オスの定着2と支配

男性が定着するようになったのは、言わばライオンがメス集団の狩りのおこぼれを貰うためにメス集団にくっついている・・言わば放浪をやめて定住・定着しているのと元は動機が同じだったことになります。
ただ、一時的滞在が徐々に長くなりその内定着して行きますと、人間のオスの場合、腕力にものを言わせてその集団の経営に対する発言力が高くなり、結果的に乗っ取ってしまい、我が国ではここ2〜3000年ばかりオスがメスを食わしてやるかのような擬制が成立して威張っていた点がライオンとは違います。
前回書いたように食料を狩りに頼るのは人間に限らず生産性が低いので多くを養えず、ライオンはメス多数に対して1頭しか養ってもらえないのと、メス自体狩りをする関係で獰猛性・闘争能力を持っているので、僅か1頭のオスライオンが集団内で腕力で威張る・制圧することは不可能です。
ライオンのオスは「居候は居候でしかない」状態で現在まで来たのですが、人間の場合、1対1の関係である上にメスの方はライオンのように戦う習性がありません。
オスは元々用心棒として入って来たものですから、初めっから武張っていたでしょう。
メスの方は、これに対しておだててオスを使う・・定着させる方向性で来ましたから、(我が国は男社会でもおだてて使う傾向です)外形上オスの言いなりになる形式が続き、(オスは家ではお店の客みたいな扱いでした)オスの方も千年単位でこんな生活をしているうちに本来メスの造って来た農地・生活手段が自分のもののような気がして来た(欲が出た)のでしょう。
対外的には「俺の(用心棒になっている)農地に勝手に入るな」と言っていたのでしょうが・・その内「俺のもの」になったのです。
平安中期以降武士の台頭によって、武士の集団・一族統率形式が、日本社会の標準型みたいな風潮になって行きます。
武士の社会では文字どおり家(農地・領地)を守り外から戦利品を獲得して来るのは男の仕事ですから、獲得した領地の支配権はオスに帰属するのは当然のことになります。
源平合戦直前ころから武士以上の階層では、領地を獲得しあるいは主君から知行を貰えるのはオスの戦功によるのですから、現在の給与所得が夫だけしかなくて、家族はその御陰で生きているのと同じ関係・・貨幣経済化した明治以降の庶民と同じ関係がそのころから始まっていたので女性の地位が低下したままになっていました。
ところで日本の農地の直接的支配権は武士やオスがいくら威張っても実は現に耕作し管理している女性の実質的管理権はびくともしないままだったのです。
(今は過去のことになりましたが、3〜40年前まで家庭内の大問題であった嫁姑の関係も同じで、実際に何時までおしゃもじ権を握っているかで地位の強弱が決まります)
西洋では領主=農地所有者で、このために革命後も「所有権の絶対」の保障が貴族の経済力維持・政治発言力温存に繋がっていることを
December 8, 2010「フランス大革命と所有権の絶対4」ココ・シャネルの映画の紹介コラムで書きました。
我が憲法は明治憲法も現憲法も西洋の憲法の思想を受け継いでいるので、所有権の絶対性が憲法の基本原理(第9条の平和主義よりも重視されている基本夏原理)です。
我が国では何故これ・私有権の絶対がそんなに重要な原理なのかピンと来ない人が多いと思いますが、西洋の貴族にとっては死活的重要性のある原理だから革命憲法の基本になったのですが、日本ではそういう歴史がないのに意味もなくしかも大原則として学校で習っているのです。
(ただし、所有権そのものではないですが「一所懸命」・・一カ所にしがみつく習性はありますので、フクシマ原発あるいは津波危険区域でも移転政策実施は困難です)

