母子一体感7

夫婦関係のあり方に関してムラ社会の相互扶助問題からムラ・・古代の地方組織に入ってしまい、大分それていましたがApril 24, 2011「夫の養育義務1」の続きに戻ります。
母子一体感については、04/07/10「母子一体感6(父子の絆2)」まで連載していますので、今回はそれに続く「その7」になります。
出産の外注化によって出産者の父母や夫は、(誰が病気になってもそうですが・・親族は)今ではそのときだけ顔見せする見舞い客的関係になりました。
一人や一家で手に負えない大変なこと柄がすべて、家族や親族あるいは近隣中で応援していた出産・子育て・医療や介助行為・葬儀等すべて外注化されて来ていると言えます。
自宅新築の場合でも同じで、私の子供の頃には自宅新築普請の場合、棟上げの時には多くの人手がいるので、村中の人が集まって手伝い、棟上げが終わると餅を投げる習慣でした。
これ等も今では、上棟式と言う儀式と化してしまい、立ち上げ組み立てるのは業者がすべて行い、(クレーンの発達で特別に人手が必要ではなくなりました)近所の人が手伝いに出るどころか今では施主でさえただ見ているだけで、一とおり終わると業者にお酒を振る舞うだけです。
ただし・・ここ数十年では、飲酒運転禁止の徹底でお酒も出さなくなりましたので、もしかしたら一升瓶を持ち帰るようになっているのでしょう。
大きな行事に留まらず日常生活の場面でも、何種類もの総菜を一人では作れなかったのですが、今や何種類でも総菜を買って来て並べるだけですし、おむつも使い捨てになっておむつの洗濯や干して畳むなどの仕事も皆無になりました。
(勿論「母さんが夜なべをして子供の手袋を編んでくれた・・・」などの歌の場面は、昭和30年代後半に幼児期を懐かしんで流行った歌ですから、当時物をいくらでも買える時代に入っていて既に消えてなくなっていた母の仕事なので、懐旧の情で歌がはやったのです。)
女性の家事育児は、時の経過に連れて即物的業務(炊事洗濯掃除)が背景に退き夫や子供との(おむつの取り替えや授乳やおんぶにだっこ・健康管理と教育)心理的密着行動・心情の共有が中心になって来ました。
心理的密着中心であれば、心理的葛藤・不安も深まります。
出産前後の母子の保護、出産に向けた保健指導や援助・育児相談など子育ての社会化も始まりますが、当初から完全とは行きませんので育児の社会化が完成するまでは家庭内の母親一人の心理的負担・ストレスが大き過ぎるので、父親の育児参加のスローガンが必要となったと思われます。
父親も子の親だと強調して、親である以上子育てに参加しなければならないとなり、その延長として離婚しても親子であることは変わらないのだから子を養育する義務があるとする思想が普及しました。
しかし、動物的感覚では女性の方ではまだ自分(だけ)の子とする感覚が強いし、我が国では男女ともにまだしっくりしていません。
この辺は国際的には大分違っているようですが、今年中にもしかしたら子供の連れ去りに関する国際条約(ハーグ条約)を我が国も批准する方向に動きそうです。
この条約は、夫婦共同生活をしていた子供のいた国や地域から一方の親が一方的に連れ去ることを禁止する条約で、刑事処分の対象になります。
わが国では子供は母親のものと言う意識が強く、離婚騒動に際して一方的に母親が実家に連れ出すのは当然の権利(男がどこかへ連れ出せば簡単に人身保護令状の対象ですが・・・)ように思われていますが、今や国際常識(もしかして欧米だけ?)ではそんな勝手なことは許されない時代になりつつあります。

