地方自治制度の悪用2(国家意思の不貫徹)

昨日与那国島の例を紹介しました。
自治制の弊害を最大限悪用しているように見えますが、この悪用のために今でもいわゆるプロ市民(もしかして日本人だけではないのか?)が沖縄に住民票を移して基地反対運動に励んでいると言われています。
憲法の勉強をしていると地方自治の重要性の記述が多いのですが、どの論文にも民主制の基礎と言うばかりで何故重要かの具体的説明がありません。
日本が将来国力回復しても一枚岩で行動出来ないための妨害装置としての遺産・・アメリカの重要な置き土産だから非武装主義同様に論理的議論を許さない・・宗教のようにあがめるしかないと言うことでしょうか?
全国に波及する基準は全国統一の方が良い・自治体ごとに自主性がある・・基準が違う必要がないばかりか自治体ごとに基準が違うのでは有害です。
TPPの基本は加盟国では1つのルールにしましょうと言う精神の国際版です。
全国統一基準必要な分野で地方自主性があると却って混乱します。
電化製品やクルマの部品が地方ごとに違う基準では、全国的サプライチェーンでの製造が出来ません。
客観的な物品規格統一だけではなく、人間交流や物流の発展によって、国内では価値観均一化も進んでいます。
私の高校時代には、あちこち一人で旅行すると地域ごとに違う家の形や風景の違いを見るのが楽しみでしたが、今ではどこへ行っても似たような家の建て方ばかり・着ているものも職業生活も食べ物(千葉で九州の野菜など普通に食べているように)まで皆同じです。
ホテルも全国似たようななサービスがあり事前予測可能・もしもホテルごとに歯ブラシやタオル持参などの必要性が違うと準備するのに困ります。
こう言う時代になると自治体行政は身近な(全国共通基準が望ましいが経済力に応じた)サービスをやれば良いのであって,国家戦略的分野について特定地域だけが特別な権利を持つ理由がありません。
ヤマ1つ越えると何もかも言葉まで違う・・いろんな生活習慣の違う時代に出来上がった自治体ごとの基準の違い・・・「これを尊重しましょう」と言う価値観を今でも強調するのは何百年も使っていない死法をイキナリ持ち出して処罰するようなものです。
アメリカは今、沖縄基地反対運動に困っていますが、元はと言えば将来日本が国力回復したときに統一国家としての行動が出来ないように、妨害するために無茶な自治制度を作っておいたことが自分に跳ね返ってきたのです。
中国の反米・反基地闘争に利用されて基地利用に困っているのは、アメリカが遺産として残した平和憲法に縛られて日本に軍事協力させる足かせになっているのと同じ構図です。
大きな河川や海岸は本来国家管理が原則ですが、埋め立て等の現状変更には、地元漁民等の利害があるので、これに精通している自治体の許認可にかからしめている程度のことであって、(道路交通法規は全戸国一律ですが、追い越し禁止や徐行区域などの設定はカーブその他の状況を良く知っている地方に任せた方が良いと言うだけのことです)その決定基準自体が国家基準と違って良いと言うものではありません。
現憲法家では、何かちょっとした国家的政策を実現しようとするとほぼ100%地元同意が必要ですが、こんな無茶な制度を持っている「統一国家」があるでしょうか?
自国が侵略されて国民が虐殺されても抵抗する権利・・自営する権利もない憲法って、国民主権原理からして無効じゃないかと書いてきましたが、現行の地方自治制度・・地方の同意がないと国家が出来ないシステム自体が、国家権力そのものの否定・・日本を1つの統一体として認めない意味での国家権力の否定です。
