アメリカ式移民モデルの破綻3(朝鮮人学校2)

言葉の通じない国へ移住した場合行く先々で何か寄る辺が欲しくなるのは当然です。
たとえばアラブ系の場合、モスクが出来ると危険な印象を持つ人が多いでしょうが、バラバラに放っておいて孤立させて犯罪・テロ組織に入って行くのを放置するよりは、ある程度自分達で教育してくれて如何に日本社会と仲良くやるかの自主的教育をしてくれる組織があった方が合理的です。
それでも100人に一人はグル−プから離れて過激思想にかぶれる人が出るとしても、こう言う組織がなく、移民2世の半分がドロップアウトする人が出るよりは有り難いことです。
自主組織が必要と言う私の意見は、テロかぶれを減らすために必要と言うだけであって、組織さえあれば根絶できるとは思っていません・・。
こう言う基本意見ですから移民を入れることは、朝鮮人どころか2世以降になると社会の安定に極めて危険と言う逆意見で書いています。
朝鮮人学校など民族別組織の存在は、反日の温床にもなれば、その逆に日本社会からのドロップアウト率を下げる効果があり、しかもかなり効率よく(全小中学校にイラン語やフィリッピン語の教師を配置して相談に乗るよりは)成功していると思っていますので、この存在自体を批判するのは間違いであるように思っているだけです。
先の大戦中に朝鮮人の多くは良き皇国臣民として日本人と一緒に戦ったことも良く知られています。
大戦中に反日活動していたと言う記録を知りません。
外国人系としては、日本人と親和するのに成功している民族と言うか、日本人も彼らをうまく包摂して来たと思います。
ここで彼らを根拠なく誹謗中傷して、反日に追い込むのは安全第一の日本社会のために得策ではありません。
現在の嫌韓感情は韓国政府の行為によって触発された在日に対する悪感情に飛び火して敗戦直後の乱暴狼藉が言われますが,日本人の戦前の行為(仮にあったしても)を戦後70年も日本が謝り続ける必要があるか!と言う議論同様に、少なくとも現在の在日の具体的悪行によるものではありません。
在日組織(民団や朝鮮人学校)が反日を煽っているかどうかについて考えると、彼らはもはや韓国へ帰るメリットが皆無ですから、日本社会と対立して何の得もない立場です。
出来るだけ日本人に嫌われないように「こう言う点に気を付けましょう」と日本人より日本人らしく生きるための教養を教える立場であって、朝鮮人学校で積極的に反日を煽っているとは到底思えません。
7月1日にバングラデシュで日本人のテロ被害が起きると、バングラデシュ人が非常に恐縮しているし、異郷に住むものは自分たちに悪感情をもたれないかとその国に対してもの凄く気を使っているのが伝わってきます。
在日も大地震があると民団が率先して支援に動くなど積極的に日本社会への貢献をアッピールすべきでしょうが、日本社会が困っているとき何もしない・拉致事件の手先だったのではないかと言う疑いをもたれているのに、釈明あるいは潔く謝ってしまう度胸がないので黙殺・・開き直り行為が日本人に嫌われているのです。
昨日書いた在日の犯罪率に戻りますと、同じ日本人の犯罪率でも大手企業従業員や公務員になっている人と日雇い人夫や現場系・・風俗系従業員とでは大きな違いがあるように、在日全部と日本人全部とで見れば在日の方が犯罪率が仮に高いとしても大手企業等従事率が極端に低い点を無視出来ません・・。
正確に見るには、職業別あるいは所得階層別犯罪率の高さで比較しないと日本人あるいはフィリッピン,タイ人と比べて在日の犯罪率が有意に高いかどうかは分りません。
慰安婦騒動以来在日に対する批判論が高くなっていますが、韓国政府の反日教育や政治活動に対する不満があってもそれは国際交渉で解決すべきことであって、「居候的立場」の弱い人を苛めているような疑いをもたれるようなことをするのは恥ずかしいし、大人の取るべき態度ではありません。
