行為能力制度3(定型から実質へ)

2〜30年前頃から意思能力に問題があるために資産等を守り人間として尊厳ある待遇を受ける必要がある人の大多数が、認知症患者に変わり後見人を必要とする家族の受け止め方や社会意識も大きく変わりました。
将来生涯単身者が増えて、認知症患者の見守りがどうなるかにもよるでしょうが、この数十年の認知症患者の大多数は、兄弟間の遺産争いの当事者ではなく、多くの場合妻が元気な場合夫であり夫死亡後の場合介護者は子であり被後見人等は母親です。
介護に困っても今は精神病院と違い介護施設が充実している上に、娘を中心とする子らは母子間で兄弟間のような争いが滅多になく、他の兄弟の目もあるので、母親を精神疾患がないのに監禁ために精神病院へ入れる必要がありません。
意思能力に問題がある場合でも、ある程度の能力があるが健全な判断能力に欠ける場合に対する保護は従来準禁治産宣告でしたが、私が弁護士になった頃には、準禁治産者として浪費者のほか瘖唖者などが定型として例示されていましたが、(耳が聞こえなくとも十分な判断力のある方がいます)聾唖というだけで準禁治産の宣告する方式は問題がありすぎたので昭和54年に聾唖者盲人定型をなくしました。
このとき浪費者という実態不明の定義を残したのは実質認定だから良いだろうとなったのでしょうか?
54年改正前の旧条文がネットではなかなか出ませんので自宅にある昭和8年版六法全書によって、引用しておきます。
昭和8年版六法全書民法編です。

民法11条 心神耗弱者、聾者、盲者、浪費者ハ準禁治産者トシテ之ニ保佐人ヲ付スルコトヲ得
このように、明治以来定型が法定されていたのですが、昭和54年に浪費者を残して削除され、

民法第11条
心神耗弱者及ヒ浪費者ハ準禁治産者トシテ之ニ保佐人ヲ附スルコトヲ得

となり、これが平成11年

現行民法(1999年改正2000年施行)

(後見開始の審判)
第七条 精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、未成年後見人、未成年後見監督人、保佐人、保佐監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、後見開始の審判をすることができる。
第十一条 精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、保佐開始の審判をすることができる。ただし、第七条に規定する原因がある者については、この限りでない。

平成11年改正後障害や限定行為能力の決め方は、定型障害で能力制限するのではなく、「精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分」という原則定義一本になり具体的認定が必要になりました。
明治民法制定時に行為能力不足者も権利能力の主体にするとその権利を失うリスクが高まるのでその保護の必要性があったものの、能力不足の判定能力(科学?)が追いつかないのでまず心神耗弱という原理を掲げた上で、その認定がなくともさしあたり誰も外見でわかる定型的場合を掲げたのでしょう。
それにしても表現がキツすぎました。
例えば禁治産宣告の改正前の漢文式表現では「心神喪失の常況」というのですから、禍々しいことこの上ない「おっソロシイ」表現でした。
今で言えば認知症→認知能力の欠如という意味ですから、我々高齢者は徐々に視力、聴力が落ち結果的に文書に限らずいろんな情報に穴が空くので結果的に判断も誤る・誰もが将来そうなる流れが可視化されます。
認知能力低下といえば高齢化に伴い徐々に身体機能が落ちていくのは仕方ないよね!となりますが、「心神喪失です」と言われるとまるで何の理解もできない廃人のイメージでした。

法人3(自然村と法律村)