昨日与那国島の住民同意の例や裁判例を紹介しましたが、国境に所在する軍事基地が戦闘の危険が迫ると撤去を求められる・・存在してはいけないかのような裁判所の判断が普通に出て来るのをみれば、国家のあり方に対する思考までも狂ってしまっているとしか良いようがありません。
統一体・・クルマで言えば、バンパーがあって本体の安全性を高めますが、ぶつかる危険を引き受けるばかりでは不公平だ、そんな部品をなくせと言うのは矛盾です。
国境地域だけが防衛負担するのはイヤだとい出して、国境から100kmまで守備隊下げておくと、その防御地点が最初の被攻撃地点になるのでその周辺が不満を言い、200k地点に下げると今度は200k地点が最初に攻撃されるのは不公平と言い出します。
これを繰り返して行くと最後は首都で最初に引き受けろとなりますが、そうなると首都住民外の国民を見捨てるしかなくなります。
辺境の地が国家全体のために防衛を引き受ける義務がないと言えるのだったら、国家防衛は成り立ちません。
アメリカが占領支配下の日本民族に対して自前の軍隊保持を禁じただけではなく、国家意思よりも地方の意思・・決定が結果的に優先するシステムを憲法に組み込んだのはは、仮に将来再軍備したとしても国家防衛のための基地を政府が思うように作れないシステムを残して行ったことが分ります。
国土内に国家意思の貫徹出来ない場所を憲法で設置した結果、日本列島を都道府県数だけの小国に分解することを米軍が強制したことになります。
まして我が国は異民族が連合して作った国家ではありません。
連邦性国家でも(ロシアやアメリカで)国家防衛のための軍事基地の設置に地元市町村の同意が要るとは考えられません。
護憲論者は現実無視・空理空論の集まりと言われるのは、独立国家としてありえない制度を議論抜きにして憲法を守れと後生大事にするところにあります。
国家意思が貫徹出来ない制度は統一国家として自己矛盾ですから、戦後日本は法的には分裂状態に置かれて来たことになります。
自治体の無茶な主張を引き出そうとする勢力は、この法的分裂状態を強化し保持しようとする勢力です。
法制度論は別としても、上記のとおり地域独自性がなくなって行く一方なのにこれを強調するのは無理がある実態を無視出来ないからか、翁長知事はこの無理(全国利害のテーマを地元の同意にかからしめる主張)を通すために「沖縄の人は日本の先住民族?少数民族なのに民族自決権が侵害されている」と言う趣旨の翁長知事の国連やアメリカでの演説になって来るのでしょう。
日本全体の支持を受けるための政治活動をするのが本来国内政治家の仕事ですが、海外発信に努力するのは、いわゆる文化人同様に国内支持の足りない分を国連などの介入・・例の国連報告書や対日勧告を取り付けるための行動でしょうか?
翁長氏が国連で演説してもアメリカ軍基地妨害目的が見え見えですので慰安婦問題のようにアメリカが応援する筈がないですから、翁長知事としては、中国の支持だけでもうけた方が良いと言う立場に切り替えたのでしょうか?
日本から沖縄切り離しを狙っている・・と言うよりは尖閣を譲らないと沖縄まで狙うぞ!と言う脅しでしょう・・・中国のあと押しを期待しているのでしょうか?
中国としては、着々と布石を打っているつもりでしょうが、逆効果のように思えます。