韓国ともめ事のないときに在日特権の有無・あるとしたらその合理性について、冷静に議論しておくべき純粋国内問題であるべきです。
朝鮮人学校問題も煽られると感情的になり易いでしょうが、上記のように民族別受け皿があってそこで日本社会同化教育をしてくれることは結果的に不良化防止・・日本の公益に役立っているように思います。
日本人がフランスやその他の国に赴任した場合、そこでの生活習慣の勉強会を日本人社会でやってくれれば、助かる筈です。
外国人を砂粒のようにシャッフルしないで、フィリッピン、イラン、パキスタン人会等がある程度まとめて教育してくれた方が効率がいいので、そこにある程度の援助・・土地を貸すのはトクケンとは言えません。
100%税投入・・公立小学校よりも安く済みます。
話題が飛びましたが、ここで言いたいことは在日の応援ではなく、移民は何世代にわたって適応上の不利があって、(在日に限らずフィッリッピン人でもタイ人でも風俗系や現場労働で入って来た場合、数世代にわたって大手企業に就職するための高学歴化するのは困難・・高学歴化しても大手企業は朝鮮人など外国人を簡単に雇用しないのではないでしょうか?)長期にその社会のお荷物になる傾向が高いと言うことです。
お荷物に対するフォロ−は無理がある・コストがかかり過ぎるので手が回らない・・イキオイ過激思想によるテロの温床になり兼ねません・・その例がフランス社会でしょう。
アメリカのように多様な移民が入り乱れている場合、相互理解困難のマイナス・・きめ細かな洞察が出来ず粗雑な文化?が育つでしょうが、数世紀にわたって社会負担がづづくと思われます。
ローマの衰退原因として民族大移動や傭兵に頼ったことなどを学校で習いますが、ゴート族の移動は単なる自然現象ではなく、その前提として日常的に移民に頼る生活・・ローマ市民が自ら手を汚さない安逸な生活で、民族の基礎力が蝕まれていたことが前提です。

アメリカ式移民モデルの破綻2(朝鮮人学校1)

比喩的に言えば、フィリッピン人100人が100の小学校に散らばっていて各地の先生が個人的に困っているよりは、まとめてフィッリッピン学校をフィリッピン人に作ってもらって、(政府が一定の補助金を出してでも)そこである程度アイデンティを保ちながら日本社会と同化して行くための教育をする・・中間的教育機関を作って行く方が合理的です。
この意味では、朝鮮人学校の存在は(内部で反日教育しているとすれば問題がありますが存在自体は)日本社会のために良い効果を発揮していることになります。
これを民族意識強調のために機関と見られるようになったのは、朝鮮人被害者論を強調して来たマスコミの偏った報道姿勢による被害と言えるかも知れません。
マスコミが一方的報道を繰り返すので、沖縄県民が皆偏っているのか?と誤解されつつあるのと似ています。
朝鮮人も皇国臣民として一緒に戦ったように、沖縄人も強制されて仕方なしに戦ったのではなく、日本人として命がけで沖縄戦を戦ったのです。
この点を強調して如何に勇敢に戦ったか・・その評価をして欲しいと言うならば分りますが・・・。
異民族として自決を強制されたかのようにアメリカ軍によって戦後教育がされて来たことに沖縄人が安易に乗っているのが事態を複雑化しています。
マスコミは占領時から今まで、ずっとアメリカに支配されたままですので、これを強調して来たのは当然としても、沖縄人がニッポン民族の誇りを棄てて、アメリが主導していた異民族説についた人が多いように見えるのが不思議です。
独立容認論は別としても甘やかすから図に乗っている・・むしろ締め上げた方が良いんじゃないかと言う意見も当然出て来ます。
今になると日本がそんなにイヤならば独立したら?と言う意見が、ちらほら出ている状態ですが、いわゆる嫌韓感情・・日韓断交までは行き過ぎとしても出来るだけ関与しない・応援したくないと言う意見が主流化しているのと対沖縄でも似た状態になりつつあります。
