「さと」(郷と里)3

律令制では日本の自然発生的集落を漢字の村にする・・中国の邑の制度を取り入れなかったようですが、邑は訓読みでムラとなりますが、元々は原始的氏族共同体だったようですが、次第に家父長的支配関係〜専制支配構造を有するものになっていったので、700年頃の邑は日本の原始的ムラ社会(原始共同体)と実態が合わないので採用しなかったのでしょう。
この辺は郡県制のうち官僚支配の明確な「県」の制度を採用しなかったのと同様でしょう。
中国戦国時代の改革派商鞅(公孫鞅)の故事では彼が賜った領地を商邑と読んだ記憶です。
商鞅に関するウイキペデイアの記事からです

公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる
漢字邑に関するウイキペデイアです

漢字の邑は区画や囲壁をあらわす「囗(くにがまえ)」にひざまずいた人をあらわす「巴(卩)」をあわせた会意文字で、この全体を略した部首が「阝(おおざと)」である。邑の社会は同姓の一族による氏族共同体で大抵は土塁よりなる囲壁をめぐらし、周囲に氏族民共有の耕作地が展開した。 [1] [2]
やがて大邑が小邑を従えるようになり、また邑どうしを結ぶネットワーク状の社会が形成されるようになる。またその中から特定の大邑の君主は殷や周の様に王および天子を称して諸々の大邑を従え、邑社会に盟主として臨むようになる。ここで殷王や周王の権威に服した大邑の君主が「諸侯」、王や諸侯の君臨する大邑が「國(コク)」である。
戦国時代の領域国家の時代から秦漢帝国の統一王朝の時期に出現した県、郷、聚、亭と称せられるものは邑の発展によって規模や性格が分化して成立したものである。こうした邑の後身の都市的集住地のなかでも県の雅称として邑を用いることが多くなっていく。[1] 領域国家への発展とは邑の氏族共同体の解体による家父長的支配の台頭であった。

まさに日本列島の原始的集落発展段階の中国版ですが、古代集落の原型が漢字の作りからして「膝まずく」上下関係から始まっているのには驚かされます。
日本の縄文時代集落のあり方から見ると支配者がいてそれに膝まづく上下関係から始まったとは到底想像できません。
東京大空襲後に母方実家/郷里で私が育った集落は「字〇〇」という地名でしたが、まさに明治新政府が合成した村の中に取り込まれた里でした。
その字では「東」と「西」」という2集落(各8〜10戸前後)に分かれていてその境目に幅1メートル足らずの小川がありその水源地付近にお寺が一つありました。
江戸時代に各集落に戸籍役場代わり(宗門人別帳)や、埋葬管理(衛生感の発達)のお寺が各地に設けられ(集落の寄り合い場所になるなど公的機能を果たしてきました)たのに合わせて、維持可能なように集落の統合が行われたようです。
現在、いくつかの市町村共同上下水道事業や共同消防組合等の走りです。
わたしが幼児〜学童期に育った集落「字」では東西2集落が、お寺を村の寄り合いの場として、10人程度の大人が集まり入会地の管理や道路普請〜水路の石垣の手入れ等の手はずを決めていましたし、女性は女性で観音講という夫人の集まり..茶話会の場葬儀やお寺の年中行事その他の共同化事業により、江戸200年余りでだいぶ一体化が進んでいたようですが、それでも「東ら」と「西ら」という区別意識が(幼心に残るほど)濃厚でした。
こういう「字」が数十個集まっているのが、明治以降に出来上がった「村」のイメージで、私の育った村は水田地帯の真ん中にあって正方形に近かったので子供心の記憶(自転車で走り回った記憶)では村の端から端まで3〜4キロ前後でしたので、1里四方→まさに日本古代の「さと」の規模でした。
近隣の村や町も皆似たような広がりのある地形でした
それぞれの村や町に一つの小学校、中学校があり、明治の学校制度創設に合わせてこれを維持するに必要な経済力・いわば学区ごとに最小単位を設けた(江戸時代の集落のままでは小学校すら作れません)イメージです。
小中学校では運動会等の行事が行われるので、自然に纏まり・共同体意識が仕上がる仕組みでした。
私は中学卒業と同時にその村を出たのですが、直後に昭和30年代の町村合併があり、近隣が一つの町になりました。
このように日本の行政上の地方単位は古代から大きくなる一方で、その代わり内部に旧単位が大字小字などとして残っていきます・・昨年秋香取神宮に詣でましたが、平成の大合併で佐原市と香取町が合併して由緒正しい?香取市になっていました。
平成以降の大合併では大字というより明治にできた村の元単位を残す何々地区という呼称が多いようです。
20年ほど前に仙台の泉区役所に行ったことがありますが、元は泉市か泉町で合併により区になったようでした。
政令指定都市では正規に区制を布けますが、その他の市では〇〇地区と称するようです。
弁護士になったばかりの頃の境界争い事件では当時、区長さんの家には古い地図があるという主張が多かったのですが、当時区長ってなんだろう?と思いながら聴いたものでしたが、明治の中央集権化政策で問答無用的に行政単位として江戸時代までの小さなむら( 〇〇の庄?)を統合して村を設置して事実上従来からのムラ組織が破壊されても自治組織として「区」を名乗ることが多かった・・今の町内会や自治会の始まり?という論文が出ています。

