大政奉還と辞官納地3

大政奉還の上表に対して将軍辞職と領地返納命令(辞官納地)(12月9日のクーデター)で応じたのは言いがかりも良いところで、徳川恩顧の大名(会津・桑名くらいでしょうか)新選組が憤激したのは当然です。
道理に反しているので,三職会議のメンバーでは、岩倉と薩摩系(大久保と久光)だけの主張に過ぎず先ず山内容堂が異を唱えこれに後藤象二郎や越前や尾州であったかが同調して決着がつかず休憩を挟んで、軍事力を背景とする説得で休憩後に漸く辞官納地が決まったもののその内容は・まだ具体的ではありませんでした。
その後日を追ってクーデターに対する諸候の非難が高まって、結果的に慶喜側が巻き返して行き、クーデター効果が失いつつありました。
(辞官納地論もうやむやになりかけていました)そこで薩摩が挑発するべき非常手段として江戸での撹乱工作が行われます。
これに対して庄内藩が薩摩屋敷の焼き討ち実行して応えたのが伝わり洛中での軍事衝突を避けて大阪城に引き上げていた会津桑名や徳川家主戦論派が勢いを得て押し出して行った結果、(薩摩の挑発に負けたのです)鳥羽伏見の役が起きてしまいます。
どうせ戦うことになるならば、島津久光による3000の兵を率いての上洛段階で,これを阻止すべく軍兵を率いての上洛を朝廷名で禁じておけば良かったのです。
倒幕目的でのクーデター計画もある程度知られていたのですから,当時の朝廷内の公卿会議構成員はみんな左幕派でしたのでやる気になれば可能でした。
あるいは上洛して来ても、会津・桑名兵が御所の警備を死守していれば,ここでの大規模な戦闘をすれば,島津の方を長州同様(禁門の変)の朝敵にしてしまえば良かった筈です。
これを傍観していて,衝突を避けて大阪へ引き上げてから,押し出して行くのは戦略的に失敗だったことになります。(後講釈は誰でも出来ますが・・・)
平治の乱で義朝が清盛の上洛を阻止出来なかった故事と似ています。
幕府側は総力結集どころか、戦意盛んなのは会津と桑名の兵が主力でしたが,それでも薩長兵力に対して数では勝っていたらしいのですが,指揮系統のない状態であるばかりか近代装備化度・・兵力的に劣っていました。
戦端が開かれると待ってましたとばかりに慶喜朝敵論が文句なしに決まってしまいます。
以下朝敵として追討令が出た瞬間です。

慶喜追討令
「去る三日、麾下の者を引率し、剰前に御暇遣され候会・桑等を先鋒とし、闕下を犯し奉り候勢、現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白、始終朝廷を欺き奉り候段、大逆無道、最早朝廷に於て御宥恕の道も絶え果て已むを得させられず追討仰付けられ候。兵端既に相開き候上は、速やかに賊徒御平治、万民塗炭の苦を救せられ度き叡慮に候間、今般仁和寺宮征討将軍に任ぜられ候に付ては、是迄偸安怠惰に打過ぎ或ひは両端を抱き候者は勿論、仮令賊徒に従ひ譜代臣下の者たりとも、悔悟憤発、国家の為尽忠の志これ有り候輩は、寛大の思召にて御採用在らせらるべく候。戦功により、此の行末徳川家の儀に付歎願の儀も候得ば、其の筋により御許容これ有るべく候。然るに此の御時節に至り、大義を弁えず賊徒と謀を通し、或ひは潜居致させ候者は、朝敵同様厳刑に処せらるべく候間、心得違これ無き様致すべく候事」

