司法権の限界7(政治と場外乱闘1)

学問にはいろんな賛否の意見があるのが普通ですが、大規模地震や津波発生時期・規模に関しては科学者のうちで誰独り「俺は知っている」と言える学者がいないほど「誰も分らない」点に関しては自明の状態です。
上記のとおり誰も分らないことが明らかな状態でありながら、しかし、何かの基準を決めるしかない・・「分らないから何もしない」か「現状で出来るだけの備えをして前に進むか」は政治(国民意思)が決めることです。
科学界の英知を集めて一応の基準で前に進むと政治が決めた以上は、ある産業を進めるのに反対する人は、政治の世界で議論を尽くして議論の説得力によって多くの支持者を集める努力をすべきです。
安全保障政策で言えば、中国と組むかアメリカと組むのが良いかも科学的に決められないので、高度な政治判断で決めること・・選挙を経た政治の専権行為です。
これが砂川事件大法廷判決の意味するところです。
民主国家においては言論の自由・・自由で公平な選挙制度があるのですから、自由な政治の世界での論争に負けた以上は、次の選挙で勝つまでは潔くこれに従うのが民主主義のルールです。
(多数決に決まっているから議論がいらないのではなく、議論を尽くしておくと議論経過次第で少数意見の方が説得力があると次の選挙への効果があります・・逆に合理的意見を相手が少数だからと無視して裁決に走ると信用を失うので、安易な強行採決が出来ませんので、討論さえきちんとやれば、多数党の横暴を防げます。
日本の場合ひっきりなしに各種選挙がありますので、多数党が一度勝てば4年間安心と安閑としていられない仕組みです。
※アメリカや韓国の場合大統領が任期制であるだけでなく議会も日本のように解散がありません・・4年間そのままです
日々有権者の視線に曝される日本では合理的討論の影響力が大きいのですが、反対討論をきちんとしないで審議拒否や揚げ足取りばかりしていて強行採決に至った場合に「多数の横暴」と宣伝しても空虚な主張になります。
多数党が横暴かどうかは選挙民が議論の経過を見て判断することであって、少数党がマトモな審議をしないで揚げ足取りに終始しているような場合に「横暴と」言えば横暴になるものではありません。
政治の世界のルールに従った勝負で負けた場合でも国会の場できちんと議論することによって巻き返すチャンスがあるのですから、これをしないで、「国民の理解を得られていない」(国民に野党の意見が合理的だと言う宣伝をするのは野党の責務です・・これをしないで審議拒否ばかりでは理解を得られないの当たり前です・・)などと言う訳の分らない宣伝をして場外乱闘・正当な政治手続外の勝負(・・別のルール)に持ち込むのは民主主義社会のルール違反です。
テロや反政府運動が許容される場合があるのは,その社会では民主的運営がされていない・・本来の多数派が多数になれない・選挙制度の不正や賄賂や強迫など・・不正があって民意が素直に反映されない仕組みが、合法的に是正されないときに政治弱者による抗議としての意味があります。
ちなみに選挙区人口比を基準にして、人口比に大幅に反していることを理由に憲法違反と言う意見が普通ですが、人口比だけを単純比例した意見は、一見合理的なようで誰も反対していませんが、地域代表の要素を無視している点で如何にも皮相な印象です。
特定地域からの代表者を決める基準は得票数(独り1票)で決めるべきは論を俟ちませんが、ある地域と別の地域の代表者数を人口比で決めるべきかは本質のちがう問題です。
人権派やマスコミが、憲法論で負けそうになると次には「世界標準がどうの・・」 と国連の意見などを持ち出すのが大好きですが、人口比そのもので地域代表を選んでいる国がどこにあるかと言うデータに関しては一切報道していませんが、世界中で人口比で代表を選出している国がいくつあるでしょうか?
彼らの言い分によれば世界の決めごとも、すべからく人口の多い中国やインドの言い分どおりにしなければならなくなります・将来的にはそう言う目的で布石を打っているのかな?
最高裁の判断は2倍が許容範囲と言うのですが、中国は日本の2倍どころの人口比ではありません・・この種の理屈が行き着く先は、日本と中国の論争はいつも中国が正しいことになるのでしょうか?