話題を法人に戻します。
法人は前もって存在目的やそのような組織にするための設計を定めないと成立自体ができないと書いてきましたが、この考え方はロボットその他人工物は前もって存在目的や目的実現するに足る機能を備えたものであるという設計図?と機能等を定める必要がある点は同じです。
建物は建築前に用途を決めて、その目的にあわせて基準法に合致した設計図を揃えて新築(生まれてくる)されます。
ところで視点を変えると人間の場合もDNA(建物の設計図?)で実は生まれる前からいつ頃こういう病気になるとか役割が決まっているとすれば、今の所それこそ「神の領域でしょう」とすぐ思いたくなるのが凡人である私の習癖ですが、実存哲学では「神は死んだ」というニーチェの宣言を前提に発達した思想のようで、「神にお任せ」と言えない点が厄介です。
身体障害で生まれた子も、「自分で運命を切り開いて行くべき」となりますし、生まれつきの虚弱者に限らず劣悪環境も「運が悪かったと開き直るのでなく)自分でどうやって切り抜けて行くかの知恵次第・可能性を提示したのは実存哲学の功績ですが・・みんながみんなそういう能力があると限らないのが辛いところです。
もちろんそのハードルを下げるための社会的底上げ政策は必要ですが・・。
それは健常者や社会的成功者による所得分配→インフラ整備によるので、(卑近な例で言えば駅にエスカレーターやエレベータの設置、障害者用トイレ設置普及率)結果的に豊かな社会で生まれるか貧困地域で生まれるかの運次第ともなります。
インフラだけでは異性から愛されるかの究極的願望は解決できません。
個々人の生き方の蓄積が人格形成するのですが、インフラは画一的平等化を進めるもののヒトは他者との違い・・個性を重視するものですから個性・他者との違いをどのように形成するかは、文字どおりDNAによるところ大です。
これが劣っているために誰からも愛されない状況に陥ると政治の力で解決するのは不可能です。
モテない男にとってはサルトルのいう自由刑に処せられている牢獄に生きるようなものでしょう。
サルトルとボーボワールは実存・自己実現競争社会の勝者として、一世を風靡したので若者にはまぶしかったというべきです。
(異性にモテる人よりモテない方が多数です)その矛盾を直感的に感じている若者に対して(パリでのカルチェラタンの占拠学生運動)彼は「既存秩序をぶち壊せ!」社会活動扇動によって落ちこぼれる若者の不安に応えたのでしょうか?
昭和40年代前半の世界で吹き荒れた「荒れる大学の時代」が終わって彼ら夫婦?の偶像がしぼんで行ったと見るべきでしょう。
唯物史観・・下部構造が概ね上部構造を規定していく面があるとしても、これに対すr反動もあれば金融政策や財政出動等で景気下降を防ぐなどのいろんな修正要素があるように実存哲学もある一面の真理を表しているに過ぎなかったのでしょう。
話題を人工物に戻します。
ビルも飛行機や車も薬品も民間の創意工夫によって新製品が生まれるとしても、最終的に商品として世に出るには、国家が決めた基準に合致する申請をして許可を受けて初めて出荷や建築可能です。
このように(物品であれ法人であれ法制度であれ)人工のものはAIによって動くロボットやドローンであれ、概ね国家が認める方法によって製造され完成品検査を受けて合格して初めて流通するというか、規格品になります。
国家が関知しない製品もありますが、それは自由に任せても大した危険がないから許容範囲として細かいことまで許認可を必要としないだけです。
人間の場合、妊娠前に国家の許可がいらないし、生まれてから完成検査を受けて問題ないと合格して初めて人間になるわけではありません。
障害者も貧困者も生きる権利があります。

憲法
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
このように人としての権利主体性があるとしても、法人と人とはだいぶ違うので法人制度ができる前の人を法学上「自然人」と言い、法の定める規準規格合致で初めて権利主体となれる法人と区別しています。
明治以降の村をその道の専門家が行政村といい、村に昇格する前および、昇格しなかった集落を自然村ということをFeb 18, 2020 12:00 am「さと」(郷と里)2(村)で紹介しましたが、自然人と法人の区別に関連する関心からいえば、行政上の村?と言うより法律上の村と自然村と区別すべきかと思われます。