地方自治制度の悪用1(僻地・末端の重要性2)

昨日から地震災害で紹介したように、地方の決定・自然災害がサプライチェーンを通じて全国波及する時代です。
原発稼働の可否は立地する市町村・・僻地だけに利害のあることではなく、経済合理性や環境破壊の有無は言うに及ばず、国防政策や日本の将来の産業構造を規定する全国的関心のある事柄です。
学問的も、全国原発停止以降原子力関係学科の志望者が激減しています。
1地域住民の賛否や・・(ドサ廻りになっている)数人の末端裁判官の意見で国家の枢要事を決めて直ぐに国家意思として強制力が出る仕組みがあるのは制度的に無理があります。
この辺は沖縄の基地問題の議論も同様で、国防に関する決定を地元沖縄の意見で決めようとする運動自体おかしな議論です。
裁判官で言えば、地方小単位の社会に関係のある決定権者として、地方に赴任しているに過ぎないのにタマタマ全国的テーマが地方の管轄になると、俄然(上級審の結論が出るまで原則として効力が出ない本案訴訟手続があるのに、これをしないで即時効のある仮処分決定するのは)全国民に影響のある決定権を行使するのは権限乱用です。
内乱罪等国家的影響のある事件は高裁から始める特別規定がありますが、原発や軍事基地のあり方など1つの裁判結果が全国に影響を及ぼすことが明らかな事件は、高裁ではなくとも大規模庁に専属する仕組みにする・・あるいは原則として仮処分を許さないなどの配慮をすべきでしょう。
世界中どこの国で、国家的関心事である軍事基地の設置に関して地元自治体の同意を必要とする→地元裁判所で一次的な決着がついてしまう国があるでしょうか?
軍事基地や原発は、国全体のためにあるものですから、その基地や施設が国全体のためにある・・その地域だけのものではないのは当然です。
実際原発規制委は全国を管轄にして審査しています。
沖縄の基地移転については海面の埋め立てが必要なために県知事の許可や承認にかかっているので、国が県知事の承認がないと埋め立て出来ないと言う変な法制度がガンになっているようです。
ソモソモ民間が公有水面を埋め立てるには、(勝手に出来るでは困るので)許可がいるのは当然としても、地方で許可しても国家の大局からみて不都合なときには、国が取り消せる制度設計が本来です。
地方自治制度と国のあり方の基本問題ですが、国の決定の可否を自治体が最終判断出来る・・逆の制度設計は無理があります。
いわゆる「法の間違い・・不備」を衝いているのがこの種事件一般のあり方です。
民間または同格の公共団体(喩えば隣の県が隣の県内の海を埋め立てるのは埋め立て地の県の同意が要るなど)が行なうときだけの制度であるべきでした。
国が決める場合地方の意見を聞かねばならないと言うのは分りますが、地方が国策の最終決定権を持つのは統一国家の制度としては無理があります。
地方自治は、戦後憲法(アメリカの押し付け)で出来た制度で、その前には官選知事制度でしたから、知事の許可の権限=国にの命令次第だったので矛盾がなかったのです。
地元民の民選になる都知事が最終決定権を持ったままにしておくのは、国家意思の一体性からして無理があります。
アメリカは、将来日本が言うこと聞かなくなれば、政府と地元の対立さえ起こせばにっちもさっちも行かなくなるように、(武力不保持条項同様に)時限爆弾のようにアメリカが置き土産として残した仕掛けだったかも知れません。
何しろ尖閣諸島情勢緊迫により、自衛隊が遠くから駆けつけるのでは・・時間的に不利なので最寄りの島に駐留するにも地元民(大人だけで言えば千人前後?))の賛否をとっていましたから、(公明党の言うように外国人にも地方自治体への参政権を与えると・・実際以下に紹介するとおり基地賛否の住民投票には外国人にまで投票権を与えています。)イザとなれば中国系の勢力浸透は簡単です。
ウイキペディアによると以下のとおりです。
  与那国島
人口1,745人、年平均気温23.6℃、年間降水量2,363.5mm。石垣島からは124kmの国境の島で、台湾宜蘭蘇澳港までは111km

