1]、『怪傑張作霖』(1929年初版)など同時代の人物を扱った評伝[1]も出版された。」
というのですから、結構高度複雑な内面の葛藤などを表現出来ることが分かります。
考えてみれば、源氏物語などの古典を我々多くは漢字仮名交じり文の印刷で読んでいますが、平安女流文学の数々の原典は(特に百人一首で知られる和歌など)平仮名で出来ているのではなかったでしょうか?
どの程度の漢字が混じっていたかについては、古代には今のように印刷技術がないので、写本を繰り返す都度、文意がわかり良いように漢字が増えて来る傾向があるらしく、元々「薫」大将などの人名や官名などは漢字中心だったとも言われますし、全部ひらかなだったのかすらちょっとネットで原典を探した程度では分かりません。
それまで漢字ばかりだったのが、せいぜい漢字仮名混じり文が正々堂と発表された程度だったのかもしれません。
枕草子をネット見ると原文とは書いてあるものの(「〇〇本」ということで文字どおり作者が書いた原本ではありません)漢字が結構使われています。
上記の通り情感表現程度は表音文字で何とかなるとしても、現在の各分野の専門用語・・術語になってくると簡潔な熟語が必須ですから、漢字放棄の不都合が顕在化するはずです。
ちなみにパソコン用の文字数で言えば以下のようです。
例えば我々の法律用語でいうと一々ひらかなで書いているとまどろっこしくていけません。
それならば、専門家同士でだけ分かれば良いじゃないかと思うでしょうが、・韓国ではこの考え方で庶民には必要がないという公式立場です・・消費者に対する説明が必要な時代です。
医師や弁護士が説明する場合、専門的用語またはその周辺言語を客がある程度理解している・・専門用語の説明をするには周辺用語の理解能力の高い人の方が説明の正確性が得られます。
感情的な結論の報道しかできません・これでは民主政治の本来の意義が実現できません。
MRIを撮る説明でもその仕組みをコマゴマと説明せずとも、レントゲンを知っていれば、それとの違い程度の説明だけですぐに患者が必要性・高度性を理解出来ます。
このように周辺専門言語理解があってこそ先端言語も理解し易いのです。

人権の序列(公共の福祉)

弁護士等の憲法遵守義務と時代に合わない憲法改正をした方がいいかどうかを論じることとは別ですが、不思議なことに護憲論者は改正反対の理由に憲法擁護義務を掲げるのが普通です。
左翼文化人が金科玉条のように重視する憲法においても、・・個々人の人権は全体利益の範囲内でしか認められないのが原理原則です。
以下に紹介するとおり、人権も「公共の福祉に反しない限り」認められているに過ぎません。
憲法
第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第十八条  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」
憲法では、全体利益を損なう・・犯罪を犯せば刑務所に入るなど人権の制約が許される仕組みです。
共同体が構築する秩序があってこそ、生命を含めた人権が守られるのは当然です。
文化人は騒音被害や肖像権、プライバシーなどを理由に新しい政策反対の道具にしていますが、強盗や傷害・殺人事件が頻発するようになると防犯カメラによる肖像権侵害とどちらが優先課題になるべきかを見れば、治安の確保があってこそいろんな人権が守られていることが分ります。
イラク・シリアの悲惨な現状を見れば、あらゆる(個々の人権も重要ではあるが)個々の人権保障に先立って、先ず共同体秩序維持を最優先すべきことは誰の目にも明らかでしょう。
治安をまとめて破壊されるのが外敵による侵略・異民族支配で、個々人で言えば、強盗が押し入って民家を長期間支配しているような関係です。
治安を乱すものは刑務所に入れられる・・生命・身体の自由さえ奪われるのが憲法の基本ですから基本的人権にも序列があることが分ります。
そして、治安=国家の安全・・秩序を守ることが他の人権よりも最優先課題であることが、上記憲法の記載から分ります。
上記によれば人権侵害だと言う以前にその制度がなくても治安・高次の人権を守れるかの議論が先にあって、それが確保された上でプライバシー、肖像権などの人権を言うべきことになります。
卑近な例で言えば、「信号機で通行規制されるのは通行の自由を侵害する」と言う以前に信号機がなくとも交差点での事故防止出来るか、車のような高速交通手段が有効利用できるかの議論が先にあるべきです。
集団自衛権がない、あるいは特定秘密保護法がないと侵略されるリスクが高まるかに付いては議論の余地があり得ますが、集団自衛権反対論者がこの種の合理的な議論しているのを聞いたことがありません。
スパイ防止法がなくとも国家利益を守れるのかに付いても同じです。
どのようにして国家を守れるかの議論を一切しないで、国家の安全があってこそ守られる個人のプライバシイなどの人権ばかり言うのでは、合理的な議論の仕方とは思えません。
目の前にニッポン侵略意図を明らかにしている中国が存在する現在、ニッポンが滅びても現憲法を守る可シと言う人が憲法学者であり人権活動家の資格があるとは思えません。
ましてニッポンを半永久的支配下に置こうとして占領軍が押し付けた憲法であればなおさらです。
国家社会が破壊されて異民族の隷属下に入ろうとも武装禁止の憲法を守るべき(アメリカ占領でニッポンの明治憲法が無効にしたように)中国支配下で、現憲法がそのまま維持されるのか、言論の自由があるのでしょうか?
中国は香港返還時に1国2制度を公約しておきながら、今ではなし崩しに政府批判者を拘束しています。
まして武力占領されたニッポンの法制度がそのままと言うのは想定し難いことです。
旧ソ連や中国の環境破壊や人権侵害・核実験や原子力発電には一切の批判をして来なかったマスコミや文化人憲法学者は、中国支配下に入るならば、人権を問題にしないと言う意思表示でしょうか?
それはそれで一貫しています。
上記のとおりに、人権と言っても公共の福祉に反しない限度であるべきですが、何故かマスコミや文化人?は個人主義の悪い面を強調して全体に及ぶ悪影響を無視して権利権利と強調し過ぎる傾向があります。
マスコミの誘導のとおり、極端主張し行動しているのが、韓国の現代自動車労組に代表される労働運動です。
ユダヤの陰謀論が盛んですが、ユダヤが何重にも本音を隠して世界戦略をしかけているのに韓国がその手先としてこれを下手に実践するので、却ってアメリカやユダヤの本音が透けて見える・・日本にとって便利な存在です。
社会混乱を招く目的集団?人権屋グループが、米軍やその支配下にあるマスコミの応援を受けて大きな顔をして来たのですが、マスコミがいくら煽っても縄文の昔から共同体を大切にして来たDNAを変えるところまで浸透出来ませんでした。
さすがに戦後70年も経過すると逆に???と言う人が増えて来ました。
何やかやと言っても、「共同体があってこその自分があるのじゃないか」と言う人が発言出来る時代が来たのです。

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