自殺と美意識

高齢者介護や未熟児の育児ノイローゼ関係が(子育て支援センター等の充実で)解決に向かう中で、中高年男性向け精神ケアーが遅れている感じです。
我が国では、成人を含めて精神疾患が増える一方ですが、生産手段の合理化・・共同作業の縮小と比例して日常生活の場で共同体意識も同時進行で縮小して行った結果が大きな原因の1つでしょう。
生産手段の分離化と消費生活協同の必要性は場面が違うのですが、これも近代化の更なる進展で重工業等の発展に遅れて家庭用電化製品あるいはレトルトフードや離乳食等が普及して、独身のままでもあるいは若い母子が年長者の手助けなくとも物理的側面では生活が出来るような外見が整ってきました。
家庭での電子機器化や個食その他のサービス環境が進んでも、心の共有化のない生活に耐えられないので今や疑似共有・ペットブームになっているのでしょう。
ヒトは何故心の共有が必要なのかと言えば、一人では生きられなかった何万年の歴史がそういう心情をDNAに刻み込んでいるからだと思われます。
男性よりは女性の方が心情共有に優れているし、より必要としているのは、男性は食料調達・生産手段(ひいては戦闘防衛)のための共同作業で足りるのに対して、女性の方は、生活手段を男性に頼る外にその先の子育て・日常生活にまで助け合いが必須だったことによります。
男性が近代工業化に組み込まれて行くと職場の共同作業はなお必要ですので必死に赤提灯を含めておつきあいに励みますが、その分家庭維持・地域の連帯から外れて行きます。
農作業や都市でも一定規模以上の一戸建ての場合家庭内の男性の仕事が多いので、それなりの家庭内共同作業を通じての触れ合いがありますが、マンションやアパートあるいは4〜50坪以下の戸建ての場合、家庭内で家事育児の共同以外には男性にはすることがありませんから、家事に参加しない限り男性は家庭内で孤立する傾向になります。
平成に入ってから家事育児に参加する男性が増えて来たのは、家庭を顧みない猛烈型社員の弊害(家庭内孤立)を見てのことでしょう。
ただ男性も二極化して来て、仕事や趣味等で外部で仲間が沢山いれば、重たい家庭は要らないと言う外向きの男性は独身のままでいる男性が増えてきます。
独身に限らずある程度心の共有化に成功している「筈」の結婚している男性や、子供のいる男でもうつ病罹患やその他の理由による中年での自殺が後を絶ちません。
夫婦・家族があると言っても、心の共有化までは進んでいない家庭内孤立している人だけが押しつぶされてしまうのでしょうか?
自殺者の増加を防ぐには、男女の心情共有化・・・家庭がその一般的形態でしょうが、これに限らない男女関係の強化を図るのが有効かも知れません。
心の共有がない孤独な独身者や家庭内孤立に限らない・・それまで普通の家庭人だった筈の男性がいきなり自殺する例もありますので、実際にはもっと別の要因があるように思われます。
自殺者の心理は前途を悲観して・・と言うのが一般的な理解の相場ですが、不治の病その他助からないからと言って、命を縮めても助からないことには代わりがありません。
とすると論理的ではないのですが、別の角度から考えると蒸発者の心理に似ているようです。
蒸発者とはこれまでの浮き世のしがらみを一切断ってしまう現実からの逃避ですが、これはあの世に逃げる自殺との中間に留まる身の処し方に過ぎず自殺者と気の持ちようが変わらないと思えます。
出世競争に敗れて惨めな生活をするよりはやめて別の会社に行った方がまし、一定の地位にあった人が格下げされて惨めに生きて行くよりは、蒸発して誰も知らない世界でもっと格下の仕事(仮に日雇い労務者・路上生活者であっても)をした方がマシだと言う人が多いものです。
大関までやった人は、大関から陥落したら潔く隠退すべきだとか、スター選手の力量が落ちて来るとまだ並みの選手程度の打率を維持していても隠退するべきだとする美意識があるのも同じです。
このルーツを探れば、戦時中の「生きて虜囚の辱めを受けず」や古くは切腹の美学に通じるのでしょうか。
この美意識も小説などで読んでいる限りなかなか迫力がありますが、考えてみれば、自分中心にどちらが良いかを考えた結果であって、残された家族の嘆きに思い至らない面があるようです。
(ごく最近では「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ」(校長メッセージ)と題する檄文?が反響を呼んでいますが、・・・これなども同じ美意識の系列でしょう)
この点では、家庭内の心情共有のレベルが高ければ防げるのかも知れません。
我が国の(世界に誇る?)男の美意識には、この限度で、家族愛の欠如があるのかも知れません・・・。
我が国で自殺者が多いのは、家庭不和や相談相手がいない・心情共有者が少ないからだけではなく、蒸発者心理に共通のところがあるからではないでしょうか?
ここ10〜15年ばかり大関陥落後も居座り続ける関脇が多くなりましたし、(伝統的美意識こそ大相撲のよって立つ基盤でしたが、これの喪失も大相撲人気の退潮に関係があるでしょう)相撲界に限らずいろんな分野で結構しぶとい人が多くなって来ている印象です。
菅総理もやめると言って不信任決議の危機を逃れながら、その場を凌げるといくらでも居座れるだけ居座ろうとする姿勢・・・「騙しても何でも勝ち残った方が勝ち」と言う美意識も何も頓着しない姿勢は、今までの美学から言えば「みっともない」の一言です。
(鳩山前総理はペテン師と罵っていましたが・・・)
菅総理を支えて来た執行部さえも「辞めると言った以上は潔く辞めるべきだ」と言う姿勢(政策に反対しているのではなく・・)で対立関係になっているのですが、世の中・美意識が変わりつつあるのに気がつかない・・気がついていても気がつかない振りをしている方が今のところ、得策だと計算してのことかも知れません。
我が国特有の美学・「潔さ」に価値を置く美意識が廃れれつつあるとすれば、行く行くは中高年男性の自殺率も諸外国並みになり、長寿化がもっと進む(目出たいのかな?)かも知れません。
菅さんは、せいぜいお遍路に行って来るくらいで直ぐに復帰するつもりで、恥の文化など気にしないのでしょうから、長生き出来るでしょう?