以下は与那国島と防衛問題に関するウイキペデイアです

2014年3月31日、国と与那国町との間で町有地を貸す契約が正式に結ばれた[25]。2014年4月19日、小野寺五典防衛大臣出席のもと、沿岸監視部隊配備のための着工式典が開かれた[26]。2016年には、200名弱の自衛隊関係者が与那国町に駐屯すると見られる。
2014年9月7日投票の与那国町議会選挙で、町議会は誘致派が3人、反対派らが3人となった。誘致派が議長となったため、議長を除く議席構成では、反対派が多数となった。反対派らの賛成多数で、自衛隊誘致の賛否を島民に問う反対派が主導する住民投票条例が可決され[27][28]、2015年2月22日に陸上自衛隊沿岸監視部隊配備の是非を問う住民投票が実施された。
この住民投票に法的拘束力は無いものの、与那国町の住民投票条例は町長と町議会に対して「投票結果を尊重」するよう求めている[29]。誘致反対派の要求により、この住民投票での投票権は中学生以上の未成年者や永住外国人にも与えられた[30]。この住民投票には、有権者1276人のうち1094人が投票し投票率は85.74%。開票結果は、賛成632票、反対445票で、賛成派が多数を占めた[31]。しかしながら反対派は納得せず、工事差し止めを求める裁判を起こすことを検討している[30]。
反対派住民30名は武力衝突による平和的生存権の侵害や電磁波による健康被害の恐れを根拠に駐屯地の工事差し止めの仮処分命令申し立てを行ったが、那覇地方裁判所は2015年12月24日付けで却下した。決定理由として、武力衝突に至る恐れがあることを認める資料がないことや、電磁波の強度が法律の基準値を下回ることを挙げた[32]。住民3名はこれを不服として即時抗告したが、福岡高等裁判所那覇支部は2016年2月19日付けで却下した

※上記決定によれば「武力衝突のおそれがないこと」を理由の1にしているのですから驚きです。
武力衝突のおそれがあれば自衛隊基地の存在が許されないと言うならば、まんがではないでしょうか?

人材と身分保障4(僻地・末端の重要性1)

裁判官の身分保障からセブンイレブン騒動に深入りしてしまいました。
任期満了しても容易に再任拒否出来ない日本の慣行を書いているうちに取締役会の権限のあり方論に逸れてしまいましたので、元々のテーマである裁判官の身分保障に戻ります。
再任拒否さえ難しい社会・・解雇も降格もしないで、地方末端の事業所や営業所長あるいは子会社に転籍させておけば大過ないだろうと言う扱いが日本社会では普通になっていましたが、こうした従来型価値観・運用に最近無理が出て来ました・・。
昨年だったか群馬の食品工場での異物混入が大事件になったように、今ではどんな末端でも変な人が一人でもいたら困る社会になっています。
ベネッセの情報大量漏洩事件も、たった一人の不心得者の仕業でした。
裁判所もカタ田舎での事件は全国的意味のない旧来型の遅れた事件しかないと言う意識でやってきました。
何%か分りませんが、外れの裁判官が、(多くは小規模裁判所に配属です)どこかで無茶な判決を出すとどうなるかが重要になってきました。
こうなって来ると能力的に問題があって、解雇しないで地方へ飛ばしておけば良いと言う運用では収まらなくなってきます。
話が飛びますが、身障者雇用の義務づけが盛んですが、昔は知恵遅れの人が下働きしていても客の方が大目に見てくれていたのですが、顧客に余裕がなくなったのか、(子供の声がうるさいと言う保育所設置反対運もその一つですが・・)要求水準が高まる一方ですからどこでも困っています。
農作業や植木屋の下働き程度の場合、親方が選定している下で大きな枝などをそろえたりするあらかたの掃除程度でをしていれば、最後のきちっとした掃除はプロが仕上げれば良いので片付けが下手でもまじめに働いている限り「よく働いているね」と褒められたものですが、半導体やクルマその他の部品になってくると、障碍者が作ったので少しくらい不出来があっても許容して下さいと言うのでは危険です。
プール監視員でも知恵遅れが見張っているのだから、少しくらい溺れている人を見落としても仕方ないとは言えません。
サービス業では、お皿がキレイに洗えてなくとも、口の聞き方が悪くても客に我慢しろとは言えません。
しょうがないなと思って「頑張りなよ!と笑顔で言っても、次には行きたくなくなるでしょう。
そこで一定率雇用義務違反で懲罰金?を納めても雇用しない方が安上がりと言う運用が増えます。
マイナンバー法の利用開始で一気に小規模市町村の運用能力に注目が集まっていますが、田舎だから能力が低くても良いとは言えない時代が来ています。
基礎的底上げのために平成の市町村合併が必要になっていたと思われます。
14日から熊本の連続地震には、被害者の方々には「気の毒・・」としか言いようがないですが、使えない公的施設の多さをみると普段から地震対策が甘かったのではないかと言う印象を拭えません。
空を飛ぶ飛行機は地震に関係なさそうですが、ターミナルビルの破損のせいですぐに使えなくなったのも素人的には意外でした。
道路や鉄道と違って途中の経路まで管理しなくていいのですから、空港設備くらいはきっちり管理しておいて欲しいと思いますが・・。
今の社会では、倒壊しなければ良いのではなく、「地震があっても利用継続出来る」かどうかが重要ですので、天井や照明器具などの備品設備をもっと耐震用に出来なかったのか不思議です。
※仕事から帰って中部大学教授武田邦彦先生の(虎ノ門ニュース)ユーチューブをみると政府・地震学のオーソリティーが、東海地震や東南海地震ばかり強調していて、熊本地域について0〜6%前後の確率発表していとこと、0%〜と言われた地域は安心してしまう教育効果があります。
こう言う報道を30年以上もして来た政府・学会の誘導責任がが大きな原因と分りました。
地元の防災意識が低過ぎるのではないかと言う印象の上記意見は訂正します。・・ここまで挿入です・・

