事前規制と事後審査5

事前規制・・ルール化の効用に戻ります。
細かな規制をする以上は、予想外の震災や事故等があれば耐震基準その他の対応基準がより精密になって行くように今後規制が詳細化する一方です。
その代わり、柔軟対応能力が必要です。
歩く程度ならばブレーキは不要ですが、自転車以上にスピードが出れば出るほどブレーキが必要になるようにモノゴトは高度化に比例して操作方法が複雑になります。
早くなれば方向転換能力(規制変更適応力)も比例して上げて行くしかないでしょう。
10日ほど前に私が出席した審議会では、大災害時の高齢者等弱者避難援助に関して、これらの名簿を町内会等へ配布する場合の基準造りに関するテーマでした。
このように着々と法(その下位の条例等の明細基準)整備が進んで行くと、法があってこれを受けた条例や内部規則が出来ている方がこれに従って町内会等に配布すればいいし、町内会長も関係者に配布するのに基準があった方が現場が迷わずに運用出来てスムースです。
運用の結果、その基準では実質的プライバシー侵害になる場合は,この基準自体が違法だと争う場合があるとしても、(もし基準に不備があって違法ならば新たな基準がそのときに定立されるので)一種の代表的裁判で終わってしまい事件数が大幅に減ります。
予めの配布基準を作らず放置していて、それぞれ現場での自己流の解釈でこの辺の範囲まで名簿を配っても良いだろう式でやらせた後で、広く配布し過ぎれば被害者はプライバシー侵害で訴えれば良いし、配布した方は無関係な人にまで配って訴えられるのは判断ミスだから自己責任というのではあまりにも乱暴過ぎます。
行動基準がないと萎縮し過ぎますし、無鉄砲な人だけが運用すると訴訟が増え過ぎます。
社会生活が円滑に進むには事前の明細基準整備・・マニュアル化が重要なことですから、行政の意思決定過程に(各種規則制定過程に)外部有識者による審議会等が多用されるようになります。
審議会出の実質的決定が増えて来ると審議会にかける以前に事務局作成の草案作成過程でも、7月25日に書いたように専門家が参加するようになって来たのは必然の結果でした。
野党になって外で反対と叫んでいるだけでは無責任ですから、公明党のように与党に入って少しでも意見を通す方に行くのも1つの方法です。
秘密保全法(スパイ防止法)制定機運のもり上がりに比例して、人権侵害リスクに敏感なグループでは反対運動が盛んになっていますが、反対と叫んでいるだけでは、中国韓国等の反日戦争でも始めかねない勢いを見ていると「スパイの好きにやらせておけば良い」という国民は少ないので法律になってしまいます。
本当に人権侵害が心配ならば、法律が出来てしまうのを座視するよりは、審議会・作業部会等に入って、人権侵害にならないように歯止めをかける工夫・努力をする方が合理的ではないでしょうか?
何事も決めるときに意見を入れてもらうよりも、決まったことの変更を求める方が大きなエネルギーが必要です。
民主党は沖縄の普天間基地問題で見込みもないのに、野党の気落さで反対ばかりしていて、政権を取って困ってしまいました。
企業では、株主が後日総会で社長らの責任追及するよりは、取締役会議の意思決定過程を合理的にチェックする社外役員が要請されるようになって来たのはこのような理由によります。
不祥事があると直ぐにマスコミが社外取締役の必要性を宣伝しますが、社外取締役の存在意義は不祥事チェックのためではなく、意思決定過程に内部昇格のイエスマンばかりではなく外部者の健全な意見反映を狙ったものであって、不正防止は副次効果と言うべきでしょう。
これと言った行動基準がなくて事後に争う制度・・アメリカのような訴訟社会は、事前にきめ細やかなルール造り・・合意の出来ない社会に必要な現象です。
きめ細かく決めておかないで行動するから事後にもめ事が頻発する社会は、価値観の一体化している(昔から暗黙裏に細かな行動基準の合意のある)日本文化から見れば、周回遅れの野蛮な制度ですから訴訟社会に憧れて真似する必要はありません。
法を整備さえすれば進歩した社会になるのではなく、その前段階、そのまた前段階の微細部分までみんなが理解出来、守ることの出来る社会こそが進んだ社会です。
我が国では法・・監視があるから守るのではなく、自発的に礼儀を守り家の周りを綺麗にするし、ゴミを散らしません。
礼儀作法・生活作法に至る隅々まで暗黙裏の社会合意のある社会でした。

規制と停滞2(伝統の保存)