如何にも感情的な以下の文言は,むしろ薩長側が待ち受けていたことを言い表しています。
「現在彼より兵端を開き候上は慶喜反状明白、始終朝廷を欺き奉り候段、大逆無道、最早朝廷に於て御宥恕の道も絶え果て已むを得させられず追討仰付けられ候。」
薩長連合軍対幕府連合軍の戦力比が仮に5対15であっても、この挑発に乗ると朝敵になることから戦意その他で大きなマイナスになってしまいます。
せっかく政治的に勝ちかけていた時に下部で挑発に乗ってしまった・・、下部の暴走を止められなかったのが徳川側の失敗でした。
慶喜は京での会議で理路整然の意見を述べるには有能だったと思われるのですが、 三職会議に徳川一族の越前や尾張徳川家が入っていることや中立の芸州藩が入っていることなどを見ると、論理が先立って政治的多数派工作には不向きだった可能性があります。
上記のように相手に先手先手をとられて次第に後退して行く慶喜のやり方には徳川内部の武断派には理解不能・・譲り過ぎの印象があり、慶喜の信望が今一不足していたことが災いしたのでしょう。

大政奉還と辞官納地2(王政復古)

大政を奉還しても,「猶見込之儀モ有之候者」なおその先に見込みあるから心配するなと諸候群臣に前日に示したのは分りますが,同じ文書を天皇への上表にそのまま使ったのでは、天皇に対して失礼ですが、消し忘れだったのか意味不明です。
当時の「見込み」は(今は可能性に重心があるの)と違って、単に「この先、どうなるのか気になること・・」くらいの意味だったかも知れません。
その上で,二条城では群臣に対して「いささかの忌諱を憚らずに意見を述べよ」と言ったことになります。
諸候に示した文書では「候者=そうらわば」と仮定形になっているのに対して、天皇に対する上表分では「候得バ」と過去形(この場合の「バ」は「・・ので」という意味?)になっているのも気になります。
心配する向きが多かったので,諸候に意見を求めて欲しいといった内容になります。
確かにこの後朝廷は急いで諸候を京へ招集していますが、形勢・・様子見をするために殆どの大名が上京せず朝廷側で督促のために何回も文書を出している様子です。
11月半ばに島津が3000の兵を率いて上洛し,12月8日にようやく山内容堂が到着して、これを待って翌12月9日が岩倉らによるクーデターとなります。

慶應三年十二月八日
(実際の布告は12月9日(1868年1月3日)ですが、何故か底本では8日付らしいのです・・この日岩倉邸に集まった薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣に示した原稿が出回っているからでしょうか?
・・繰り返しますが,このコラムは私の独自の研究ではなく,ウイキペディアなどからの引用文プラス想像です。
 復古大號令布告

德川内府從前御委任ノ大政返上將軍職辭退之兩條今般斷然被
聞召候抑癸丑以來未曾有之國難
先帝頻年被惱
宸襟候御次第衆庶之所知候依之被決
叡慮
王政復古國威挽囘之御基被爲立候間自今攝關幕府等廢絶即今先假ニ總裁議定參與ノ三職ヲ被置萬機可被爲行諸事神武創業ノ始ニ原ツキ縉紳武辯堂上地下ノ無別至當ノ公議ヲ竭シ天下ト休戚ヲ同ク可被遊
叡念ニ付各勉勵舊來驕惰ノ汚習ヲ洗ヒ盡忠報國ノ誠ヲ以可致奉 公候事

一 内覽 勅問御人數國事御用掛議奏武家傳奏守護職所司代總テ被廢絶候事
一 三職人體(姓名略ス)
一 太政官始追々可被爲興候間其旨可心得候事
一 朝廷禮式追々御改正可被爲在候ヘ共先攝籙門流ノ儀被止候事
一 舊弊御一洗ニ付言語ノ道被洞開候間見込ノ向ハ不拘貴賤無忌憚可致獻言且人材登庸第一ノ御急務ニ候故心當ノ仁有之候ハ早々可有言上候事
一 近年物價格別騰貴如何トモ不可爲勢富者ハ其富ヲ累ネ貧者ハ益窘急ニ至候趣畢竟政令不正ヨリ所致民ハ王者ノ大寶百時御一新ノ折柄旁被惱
宸衷候智謀遠識救弊ノ策有之候者無誰彼可申出候事
一 和宮御方先年關東ヘ降嫁被爲在候得共其後將軍薨去且
先帝攘夷成功ノ
叡望ヨリ被爲許候處始終奸吏ノ詐謀ニ出無御詮ノ上ハ旁一日モ早ク御還京被爲促度近日御迎公卿被差立候事
 右之通御確定以一紙被仰出候事