婚姻率の低下(家庭の消滅)5

人間の女性の場合、性的スイッチオンだけではなく、身の回りのサービス業務も付加して出産前後と長期養育期間中の性的受容体制の不足分を補う体制になって来ました。
この重要なサービス業務を放棄して逆にオスに家事サービスの分担要求する時代が来ると、前回末に書いたように他者との差異を付けることの出来る文化力を持つ女性以外は、長期間継続して雌雄一緒にいる無理(動物的には本来無理なことをやっているの)を修正・補完する手段がなくなり、無理が出て来ると思います。
お富・与三郎の「粋な黒塀」の場面で見ても分りますが、究極の商売女性は「粋な文化」を売るものであって、性を売るものではありませんでした。
芸妓とも言いますが、太夫や花魁は、単に踊りを踊り楽器を操れるだけではなく身につけた総合文化力で勝負していたのです。
この精神で昭和30年代末まで我が国では女性教育が行われて来て、戦前農村で男子はまだ義務教育程度のときでも女子にだけは女学校へ通わせる親が多かったのはその価値観によるものでした。
学校に進学出来ない女子工員にも、夜には工員寮にお茶やお花の先生が来て教えたりして、伝統的教養を身につけさせるようにするのが社会全体の風潮でした。
大学進学時代が来ても女性は(良妻賢母を求める)芸術・文化系に進学し、理工系や法経商など実学系学部には進学しない相場になっていたのです。
(課外の付加価値付けも男子は野球やスポーツ中心でしたが、女性はお稽古ごともお茶やお花・お琴・ひいてはピアノ、バイオリンなど文化系中心でした)
昭和40年代頃から女性も法経商など(良妻賢母教育に関係のない)実学系に進学する人が多くなり、「女子大生亡国論」まで出て、マスコミを賑わすことになったのは周知の通りです。
今では、女性が理工系まで進学していても誰も驚かない時代です。
ところで、女性も自活したい(男の経済力に依存したくない)と言う意味では、この傾向・ジェンダー否定は正しいことだと思います。
ただし、この人が自由な選択をした結果、一生独身でいるならば、それで生き方としては完結出来ます。
その女性が実学中心の受験勉強に明け暮れて、これと言った夫に優る文化力を身につけていないにも拘らず、結婚して子を産み育てたいと気が変わった場合、伴侶・オスの子育て協力に対する女性からの見返りは何か?と言う問題に行きあたります。
実学に進出した草分けの女性は後ろ指さされないように(実利に特化している女性には「あれは女ではなくカンナだ」と揶揄されていました)文武両道ならぬ法律など実学で男子に負けないだけではなく、文化力も両立出来る特別優秀な人材だけが結婚も出来たのです。
ですから私が司法試験を受けた頃に合格する女性は平均的男子の合格者よりかなり頭脳の優れた効率よく勉強出来る秀才型が中心に(私からは)見えました。
(長年浪人することも出来ない社会的圧力もあって現役前後の女性合格者が普通でした)
ジェンダー意識が薄れて来て、今では男女合格年齢にそれほど差がなくなってきている(女性かなり高齢まで浪人して受験しています)・・同レベル同士結婚の場合、女性が受験勉強以外に文化力を身につける暇がないと、子育てに協力してもらえる対価を夫に提供する特別なものがありません。
(逆に女性の方がやっと合格して夫の方が余裕で合格している例もあり、この場合、女性の方が家庭に仕事を持ち込んだり帰りが遅くなることが多く、夫の方が家事労働時間が長くなっているヒトもでてきます)
こういう場合にオスにとって結婚するメリットって何かな?と言うのが今回の関心です。
種の維持・存続のために子供が欲しい本能は女性には強いでしょうが、オスにもあるかは別問題です。
子育てに協力させたい女性による教育効果と家の維持、世襲制の発達をテコにして、人為的にオスが教育されて来ただけのように思えます。
世襲する地位・財産もなくなって来た現在では、天皇家(今でも後嗣を生むかどうかは重要テーマです)以外ではこのメッキが剥げている筈です。