ムラ社会と道徳律

話が地方制度から古代の組織ひいては版籍奉還・辞官納地さらには原子力事故など連想ゲーム的にに大きくそれていましたが、2011年4月24日に書き始めたムラ八分に戻します。
我が国の自然発生的ムラ又はムレは、生活維持に必要な関係で成り立っているので、その反射としてムレから仲間はずれにされると生活の維持が困難になる・・死活問題となります。
たとえば、自分の田に来る灌漑設備が壊れてもみんなの協力がないと自分達家族だけでは直すには力不足です。
(日常生活に他人どころか、親族の力さえ借りる必要性が薄れて来た都会生活では、群れる必要性がありません。)
その結果法的制裁がなくとも「ムラの掟・・道徳でもきっちりと守るもの」と言う暗黙のルールが出来て、これが明治まであるいは今でも農村社会で守られて来たし、「ヒトに後ろ指されない」しつけが厳しくされ、我が国特有の犯罪の少ない社会が出来上がって来たのです。
産業革命以降都市労働者が増えると、田舎から都会に出て来た人たちは生活の糧を得るために近隣共同体維持の必要性はなくなりましたが、生活の場を古里から都会へ変えたことによって、収入源が近隣付き合いから切り離されただけではなく、いろんな日常生活の助け合い部分まで切り離されてしまいました。
明治の初め以降長い間、子育ての智恵やちょっとした助け合いがまだまだ必要な時代が続きましたが、(地方から出て来た若夫婦にとっては保育園も幼稚園もなく・・・産院で産むようになったのさえ昭和30年代半ば頃からでした)収入源の地域共同体性の喪失と同時に日常生活手段としての助け合いの基盤までなくなってしまったのが近代社会の特徴でしょう。
地域的生活共同体から切り離され、ムラ社会の束縛から解放されたのは良いですが、その代わり近隣に親戚もなく大家族的つながりが薄くなって助け合いの風土・基盤がなくなりました。
このように考えて行くと都市近郊農村社会に根を下ろしたまま近くの都会へ昼間だけ働きに出ている関係が、(良いとこ取りで・・)最も精神衛生上有利な関係であったことになりそうです。
(ムラの付き合いが煩わしい人にとっては逆に悪いところだけが、残っていることになりますが・・・)
一時は「遠くの親戚よりは近くの他人」と言われていましたが、最近では近隣の付き合いも減ってしまいましたので直系家族・3世代同居からさらに核家族化が進めば(母親や兄弟も遠くにいる状態)、子育ては大家族・親類縁者内の女性グループで助け合うことすら不可能になります。
都市化の進展に合わせて子育ての社会的受け入れが始まり・・出産(前後の母子への援助)も一族総出で行う行事から、昭和30年代中頃からは産院中心になりました。
私の家は東京大空襲で焼けてしまったので、幼児期から中学時代まで田舎で育ちましたが、その頃に見た経験では、田舎では冠婚葬祭等は近隣(・・結局は昔の集落単位です)の女性の応援で実施していました。
(田舎では滅多にない冠婚葬祭用に大量の食器などが蓄えられていました)
高校時代に東京で見た景色では、(私は池袋に住んでいたのですが)大田区区民会館が出来て結婚式もやれると言うニュースだったか広告だったかはっきりしませんが、見た記憶があります。
昭和30年代中頃から、東京ではホワイトカラー層では結婚式等も自宅ではなく東条会館・◯◯会館等で行われるようになり、庶民でも公民館等で結婚式が行われるようになり、次いで私の大学同窓生・・平均的サラリーマンでも私学会館等を利用し、更にはホテルへと豪華化されて行くのに比例して葬儀も次第に外注が原則となって行きました。
出産が産院で行われるようになったのは、応援の必要な結婚や葬式等の大型行事が総て外注形式になって行った先がけだったと言えます。
出産や病気・結婚等一過性大行事は病院や施設等の発達で近隣の応援がなくとも(お金さえあれば・・その結果保険や年金制度が発達しました)出来るようになりましたが、長丁場の子育てや高齢者介護になるとトピックス的な援助ではなく継続的援助・支援が必要になります。
子育て支援の社会的整備は簡単には進みませんので、未整備状態下のギャップで育児ノイローゼやこれに基づく母子心中事件、あるいは児童虐待事件の発生が生じて来るのですが、幅広い女性同士の精神的助け合いがなくなった近代都市生活の特徴かも知れません。