個人事業→法人化3

明治の改革は、既存集落を積み上げる形式での再編成ではなく、まず既存幕府領を府としてその後に大阪京都以外の府を廃止して県とし、大名領地ごとに全て藩→府県藩三治制→(廃藩置)「県」とし各地の飛び地の交換分合と各県の併合を繰り返し、ほぼ現在の都道府県を形成したうえで、律令制時代から手付かず・自然変化に委ねていた郡内の小集落の再編を行いました。
まず郡内の単位を大区小区の2段階に分け、小区以下の原始集落の統合を経てその後の改革で市町村制度になって現在に至っています。
市町村法人化はその後になるのでしょうが、さしあたり地域によって違うのではなく、全国一律に人口何万以上を市とし、何万以下何万以上が町とし万に足りない単位を村・・市町村の規模に応じた内部組織の規格を決めれば、全国的に統治が行き渡りやすくなり、国民にとっても相手が市か町か村の規格で判断出来て便利です。
人口規模に応じた内部組織の画一化を図ったものでした。
政府自体明治初年の政体書発行に際して、しょっちゅう変わることについての言い訳を書いていますが、結果から見ると以下の通り見事です。
原文書き出しは以下の通り「徒ニ変更ヲ好ムニアラス」です。
https://ja.wikisource.org/wiki/政体_(慶応四年太政官達第三百三十一号)

政体 (慶応四年太政官達第三百三十一号)
去冬 皇政維新纔ニ三職ヲ置キ続テ八局ヲ設ケ事務ヲ分課スト雖モ兵馬倉卒之間事業未タ恢弘セス故ニ今般 御誓文ヲ以テ目的トシ政体職制被相改候ハ徒ニ変更ヲ好ムニアラス従前未定之制度規律次第ニ相立候訳ニテ更ニ前後異趣ニ無之候間内外百官此旨ヲ奉体シ確定守持根拠スル所有テ疑惑スルナク各其職掌ヲ尽シ万民保全之道開成永続センヲ要スルナリ
慶応四年戊辰閏四月 太政官

本文引用略

明治の改革は朝令暮改のように1年前後で次々と変わっているものの
結果から見ると一定の方向に向けていかにも当初からの計画があって順次実行していったかのように、在野の動き・・必要な時に自由民権運動や不平士族の乱など必要なガス抜きとともに必要部分を法案に取り入れするなども含めて数十年単位の動きが一糸乱れず実現していった見事さに驚きます。
民法商法等の基本法案整備も法律専門家だけの議論からロエスレル商法やボワソナード民法を一旦成立させて、法律という形で国民や国外に見える形にしたことで条約改正運動への足がかりにするほか、(裁判権が日本にない不平等条約は国辱だ!と言っても日本には裁判するべき法律がなかったのです・・)多くの国民・・法律専門家だけでない実務家(維新以降数十年経過で現実に国際的な商取引に参加している実業家が増えてきた段階で)も議論参加できるようになったので、国情と最新取引動向を踏まえた現実的制度になった結果、明治29年制定の現行民法、商法・・これが100年以上経過後の今でも現行法として骨格が残っているほど柔軟現実的な基本法典に結実したのでしょう。
都道府県市町村制度も現行体制(私の戸籍謄本では東京府東京市〇〇区出生となっているのを見た記憶ですので、東京府だけ戦時中に都になった記憶です・)として今も残っています。
その後は、コンピューター化への対応能力や水道事業の大規模化等に伴う事務作業の高度化適応に向けた市町村合併や広域連合体化など現場の必要性に応じた大規模化の流れです。
明治維新以降の約30年間の疾風怒涛の大変革時期を乗り切った民族の叡智・・サッカー等のスポーツで言えば以心伝心の見事なチームプレー同様に長年培われた民族の訓練・・暗黙知の見事さに驚きます。
地方単位の組織化〜法人化の流れに戻ります。
最小単位の村が、自然発生的集落を数十個も統合する規模になると集団固有の意思や行動のために組織代表者が必要ですし、その選任退任基準を明記する必要があります。
従来のいわゆる暗黙知で「何となく人望のある人の意見に決めた」というだけでは透明性に欠けることになります。
郡以下の地方末端組織が自然状態のままだったのを地方公共団体化=団体そのもの固有の意思表明や行動ができるようになると意思決定過程も透明化する必要が生じます。
集団が固有の主体性・法人格を持つにしてもその集団が5〜10人の小規模であれば、私が学童期に見知っていた「寄り合い型民主議」で足りるのでしょうが、明治以降の村は、それまでの数十の集落(大字とういう名に変えて)をまとめた大掛かりなものになってきたので、地方の民主化で村議会ができても一つの字(旧村落)に一人の代表を出せるものではなくなりました。
明治以降の村は地方制度施行と同時に官の任命する村長になったので、村議会設置要求がおきたのでしょうが、議会で反対賛成の論理による討論では従来型の阿吽の呼吸で決める寄り合い民主主義になれた国民にはよそ行きの形式張った会議には戸惑うばかりです。
日本人得意の擦り合わせ・・暗黙知・擦り合わせ技術と、以心伝心とは表裏の関係でしょうが、この頃から徐々に日の目を見なくなってきたようです。
しかし今でもサッカー等のスポーツでのチームでの活動その他すべて緊急事態の政治決断は、一々言語化していると間に合わないので暗黙知で集団行動するものです。
それまでの自治組織というか?みんなの意向・・・言語化しきれない本音の擦り合わせ・・・狭い空間で膝擦り合わせて集団意思を方向付けていく「寄り合い」民主主義に慣れ親しんだ多くの人が不満を持ちます。
この穴を埋めてきたのが、自民党政治家のドブ板政治でしょう。
とはいえ、明治以降の近代化→三井でも住友でも個人事業が大きくなっただけでなんとなく決めて行くのでは限界がある・・事業体が生身の人間を離れて、一個の独立した人格主体として行動するには内部組織も意思決定過程も透明化していくしかないのも現実です。
これからAI時代が来れば、ロボットが人格を持つような法制度を作ろうとしたのが19世紀の西洋思想だったのでしょうか。
これを意識して、明確な法制度・集団にも権利主体性を与えたのが明治民法・現行民法であり現行商法です。