上記によれば、地震がどこに起きるか今では全く分らないのが真実らしいですから、東海地方以外のどこの地域でも、いつ起きても良いような準備競争社会にすべきです。
「・・ここは地震がないから大丈夫」と言っているような市町村は企業進出競争に負けるようにすべきです。
病院や老人ホームも倒壊しないだけではなく設備そのものがそのまま使えるように固定しておくとか、電気や水が止まっても何日自給自足(医療継続)出来るかの基準で市場競争すべきです。
病院や老人ホームも倒壊しないだけではなく設備そのものがそのまま使えるように固定しておくとか、電気や水が止まっても何日間自給自足(医療継続)出来るかの基準で市場競争すべきです。
東北大震災もそうでしたがサプライチェーンが全国に散らばっているので、地方の地震でも多くの企業の操業が停止する時代です。
地震そのものは防げないとしても企業にとっては直截被害のなかった工場では、審dの6〜7などのランクの応じて何日間補給がなくとも生産出来るか,被災地の工場では何日で復旧出来るかが重要ですから、基盤インフラ管理の市町村もその後の初動体制等の対策をきちんとしていないと工場立地・誘致競争に負ける時代が来るでしょう。
電気ガス水道・県道や市道など項目別に震度6〜7でA市は数日で復旧出来るがB市は10日かかると指標化するようになれば,住民も個人的に何をどこまで準備すれば良いかなど準備目標になるし企業誘致競争の指標になるでしょう。

信頼社会の再評価2(コーポレートガバナンス4)