12月9日佐幕派の占める御前会議終了により公卿が退出した後で、午後にはこれを決行して御所の9門を薩摩を中心とする兵が固めてしまいます。
これによって幕府も幕府寄りの摂関家・上級公卿の役職も全部廃止してしまい政府機関が3職(これが次の政体書で太政官制度になって行くのです)だけになるクーデターでした。
12月9日夕刻からの最初の三職・小御所会議での辞官納地論は社長を辞めるならその給与ももらえなくなるのは当然と言う論理になるのでしょうか?
しかし幕府の仕事に関しては家禄の外に役料制度があり(足高の制)役職に耐えられずに辞職した場合その役料を失うのは分りますが、先祖伝来の領地経営権まで失う謂われがないので、大政奉還と領地返納命令とは論理的に結びつきません。
社長の給与や社宅は返すとしても自宅や先祖伝来の農地・山林まで取り上げられる理由はありません。
国家全体の大政をする能力がない・指導力がない(謙遜の表現に過ぎません)ので覇者の地位を下りると言うだけで、自分の領地経営能力がないと言うものではありません。
経団連会長職をやめることと自分の会社が国家に没収されることとは関係がないことです。
ただ、朝廷(倒幕側)としては大政を奉還されても直轄領がないのでは裏付ける経済が成り立たないので、円満解決では慶喜の思惑通りに諸候会議を天皇の名で主宰するだけで、最大軍事力のある徳川家の意見が重きをなすことになってしまいます。
それでは薩長にとっては、今まで通りでしかない(これが慶喜の思惑でした)ので、ここで道理に反しても徳川家に喧嘩を売って勝負に出た・・徳川領の没収しかなかったとも言えます。
没収が成功すると薩長プラス旧徳川領の税収が新政権の経済基盤になるからです。

大政奉還と辞官納地1

大名があえなく失職してしまった流れを見ると、大政奉還後に諸候会議の議長にでもなれると思っていたら直ぐに領地返納命令→朝敵になってしまった徳川慶喜に似ています。
大名の場合巨額の借金を踏み倒していた以上は、(経営能力がないと言うことです)現在の政治感覚から言っても経営責任を取るのは当然だったと思われますが、徳川家の場合どうでしょうか?
慶喜の場合、大政奉還の理由として以下に紹介する通り「・・・政刑当ヲ失フコト不少(少なからず)今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候・・」と自ら、政権担当能力ないことを披瀝しているのですから、政権担当出来ないならばその裏づけたる領地も返納しろと言われたのは一応の理が通っています。
以下は、07/18/05「明治以降の裁判所の設置1(大政奉還)」で紹介したところですが、もう一度大政奉還時の原文を紹介しておきましょう。
大政奉還の上表文
○十月十四日 徳川慶喜奏聞
臣慶喜謹而皇国時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候况ンヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ愈 朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇国ヲ保護仕候得ハ必ス海外万国ト可並立候臣慶喜国家ニ所尽是ニ不過ト奉存候乍去猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候 以上詢


祖宗以來御委任厚御依賴被爲在候得共、方今宇内之形勢ヲ考察シ、建白ノ旨趣尤ニ被思食候間、被 聞食候、尚天下ト共ニ同心盡力ヲ致シ、 皇國ヲ維持シ、可奉安 宸襟 御沙汰候事

上表分最後の「乍去(さりながら)猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候」の文意は(前後の事情勉強不足のため)不明ですので、ここで自己流の推測で書いておきます。
「見込みの儀もこれあり候えば」・・何の見込みと言うのでしょうか?
まさか,奉還してもどうせ朝廷には運営能力などないからその後徳川家に運営を頼むしかないと言う見込みでしょうか?
上表文提出の前日、二条城に諸候またはその代人としての重臣を集めて、この上表分の下書きを披露していますが・・。
上表の前日二条城で諸候に示した下書きの最後は、以下の通りになっています。

