住民登録制度5(改正と運用定着の時間差)

本籍だけで管理していて住民登録制度がないと国民の現況把握が出来ず不便ですので、政府の方でも次第に現状把握方式を充実して行きました。
と言うよりは、元々人民の現況把握の手段として出先の把握だけではなく親元でも把握しようとたことが、寄留地把握と本籍把握の二本立て制度の始まりとすれば、徐々に現況把握制度を充実強化に励むのは当然の成り行きです。
本来過渡期の把握手段である本籍制度は、寄留値把握制度が充実した時点で御用済みになっていた筈です。
March 5, 2011「寄留地2(太政官布告)」March 6, 2011「寄留者の管理と神社1」で紹介したとおり大正3年には寄留法が出来、昭和27年に戸籍管理と切り離した住民登録に関する法律が施行されているのですが、法律が出来たとしても直ぐには実施・・浸透しませんので、住民登録が一般化して来たのは(私のおぼろげな記憶によれば)昭和30年代半ば以降頃に過ぎません。
私の子供の頃にはまだ住民登録制度が定着していなかったのか、あるいは身分証明制度がなかったからか、どこかに行く・・例えば修学旅行先の旅館で食事を出してもらうためには、米穀通帳持参(1981年に廃止=昭和56年)の時代でした。
法律と言うものは作ればその日から実行出来るものではなく、準備に年数がかかります。
民法応急措置法の精神(家の制度廃止)によって戸籍制度も抜本的に変わるべきでしたが、これに基づき昭和22年に戸籍法の改正が行われましたが、実際に核家族化に向けた改正の準備が出来たのは昭和32年頃で、(昭和32年法務省令第27号・・33年から施行)でした。
これによって全国の戸籍簿を各市町村で徐々に書き換えて行き、(これによる改正前の戸籍を改正原戸籍と言います)全国的に完成したのが、漸く昭和41年3月でした。
(完成の遅れた市町村ではそのときまではまだ古い戸籍方式の登録が行われていたのです)
それまでのいわゆる原(ハラ)戸籍を見れば分りますが、戸籍謄本の最初に前戸主と現戸主が書いてあって、その妻子や戸主の兄弟姉妹(結婚して他家に入ればその時点で除籍)とその妻子・孫まで全部記載されています。
分家して独立戸籍を興さない限り一家扱いで、弟の妻子まで家族共同体に組み込まれる仕組みでした。
コンピューター時代の到来に基づき、コンピューター化に着手したのが平成の改正で、この結果横書きに変わりましたが、コンピューター改正前の戸籍も改正前原戸籍と言いますので、今では相続関係の調査に必要な戸籍には、昭和の原戸籍と平成の原戸籍の2種類があることになります。
登記のコンピューター化が始まっても全国の登記所がコンピューター化し終えたのは、20年前後かかって全国で完成したのはまだここ数年の事でしょう。
昨年春離婚した事件で、都内錦糸町の数年前に買ったばかりの高層マンションの処分に際して、当然コンピューター化していると思っていたら、購入時の登記では権利証形式(以前紹介しましたが、コンピューター化した場合・権利証から登記識別情報に変わっています)だったので驚いた事があります。
寄留法が30年も前から施行されていたと言っても、住民登録制度が始まってもその日のうちに国民を全部登録出来るものではないどころか、国民の届け出習慣の定着・政府側の実態把握の完成等に時間がかかり国民全部を網羅するには15〜20年程度は軽くかかってしまった可能性があります。
その完成を待って昭和42年の住民基本台帳制度(・・これが現行制度です)が出来たと思われます。
このように改正経過を見ると戦後の戸籍法制度改正は昭和41〜2年頃までかかっていたので、それまでは制度的には過渡期で戦前を引きずっていたことになります。
国民の意識も急激には変わらないので、このくらいの時間経過がちょうど適当だったのかもしれません。
私の母は明治末頃の生まれですが、私の長兄が結婚した時に戸籍から長男が抜けてしまってるのを知って、とても驚き寂しそうに私に言っていたのを思い出します。
今になれば結婚すれば新戸籍編成になって親の戸籍から自動的に除籍されるのは当然のことで誰も驚きませんが、昭和30年代には親世代にとっては(まだ自動的に抜けるようになった仕組みを知らない人もいて)子供が「籍を抜いてしまった」と衝撃を受ける時代だったのです。
明治始めの戸籍制度は即時(半年後程度)実施制度でしたが、これは元々生まれてから家族として籍(人別帳)にあったものを無宿者として積極的に除籍していたのを、今後は除籍しては行けない・・一旦除籍してしまった無宿者をもう一度籍に戻すだけだったので、即時実施でも家族意識に変化がなく問題がなかったと思われます。
戦後の核家族化への改正は、(同居していても結婚すれば)積極的に籍から抜く強制だったので、意識がついて行けない人には抵抗があったのでしょう。
戦後改正は天地逆転するほどの意識改革であったこともあって、実施・定着には時間がかかったのです。
我々法律家の世界でも現在通用している最高裁の重要判例は、昭和30年代後半から40年代に集中しているのは偶然とは言えないかもしれません。