少なくとも沖縄専任の大臣など廃止した方が良いでしょう。
慰安婦・徴用工の問題は日本人として貢献していた点は同じですから貢献した点をきちんと評価して欲しい、日本人同様に平等に原爆被害も補償すべきと言うならば正攻法ですが、これを反日材料とするから嫌韓感情を煽る結果になります。
ただ、偏ったマスコミの暴走に呼応するか呼応しないか・・帝国臣民としての要求をするかの知恵を利用した方が良いかを決めるのは、マスコミの責任ではなく、沖縄県民や民族レベル次第ですからある程度自己責任の範疇です。
遠い昔にメキシコやトルコが遭難時に日本に助けられたと言って、近寄って来るのと日本に酷い目にあったと言って言いがかりをつけて近寄って来るのとどちらが良いかの判断です。
朝鮮人組織による反日の声を期待しているマスコミにマトモに応えていると、その国でい辛くなるのが普通ですから、煽られてニッポン民族の悪口を言わないように自制教育するのが普通です。
民族衣装を着て何が悪いと開き直ったり、日本政府批判の声をマスコミにのせられてしまう自衛力の弱さは彼らの自身の能力の低さを表しています。
京都在特会事件はやり過ぎだった点を捉えて法的パンチを繰り出して勝ったつもりでしょうが、却って大規模世論喚起になってしまいました・目先しか分らない・高度な政治判断出来ない弱みです。
マスコミは朝鮮人が如何に虐げられて来たかと戦後70年間宣伝して来やことが朝鮮人の居場所を狭めているのですが、贔屓の引き倒しと言うか朝鮮人や沖縄人を煽って、お際の独立運動を煽る・・本気で朝鮮人を日本にいられなくして追い出そうとしているのかよく分りません。
いわゆるシバキ隊が結成され,在特会関係の街宣に必ず朝鮮人らしい厳ついお兄さんが駆けつけるのがユーチューブで流されていますが、イカツく強迫することが逆効果になることに気が付かないようです。
日本人でも田舎から都会に出る人が多かった時代には◯◯県人会と言う親睦組織があって見知らぬ都会での情報交換に努めホームシックを癒したように、外の世界から移住した人のために親睦組織がある方がその社会の安定に役立ちます。
20年ほど前に女川に2泊旅行したときにホテルの送迎バスに乗ると同乗したグループは東京から仙台転勤族の奥様の親睦会のグループでした。
国内でさえも、地方に転勤したか家族にとっては地元情報交換や精神安定のための一種の県民会組織のようなものが必要なことが分ります。
世界に展開している企業戦士も各地で日本人会を組織してそのバックアップを受けていいます。

アメリカ式移民モデルの破綻1(ユダヤ排斥と在日非難の共通項)

欧米が依存して来た移民さえ入れれば何でも解決出来るかの今回のテーマに戻します。
もともと輸入とは果物であれ何であれ、自国製品よりも(同じ品質でも季節的に日本で出来ない冬に出来る果物とか)優れている(信長が黒人を珍しがったように珍奇性も競争力があります)・・競争力があるから輸入するものです。
ところが、移民労働者は・・多くは本国の社会レベルが後進社会であることが普通ですから、例えば介護や子育てでも出身国の方が日本の水準より良い筈がありません。
高齢化は先に日本の方が進んでいて経験豊富ですし・利用するべき高齢者にとってもフィリッピン人の方が日本人よりも意思疎通し易いとは到底思えません。
製造工場でも出身国の工場の方が進んでいる場合にその技術を日本に教えに来るのならわかりますが、遅れた国から日本に来ても受入れた日本では教えなければ使い物にならないので重荷になるだけです。
中学高校で言えば優秀な生徒が転入して来れば良い影響を与えますが、授業について行けない子や不良が入って来れば、廻りが悪影響を受けレベルが下がるだけです。