十月十三日慶喜諸藩ニ示ス書
「我 皇國時運ノ沿革ヲ觀ルニ(以下上表分とそっくり同じです)・・・乍去、猶見込之儀モ有之候者、聊忌諱ヲ不憚可申聞候。」

同日老中副書

今般上意之趣ハ、當今宇内之形勢ヲ御洞察被遊候處、外國交通之道盛ニ開ニ至リ、御政權二途ニ相分候而者 皇國之御綱紀難相立ニ付、永久之治安ヲ被爲計候遠大之御深慮ヨリ被 仰出候儀ニ而、誠以奉感佩候、殊ニ從前之御過失ヲ御一身ニ御引受、御薄德ヲ被爲表、御政權ヲ 朝廷ヘ御歸被遊御文言等、臣子之身分ヨリ奉伺候得者、何共以奉恐入、涕泣之至候、就而者、此上益以御武備御充實相成不申候而者、決而不相成儀ニ付、各ニ於テ聊氣弛無之、前文之御趣意相貫、御武備相張候樣、一際奮發忠勤、精々可被申合候

老中副書は第二次世界大戦敗戦時の「耐え難きを耐え・・」と似たようない言い回しで,「殊ニ從前之御過失ヲ御一身ニ御引受、御薄德ヲ被爲表、・・・何共以奉恐入、涕泣之至候」と感激した上で、この上は、一致団結して諸候はいよいよ武備を怠らず忠勤に励むようにと言う内容です。

藩札処理と富裕層の没落

廃藩になった藩の発行済藩札を政府で責任を持つと言っても、現在の民事再生法による再生計画同様に殆どが棒引きされ、残った僅かの債務を長期年賦で払うようなものでしたので、各大名家に貸し込んでいた幕末の豪商だけではなく・・各藩地元の裕福な人たちは殆ど全部破綻(リーマンショックで持ち株が紙くずになったようなものです)してしまい、新興の三菱などと入れ替わってしまうので、一種の社会革命を引き起こしたことになります。
鴻池や三井家など江戸時代から生き残って現在に連なる事業家も結構いますが、その時代その時代に合わせて儲けていけるフローの事業所得能力のある事業主は生き残れて、過去の蓄積だけを頼りに生きて行く・・新たな時代に適合出来ない事業主は没落して行ったことになります。
これは敗戦後の超インフレで、新円発行による既存有価証券等保有者の権利をほぼ全面的に奪ったのと同じやり方・旧資産家の没落・・能力と乖離している現状変更・・入れ替え戦を容易にしたことになります。
薩長土肥など有力藩の場合デフォルト状態ではなかった・・その領内の豪商はそのまま返済を受けられたのに対し,財政的に行き詰まっていたその他の藩では,デフォルト率・・市場価値が低かったでしょうし,まして朝敵側の領民は殆どがデフォルト状態の藩に貸したり藩札を保有していたのですから,殆どが無一文になってしまった可能性があります。
たとえば戊辰戦争で官軍が攻めてくると言う時に,領内の資産家は返してくれるかどうかの基準ではなく、ともかく求められれば資金供出に応じたでしょう。
明治になって,元朝敵だと言うことで不利だっただけではなく,戦火で家を焼かれ経済的にも困った人が一杯出たときに、領内等しくみんな貧しくなってしまっていて,困った人を世話を出来る裕福な人がいなくなってしまったのです。
デフレは既得権(高齢者は自分の過去の能力・大名など先祖の能力に頼って生活する人=現在の能力以上の生活が出来る)人に有利で、インフレは現役・・現在の適応能力のある人に有利に働くものであることは昔も今も変わりません。
我が国高度成長期のインフレは持てるものに有利に働いたのは、土地価格の高騰による諸物価のインフレだったから、土地所有者・・概ね先祖伝来のものでしたから社会適合能力以前の既得権益層に有利に働いた例外です。
ちなみに大名家発行済の藩札・・正式には当時藩とは言ってなかったので、私発行札と言うべきでしょうが、適当な熟語がないのでここでは便宜藩札と書いていますが、兌換を表面上約束していたようですが、徳川家発行の貨幣と違い金銀の裏付けを実際上持っていなかったので・・小切手や一種の社債みたいなものだったと言えます。
(特定商品引換券的な藩札もあったようです)
今で言えば破産や会社更生法適用申請の場合経営権がなくなりますが、民事再生法による申請の場合旧経営陣は経営を続行出来ますが、大名による版籍奉還はこれの明治版を狙っていたのです。
これに対して、大和朝廷成立時に服属した各地豪族は自分の領地経営に困っていた訳ではなく、中央での大勢が決まってしまったので仕方なしの服属・・豊臣政権成立後の徳川氏その他の戦国大名や関ヶ原後仕方なしに徳川氏に服属した大名と同じでしたから、内容実質が違っていたので中央集権化の貫徹が難しかった違いとなります。
いわゆる徳政令の代わりに、今の民事再生手続きみたいに何十分の一しか支払わないことにすれば、その代わりに経営者責任をとって貰うことになるのは当然です。
大手銀行や日本航空(今後は東京電力もその仲間入りでしょうが,)その他公的資金の注入を受けたり債券カットしてもらう以上は、経営者が責任を取って退陣するのが(法律の有無にかかわらず)普通です。
大名は版籍奉還をして(債務整理の責任を逃れて)も直ぐ知藩事に任命されたのでやれやれと思っていたら、廃藩置県と同時に07/19/05「藩の消滅(廃藩置県2)」で紹介したように突如無能呼ばわり「・・然ルニ数百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ・・・」とされて一斉にクビになってしまいます。
「万国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシムヘシ」・・・「政令多岐ノ憂無ラシメントス」と言うのは各地別に自主的な法令が施行されているのではなく全国統一の政令による・・すなわち中央集権国家化への方針の宣言です。
廃藩置県の詔書をもう一度紹介しておきましょう。