トップダウン否定のコーポレートガバナンス論が実態に妥当する制度ではないのは、日本や中国・台湾などアジアだけはなく、アメリカでもアップルのジョブス氏の例を見れば明らかです。
日本社会は原則としてボトムアップアップ社会ですが、創業者や中興の祖があって企業や組織が成り立っていることをみると、ときにはトップダウン型の人材を必要としていることを表しています。
アメリカでもジョブズ氏の先見の明があってこそアップルの成功があったのであって、誰もが納得する多数が決めた製品しか作らないのでは、アップルの大成功はあり得ませんでした。
アップルのiPhoneが昨年秋発売新製品が想定外どおり?の苦戦に陥っていることが4月16日の日経新聞1面に(1〜3月期に続き4〜6月期も前年同期比3割程度の減産)と出ています。
ジョブズ氏亡き後の新製品がどうなるか?と言われていた危惧がそのとおりになって来た印象です。
人権派は、秘密保護法や組織犯罪処罰が近代法原理に反するというのですが、秘密保護法のない国・共謀を処罰しない近代国家がどこにあるかの質問に革新系文化人が答えられないままです。
西欧近代の法理と言っても、喧伝されるギリシャ・ ローマの民主主義が一握りの市民だけのことだったように、西欧の近代法理はきれいごとでしかない現実があります。
死刑廃止と言いながら,一方でちょっとして事件でも犯罪者をその場で原則として射殺してしまう乱暴な実際の運用を紹介したことがあります。
西欧かぶれの文化人が集団自衛権容認が戦争法だと宣伝していますが、そのような解釈をしてどこの国とも相互防衛条約を結ばない国が(スイスを除いて)いくつあるかを明らかにすべきです。
ベトナム、フィリッピンが日本や米国を頼りにし、小碓とラリアまで日本と防衛協議するようになったのは、中国による事実上の侵略実行に危機感を抱いて始めたことであって,中国を侵略しょうとしていると思っている人はいない・・そう言う主張している国があるとすれば、世界で中国だけではないでしょうか?
国際紛争に関連する主張はどこの利益を代弁しているかが重要です。
企業のコーポレートガバナンス・・トップダウンに戻りますと、うまく行ったときには黙っていてタマタマ失敗するとオーナの暴走と非難するのがこれまでのマスコミ姿勢でした。
何回も書くようにどんな名人上手でも一定割合での失敗があるものです。
その失敗を前提にしても成功率の高い人に5〜10年先に進むべき計画を委ねるしかない・・結果的に取締役会が追認機関になっていることを理由にして、何か事件が起きると取締役会の無責任?運営を批判するのですが、西欧伝来の元々法制度に無理がある・・取締役には元々そのような実質的権限がないとするべきです。
法を悪用して?形式権限行使すると逆に実質的権限濫用の疑いが生じます。
セブンイレブン騒動では、最終的に動きが見えてきましたがその後の人事案も社外委員2人の意向によって、全て覆されて決まって行く様子です。
社外委員制度が機能していて、(今回は鈴木氏が耄碌して、老害が出ていた可能性がないとは言えませんから)目出たいのかも知れませんが、今年の2〜3月ころに就任したばかりの部外者が人事案についてまで最終決定するのって、タマタマその結果が正しいとしてもこれが社外役員の本分だと言う認識が広まると口の出し過ぎと言う批判がその内出て来るでしょう。
取締役が監督権限を行使しないので、屋上屋を重ねて?社外委員会などの承認がないと何も出来ない仕組みにしても,社外委員会も結局はその会社の実態不明なので、カリスマ経営者の提案を実際にはその委員会も追認するしかないのが実務の世界です。
屋上屋をかさねるたびに追認機関が増えているだけです。
カリスマ経営者の独断による経営政策がタマタマ失敗したとしても、それはリーダーの暴走でもガバナンス失敗でもありません・・企業人としては失敗する場合も読み込み済みでカリスマ性のある人にリスク込で委ねていると言うべきでしょう。
勝率が下がれば単に「最近カンが悪くなったようですから交代して頂きましょう」と言うだけでよいのであって「違法」だとか、道徳非難する必要はありません。
新規事業挑戦の可否はトップダウンを認める代わりに失敗すれば結果責任をとるのは必要ですが(任期等で身分保障する必要はありません)、道徳非難をすべきではありません。
本来リスク込ミで監督や企業トップに方針決定を一任するものですから、試合に負けたり投資失敗したときに道義非難(・・東京裁判のように違法と称して刑事処罰する方向を煽る傾向がありますが・・)する方がルール違反です。
西欧で発達した統治に関する近代原理は公共団体に妥当する論理・・公的団体の場合議会等の監督を受けた範囲で行なうべきですから、これを逸脱すること自体で違法ですが、日進月歩の事業体統治には妥当しません。
スポーツの監督はコーチ陣の合議で指揮するのではありませんし、軍の指揮命令も同じです。

コーポレートガバナンス3(信頼社会の再評価)