戸籍制度6と家の制度4

 

こう着状態に陥った(と言えば小康状態のイメージですがそうではなく、より危険な方向に進んでいる様子ですが、直ぐに慣れてしまうのが不思議です・・)原発問題を一旦休憩して、いつものコラムMarch 26, 2011「家の制度3と戸主の能力」の続きに戻ります。
親の家から出て行っても無宿者(死んでようが生きていようが数のうちに入れない無責任放逐制度)にするのをやめて、等しく国民として管理し、制度的に待遇するには効果から考えれば住民登録制度が合理的です。
戦前でも徴兵や配給制度などは、現況を把握している寄留簿から行っていた筈です。
本籍を基準に編成・登録する戸籍制度が出来上がったのは、明治の初めは現地で登録するシステムがなく個々人の登録は血縁による戸籍簿しかなかったので、東京等大都会に出て行っても出身地での登録に残しておくか無宿者になるかしかない二者択一制であった過渡期の産物として始まったことが分ります。
ただ、戸籍登録の始まりは、当然のことながら住所地の戸口(当時は地番制度がありませんでした)ごとに編成したのですが、安定した住所地ではない寄留の場合にその人の特定のために本籍(出身の家や親の氏名)を書き込む必要があって、言わば本籍と現住所登録が未分化の時代だったことによります。
これが観念的な本籍と現住所とに分離して来た(住所のウエートが高まって来た)のは、明治20〜30年代になって郷里から離れた都市住民が増加してそこで結婚して所帯を構えて根を生やして来たし、現住所登録の技術・方法も定着して来たのですから、実は旧民法・現行制定のときから現住所登録を基準にして、出身地別登録を廃止すれば良かったことになります。
元々これまで書いている通り、戸籍制度の始まりはその時に存在した一家・所帯持ちの所在地登録から始まったもので(遠い先祖の出身地を問いませんでした)すから、明治2〜30年頃に新たに都市住民として定着した(・・少なくとも夫婦になって所帯を持った場合)場所を基本に更に登録し直しても何も変わらなかった筈です。
明治2〜30年代には、結婚すればその時に住んでいた場所を新本籍を決めることが出来る現在同様の制度採用のチャンスでもあったのです。
これを採用していれば、今の住民登録制度だけで間に合っていた筈です。
ところがこの頃には,維新以来息もつかないでやって来た急激な社会変革反発する反動思想が渦巻いていて、民法典延期論争が起きたくらいですから,いわゆる「醇風美俗」を守れの運動と妥協するしかなくなって、家の制度を逆に強化するしかなくなったのが,明治20年代だった思われます。
(旧民法も結構家の制度に気を使って妥協した条文にしていたらしく、結果的に現行民法が出来てみるとそれほど変わらなかったらしいので,言わば反対のための反対だったとも言えます。)
ここまで進めば、壬申戸籍で書いてあった身分・・士族か否かなどは個人特定には意味がないように、「出身地を現す本籍って何故必要なの?」と言う、疑問がわいてくるのが普通の思考回路でしょう。
(今では、初対面の誰かと会った時に出身地や本籍を説明されても意味がないし、それどころか兄弟姉妹の名前を言われても、その人の特定にあまり関係がないでしょう。)
それなのに、戸籍制度がせっかく充実して来たことから勿体ないと思ったのか、元の出身地を基本にした制度そのまま更に精密化する方向に進んでしまったのがその後の日本だったと思えます。
とは言え、現況把握の必要性も無視出来ず、既に紹介したとおり大正3年には寄留法が制定されたので、以後国民管理制度は現況把握とそれ以外(・・何の目的か不明ですが・・・先祖のルーツ探しには役立つでしょうから国営の系図業務みたいなもの)の二本立てになって現在に至っています。