 「さと」(郷と里)2(村)

明治維新で小集落を大量に集めて現代の郡市町村制が布かれましたが、「村」や町に吸収された多くの旧集落(古代から続く「むら」)は、大字小字として名を残したのと同じです。
里部に関するウイキペデイアでは以下の通りです。

『周礼』によれば、五家を隣、五隣を里とするので、25戸であったとする。また距離の単位として300歩あるいは360歩(唐以降)を意味した(漢代頃400メートル強で唐代550メートル強)。なお現代では日本の尺貫法において4キロメートル、中国の市制において500メートルとされる。

上記の通り、中国の里は25戸ですし、日本の「さと」は50戸単位で規模が違うし、距離単位でも現在日本の1里は四キロメーターに対して現在中国の1里はわずか5百メーターです。
300歩四方といえば、日本の1町歩の面積(千坪=千歩・・1反歩=300歩・1畝30歩)に大方合いそうで・千葉市内の現在小学校の面積が大方この基準のようです。
日本では古代からムラが集落の基本単位のように理解しているのですが律令制では村の制度をそのまま取り入れず、明治の地方制度改革で初めて公式に「村」の名称が公認されたように見えるのは何故でしょうか?
村に関するウイキペデイアです。

近代化以前の「村」は自然村(しぜんそん)ともいわれ、生活の場となる共同体の単位だった。江戸時代には百姓身分の自治結集の単位であり、中世の惣村を継承していた。
江戸時代にはこのような自然村が、約6万以上存在した。また、中世初期の領主が荘園公領とその下部単位である名田を領地の単位としていたのに対し、戦国時代や江戸時代の領主の領地は村や町(ちょう)を単位としていた。
近現代の大字(おおあざ)といわれる行政区域は、ほぼかつての自然村を継承しており、自治会(地区会・町内会)や消防団の地域分団の編成単位として、地域自治の最小単位としての命脈を保っている面がある。
明治時代に入ると、中央集権化のため、自然村の合併が推進された。こうして、かつての村がいくつか集まって新たな「村」ができたが、これを「自然村」と対比して行政村(ぎょうせいそん)ともいう。

私は明治以降の村と区別するむら意識は古代からも群がる群れる・という和語から来ているので明治以降取り入れた漢字の村とは成り立ちが違うと思っていましたが、ウイキペデイアの解説では、行政村と自然村という区分けをしているようです。
古代のムラを現在用語である村と表現しているのは納得し難いですが、現在の行政単位としての村制度の中で生き残っている大字小字の原型という点は私の個人的的理解と同じです。
さらに自然村は、中世の惣村に始まるという学会?の傾向には直感的に納得し兼ねます。
それまでは散在していたが戦乱等で自衛のために?(映画7人の侍の学問的説明・・)地域共同体が強まったというのですが、古代から鎌倉時代まで人類が一匹のトラのようにバラバラに住んでいたかのような説明はいかにも不自然です。
短期的に見れば、荘園制度が発達して庶民がその下人として働く(自作農皆無?)時代には、自然発生的集落は衰亡していたかもしれない・この説明は江戸時代の商人の住み込み丁稚小僧らは自分の家を持てなかったのと同じイメージで説明されてもっともらしいのですが、安寿と厨子王の設定もそのようばイメージです・・仮にその意見が、実証研究に裏づけられているとしても、それは長い人類の発展過程では(日本の場合何千年という縄文時代の存在から考えても)荘園全盛期は一時的例外に過ぎない事象に過ぎないのではないでしょうか?
惣村に関するウイキペデイアの記事です。

中世初期(平安時代後期〜鎌倉時代中期)までの荘園公領制においては、郡司郷司保司などの資格を持つ公領領主、公領領主ともしばしば重複する荘官、一部の有力な名主百姓(むしろ初期においては彼らこそが正式な百姓身分保持者)が管理する「」(みょう)がモザイク状に混在し、百姓、あるいはその身分すら持たない一般の農業などの零細な産業従事者らはそれぞれの領主、名主(みょうしゅ)に家人、下人などとして従属していた。百姓らの生活・経済活動はモザイク状の名を中心としていたため、彼らの住居はまばらに散在しており、住居が密集する村落という形態は出現していなかった。