婚姻率の低下(家庭の消滅)4

私は少子化・・人口減がさしあたり我が国のために良いことだと思っていて、中国と人口で張り合う必要を感じませんが、何回も書いているようにいくら減っても3〜4千万人くらいで止まる程度の人口は必要と考えていますので、今のように急激な独身率上昇が、どこで留まるかには関心があります。
婚姻率低下問題については、October 30, 2010「婚姻率低下3」まで書いたことがありますので、今回はその4になります。
ある程度のところまで来れば生物の智恵として何らかの人為的政策がなくとも自然に出生率の低下が止まるのでしょうから、50年〜100年先になっても低下が止まらなかった時に初めて、どうやって低下を止めるかの議論が必要になるかも知れません。
出生率低下を止めるには男子の責任をもっと弱めて、子育ては社会全体で面倒を見るようにしたらどうでしょうか?
(種付けしたからと言ってその家に入り浸りにならなくとも良い・・自由にしてやる・・50〜100年以上先には現在の夫婦概念や家庭制度自体がなくなっている時代になっているのかも知れません。
現在は子供が生まれた以上は、オスの責任を歴史上最大化していますので、その反射効果として女性にとっては子があるかどうかが大きな地位の差になります・・。
夫の庇護に頼らなくても良い社会的能力のある女性は、子を産まなくとも困らないので、昔から子のいない女史・女傑が多いし、女性の高学歴化・・社会的能力向上が、出産率を下げる方向に働く一因です。
天皇家で言えば、皇后や皇太子妃については、英語力その他の能力が高いに越したことはないですが、後嗣としての子供を産むか生まないかの方が重視されるのはその名残です。
(それどころか今でも皇太子家で男子を産んだかどうかが大きな問題になっています)
これからの日本社会では、むしろ家庭崩壊の時代・家庭は不要な時代になりつつあるのですが、制度(マスコミ)の方はその逆ばりで出生率低下の危機感を煽っているのは家庭重視誘導をしているのかも知れません。
制度(マスコミ)は往々にして、滅びつつあるものを保護するために却って制度を強化することが多いので、外見上の最盛期は没落の始まり・序章だったことが多いのです。
日本人口が3000万人前後まで縮小するかも知れない50〜100年以上先になって出生率低下歯止め策が必要になる議論ですが、ある日いきなり方向転換が出来ませんから、オスの責任を縮小して行くためには、昨年春先から書いている・・これが先送りになって未だにこのコラムに載っていませんが・・・・・基礎生活費支給制度を徐々に充実して行く方向性が合理的です。
雄にとって、子供を持つことは雌のサービスが悪くなるだけだったのに加えて、今では婚姻中は家事の分担を求められ、離婚後も長期にわたって子育てコスト負担のリスクまで負うようになると結婚同居生活は却ってデメリット・・リスク要因になっています。
雌・人間の女性は子育てに時間がかかることから、雄が飽きないように他の動物と違って恒常的な性的受容体制・・スイッチオン状態にあるのですが、それだけでは出産前後の空白が問題になります。
(この関係は7月18日のコラム以降に書くように、庶民に関しては貨幣経済化後に出現した実態に基づくもので、古代からあったものではありません)
その間を何とかやり過ごしても、大学院卒業後まで保護の必要な子もいるなどで長期養育が必要なことから、その間の容色の衰えや夫の気移りも心配です。
これをカバーする長期対策としてはサービス力の向上にシフトしたのは合理的だったと思われます。
サービス・・これも炊事洗濯など即物的な分野だけではなく、内容的高度化・文化力にシフトすれば若い女性との差を付け易く、寿命の伸びに対応出来て長持ちします。
実力を失った貴族や老大国が文化を売りにし、(クレオパトラもそうです)成り上がりの経済人や軍人・新興国がこの顧客になるのと同じです。
(武士でも足利氏の最後の頃はそうでした・先祖帰りして武力で勝負しようとした剣法将軍義輝も出ましたが、却って自分の寿命を縮めてしまったし、次の義昭は自分で反信長勢力を組織して行ったために追われてしまい足利幕府の崩壊になりました。)
歴史に「イフ」は禁句ですが、もしも政治から超然として銀閣寺のような文化に精出していた場合、信長や秀吉が将軍家をどうしたか面白いところです。

漢字導入時の試行錯誤(縣の消滅)