ムラと明治以降の村の違い3(寄り合い民主主義)

日本社会は武士の台頭とともに歴史に出てくる政治の主役が地下人・・武士層に移りましたが、国や郡単位の政治だけでなく、そのもっともっと小さな・・十数戸の小さな集団・・足元からボトムアップ型の組織運営技術が育まれてきたことをさらに書いていきます。
地方の民主化は鎌倉期以降着実に経験を積んで成熟してきた制度だったことが分かります。
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東アジアの地方自治・試論

引用続きです。
前述の通り、幕藩体制下の農村は間接支配を受けたが、明治以降の近代政府は直接支配をめざした。明治政府は1871年に廃藩置県を断行すると、翌年、末端の地方制度として「大区小区制」を実施した。当時8万あった江戸期の村は無視し、府県下に906の大区、7699の小区(1878年段階の数)を設置した。
1区ほぼ10町村の計算である。旧来の名主、庄屋を廃し、区長、戸長などを任命した63)。人々はこれに抵抗した。1874年以降繰り広げられる自由民権運動は、国会開設などとともに、地方自治の確立を求めた運動であったことを想起する必要がある。特権を失いつつある不平士族の他、村役の出身基盤でもあった豪農層、地租改正や入会地没収などに抗議する一般農民たちもこの抵抗運動に加わっている。
当時つくられつつあった地方民会を拠点に地方民会の地方議会への制度化、議員公選制などの要求が出されている。
租税の徴収は大区小区制のもとでの区長、戸長の仕事でもあった。特に木戸孝允・大久保利通らは、急激な中央集権化が地方の不満を高めていることを強く憂慮し、これが1878年の大区小区制廃止(郡区町村編成法)をもたらす要因だったと言われる64)。これで、かつての小規模な町村が一旦は復権されるとともに、同年の内務省乙第54号が、町村の長(戸長)を公選にする方針も明らかにした。
明治の地方制度改革は、1887年の国会開設をはさんで、1888年に「市制・町村制」、「府県・郡制」が制定されてほぼ骨格ができあがる。自由民権運動の敗北の上につくられた官治的性格の強い地方制度であった上、その施行がはじまるとともに大規模な市町村合併が行われた。
1888年末に7万1314団体だった市町村が、1年後の1889年末に1万5820と、約5分の1に減少した。その結果、これまでの自然村とは異なる新たな「行政村」ができた。集権化が一挙に進められるが、しかし、地主層を中心とする地方の有力者を中央集権的行政の末端にくみこむには、「自然村」を完全に解体するわけにはいかなかった、と重森暁は分析している。市町村内に、法人格をもたず、議会その他機関や予算制度をもたない行政区と区長を存続させることが認められ、「明治地方自治制度は、近代的地方行政組織と旧来の村落共同体的組織の二重性をもつことになった」65)とする。
明治の集権国家の中にも江戸の村の民主主義は根強く存続していった。その原理は、町内会、部落会などで(再び支配原理に動員されながら)近代史を生き延び、戦後GHQに解散を命じられたにもかかわらず、再び町内会や自治会として今日の時代にも引き継がれる66)。現在の「平成の大合併」に抵抗する人々を突き動すのも、自由民権運動の、さらには江戸民主主義のDNAかも知れない。