韓国人が対馬のお寺の仏像を盗んで行ってこれは元々韓国のものだと開き直っている現状は、罰あたりはいないと信じて厳重に鍵をかけていないお寺・・盗まれる方が悪いのではなく、「盗みにはいる方コソ悪いでしょう」と言うのが我が国の価値観です。
「価値観の違う人は来てくれるな、仲間にしたくない」と言うのがわが国の法原理です。
価値観共有社会とは本来こういうものではないでしょうか?
少なくとも信頼で成り立つ日本の価値観・・実態に合わない制度・・相互不信で運営する原理を無理に導入するのを進歩主義のように唱えるのは、何でも欧米流儀が素晴らしいという刷り込みによるものか、価値観の違う人を多く引き入れたい深謀遠慮によるものです。
ヘイトスピーチ論はその点だけみれば一見人権配慮っぽいですが、その前提には「価値観が違っても違う生き方を認めましょう」という基本思想があります。
抽象論を言っている限り進歩的な意見のように見えますが、民族間で違う価値観の具体論になると何でも許容して行けるのでしょうか?
最初に中国人にアパートを貸すと汚くて困ると言うことが問題になりましたが、具体的になると意外に難しいものです。
民族の尊厳の触れる問題・・喩えば、「神社仏閣が文化財の盗難被害や放火被害に遭うのは、異民族にとっては神道を理解する義務もないしそんなものに価値を置いていない、だから立ち小便しようと勝手だし、夜も自由に出入る出来るようにしている方が悪い」と言う場合,違った意見を尊重?して許容すべきなのでしょうか?どうなるのでしょうか?
天皇の顔写真に竹槍のようなもの突き刺してデモ行進しても許容すべきなのでしょうか?
落とし物が直ぐに戻る・・時間を守るきちんと順番を待ち、公共空間を綺麗にする社会は、一定の共通価値観で成り立っています。
ゴミ分別に協力しない、道路の掃除をしたくない・・税金でそんなことはやるべきである・・列に割り込むなど民族が違うから良いのだ、犯罪にさえならなければ落とし物を届ける必要がないと言う価値観の人が増えるとその内犯罪になっても捕まらなければ良いと言う段階に進むでしょう。
掃除をコマメにしないことや約束の時間に遅れるのが何故悪いの?日本人は自分の価値観を異民族に押し付け過ぎ(自分の国で3〜40分くらいは遅刻にならないとか)・・と抗弁を認めずに遅刻扱いするとヘイトになるのでしょうか?
しょっ中遅刻する人が大めに見てもらえるなら日本人も遅刻する人が増えるでしょうし、それまで自宅の廻りを掃除していた人も目の前で気楽にゴミを捨て歩く人が増えると掃除するのがイヤになってしまいますし、カギをしていなければ泥棒されるのが普通の社会になるとみんなが厳重にカギを掛けるしかなくなります。
夜道は危ないに決まっているじゃないかとなれば夜道を歩く人が減るでしょう。
「人を見れば泥棒と思え」と言う社会になります。
その内「エ!護身用のピストルを持たないで出掛けたの?」と言う時代が来るのでしょうか?
「友は類を持って集まる」と言うように、共通価値観で集団を作るのが人類普遍の原理です。
友は選べますが、居住空間にいる異民族を選べない・・その意味では重要な民族集団に異民族を積極的に受け入れる必要があるのか不思議です。
民族とは、人種別概念ではなく価値観・行動様式が一緒になった集団のことです。
何のために価値観の違うグループがワザワザ1つのコミュニテイを作らねばならいのかが疑問です。
不幸にして一緒にいるしかないときには寛容の精神で共存するしかないですが、折角別に住んでいるのに、何の目的で異民族=生活価値観・行動様式の違う人をワザワザ引き入れようと主張しているのか分りません。
家族でなくともタマに他人をお客に招くことはありますが、その程度で他人・お客と交われば良いのではないでしょうか?
欧米の異民族受入れ政策・・(植民地支配・・奴隷制度の代わりに異民族を安く使おうと言うエゴを隠した)人道主義?が今回のテロ頻発で壁に打ち当たっているのは当然です。

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