放射能の危険性2(管理区域)

前回書いたように放射能の危険性については科学的には何も分っていないので、どこまでが危険かさっぱり分らないで,国民が右往左往していることになります。
放射能関連業務を行う危険な区域に関しては、以下の法律とこれを受けた規則で「管理区域」が設定され,この区域内の作業が厳格に制限されています。
これが国民の避難基準として使えるのでしょうか?
人によっては,この管理区域の基準値以上の放射能が毎日出ている地域住民には当然避難させるべきだとう意見があります。
一見もっともらしい・・プロでも危険な水準とされる区域以上の放射能があれば危険に決まってるじゃないか・・・と言う論法です。
私もその意見を読んだ瞬間には尤もだと共感したのですが,本当にそうでしょうか?
上記規則は,この後に原子炉やレントゲン等の放射能作業関連の規則(部屋の遮蔽や労働時間など)を書いているのですが,人工放射能値が自然界よりも高い区域であるので、注意をするために特に放射能の管理区域を設けてその区域内だけで人工放射能を放出するようにし、作業員にも特別な注意を要求した上で,一般人が立ち入らないようにしたものです。
3月27日に書いたように、人工的且つ急激な被爆や摂取は,(砂糖でも塩でも水でも)人体の防御力・回復力を上回る量の摂取は一度でも駄目ですし、回復力の範囲内であれば、時々大量の被爆・・激しい運動やお酒を飲んだり徹夜しても回復出来る程度の間隔を空ければ良いことになります。
健康状態に応じて、健常人ならば許容範囲の運動でも心臓病の人には限度を超えるなどの違いがあります。
回復力範囲内の負荷ならばその直後は休ませるなどすれば回復出来るのですが、間隔を空けないで持続的に放射能を浴び続けることは危険を伴うので作業環境として労働者の安全を守るために規制するべきは当然です。
(深夜徹夜労働などを続ければ疲労の蓄積がありますが、年に一回程度なら殆ど問題がないのと同じです)
そのために許容範囲・最高レベルの被爆限度を定め,且つ短期間に連続被爆し続け・回復出来なくならないように3ヶ月間の累積被爆量の最大を定めたものです。
しかし,食事で言えば暴飲暴食を連続せずにその翌日は絶食するようなもので、管理区域内と言えどもX線などの放射線は、これを人工的に出さない限り日常的には自然界と同じです。
要するにレントゲン室内でもゼロの時もあれば極端に高い時もあると言う仕組みです。
これを平均値で見ることに何か意味があるのかの考え方です。
たとえば、徹夜残業1週間おきに繰り返す過酷な労働環境でも一ヶ月平均睡眠量が、7〜8時間あれば健康に問題がないとする基準があった場合を考えてみましょう。

健康を維持するのに最低の条件である過酷な労働でさえ平均7〜8時間の睡眠が必要だから、毎日7〜8時間の睡眠環境で生活するのは危険だと言うことなるのでしょうか?