漢字になる前の集落・村に関心がない・・何でも漢字にしないと落ち着かない人が書いているのでしょうか?

https://kotobank.jp/word/%E6%9D%91-140799

むら【村】
〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。ましてやその人口の多寡,村境域の構造,集落の形態,耕地のあり方,さらにはその法的な性格などということになると,〈むら〉とはこういうものだということを一律に規定することは,はなはだ困難である。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について

上記が一般的な理解でしょう。

民主国家と人民論の矛盾3

一知半解というか青い主張に対する社会の支持が広がらない結果、唯我独占傾向が進むといよいよ社会の理解を得られなくなって孤立化する一方→唯我独尊的特殊集団になり、暴発集団化します。
共産党は視野狭窄.偏執狂に陥らないように自己抑制している様子ですが、そうすると弾き飛ばされる跳ねっ返りが行き場をなくします。
左翼からも阻害された超原理主義者の集団化は、精神病者の集団化現象に似ているともいえるでしょうか?
日本では連合赤軍・・浅間山荘事件やオーム真理教事件などがそれに当たる・・国際的に見ればいわゆるテロ組織でしょうか?
以上の次第で人民という用語が廃れるわけですし、現在民主国家における実力行使正当化論は時代遅れであり、アウトローの集まりでしかないというべきでしょう。
専制支配国家→正義に基づかない規制や処罰=恣意的処罰・権力行使が許される社会では、正義の裏付けのない強制となりますのでこれに抵抗するのが正義の実現行為である場合もあるでしょうが、民主主義のルールに従って制定された法秩序を自分や一定の党派が気に入らないからといって抵抗権があると主張してこれを実力行使で秩序破壊するのを許すならば、民主主義社会が成り立たない・裸の実力闘争社会になります。
民主主義社会においての人民論は、民意による政治に従わない→民主主義社会を否定する主張となります。
抵抗権行使によって実力闘争に勝ち抜けば支配者になり政府権力に抵抗すべき人民ではなくなるのですから、中国や北朝鮮政府が朝鮮民主主義人民共和国、中華人民共和国と名乗り人民解放軍、人民日報、人民銀行・人民元などというのは言語矛盾です。
政府は人民の代表だから、人民は政府に従うべきという意味でしょうか?
国内武力闘争に勝ち抜いた以外に、人民の代表という根拠が不明です。
内乱・反乱軍が政府転覆に成功して政権樹立後も反乱軍とか反乱政府と自称しているようなものです。
実際には、人民は権力闘争に庶民が利用されて捨て駒に使われるだけですので、政権獲得後、邪魔者扱いで反乱軍として弾圧される側に回ります。
いわゆる草莽崛起の末路です。
人民用語が一般化されていない江戸時代には草莽と呼ばれていたのですが、草莽に関するウイキペデイアの説明です。

幕藩体制が動揺をきたした18世紀後半以後、在野もしくはそれに準じた豪農・知識人層(江戸幕府に対して直接意見を進言できるルートのない人々)の中に、自らを「草莽」になぞらえ政治的主張をする者が出現した。それが19世紀に入ると尊王論や攘夷論と結びつき活発化する。
黒船来航など西洋からの圧力が大きくなった1850年代に入ると、吉田松陰らによって「草莽崛起」論が唱えられた。吉田らは武士以外の人々、すなわち豪農・豪商・郷士などの階層、そして武士としての社会的身分を捨てた脱藩浪士を「草莽」と称し、彼らが身分を越えて、国家を論じて変革に寄与して行くべきであると主張した。
これを受けて、1860年代にはこうした草莽が尊王攘夷運動や討幕運動に参加していくことになる(奇兵隊・天誅組・生野組・真忠組・花山院隊・赤報隊など)。しかし、攘夷という方便に利用されただけであったことに気づかなかった大多数の人々は、討幕がなると、討幕とは逆の「開国和親」というスローガンをかかげた政府によって手のひらを返され、反乱を起こすもののトカゲの尻尾切りよろしく大量に打ち捨て殺された(士族の反乱、奇兵隊の末路など)。結果的に、明治政府へ組み込まれた者は頭がよく使えるごく一部であり、大半は政治的敗者として姿を消すことになった