どこかで読みましたが、古代の邑が大きくなっていったので隋や唐では村が地方最末端単位になっていたらしいですが、中央派遣役人支配の村組織が日本では実態に合わないから律令制導入時に採用されずに来たものと思われます。
明治日本になって中央集権制制度完成に村制度を取りいれるのが好都合となって「村」制度を創設しこれを学校教育で、自然発生的ムラと同じ読み方のムラの発音を強制していますが、寄り合い民主主義のムラ組織とは本来異質のものです。
千葉県市原市の人と事件で話したときには(私が千葉県に来た時には、市原郡は全部合併して一つの市原市になっていましたが、)隣接地区のことを、隣の何々「ソン」の人は・とか〇〇ソンの場合と言う人に多く出会いました。
地元の人は行政単位の村はソンであって自分たちの「ムラ」とは思っていない様子でした。
吉田松陰の開いた塾を松下村(ソン)塾というように、歴史学者は集落共同体の説明するのに、中世や江戸時代の村落共同体などと、「村」が自明の言語のように書いていますが、そもそも明治政権が地方制度の採取単位を村と言う「漢字」表現するまで末端集落を「〇〇の庄」とか言っても、集落名に村という漢字を使っていなかったし村をムラと訓読みしていなかったのでないかの疑いを持っています。
以下「さと」里とセットの郷について見ていきます。
ところで里と郷は和語ではどちらも「さと」と読み区別境界が曖昧ですので、この機会になぜ現在に至るまで曖昧なままになっているのかを見ていきます。
郷に関するウイキペデイアの解説です。

日本の郷
日本では奈良時代、律令制における地方行政の最下位の単位として、郡の下に 里 (り、さと)が設置された。里は50戸を一つの単位とし、里ごとに里長を置いた。 715年に里を郷(ごう、さと)に改称し、郷の下に新しく設定した2~3の里を置く郷里制に改めた。しかし里がすぐに廃止されて郷のみとなったため、郷が地方行政最下位の単位として残ることになった。
平安時代中期の辞書である『和名抄』は、律令制の国・郡・郷の名称を網羅しており、例えば平安京が置かれた山城国葛野郡には12郷が存在していたことがわかる(右表参照)。
中世・近世と郷の下には更に小さな単位である村(惣村)が発生して郷村制が形成されていった。これに伴い律令制の郷に限らず一定のまとまりをもつ数村を合わせて「○○郷」と呼ぶことがある。合掌造りで知られる白川郷などはその例である。
中国における郷[編集]
中国において郷(簡体字:乡,繁体字:鄉)は秦・漢の時代から存在しており(→郷里制、漢代の地方制度を参照)、現在も行政区画として存続している。

大宝律令制定当時は最小単位の「さと」を中国の制度にある里にしていたのに715年に里を郷に改めたようです。

ムラと明治以降の村の違い3(寄り合い民主主義)