法及び政令を受けたこの規則では,3ヶ月間の放射線量が1、3ミリシーベルト以上の区域を管理区域として設定し,標識を立て,出入りを厳しく監視し、作業員には一定期間ごとの健康診断も義務づけています。
3ヶ月間の被爆線量合計が1.3ミリシーベルトを超える区域は、これが人工的に生成したものかどうかに拘らず避難命令区域にすべきか否かの議論です。
管理区域の平均値を超える状態で放置しているのはけしからんと言う論者は,自然界の平均値と一時的・強力な人工照射の違いを意図的にすり替えている可能性があります。
以下規則から見て行きましょう。

電離放射線障害防止規則
(昭和四十七年九月三十日労働省令第四十一号)
最終改正:平成二三年一月一四日厚生労働省令第五号

労働安全衛生法 (昭和四十七年法律第五十七号)及び労働安全衛生法施行令 (昭和四十七年政令第三百十八号)の規定に基づき、並びに同法 を実施するため、電離放射線障害防止規則を次のように定める。

第二章 管理区域並びに線量の限度及び測定

(管理区域の明示等)
第三条  放射線業務を行う事業の事業者(第六十二条を除き、以下「事業者」という。)は、次の各号のいずれかに該当する区域(以下「管理区域」という。)を標識によつて明示しなければならない。
一  外部放射線による実効線量と空気中の放射性物質による実効線量との合計が三月間につき一・三ミリシーベルトを超えるおそれのある区域
二  放射性物質の表面密度が別表第三に掲げる限度の十分の一を超えるおそれのある区域
2〜3省略
4  事業者は、必要のある者以外の者を管理区域に立ち入らせてはならない
5  事業者は、管理区域内の労働者の見やすい場所に、第八条第三項の放射線測定器の装着に関する注意事項、放射性物質の取扱い上の注意事項、事故が発生した場合の応急の措置等放射線による労働者の健康障害の防止に必要な事項を掲示しなければならない。
(原子炉施設における作業規程)
第四十一条の四  事業者は、原子炉施設(核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律第二十三条第二項第五号 に規定する原子炉施設をいう。第五十二条の七第一項において同じ。)の管理区域内において、核燃料物質若しくは使用済燃料又はこれらによつて汚染された物を取り扱う作業を行うときは、これらの作業に関し、次の事項について、労働者の放射線による障害を防止するため必要な規程を定め、これにより作業を行わなければならない