選挙区区割りや代表者数は、選挙区の出来た歴史経緯や実情等を綜合して決めて行くべきことで、人口を機械的に割り振ってどんな歴史経緯や実情があろうとも2倍が限度と言う裁判所の形式的決め方は、(民族感情等を?踏まえた)高度な政治折衝で決めて行くべきことに裁判所が介入している越権の疑いがあります。
日本には地域別民族感情などないと言う意見が多いと思いますが、「民族」と言う言葉の意味は別として、会津の人は未だに長州に対する怨恨を抱いていると言われますし吉良の人は吉良上野介のファンだと言われます。
関東の人は逆賊であった平将門を英雄視しています。
東北の人にとっては藤原氏3代の栄華は地元の誇りでしょうし、戦国末期の伊達政宗も郷土の誇りですし甲州の人は武田信玄、越後の人は上杉、信州の人は真田幸村などなどい言い出したら切りがありません。
個人名を挙げなくとも、関西人と東北人、近畿、北陸や四国九州、山陰山陽では意識・文化・気質に大きな違いがあることを否定する人はいないでしょう。
選出代議士数の基準としては人口はかなり大きな要素であるとしても、地域性を無視し切れない点でこの塩梅は実は非常に難しい・・領土問題同様にナーバスな問題ですから、政治で決めて行くべきことにして憲法では決められずに先送りしたのです。
人口比で決めるのが正しいと簡単に言えるならば、憲法に簡単にその原則を書けた筈です。
「人口比2倍を超えるのは違憲」と言うすっきりした意見の先に、もしも人口の少ないある地域の代表がゼロになっても良いのかと言う議論が先にあるべきでしょう。
ゼロに出来ないと言う暗黙の意識・・人口数だけで決められないと言う国民意識を前提に、人口増加地域の定員を増やして来たのがこれまでの経過でした。
地域代表をゼロに出来ないが大きな地域性はある、日常行動範囲が広がり「細かな地域代表はいらない」道州制論に近い?政治合意が出来るならば、先に現行都道府県制度から変えて行く国民議論をしていくの政治の常道であって、裁判所がどうしろと言うのは越権です。
現在の合区論だとある県の定数をゼロに出来ないので、県をまたがった代表選出する仕組みにならざるを得ないのですが、議論の順序が逆・・地域の一体化が先行して対外共同行動が増えた結果、県などの合併があるのではなく、民意によらない裁判所が違憲と言って、強制しているからこうなるのです。
ちなみに私自身は何回も書いているように(千葉のようによそ者中心の土地に住んでいる関係からか?・このように地域性が大きな影響を持ちます。)細かな地域性を重視し過ぎるのはどうか?と言う意見ですが、「裁判所が議論を強制するのは逆でしょう」と書いているだけです
現憲法制定時にも、地域形成の歴史・実情を無視出来ないので、慎重に地域の実情に合わせて地域ごとの話し合いを経て決めるようにと言うことで、憲法では基準を決めずに選挙法に委ねたと見るべきです。
選挙法が学問上「実質的意味の憲法」と言われている基礎です。
日弁連の事例で言うと、会長選挙制度は総投票数の過半数をとっても単位会の3分の2以上で多数を取れないと、再投票する仕組みです。
現に宇都宮健児氏を選んだときに再投票再選挙になったことがあり、同じことを2回も3回繰り返すのでは終わりがないとから改正しようと言う動きになり、
改正案が1昨年から昨年にかけて検討されましたが、理事会にかける前に単位会の反対でつぶれました。
衆議院選挙無効訴訟に熱心な日弁連自体が、自分のことになると人口比で決めるのに大反対で議論にさえなっていない状態です。
アメリカの例で言えば、各州の選出議員数を人口比で簡単に増減出来るかと言うことですし、イギリスで言えば、ウエールズ・スコットランドその他地域別選出数を人口増減に比例して増減出来ているとは、想像すら出来ません。
多分アメリカやイギリスの裁判所が人口比で「上院や貴族院議員の数の増減を論じること自体が憲法違反になる」意識が自明なのでそう言う裁判すら存在しないと思われます。
私見によれば人口比を基礎にする選挙無効訴訟・・違憲状態判決こそは、民意無視を絵に描いたような机上の空論だと思いますが・・。

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