ジェンダー論4(近代産業と子育て)

明治以降貨幣経済化が進んでも・・明治維新後最初に工業化に成功したのは繊維系工業・・すなわち女工さん主役の働き場でしたから女性が生産活動から阻害されたのではありません。
八幡製鉄所などが大々的に教科書で取り上げられますが、やっと日本で初めての製鉄所が出来たというだけのことで、重工業が輸出産業に(多くの労働者を雇用するように)なったのは戦後大分経ってからのことでした。
東京オリンピックで東洋の魔女として活躍したのは日紡貝塚・・紡績系の女子バレーチームでしたし、輸出産業の主役として日米繊維交渉が問題になったのは漸く昭和40年代中頃・佐藤総理の頃に自主制限が決まったのです。
(日米繊維交渉は1955年から1972年まで・・すなわちピークは1970年代に入ったときでした。)
日米繊維交渉の結果糸偏が輸出産業の主役から退いた後に輸出産業の主役になった電気・電子産業系でしたがその労働者も女性が中心でしたし、今でも半導体その他電子系は女性労働者比率が高いままです。
社会構造が繊維系から自動車製造系(製鉄/造船等)重工業系に大きく変わった昭和40年代後半から、女性の正規職場が大幅に減少して女性の実質的地位がさらに低下したように思われます。
経済大国化して豊かになったこともあって、職域の狭まった女性が専業主婦・女性の失業状態が一般化してしまいました。
(女性の閉塞状態が極限に達して中ピ連が活躍しだしたのもこの頃からです)
他方で、女性の軽工業関連職場が減って来るのに連れて、女性労働の受け皿としてサービス業が増えるようになってパート・非正規雇用が発達し、非正規なので働いていても以前より立場が弱くなりました。
反面これが出産後の職場確保にも繋がり、出産後の永久的失業状態からの抜け出す突破口になって来たのですから歴史の歩みは難しいものです。
「家貧しゅうして孝子あらわる」ともいいますが、貧しけれみんな野口英世みたいになる訳でありませんので、(不良になるのも多い)ので物事を良い方に導くか否かはその人の素質によることになります。
日本の女性は何万年も前から働き者の素質を持っているから良い方に働いたのでしょう。
都市に出た女性は働かなかったのではなく、日本近代化、明治から戦後高度成長の基礎をなす軽工業製品輸出段階までは、女性がその殆どを担ってきたのに地位が低下したのは、出産による退職が原因でした。
労働の場が子育てしながら働ける自宅周辺の農業から遠くへの通勤に変わり、且つ子供を見ながらできる仕事が減ったことが、妊娠後の労働を困難にさせて女性の地位を激変させたことが分ります。
妊娠以降家庭に入る(あるいは早めの結婚退職)しかないこと・・失業することが一般化してから、小鳥に喩える説明が一般化したと(タカダカ80年前後の期間でした)言えるでしょう。
平塚雷鳥の「元始女性は太陽であった」と言う有名なフレーズがありますが、実は太陽でなくなったのは近代産業の発達による賃労働者化後のことに過ぎなかったのです。
(何事も数十年も続くと古代からあるように誤解する傾向があることを繰り返し書いてきました)
女性の地位向上は男女平等の理念の強調さえしていれば成るものではなく、女性の地位低下の原因を探求してその原因を取り除くことが肝要です。
子を産む産まないの自由を主張していた中ピ連のように要求して成るものではありません。
結婚して子を産まねばならないプレッシャーをなくすためには結婚しなくとも生きて行ける状態・・経済力の確保によってのみ、女性に自主的選択権が手に入るのです。
すなわち、子育て中の労働中断期間を短縮化し、またはなくして、貨幣獲得活動が出来る状態にすることこそが女性の地位回復の実体的基礎ですから、労働形態の変化等を利用しつつ育児の社会化を図り労働期間の中断を少しでも少なくすることが肝要です。
ここ数十年来パート・派遣その他短時間労働での貨幣獲得活動へ復帰・・このためには家の近くで働くなどの外に零歳児からの保育所、学童保育などの充実を進めて来たのは、女性の復権(経済力再獲得)のために正しい方向であったと言えます。
また男性の家事・育児参加を求めて行くのも家事・子育てに縛られる女性の負担を軽減し、ひいては貨幣獲得活動時間を増やすためのインフラ整備としての意味があるでしょう。

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