郡縣、郡国制は後漢以降廃れて行き、我が国に漢字が入って来た5〜6世紀頃には、既に州と縣の制度になっていて郡がなくなっていたように思われます。
それならば何故我が国で國・国司の下に縣(コオリの当て字としての縣)ができず、中国ではなくなっていた郡が我が国で復活採用されたのでしょうか。
元々我が国では何々の國(くに)の下位に「コオリ・コホリ」と呼ばれる下位の行政単位・・地方豪族の治める単位があったのですが、これに縣を当てていた時期もあったのに、縣をこおりと読むのをやめて郡の漢字を当てるようになったいきさつを考えてみたいと思います。
郡縣制や郡国制では、天下・國の次にくるのは郡でしたから、ある程度中国の歴史を勉強して漢字の意味内容が分ってくると、全国をいくつかの國に分類した(州にしなかった)以上は、この段階(大宝律令制定時)で下位の組織として郡が来るべきであって(縣は郡の次に来る組織単位ですから)縣が郡に取って代わられたのは論理的です。
では郡の下に縣(あがた)が何故生き残れなかったかですが、その下となると郷や里ですから単位が小さすぎて元々アガタヌシの領域を当てていた縣を当てることが出来なかったように思います。
広大な中国の制度をそのまま狭い我が国に全部持ち込むのは無理がある筈ですが、加えて州縣制を前提にした制度と郡国制の両立では地方単位が重複してしまいます。
当時世界最先端の唐の制度・・専制君主制の州と縣制にするのは日本の発展段階からして無理があるとして、遣唐使の時代からすれば5〜600年前になくなってしまった国と郡の制度を換骨奪胎して利用することになったものと思われます。
漢字導入以来徐々に中国の真似して取り込んで来た制度のうち、國の規模が違うので何かを省略するしかなかったのす。
州の代わりに國を導入しましたが、(それでも政府の制度採用は別として州を國と読む用法が入っていましたので、九州や関八州などと國を州に当てる用法が副次的に我が国に残っています)既に使用していた縣をどうするかです。
縣が漢字導入の始めの頃にコオリやアガタに当てて使われるようになったのは、漢字が入って来た経緯によるでしょう。
漢字が入って来た当座は、(5〜6世紀)最初から中国の歴史が分りませんから当時中国に存在していた地域的行政単位を國や縣と言うらしい程度の知識から始まった筈です。
(魏晋南北朝・5胡16国の國が乱立していた時期で、既に郡国制や郡縣制は消滅していました)
乱立している我が国のクニに國を当て、次の地方単位である縣に我が国のコオリ・コホリを当てることから始まったのは自然の成り行きです。
魏志倭人伝は、平成23年4月28日に書いたように中国側で我が国の地域名称に魏の国制を当てはめて翻訳して紹介しているのです。
何世紀か過ぎて中国の歴史や制度内容が詳しく分ってくると地方単位でも皇帝や国主の信任する人がその行政を預かるのを縣と言うのが分って来ます。
我が国のアガタヌシの治める地域をこれに当てるようになってある程度の独立性のある地域を國と使い分けるようになってから、縣をアガタと読むようになった可能性があります。
縣を当初はコオリと読む時期があって、その次にアガタに変化した・・時間差があったことになります。
大和朝廷成立前には諸勢力が乱立していて、これら乱立する地域を「くに」と言っていて、これに國の漢字を当てていたのです。
その「くに」が周辺地域を併呑して大きくなって来て、いくつかの部族を統合した大きな「くに」が出来た頃には配下武将支配地域をアガタと言うようになっていたものと思われます。
当時の中国では地名としては、後漢以来の何々州が存在していましたが、勢力範囲としてはこれに一部またがる國名を使っていた複雑な関係でした。
我が国の「くに」はその前に地名らしいものがなかったので、これが原始的地名を兼ねていたので、現在まで古い地名として残ってるのですが、中国の場合、州名が地名として残った上に後から魏晋南北朝の乱世となって勢力範囲・國が州境を越えて来たので、州名と国名がズレて重なった関係になっていました。
我が国の戦国末期の大名が隣国と更に隣の國の一部を併呑しているような関係です。
大和朝廷成立時に半独立国で朝廷の権威に服属した地域を従来通りの國と言い、大和朝廷成立時の支配下の武将をアガタ・アガタヌシと言って使い分けていたのではないかと言うのが、4月30日に書いた推測でした。
郡縣制は秦時代の制度ですし郡国制は私の知っている限り後漢の終わり頃にはなくなっていたので、漢字導入直後ころには郡と言う漢字は自然の交流・・日常会話的には過去の漢字として入って来てたとしても一般的でなかったでしょう。
漢字の入って来た当時の中国の制度として地名などに「どこそこの國」、「どこそこの縣」が頻繁に使われていたので、それぞれ支配下領域をクニに当てて、(やまたい国と言うなど)くにの支配下の地域・・こおりに「縣」の漢字が利用されたと思われます。
国造(くにのみやつこ)に國と言う漢字を当てるようになったころには、大和朝廷成立後のことでしょうから中国で言う國の制度も知られていた筈です。
國のヌシは皇帝の子供が封じられていることが分って、ミヤツ子=宮の子・大王の子を擬制する我が國の風習とも一致したと思われます。
親子さえ擬制すれば世襲制であり半独立性があること、域外の服属国・・朝貢国類似の関係などその他すべてが一致していたのです。
これに対して縣の長官は世襲制ではない・・単なる代官的立場の人が治める地域でしかないらしいと分かるのですが、それならば國をアガタと読めば良いようなものですが、日本古来の「くに」の名称をなくすわけにはいかず、他方で既にアガタは國の一部として定着していたので、今更國をアガタと読み替える訳にはいなかったのでしょう。
また地方の単位ではあっても、國の次の単位は縣ではなく郡であったことも分って来たので、郡に取って代わられたと思われます。
ですから縣をこおりと読んでいた次期があるとしても、郡と同時期に縣もこおりと読んでいたのではなく時間差があることになります。
こんないきさつから縣の漢字の利用がなくなってしまったのではないかと言うのが私の現在の到達点です。
辞書等のない時代にいろんな人・ルート経由で少しずつ入って来た漢字の当てはめに、思考錯誤する期間が長かったのは仕方がないことです。
物品の名前と違い國の制度は微妙に違うので(相手の制度も変わるしこちらも変わるなど)制度が安定するまではくるくる変わっても仕方がないでしょう。
日本では将軍の名称が同じでも、鎌倉・室町初期・室町末期・江戸時代の将軍は、時代・時期によって権力構造はまるで違うことが明らかです。

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