   詔書
朕惟フニ更始ノ時ニ際シ内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セント欲セハ宜ク名実相副ヒ政令一ニ帰セシムヘシ朕さきニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ新ニ知藩事ヲ命シ各其職ヲ奉セシム然ルニ数百年因襲ノ久キ或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対峙スルヲ得ンヤ朕深ク之ヲ慨ス仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ政令多岐ノ憂無ラシメントス汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ
七月十四日(明治4年太政官布告 第353)

続けて次の太政官布告で07/20/05「藩の消滅(廃藩置県4)」で紹介した通り、大名だけクビになって家老(大参事)以下はそのまま働くことになります。

明治4年7月14日 (太陽暦1871年8月29日)明治4年太政官布告 第354
今般藩ヲ廃シ県ヲ被置候ニ付テハ追テ 御沙汰候迄大参事以下是迄通事務取扱可致事

版籍奉還(明治2年6月17日・太陽暦:1869年7月25日)に応じた大名にとっては、僅か2年後の廃藩置県(明治4年7月14日(1871年8月29日)と同時に失職するとは、思いもよらない青天の霹靂だったようです。
久光が騙されたと怒ったことはよく知られています・・。
九州場所で魁皇が勝つと花火をあげる地元ファンがいるのは有名ですが、ヤケでも花火を上げる事例が明治初年にはあったこととなります。