不良が身近にいて勉強になった・・いろんな人がいて良かったと言う意見(決まり文句ですが・・)も言えますが、ここでは大方の生徒や先生(独りでも授業について行けない生徒あるいは不良がいると先生の負担が増します)が受けるマイナス影響を書いてます。
移民労働者は、言語意思疎通もママならないのが普通で、しかも別世界から来るので、移民先の慣習や仕事の手順すら分らない・・全ての分野で未熟練労働者ですから、移民を入れれば目先の総労働力が増えますが平均レベルが下がってしまいます。
しかもその企業・・例えば居酒屋やラーメン屋で言えば、皿洗いなど安く使えて少しは得するでしょうが・・企業外の社会の負担・・2世になると教育負担、不良対策負担など半端ではありません。
アメリカで言えば、移民を入れて労働生産性が下がっているのに、平均生活水準を保つには荒稼ぎの人・巨額収入者のおこぼれ分配にすがるしかありません。
彼らの多くが底辺労働に入るのが一般的です・・底辺労働中心の移民の場合非課税所帯・・社会保障負担や税負担がほとんどない・・高齢化すると蓄積がないので生活保護所帯に転落するのが普通で、次世代も秀才になるよりはお荷物になる率が高いから、受益以上の税負担するよりは受益の方が多くなる・・社会保障負担が増えることになります。
在日は移民と言っても既に2〜3世に入っていますが、今でも大手に就職出来ないので逆強の中で有能な人・・孫正義その他パチンコその他でタマに成功すると目立つものの、99%の庶民は末端現場労働で人生を終わっているのでないかと想定されます。
この辺は欧米で根強いユダヤ人批判・特定少数の成功者が目立つものの実は成功していない一般庶民の方が圧倒的に多い筈ですが、彼らに対するお荷物扱い・・犯罪者が多い・・テロ予備軍だとかの不満・・自分たちに分配されるべき福祉予算が彼らに食われている不満と目立つ成功者・・金融関係者の高額報酬へのやっかみの矛盾した不満を受けているのと同根です。
これはイギリス・欧州その他世界中での移民排斥論の基礎・心理状態でしょう。
在日の生活保護受給率が高い点を批判する意見が最近見られますが、不正受給が多いとは限らない・・社会保障の充実した大企業への就職困難→数人規模の零細事業・・飲食店等にやっと就職出来て働いて来た場合、まじめに年金を払って来た人でも国民年金だけでは老後苦しい・・生活水準が基本的に低い点に問題がある可能性があります。
生活保護受給率は生活水準に左右されることを無視して、人種別在日の受給率だけを取り出して(在日が不正をしている率が高いかどうかの検証なしに)あたかも不正が横行しているかのような在日批判をするのは論理飛躍があります。
他の移民に比べて在日の受給率が高い点が強調されていますが、フィリッピン,タイ、ベトナム、イラン系などは、今のところ移民1世代目で働き盛り中心で高齢化していないし、次世代が子供〜青年期なので(暴力団幹部の年齢になっていない)犯罪率も生活保護需給率も高くないのはまだ表面化するだけの期間が経過していないことによる可能性があります。
他民族に比べての犯罪率・需給率を主張するならば同世代での受給率や犯罪率と比べないと合理的主張とは言えません。
既に、我々実務界では、小中学校で問題児化が顕著になっている(クラスに一人言葉の通じないイランやフリッピン系人がいると先生の苦労は察するにあまりあります・・日本社会に負の負担がのしかかっています)ほか、18〜20代に達している世代では非行?化率も上がり問題になり始めています。
むしろ朝鮮人のようにこれを包み込む組織(民団や朝鮮人学校)がないことから、バラバラと個人的に入って来たその他の移民の子供は日本語もフィリッピン語もままならないまま日本社会に放り出されています。
母親は夕方から風俗に働きに行き朝方帰ってくるとすぐに寝入ってしまうので、子供と顔を合わせる暇もない・・学校へ行く準備すらまともにしてやれない・・勉強の面倒を見られない(・・元々日本語の教科書をオヤも読めないでしょう)小中学校に行ってもなんにも分らないまま大きくなって行く状態です。