ところで、あちこちに単位が輻輳していてややこしいので,(我々文系の人間には混乱の基です)福島県を除く各県の放射能測定結果の公表が毎時マイクロシーベルトの単位で行っているので,これに換算しておきます。
1、3ミリシーベルト=1300マイクロシーベルトです。
そこまでは良いのですが,これを1時間当たりの平均に直して自然界と比較するのが妥当かの問題です。
論者は,これを1時間当たりに直すと1300÷90日÷24=約0.6マイクロシーベルト毎時を超える区域では、管理区域を設定すべき状態の言わば危険区域に該当するから、0.6マイクロを越えている地域は避難命令を出すべきだ、しない政府は怠慢だと言う印象を与える意見です。
しかし危険作業と言うのは短時間に一定基準以上の放射能を浴びるから、(一時に大量に浴びる・・あるいは短時間に連続して一定量以上浴びると人間の回復量を越える危険があるから規制しているのであって,これを平均時間に割っても意味がありません。
人には復元力があって,一定の放射能を浴びても一定期間で体内で復元して行きますが,短時間に繰り返し高濃度汚染を繰り返すと,その能力に余ってしまう危険があります。
これは普通の疲れでも同じで渾身の力出して後一定時間はもう一度同じ力が出ませんが時間の経過で元に能力が戻ります。
寝不足でも同じでしょう。
ですから一回の被爆量と,間隔を置いた繰り返しが重要なのであって3ヶ月の平均値を出しても意味がありません。
徹夜を短期間に何回も繰り返すのは危険ですから、一定期間に何回と決めたとして,その平均睡眠時間以下が危険とは言えません。
一度にⅠ0キロgの水を飲んでは行けないとして,これを365日で割って,一日当たり摂取量を計算してそれ以上は危険と言うことはないでしょう。
短時間に高濃度汚染をした場合,繰り返しても最高3ヶ月で1.3ミリシーベルトまでと決めたことから、だらだらと日々0,6マイクロでも危険区域になる訳ではりません。
逆に年間累積数値に戻すと、0.6マイクロ×24×365=5256マイクロシーベルト・・即ち年間5.256ミリシーベルトに過ぎません。
世界平均自然放射能数値が、2.4(日本の場合1.5)ミリシーベルトですし、一回の胃X線写真が6.4ミリシーベルト(急に引き上げたかも知れず信用性がないですがウイキペデイアの3月27日の表示です)等々の数値から見ても,平均して年間にしてみるといろんな数値に比べて管理区域の数値基準が却って低くなってしまう矛盾があります。
短時間被爆・・一回あたりの許容範囲を前提にした数値を、平均値に割り直して・・一般生活基準に当てはめて危険かどうかを議論するのは間違いだと分ります。
結局は年間平均ほぼ毎日平均値前後の放射能を浴び続けた場合、どのくらいの数値で何年以上住むと危険かの議論に戻るしかないのです。
昨日書いたように,この基準が分らないからと言って、労働者の安全のために念のために設定した管理区域の基準をここに持って来ても意味がありません。
管理区域の基準を一般生活者にも当てはめるのが妥当かどうかは別として,データ自体は欲しいものです。
全国の放射能測定データがネットに出ているのに肝心の福島県のデータは何故か白紙のまま・・公開されていなかったので・・これなども不信感を抱く根拠です・・素人の私にはネット以外に福島県の放射能値入手方法がなく不明でした。
漸く官邸のホームページに23日にスピードネットワークシステムの試算結果が発表されました。
また27日10時には,20km圏と30km圏付近の26日7時10分から19時30分までの直近の?数値が発表されています。
約12時間の合計かと思ったら、直近数値と言うのですから合計ではなく直近1時間の(と言うことは最後に計った?)数値のようです。
(12時間計ったなら合計して平均値を出すなどした方が良いでしょうが、直近とは最後に計った数値だけと言う意味でしょうから,不明朗・・分りにくい開示です。)
28日には漸く平均値として出るようになりました。
ここは27日に書いておいた原稿ですので,27日発表分に基づく意見です。
20kmでは,ほぼ北側で8.8、ほぼ南西で0.6、ほぼ南側で3.2、30km付近のほぼ北側で1.3、21,20、波江町の原発寄り付近では45.0、49.0の地点が重なっていていて、もう少し西によるとⅠ,8,1.6、0.7などが集中しています。
60km前後離れた伊達市が5.0になっています。
南側では,2.3、2.1になっていて,45km前後のいわき市まで下がると漸く1.0となっています。
福島県全域までは出ていませんが,1時間でこんなにあると、北または北西部分ではかなり遠くまで管理区域設定に必要な0.6マイクロ毎時を大幅に超過する放射線量であることは間違いがないでしょう。
ただし,宮城県の詳細を見ると1マイクロ以上の場所がないようですから,1マイクロ以上は福島県内に限られるようです。
