原発問再稼働(司法の限界)9

日経新聞朝刊4月23日記載の「大機小機」論説紹介の続きです。
昨日書いたように裁判所が何%まで許容すべきかを決める権限があるかどうかの重要な議論を省略して、直ちにどちらの結論が正しいかの問題に入って行く展開の仕方は、暗黙のうちに裁判所は何でも最終決定出来ると言う前提意識を国民に無意識のうちに植え付ける・・洗脳機能を果たしています。
これに続けて「ホーリズム」とか「要素還元論」などと難しい聞き慣れない単語を使っているので撹乱させられますが、ホーリズムで考えれば答えは決まっている・・国民・・被害を受ける可能性のある地域の住民は「100%安全性を要求する」に決まっていると言う意見を書いていますので、国民意識を誘導するための論説のように読めます。
これまで書いているように、安全性に付いてどの程度のリスク率があるかを決めるのは当時の関連学会で「科学的に」決めるべきことです。
(この基準の妥当性に付いて門外漢の司法機関が裁定する権限はありません=伊方原発訴訟の最高裁判例も同旨・・あるのは科学界の水準に反しているかだけであってそのときの科学水準を決めるのは学会の構成員の能力です。)
科学界の当時のレベルで決めたリスク率を前提に、どの程度のリスクまで許容するかを決めるのは国民総意によるべきであって裁判所(マスコミ)ではありません。
マスコミが原発絶対反対論ならばその立場を明らかにして書けば良いことであって、中立・公正な意見のように見せかけて結論を誘導するのは国論(国民総意)を歪めてしまう危険性があります。
慰安婦に関するマスコミの偏りが指摘され始めましたが、まだ偏った意見を何気なく刷り込んで行くやり方が多く残っているのに気をつけるべきでしょう。
ちなみに25日朝刊社説では、尤もらしく裁判所が科学者の総意?否定するのは穏当ではないと言う趣旨の社説を書いています。
表ではそう書きながら、同じ日の紙面で裁判所の最終決定権を前提にした論説を何気なく乗せて国民を無意識のうちに一定方向へ誘導しているのです。
基準そのものではなく、国民意思が決めた(例えば80%の安全率なら許容すると言う国民意思が決まれば)その許容範囲に収まっているかを審査した規制委の審査が妥当であったかチェックするのは裁判所の権限です。
原子力規制委員会は専門家委員会らしく100%安全とは言えないと言う報道ですが、地震・津波に関する100%予知能力がないことが知れ渡っている現在の科学水準では妥当な意見でしょう。
一定のリスク判断をした後は(一定のリスク判断すら出来るのか?と国民が心配している状態です)どの程度のリスクで稼働するかは、政治(国民総意)が決めることです。
規制委が100%安全とは言い切れないと言っているから、(福井地裁仮処分決定を良く読めばそんな単純な論理ではないでしょうが・・新聞報道しか知りません)100%安全ではないと同義反復して「停止を命じる」とすれば、司法の役割をはみ出していて、行き過ぎの印象です。
(新聞報道が正確かどうかは分りません・・新聞は誘導的記事を書くことが多いので実態は不明です)
10月17〜18日ころに書いたように、どんな機械でもどんな技術(ソフト)でも100%の安全とは、言い切れないのが原則ですから、司法が100%安全を要求するのは、司法の名において新技術を禁止するのと同じです。
世の中に100%の保障はあり得ないのですから、どの程度のリスクを許容するかは国民の信託を受けた政治が決めることであって、許容限度に付いて非政治家・・民主的選任を経ていない法律界が口出しするのは越権です。
司法に限らず「規制委」と言う政治責任をとらない半端な組織を作ってそこに事実上の政治決定権まで付与している・・政治家が責任放棄している(原発推進か否かを明言出来ない)かのように見える政治家の方にも責任があると考える人が多いでしょう。
原子力政策をどうするかは国家の重大事・・100年の大計ですが、それだからこそ国民の総意も揺れ続けているのです。
国民総意を見極めるために・・あるいは国論が落ち着くところに落ち着くのを待って長期計画を決めたいと言うのも1つの見識かも知れません。

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