こんな状態でも小学生の場合不良になる基礎能力がありませんが、中高校生になって来ると家に帰っても慰めてくれる母親がいない状態では自然に不良交友が始まってしまいます。
18〜9歳の犯罪事件の家事審判では、母親が(朝起きられないから寝ていると言う理由で)来ないまま手続が始まってしまう・・(どうしたのと?と電話すると寝ぼけ声では母親で電話に出る状態)日本人社会では想像もつかない状態が進行しています。
この辺は一定数の在日系社会が形成されて受け皿が整っている朝鮮系の方が底辺層の数が多いにしては、不良加率は低い・・うまく日本社会に融和しているように見えます。

社会保障とその限界2

介護サービス分野の労動力不足問題は移民導入で解決する問題ではなく、これを提供する側のコストを利用者が負担出来ない・・税で負担しようとするところに無理があります。
給与4〜50万も払えば求職者が殺到するでしょうから、人口不足ではなく給与水準の低さにあることが明らかです。
移民導入論は、移民の労働条件は日本人よりも低くて良いという思想を前提にしないと成り立ちません。
この思想は移民が他産業へじわじわと浸透して行くのを期待して最低賃金水準を結果的に引き下げて行きたい思惑が背後にあると思われます。
この効果が出ているのが欧米であり、今や中国に負けないほど賃金水準が下がったと豪語している状況ですが、これがイギリスやアメリカ国民の不満爆発に繋がっているのです。
日本をそう言う社会にして良いかの議論が必要です。
有料老人ホームの待機問題が起きないように、保育所や介護費用も利用者が必要なコストを払うならば民間参入が進むし税負担がいりませんので、国会で議論する必要すらありません。
高齢者介護は医療同様に家庭内で見るのが無理なのでこれを社会化・・サービス産業化して行くのは必要ですが、補助比率を徐々に下げて行き民間参入を増やして公的比率を減らして行く工夫が必要です。
明治維新当時を振り返れば分りますが、国営製鐵や国営鉄道その他揺籃期には、税で後押しする必要がありますが、いつまでも公営であり続けるべきかは別問題です。
千葉の例で言えば、モータリゼーションが始まったばかりの昭和40年前半頃に繁華街での路上駐車対策で?始まった公営駐車場がまだ残っていて、5〜6年前からこんな施設を税で運営している事自体おかしいと思っていたら遂に、今年から一部廃止することになったようです。
今では100円パーキングがあちこちにあって、税負担でインフラとして用意する必要性がなくなっているからです。
美術館・・公営会館などは一見ペイしないので、税が必要と言う意見が多いでしょうが、東京になると民間美術館が一杯あるので、民間と競争するために税を投入する必要があるの?と言う想定外の視点が必要でしょう。
公民館やスポーツ施設などもフィットネスクラブや民間のいろんな組織・貸しホールが発達して来るとコミュニテイーセンターなどの役割に疑問が出て来ます。
ビジネス街の公民館の利用を見ると民間より数十円安いから利用する人が中心になって来ると何のために巨額の税投入で維持しているかの疑問が出て来ます。
まだ結婚式が個人宅で行われることが多かった昭和30年代始め頃に大田区のどのあたりだったか忘れましたが、(奥沢か雪谷だったかなあ?)をクルマで通りかかったときの光景を今で思い出しますが、・・新装なった公民館で結婚式をやっていましたが、それが当時の新生活運動だったのです。
屋敷を持たないアパート住まいの労働者も一人前に結婚式をやれる時代到来の象徴でした・・いま公民館で結婚式や葬儀をやっている人は滅多にいないでしょう・・役割が終わったのです。