危機管理と国民意識

原発特別措置法以前からある電源三法の交付金の原資としては3法の1つである電源開発促進税法(昭和四十九年六月六日法律第七十九号)によって目的税として電気利用者から一定率の税を取っているのですが、電気を使わない国民はいないので、結局は国民一人残らず負担していることに変わりがありません。
この促進税による税収はウイキペデイアによると概ね年間3500億円あまりのようです。(平成15年からは石油石炭税制との絡みで電気利用税自体を下げて行くようです)
この3500億円から原発向けにどのくらい出ているかははっきりしませんが、火力や水力よりは主として原子力発電所設置自治体に毎年配布されているのでしょう。
一般電力にはこうした負担金があり、他方で原子力発電は貰う方ですから、単純にコスト比較が出来ません。
原発の発電コストが安いと宣伝されていますが、電源3法による資金及びブラックボックス化している原発特別措置法による支出など国税から出ている部分も計算に入れるべきです。(当然今回の大被害もコスト計算に入るべきです)
ところで、特別措置法や電源三法で巨額のお金をもらいながら、危機に備えた準備がまるでなかったのは、広く言えばJune 8, 2011「事前準備と危機管理能力」で義経と梶原の逆櫓論争を紹介しましたが、失敗に対する備えをするのを嫌う国民性に責任があるとも言えます。
「放射能が漏れることはあってはならないことだ」と言う宗教的確認で思考停止してしまい、「だから漏れる場合を想定出来ない」となって充分な準備をするためにエネルギーを注がなかったから、政府もある程度の準備でお茶を濁して来られたのです。
事故に備えてロボットが作業出来るように研究が進んでいたのに、「無駄だ」とその費用を打ち切ったりしている一方で高速料金無料化などを打ち出していたのが我が国の政治です。
イザ危機になるとロボット最先端国である筈の我が国がアメリカやフランスからロボットやその他の機器を借りるみっともない始末になったのは、特定政治家の責任ではなく、こうしたことを求めてきた国民全員の責任です。
政府の取り巻きそのまた取り巻きを選出する母体たる国民各層の責任(子供手当などの方に優先支出を求める意識)を棚上げして、現在の総理や社長の対応が下手だと吊るし上げても解決にはなりません。
指導力不足を議論しているマスコミ自身が、今まで子供手当や高校授業無償化あるいは農家支援の資金支出よりは、原発の安全のためにこういう研究をしたり準備をしたらどうかの提案をしたことがあるのでしょうか?
今回の事故では情報開示の不充分さを非難しているマスコミが多く、これに便乗する意見が多いのですが、(便乗意見は誰でも書けます)政府の秘匿体質は自民党政権時代に何十年もかけて構築されたものであって、(あるいは「民をして知らしむべからず」の思想は江戸時代からあった長い伝統です)民主党政権になったからと言って一朝一夕で末端まで変更出来るものではありません。
一方で役人をうまく使えないで思いつきで命令を出すから混乱するとも言い、長年形成して来た役人の秘匿体質・・これを形成して来たのは過去何十年の歴代政権です・・無視して、彼らがいきなり情報開示出来る訳でもないのに、政府の責任だけ問うようなマスコミ論調は論理的ではありません。
秘匿体質を打開するのは精神論によるのではなく、一定期間経過後の秘密文書の公開制度の強化が有効です。
何十年も経過してから公開されても当時の責任者はとっくに隠退または死亡した後ですから、彼らは何の責任も負わなくてもよく、痛くも痒くもないので、秘匿体質の改善には結びつきません。
仮に風評被害が心配と言う論が正しいとしても、(私はそういう意見には組していませんが・・・)風評被害の心配程度ならば、1年〜2年で公開を義務づければいいでしょう。
そうすれば、政府が秘密にしたことが正しい選択であったのか否かが直ぐに判定されるので、関係者が根拠もなく(自己保身のために)秘匿する方向性が是正されて行くでしょう。