私の幼児期から小中学当時の経験ですが、寄り合いの状況を子供ころに見聞した記憶では、夜7〜8時頃に一家の主人?お父さんたちが、10畳前後の座敷に集まり//寄り合いとはよく言ったもので薄暗い電球の下で皆膝を突き合わせて肩寄せ合っての会話状態で、会議というより、うなづきあったりするイメージです。
弁護士会の委員会でもそうですが、参加人数が10人を超えると主催者と誰かのやりとりを周りが聞いているだけになりみんなが発言する暇がなくなります。
一つの問題に疑問や質問を2〜3回繰り返すことを皆が順次発言して回していくと時間がかかりすぎるので無理があります。
自民税調のインナーが有名ですが、何事も4〜5人の協議を繰り返すのが内容が深まるものです。
そういう意味では私の住んでいた集落の規模・運用は意思疎通に適したものだったイメージです。
小さな集落ごとに子供の頃から男女別に年齢相応の社会共同作業や合議で決めていく政治経験を積んできたのが我が国の社会で、これが現在のボトムアップ型・成熟社会を形作ってきたようです。
村八分などは忌まわしい人権侵害行為の代表のように教育されてきましたが、実は刑罰権を持たない自治組織としては、合理的理由なく共同作業に参加しないルール破りに対する(暴力行為を嫌忌する現在日本社会に連なる優しい組織としては)間接的制裁が必須であったこともわかります。
(積み立てをしないずるい人を一定の祝いルール・祝儀対象から外すなど・・お伊勢参りにつれていかないなど当然の制裁でしょう)
法學だったか政治学で習ったか忘れましたが、いわゆる社会的制裁サンクションの一種です。
集落の世話人?庄屋などのが決まっていくシステムが以下の通り紹介されます。
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東アジアの地方自治・試論
に戻ります。

名主を村人(ムラ人・稲垣注)が選ぶということは要するに選挙である。選挙制度は近代になって欧米から移入されたのではなく、日本の江戸時代の村で始められていた。これを「入れ札」という。例えば、大阪府羽曳野市に含まれる古市村では、1808年に行われた庄屋選挙で、200軒以上あった百姓家に対し入り札が実施され、その札が今も残されている51)。こうした諸研究に基づき、水谷三公は「江戸の遺産 ―民主主義」52)について簡潔にまとめている。それによると「江戸も少なくとも後期に入ると、近畿地方や関東地方など、社会・経済的「先進地域」のかなり広い範囲の村々で、村人一般による入れ札、つまり投票が実施されるように」なった。それを幕府も黙認していたようで、例えば、1848年、常陸の幕府代官・新井清兵衛が村々にまわした「申渡」で、後任が入れ札で決まっても退任を渋る名主が居るが、速やかに対応をすべきであると指示している53)。この入れ札制度は遺産として明治にも受け継がれたとして水谷は次のようにも言う。
「公式の幕府文書や村方史料に記録される以上に、入り札、つまり多数決で、人選や各種決定をする慣行が庶民の間にあったのではないかと想像する。そうでなければ、維新後まもなく導入された県会議員や町村会議員の選挙が、あれほど円滑に機能したのか、理解が難しい。」54)
江戸時代の村政は、こうした(時に)選挙される名主(庄屋)と、組頭(年寄)、百姓代(村目付)による「村方三役」の合議で運営された。重要事項は、各戸長の集まる「寄合」で「多分の儀」(多数決)により決められた。「村の民主主義」について説得的にまとめた田中優子は、次のように言う。
「村の重要事の議論と決定は、<寄合>で行われた。いわば議会である。寄合は全員加盟が原則だったが、この場合の一人というのは、一家に一人のことをいう。入れ札の票も、一家に一票である。家族単位のところが、現代と大きく違っている。寄合でものごとを決めるときは、多分(多数決)が基本であるが、時には満場一致が求められることもあった。このようなものごとの決定と運営は、生活の村の仕事であり、制度上の村=村方三役の仕事ではなかった。」55)
入れ札も多分の儀も、必ずしも江戸期に初めて現れるのではなく、それ以前からの長い歴史があるようだ。例えば水谷は、中世から戦国時代にかけて「多数決が重要な政治・軍事的決定の際のやり方として公認されていた」として次のように言っている。
「寺院僧侶の間で、領主相互に、あるいは村の内部やその連合体で、ほとんど社会のあらゆるレベルで「多分の儀」が強調されていた。当時の文書を見ればしばしば「多分の儀につくべし」といった類いの表現に出会うが、これを現代風に言い換えれば、多数決で決めたことには従うべきだと言うに外ならない。このような多数決の強調には、中世から戦国時代の社会に特有の事情も働いていたから、これだけで日本の強固な伝統と言い切るわけにはいかないとしても、<多数決が>伝統とは無縁な外来制度と言うのが誤りなことは分かる。」56)
村の自治は、ある意味で明治になってこそ根本的に蹂躙され、徹底した中央集権国家化が推し進められたとも言える。

引用が長くなったので今日はこれで終わり明日に続けます。

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