学校制度も公営は民間が育つまでの過渡的制度であるべきで、最後は民間の授業料を払えない階層のための社会保障としての公立小中高校・国公立大学制度に絞れば税負担が大幅に減りますし、自由な競争に曝した方が、教育レベルがあがると思われます。
明治維新時の織物工場や製鐵や鉄道・今のロケット技術等先端分や制度創設当初には補助金・・公営が必要かも知れませんが、創設時に民営化するまでの工程表を策定しておく発想・・民営化して行く前提がどんな分野でも必要です。 
明治維新の官営工場がいつまでも官営のママであれば、日本の近代国家への離陸発展がなかったでしょう。
保育所や介護関係は、業界の自立が見込めない・・いつまでもコストの大部分を政府が出し続けなければならない点に無理があります。
必要なコスト負担しない・・この差を埋めるために国家支出・・みんなの善意?を求められているのが今の保育所増設や介護士増員や特養増設要求であって、払えないコスト分は国家支出に頼る以上国策の優先順(宇宙飛行士の給与、大学教授の給与〜公務員の給与・・・道路や文化予算等々)で総枠が決まって行くしかありません。
利用者がコスト負担する場合・・放っておいても需要がある限り供給されるでしょうが、税でコスト負担する場合には需要がある限り供給すべしと言う理屈にはなりません。
介護や哺育関連従事者の賃金も税で供給されているから市場価格と乖離する・・人が集まらなくなるのは仕方がないことです。
自分の収入に匹敵する費用を払っても良いと言う国民合意があってこそ、賃金の市場価格が成立します。
介護士や保育士は平均賃金で良いがコストの5分の4を政府が負担すべき(保育所の敷地購入負担・建物建設や管理その他運営費用がかかるので、介護士や保育士の給与だけでは運営出来ません)と言う現在の要求では、いつかは国家予算が持たなくなります。

社会保障とその限界1

コスト負担したくない国民のために、需要全部賄えるように補助金を無制限に増やせば良いのでしょうか?
その負担が国家予算に占める比率が微々たる場合・・大川や海に捨てるゴミが少しのときには気になりませんが大規模になると公害になったように、負担額が国家予算の半分を超えて来ると可哀相だけの基準では済まなくなってきます。
個別分野の積み上げではなく、個人負担の分野をどこまで政府が面倒見るべきかの総予算に対する比率・・総枠に関する議論が必要です。
そう言う意識的な議論がないまでも事実上予算総枠の縛りが起きて需要・要望を満たせないのは仕方のないことです。
予算の制約上需要に応じた施設全部作れない・・需要の10分の1〜2しか作れないと待機が生じるのは当然ですし、待機比率が高いときには、理想的設備ではなくともある程度レベル落としても数を多くした方が良いかも政策判断の範囲です。
市場原理に基づく代金を払う有料ホームの場合、必然的に設備やサービス内容が高度化するし、これに比例して従事者のレベルアップが要求される→給与アップするので、人手不足になりません。
量を供給するためにレベルを落とせば、介護関係者の待遇が下がる→応募者が減って不足する関係です。
予算上総枠としていろんな要求に対する優先順位がいるように人材配分としての優先順位も必要です。
介護士の給与を大学教授や宇宙飛行士よりも高くすればドット集まるでしょうが、上記は極端な例としても、現実世界には微妙な待遇差で無数の職種が存在していて市場原理で微妙に決まっているのですが、計画経済的にどの職種より介護士や保育士が時給10円高くても良いかなど決めて行くのは無理があります。
利用者がコストを負担出来ない以上市場原理で決められないのは仕方がないことですが、中央が決めた点数で決める制度設計である限り人材供給がスムースに行かないのは仕方のないことです。
ソ連は経済原理無視の結果遂に崩壊しましたが・・中国の経済原理に反した国家介入の限界が来ていて近日中に大破綻するだろうと意見が普通ですが、「お金に色がない」といいますが、赤字の原因が社会保障分野ならば経済原理に反した支出しても構わない・・永続出来るものではありません。