管理区域の規制は短時間に集中して放射線を浴びる作業の特性・弊害から定めたものですから,長期間の居住者とはその作用効果が違うことはこれまで書いてる通りですが、この数値が3ヶ月以上続くとした場合、短時間大量被曝の作業目的の管理区域同様,または類推して観察・注意をする場所・・一応「注意基準」とするのは現時点では外に基準がないので一応合理的な感じです。
繰り返しますが、放射能を長期間に浴びた場合どの量までなら危険と言う科学基準がそもそもないのです。
まして短時間大量被曝の危険基準を平均化しても意味がありません。
砂糖を1年に一回でも一度に2〜3kも飲み込むのは危険ですが、これを1年で割って平均値の量摂取でも危険と言えるかは別問題です。
これでも危険だと言う意見によるとした場合、一日平均0.6マイクロ以上の地域に対して危険区域の指定をしない県知事は違法なのでしょうか?
上記の通り管理区域の設定は1日平均に直すと0.6マイクロシーベルト以上ですが,福島県知事や当該市町村長は事業者ではないし、人工的な設備でもないので、この管理区域設定または注意喚起程度もしなくとも違法ではないと言えるでしょう。
(武田教授の意見では違法であると言うニュアンスですが、この点は私と見解が違います。)
違法ではないとしても事業者が届けなければならないような危険区域として、特別な作業員の働く特別な空間である管理区域・・しょっ中放射能測定しながら作業するような管理区域以上の放射能数値の区域に一般の生活空間があって良い筈がないと言うのは(上記の通り一時被曝と長期被曝とは基準が違うのですり替え論理であって1種のデマゴーグですが)説得力があります。
放射能汚染の実害がさっぱり分らない状態では、基準を決定する基準は(前回書いたように)国民の不安心理の強度によりますから、この種のすり替え論理の威力は強力です。
今になるとアメリカ大使館の80kmまでの退避勧告そのものは、北西区域に限っては危険を煽ったどころか控えめだった・・不安感の強い国民心理に照らして正しかったことになります。
仮に平均値を基準にするのが正しいとしても、管理区域は危険なので要注意の区域と言うだけであって,直ちに(言い古された誤摩化しっぽい概念ですが・・・)被害が出る数値ではない・・そこにいるだけで被害が出るならば作業員も同じ人間ですので作業出来ませんので,そこは概念が違うので注意が必要です。
数日で緊急避難を命じるほど急ぐ必要があったかどうかは別問題ですが、例えば伊達市の5.0マイクロシーベルト毎時の場合,年間で43.8ミリシーベルトになりますから,危険な作業従事者の年間被爆最高限度の50ミリに近い数字です。
(一日中外にいないので,実際にはもっと少なくなくなります)
一日中外にいても3ヶ月で約1ミリシーベルトですからⅠ〜2ヶ月住んでいてもどうってことはないのですが、このままの数値が続く場合半永久的に住むのは危険でしょう。
(「しょう」と書くのはどこまでが危険かの基準がないからです)
防護服もなしに一般人が長く住み続けるには危険だとすれば、何の注意報も出さずに放置しておくのは国民・県民市民の安全確保の責務のある国や自治体の長の(違法ではないとしても)責任です。
事業者は前記規則第3条5号にあるように見えやすい場所に表示する義務があるのですから、これに類するアナウンスぐらいはするべきです。
それが逆に福島県に限って放射能数値さえネットで発表しなくなっていたのが不思議でした。
24日に書きましたが,情報不足に多くの批判があったからか,最近原発周辺の数値が県別とは別に細かく載るようになりましたが、原発周辺以外の県内の表示がありませんでした。
原発事故の解析には,敷地内や周辺情報開示が必要ですが、一般生活者の行動指針としては,正門付近の高濃度情報を見ても逃げる必要があるかどうかの判断基準にはなりませんから、一般生活指針向けの数値と両方必要です。
まじめに国民のために測定するならば,20km圏、30km圏、40km圏、50km圏等200k付近まで10km単位での複数地点以上の測定をしてその情報を誰でも手軽に見られるようにネットで出すべきでした。
30kmまでは上記のとおり27日に漸く官邸のホームページで発表になりました。
風向き等によって,僅か数キロ先でも大きく数値が変わることがあるので,(上記官邸発表の数値でも,すぐ近くでも大きく数値が違っています)きめ細かな測定点が必要です。
雲の動きを見れば分りますが,空気中の粒子の移動は平均して薄く移動するのではなく,ある程度固まって移動する・・・青空が雲の間に見えるのと同様に,放射能数値もムラがあるのは当然です。
官邸が公表を始めたのは一歩前進ですが、風に乗って流れてくる数値にムラがあることを前提にすればもっと多数地点が欲しいものです。
たとえば、千葉県で一箇所しかありませんが,これでは少なすぎます。