原発特別措置法1

原発措置法を書こうと思っているうちに話が原発運転再開同意権にそれましたが、原発特別措置法でバラまかれている数字の実態はシンクタンク・・新聞社などで調査しないと簡単には分りませんが、多分大変な額になるでしょう。
沖縄の措置法も同じくあちこちに分散しているので簡単には分りません。
この特別措置法の結果、福島県で言えば、電源三法による年間130億円の給付だけではなく、これにプラスして総額不明ですが多分巨額資金が出ていることになります。
巨額迷惑料・補償金をもらっていたならばその何十分の一の資金で予め用地取得その他の準備をしておけば、今回の被害をかなり軽減出来ました。
巨額の迷惑料・補償金をもらっている以上は、
「ある程度の危機管理の準備くらいはしておいて下さいよ」と言うことです。
ここのシリーズのテーマは、準備しなかった役人や政治家を非難するのが目的ではなく、ましてや事前準備のない中で奮闘していた管政権や東電社長や幹部を非難すべきではなく、今後は危機管理システムの整備が必要と言う目的で書いています。
不安に対する補償金とは被害が具体的に生じない前段階の解決金という意味でしょう。
具体的被害があっても6月14日に紹介したように、騒音被害や電波障害が起きているなどの細かな被害に対する長期的被害の前払いもありますが、一般的には具体的な被害が出れば話は別だと言うのが正しい法律論かも知れません・・・。
我々、法律家が関与した裁判外・裁判上の和解の場合、迷惑料の対象範囲に争いが起きないようにきちっと定義しておくのが普通ですが、電源三法や特別措置法の交付金その他の補助金は、政治決着ですので法的意味が明確ではありません。
その実質的意味を探るためにここで条文を見ておきましょう。

原子力発電施設等立地地域の振興に関する特別措置法
(平成十二年十二月八日法律第百四十八号)

【 改正履歴等一覧 】
最終改正:平成二三年三月三一日法律第九号

(目的) 
第一条  この法律は、原子力による発電が我が国の電気の安定供給に欠くことのできないものであることにかんがみ、原子力発電施設等の周辺の地域について、地域の防災に配慮しつつ、生活環境、産業基盤等の総合的かつ広域的な整備に必要な特別措置を講ずること等により、これらの地域の振興を図り、もって国民経済の健全な発展と国民生活の安定に寄与することを目的とする。
(国の負担又は補助の割合の特例等)
第七条  振興計画に基づく事業のうち、別表に掲げるもので原子力発電施設等立地地域の住民生活の安全の確保に資することから緊急に整備することが必要なものとして政令で定めるもの・・・
(原子力発電施設等立地地域の振興のための地方債)
第八条 (財政赤字団体認定の数字から除外する制度)
財政上、金融上及び税制上の措置)
第九条  国は、前二条に定めるもののほか、振興計画を達成するために必要があると認めるときは、振興計画に基づく事業を実施する者に対し、財政上、金融上及び税制上の措置を講ずる・・・

上記のとおり法制定・・補助金交付の目的は第1条で「地域の防災に配慮しつつ・・」とあり、第7条では「住民生活の安全確保に資する」ためのものですから「防災」災害に備えるための特別資金援助が制度の存立目的と読むべきでしょう。
災害対策を予定しないなら、原発周辺だけに特別な資金を出す根拠がなくなりますから当然です。

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