我が国では茶道や華道・能狂言・お寺の行事等全ての分野で、一旦様式化されると500年でも千年でもこれを守って行くのが尊いという意識が濃厚です。
憲法であれ民法であれ、一旦出来ると不磨の大典という扱いになります。
我が国では、小さな集落の祭りその他伝統行事は自分の代で絶やすことは出来ないという意識が強く、これがために全国あちこちでいろんな物や行事が残っていて、それ自体は良いことです。
時々思い出すための行事として先祖の営みを残すことと、日々の生活ルールあるいは新たな技術変化に応じてその運用・・規制を変えないでそのまま残していくのが良いかは別問題です。
洗濯機その他の家電製品1つとっても分りますが、新しい家電製品を買えばこれに応じて洗濯機や掃除機・テレビ等の使い方が変って行くのが当然で、古い機械の使い方(ルール・マニュアル・操作方法)と違うからと言って、新機械導入をやめるのって滑稽ではないでしょうか。
新しい家電製品を買えば、古い機械の使い方にこだわらず新しい機械の使い方に慣れれば良いことです。
二階以上に上がるには階段で上がることは当然でしたが、これがエレベーターやエスカレーターが出来ても階段にこだわる人はこだわればいいことですが、親の教えと違うと言ってエレベータに乗らないで30〜40階まで歩くべきだと言えば笑い者です。
障子がガラス戸になり、薪を燃やしていた風呂等の火力がガスになるなど全ての分野でいろんな操作手順が変わっても誰も怪しみません。
親の教えた仕事の手順が口頭で教えられていたのが、今では法律や法に基づく規則や基準になったために変更が難しくなりました。
生活のしきたりに代えて文書化されている上に、親の教えという個人的なものから集団意思・ルールになっているので、個人が勝手に簡単に変えられなくなったのが厄介です。
親の教えを変えるかどうかは個人が決断するだけですが、社会の意思になると個人の思いつきで変更出来ないのですから、ルール変更のルールを作る必要が出て来ました。
ただ、畳・障子文化が失われるのは悲しいと思う人がいても日常生活の便利さには代えられないので、古い生活様式・用具はなくなって行くばかりですが、懐旧の情に浸りたい人が増えれば・・これに比例して古風な旅館等が商売になるので、この種の和風高級旅館が繁盛するのでそんなに心配が要りません。
商売にならない分野に関しては・・各地の民族博物館等に残して行くしかないでしょう。
先日佐倉の歴博に行ってみたら、デパートごとで売っていた正月のおせち料理の変遷が展示されていましたが、ホンの数十年前のことでも目の前から消えて行った物が多いのに驚かされます。
お祭りは伝統行事保存の最たる物ですが、元々始まった当時は伝統保存のために始まったのではなく、その当時最先端のイベント・・庶民を楽しませるために始めたものでしょう。
現在のサッカーや野球大会あるいはソーラン大会みたいなものだった筈です。
数百年後にはソフトボールやテニスや野球・ボクシング等や、「◯◯をお願いします」と候補者の名前を連呼して走り回る選挙活動なども懐かしい古典行事として残って行くのかと思うとおかしな気がします。
ネット選挙になれば、今までの選挙カー+ウグイス嬢による選挙活動が意味がなくなって行くでしょうが、どうしても残したければ新しいことに反対しないで、伝統行事保存活動に精出せば良いように思います。
薬局の対面販売問題も同じで、過去の良き伝統として博物館に残すのに協力しても良いと言えば、反対論が下火になネット販売解禁になり易いように思います。
今後新基準規制変更新基準を導入したい勢力は、いろんな旧基準を伝統技術として保存することに協力しますとバーター取引を申し出れば、守旧派も軟化して新基準採用が進み易いのではないでしょうか?
郵政民営化したい勢力は、公営当時の郵便局専門の博物館を作って公務員的対応技術を伝統技術として残してやると言えばどうでしょうか?
国鉄民営化のときも博物館化して昔の横柄な国鉄マンの応接技術を残しておけば、面白かったように思えます。
そうすれば、JRに移籍出来なかった昔気質の(横柄な)国鉄マンでも、一定数の雇用が確保出来て解雇無効裁判が起きなかったかも知れません。
日本古代では大和朝廷が出来るときに八百万(やおよろず)の地方神を、必ず祭ることにして平和裏に大同団結・国ゆずりが成立)出来ました。
単に弱い者・・時代遅れな物を打ち壊すのではなく、大切に祭る・・この精神でやれば良いのです。
社会発展に必要なことは、緩和だけではなく新時代に適合した新たな(もっと複雑な)規制に変更することですが、これを何故か「緩和」と言うから誤解が生じます。
(ネット選挙を解禁すればその面では緩和ですが、解禁以前よりもっと複雑な規制が必要になるでしょうし、ラジオ→テレビ→ビデオ→パソコン・・何ごとでも新技術の方が多機能な分、操作手順が複雑化する傾向があります。)

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