寄留者の管理2(旅館業法1)

戸籍制度整備・・準備が進むに連れて、お寺の従来の権限をどうするかの議論が当然あったでしょうが、宗派の管理は明治政府にとって重要なことではなかったので、住所登録まで行かない現地所在場所の管理・・現況把握の必要性だけが議論になって行ったのでしょう。
現地登録制度がないままですとせっかく除籍(江戸時代の無宿者扱い)を禁止しても、親元で息子の居場所についていい加減な場所を申告しているかどうかの突き合わせが不可能になります。
寄留者の滅多にいない農村地帯は別として都会では、寄留者の比率が高かったでしょうから、これが現にどこにどのくらい住んでいるかの把握が行政上必須です。
前回書いたように代々の居住者よりは、移動性の高い人物の方が政府にとってはより把握の必要性が高かったからです。
現在でもホテル等に宿泊するには宿泊者名簿の記載が法律上要求されているのはこのためです。

旅館業法(昭和二十三年七月十二日法律第百三十八号)

第六条  営業者は、宿泊者名簿を備え、これに宿泊者の氏名、住所、職業その他の事項を記載し、当該職員の要求があつたときは、これを提出しなければならない。
2  宿泊者は、営業者から請求があつたときは、前項に規定する事項を告げなければならない。
第十二条  第六条第二項の規定に違反して同条第一項の事項を偽つて告げた者は、これを拘留又は科料に処する。

ホテルに泊まる時に、浮気がばれないように気楽に偽名で止まる人がいるかもしれませんが、上記のとおり、お上のご機嫌に触れるとこの法律を楯に言いがかりみたいな嫌疑でイキナリ身柄拘束されても文句言えません。
その議論の中で現地登録機関・・身分証明書発行程度の機能をどこに認めようかとなったと思われます。
明治初期には、行政組織による管理・把握に不安があったので、全国展開している組織であるお寺か神社に・・従来どおりお寺に任せるか、新たに神社に任せるかの議論は当然起きたと思われますが、3月5日に紹介した明治4年太政官布告322によれば、過去のいきさつがあって神社に軍配が上がったものと思われます。
徳川政権の人民管理の下請け的立場にあったお寺に対する反発と今後日本は神道で行くと決めた方向性もあり、さらにはお寺は葬式仏教化していて、お寺参りなどは先祖のあるところで行うに過ぎず、寄留地・出先にいる人がその近くのお寺には縁が薄いことから、現況把握に向かない点もあったでしょう。
どういう議論があった結果か分りませんが、結果として上記太政官布告によって神社が寄留者にお札を授けることになり、その受付簿を整備して行けば・戸籍地に同居していない寄留者管理用の名簿を現地で備えられる方向に発展可能だったことが推測出来ます。
これが寄留者登録機関として発展しないで、何故消滅してしまったかの関心でこの辺のコラムを書いています。

寄留者の管理1

 