使い道が何で(高邁な理想に基づくからと言って)あれ、収入以上の支払が永続することはありません。
日本でも国鉄の赤字拡大その他幾多の事例を見れば、市場原理を無視した国家運営にはいつかは無理が出ることが明らかです。
日本の財政赤字の元凶は歯止めのない社会保障負担拡大ですが、社会保障は赤字に決まっているからコストを無視しても良いという発想に安住しているといつか国家=民族が破綻してしまいます。
生活保護で以前書いたことがありますが、増額しろ、可哀相だと言う感情論の合唱ばかりではなく平均的生活水準の何割まで保障するかと言う国民合意が先決・必要です。
この議論がなくて生活保護基準を上げて行くばかりで最低賃金よりも高くなって来たら今度は最低賃金の方が低いのはおかしいと言う主張ですが、お互い引き上げ競争ばかりしていると国際競争が成り立ちません。
生活保護・社会保障は実働している国家総収入の限界があり、実働者の賃金は国際競争可能な範囲に決まっている・・一時的に引き上げても中期的に輸出産業がやって行けなくなり,輸入が増えて失業が増えます・・のを無視した議論です。
日本に限らずアメリカでも世界中の民主党系政党の主張は「社会保障は手厚い方が良いに決まっている」と言う姿勢・・総枠無視ですが、これではいくら消費税を上げても歯止めのないことになります。
最近奨学金の返還義務をなくせと言う主張が多くなっていますが、これは前途有為の人材が教育を受けられない弊害除去・・救済を予定せずに「授業についていけない子供でも」人並みに進学出来ないと「可哀想」と言う発想によっていることが分かります。
(育英資金・・普通の能力のある子供=普通に就職出来る子の場合、普通払って行ける返済額ですが・・免除原則にしろと言うことは、払えない前提→授業について行けない子にも奨学金を要求ししかも返済免除しろと言うの?)
学校に行くのをいやがっている子供をせめて高校・大学くらいは・・と言うオヤの願望・・自分のお金を出すのは勝手ですが、税で負担する必要があるかは別の議論であるべきです。
可哀想論になって来ると返済能力のない人に貸す・・「借りたら返す」と言う経済、道徳原理無視の主張になり易く、結果的に対価を負担しないことがあたかも当然の権利…いろんな分野でコスト負担忌避の風潮を煽るようになると税収をいくら上げても追い付きません。
コスト負担しない人が増える一方になるとまじめに働いて税を納める人の意欲を殺ぐマイナス・・(まじめに税を納める気持ちが失せる・・海外資金逃避増加)モラルハザードを誘発します。
商人が代金を払う客の望むものを売るのが結果的に正しい・・お金を出す人の意見が重要です。
お金を出さない評論家がこの商品が良いと言っても、飽くまで予測でしかなく実際の売れるかを決めるのは顧客です。
税の使い道を決めるのは原則として納税者の意見によるべきであって、・・納税者も人権・環境その他いろんな正論に耳を傾けるべきですが、これをどの程度重視するかを最後に決めるのはお金を出す人の意見であるべきです。
コスト負担しない・・お金を出さない人の意見が幅を利かして・・納税者の意見を無視し過ぎるのは邪道です。
財政赤字の問題点は消費税率の問題ではなく、社会保障負担・・個人が負担すべき対価をどこまで社会が負担すべきかの総枠設定こそが重要です。
この議論抜きで際限なく補助を増やして行くべきと言う意見・・「保育所落ちた日本死ね!と言う民進党のアッピールは、保育所予算と他予算とのバランス調整の必要性を無視した無責任政党の極み・・違和感を感じた人が多いのではないでしょうか?

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