廃藩置県と藩の負債処理

話を明治までの地方の名称であった国から縣へ変えた意味に戻しますと、半独立性の強い区域を表す国から中間管理職・任命制の地方長官が管理する「縣」の漢字の意味に合わせたことになります。
国のママでは半独立性があって中央集権を貫徹出来ない恐れ・・奈良時代の律令制導入が失敗に終わった経験から国のママでは都合が悪いと思って国を縣に戻したことになります。
我が国では縣を地方制度トップにするのは初めてのことであって旧に戻した訳ではなく、中央集権制で3000年も継続して来た本来の中国の制度に戻したと言うことでしょう。
このとき中国の古い制度を真似するのならば郡が上にくる郡県制であるべきですが、明治時代の中国では既に郡制がとうの昔になくなっていて省府縣制であったことも影響があったかも知れません。
ちなみに、真水康樹 氏の研究によりますと、秦の乾隆帝(乾隆35年といえば1770年頃?)以降の地方制度は省府縣制(直隷州を含む)だったようです。
これは府の下に縣が来る制度ですが、我が国明治以降の府縣制度は府と縣を上下関係ではなく対等にしている(今も上下関係がありません)点が違っています。
省を第1級の行政単位とする清朝の制度が、現在の中華人民共和国の省制度に繋がっているのです。
明治の版籍奉還が成功したのは、江戸時代中期以降には殆どの大名家が財政赤字に苦しんでいたことにあります。
大名家を取りつぶすだけならば、その大名の借金に将軍家は責任がありません。
しかし,版籍をそのまま引き継いだ以上・・会社で言えば吸収合併したようなものです・・引き継いだ政府の方で責任を引き継ぐしかないでしょう。
各大名家では財政改革(上杉鷹山その他が有名な大名家がいくつもあります、佐久間象山など改革で名を挙げた人物もたくさんいます)が行われていたことはご承知の通りです。
徳川家自体では享保、寛政、天保の三大改革がありますし、財政改革にある程度成功していた大名家は少数だったからこそ、彼らは幕末に発言力を持つのです。
大多数の大名家では財政赤字のために元々窮乏の極みにあって、地元商人層からの借金で首が回らなくなっていただけではなく、領内流通の紙幣類似のものを発行していて(当時は藩と言う名称がなかったので藩札と言う概念はありません)これが財政赤字に伴い累増していたのです。
成功していた大名家でも幕末動乱期になると無理して洋式兵器を買いあさったり、戊辰以降の兵役に参加せざるを得なかったりして、緊急の軍資金確保(戦争参加には巨額資金が必要です)のために大量の大名家家発行の紙幣類似のもの・・結局は借用証文みたいな効力ですから、国債や社債に似ているものの、小口ですから小切手みたいなものだったと言えます。
財政改革に成功していた大名家でも、幕末動乱で資金を使いはたしていましたので大量発行の藩札(慶応4年6月の政体書で藩と言う名称が生まれていますので、版籍奉還の頃には藩札と言うのは正しい)を償還することが不能になっていました。
朝敵になったことで有名な長岡藩(河合継之助のいた藩です)その他経済苦境にあった大名家は、一斉の版籍奉還前から独自に領地返納の申し出でをしていたくらいです。
多くの藩では発行済藩札や豪商に対する借金の支払不能状態・破綻状態でしたので経営権の返上を望んでいたことにあります。
今で言えば、経営破綻した銀行や企業を国有化してもらって自分は経営権を維持しようとする虫のいい思い込みです。
財政赤字の責任を明治政府に持って貰って、自分は責任をとらないまま藩知事に残れると言う都合(虫)の良いことを考えていたのです。
政府の方もこれに応えて版籍奉還後元藩主を知藩事に横滑りさせた(古代の国造を郡司に横滑りさせた例もありました)ので大名の方は安心したのでしょう。
政府は藩を承継した形ですから借金の責任を取るのですが、版籍奉還直後から藩札(この時には正式に藩と言っていましたので名称はあっています)回収命令を出し、これを市場価格で査定して回収することにしていました。
幕末混乱期の財政難のために各大名家では幕末から明治にかけて膨大な額の発行をしていたことから、殆どの藩ではデフォルト状態ですから、市場価格での政府負担・償還となれば、藩札保有者・債権者は表面価格の何十分の一に低下した市場価格で政府発行の紙幣を受け取ることになります。
債券が大暴落した時に額面で買い取ってこそ政府保障の意味ですから、市場価格で支払うと言うのでは、政府が責任を持ってやった事にはならないでしょう。
明治政府の紙幣発行制度について、01/16/07「不換紙幣と中央銀行の独立性1」で少し書きましたが、日銀券の発行が1885年に始まり、統一紙幣になったのは1889年のことでした。
廃藩置県(明治4年)の頃には、政府発行紙幣さえ存在しない時代でしたので、実際に政府から紙幣を受け取れたのは何十年後だったようです。

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