江戸時代でも宗門人別の手続きの実際は、お寺で宗派の認証を受けてそれを村役人に届けて名主等の村役人が署名して村役人が管理する仕組みでしたが、明治になって、お寺の認証を経る前段階がなくなった点が江戸時代の人別帳と庚午戸籍以降の戸籍制度の関与機関の相違と言えます。
05/09/10「お寺の役割4(宗門人別帳1)」前後で書いたように、江戸時代の人別帳制度始まりの動機が切支丹選別にあって、同時に切支丹と結びついた時には戦力になる浪人の締め付けをすることにあったのに比べれば、明治では切支丹の選別よりは、旧幕臣を中心とした不穏分子の動態把握にあったのですから、宗派の認証は二の次でした。(旧幕臣が切支丹である可能性は低いでしょう)
この時期の脱藩浪人は、失業者と言うよりは、主家に迷惑をかけないように自ら脱藩して何とか薩長土肥政権に意趣返しをしたいと言う者が多かったこともあります。
徳川政権初期も失業武士は元豊臣方残党か幕府によって取りつぶされた大名家の元家臣が中心ですから、元々徳川政権に対する不満分子でしたし、明治初期の廃藩置県前の失業武士もその多くは旧幕臣や元会津藩士などいわゆる賊軍系・・薩長土肥政権からすれば旧敵方の残党とも目される武力グループでした。
徳川初期にはこの不満分子の武力・エネルギーが切支丹と結びついて大事件になったものですし、明治では、これが新政権のお膝元となるベき東京に住み着いていたのですから、なおリスキーでした。
ちょうどエネルギーが上野の山に溜まったところで、徳川政権の残党とも云うべき者達のエネルギーをまとめて叩きつぶして、(慶応4年=明治元年5月14日僅か1日の作戦で)不満分子を江戸から潰走させ、他方で彰義隊に参加しなかったものに対しては懐柔策として前回(3月7日)書いたように静岡茶の栽培その他の開拓に誘導して行ったので、(北海道開拓などは旧賊軍系元藩士が中心でした)旧賊軍系を中心にした不満分子に対する問題は解決を見ました。
この後は、不満分子の担い手は旧幕臣系から廃藩置県(明治4年7月14日)によって失業した新政権側の失業武士、不平士族に移って行くのです。
話を戸籍整備に戻しますと、慶応4年(9月に明治への改元です)5月の彰義隊攻撃でその余燼の冷めやらぬ翌明治2年3月には前回紹介した戸籍登録開始・・言わば残党狩り的調査とも言える現況調査を始めたのが明治2年の東京での戸籍整備開始でした。
ただし、戸籍制度は職権で調査して官が作って行くのではなく、戸主による家族構成員の自主的届出制度でしたので、どこまで行っても(いくら罰則で脅しても何百万戸に上る戸主みんなを処罰することも出来ないし)正確性を確保出来ず、明治19年式戸籍の2年ほど前から壬申戸籍は行き詰まってしまっていたようです。
3月6日に壬申戸籍布告前文を紹介しましたが、そこで色々(くどいくらいに)と政府が訴えているのは、如何にして国民が戸籍から漏れないようにするかの心配ばかりです。
之だけくどくどと書いているのは、治安維持のための人民の把握や戸籍届けの脱漏による徴兵や徴税機能が空洞化しないように把握漏れを恐れていたからでしょう。
太閤検地以来現在まで実測よりも2〜3割面積が多いのが農地では普通なのは、(耕地整理した土地は正確です)面積が課税の大きな基準になるからです。
ただし、お寺の認証が不要になっただけで、戸籍簿の記載内容には構成員の宗教から人相身体の特徴まで何でも書いていたことはFebruary 17, 2011「宗門人別帳から戸籍へ」のコラムで書いたとおりです、
後のいわゆる明治19年式戸籍(内務省令や書式等を総合をして言うようです)で漸く宗派を書く欄がなくなったようです。
宗門人別帳時代には実在しても除籍してしまうなど実態に反する記録が多かったのは連座責任を免れるためでしたが、明治政府の戸籍管理は治安維持・徴税目的でしたから、(そうではないとする反論も当然あります)明治3年の庚午戸籍では一村3名の戸籍改役を置き年4回、各家ごとに戸籍と突き合わせをして確認を義務づけるなど厳しい規制が行われています。
それでも事実に反した記載(偽籍)が多かったのか、
「明治7年(1974)2月には、甲第9号を以て戸籍編製法が、「管下戸籍未タ全備ナラス随テ人員遺漏ノ弊ヲ免カレス」として、
1、戸主幼少、婦女のみの場合、空名を掲げることのあるのを、幼少戸主、婦女戸主を許容して、極力現実の人員を把握しようとしている。
 2、「人民適宜ニ任セ戸主ト家族ト東西ニ住居ヲ分ケ家産ヲ別ニスル者ハ総テ分家ト見做(な)シ一戸ヲ以テ論スヘシ」とし、現実の生活単位をそのままに把握する。
 3、各戸に標札を掲げさせ、戸内の人員を掲示する。これは本籍寄留を問わない。」
以上は、ww.town.minobu.lg.jp/chosei/…/T12_C01_S03_1.htm -からの引用です。
最近ははやりませんが、30年ほど前までは表札に家族全員を書き出す形式のものが流行っていて、門柱や玄関付近の柱に貼ってあったことがありますが、この通達によって習慣化されたものでしょう。
いまでも各戸に、苗字だけの表札を掲げる習慣が残っていますが、考えてみると不思議な習慣ですが・・これからは次第になくなって行くように思われますが・・・はこのときから始まったものです。
明治19年(1886)内務省令第19号によって、正当な理由のない未届けを過料にする規定が設けられていますから、国民の抵抗はまだまだあったようです。

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