人民・・当時の用語でいう草莽に関するウイキペデイアの解説は、〇〇チルドレンや付和雷同型の本質がよく出ている印象です。
小池都知事の都民ファーストに共鳴して参集した多くのチルドレンが、当選してみると話が違うと不満を持つのと同じです。
すぐに運営方法に対する不満で都民ファーストを脱退したか?批判意見を展開していた都議がいた記憶です。
反NHKで昨年総選挙時に参加して東京都区議に当選したばかりのユーチューバーが、運営に不満で?離党したようですが、末端ほど純粋ですので実際に運営が始まると齟齬が生じます。
庶民は権力闘争に利用されるだけで権力闘争が終われば、ご用済みになってきたのが中国歴代王朝交代時に大動乱の結果でした。
「王候相なんぞ種アランや!」というスローガンを掲げていた育ちの悪さが売り物であった?漢の高祖であれ、朱元璋であれ、天下を取るまで付和雷同して付き従った多くの武将を粛清していきます。
武将の場合范蠡の有名な言葉・・・「飛鳥尽きて 良弓蔵れ 狡兎死して 走狗烹らる。」で表現される実態で誰もが知っている現実ですが、雑兵等に関しては、誰も気にしませんが、平和が来ると真っ先に無用になります。
秀吉の天下統一以来、武功を挙げた功臣・武将の出番がなくなった不満から家康についた豊臣恩顧の大名らは、徳川政権確立後次々と粛清・戦国大名の取りつぶしが行われたのも同じです。
徳川家だって政権を握ってみれば、無駄な兵力がいらない点は同じです。
社会のあり方を見通す眼力もないのに、ただ日頃の不満のはけ口として?煽りに乗る時局便乗・付和雷同型の人材は政府転覆に成功すれば、今度は邪魔者になる運命です。
新政府構築・・真っ先に必要な政治は治安回復です・・小難しい細かな法の縛りを破って奔放に暴れ回る人材は真っ先に標的になります・・に向けて役に立つ能力がない大多数は結局弾圧される方に回る仕組みです。
漢の高祖は庶民出身で最もバカにしていた儒教の礼式を彼が天下を取って真っ先に採用したと言われています。
権力を握ればルールに従わせる必要が生じるので、ルールになじまない彼らが真っ先に邪魔になる運命です。
社会のあり方を見通す眼力もないのに、煽りに乗る時局便乗・付和雷同して政府転覆に成功しても、新政府で役に立つ人以外の大多数は結局弾圧される方に回る仕組みです。
人民が人民(思慮不足)のまま権力を握れることはありえないのが現実でしょう。

社会に応じた言語力3

明治維新後数十年で見ると英文学に進んだ夏目漱石は漢文学等の古典素養の高さが有名ですが、いろんな分野に進んだ偉人の多くが民族文化素養が厚かったように見えます。
明治維新以降では英語力の強化あるいは文系より科学教育の必要性が叫ばれるようになったことと関係があるのでしょうか?
最近で言えばみんなが言語素養を磨き切る前(大学入試でも国語力の配点・比重が下がる一方でしょう)に専門分化が進みますので、医学や理系は理系素養中心、文系でも法律や経済学等々早くから分化していくので言語文化素養を磨く時間が少なくなっていることによるのでしょうか?
小学生に英語教育するとかIT教育するなど言語素養にかける時間比率が近年急激に減少してきたように思われます。
中国が歴代科挙(試験科目は四書五経中心)制度に偏りすぎて近代化に遅れを取ったと言われていますが、物事は程度問題(バランス)です。
社会組織が高度化していくとこれに比例して言語表現能力もアップしていくべきでしょう。
中国や朝鮮族で古代意識のままの科挙制度が維持できたのは、社会レベル(需要)に関係ないトップ階層限定の教養でしかなかったことから民族文化と関係がなかった上に、社会の自律的発展がなく社会のあり方が古代から変わらなかったので不都合がなかったからのように見えます。
日本では万葉の昔から、防人に出る末端兵士まで歌を詠み、武士の台頭によって実務重視社会に変化していくと、実務社会に必要な文化教養を備える・薩摩守忠度や西行法師に始まり、秀吉でさえ茶会を催し、辞世の句を詠んでいます。
光秀謀反決起の朝・出陣前に連歌の会を開いていたのも知られています。
江戸時代に入ると文化の担い手と消費者が市民に移行していくので(庶民相手の落語や川柳、役者絵、笠森お千などの美人画・プロマイドや旅行案内・広重の東海道の名所図など)の発達が浮世普及の原点でした)文化活動は社会水準そのものを写すものでした。
文化活動が社会変化について行けていないときには、外来文化が未消化で入っている状態というべきでしょう。
具体的な例でなく架空の例ですが、外資誘致でアフリカのどこかの首都近くに、周辺ホテル群を備えた超近代的空港設備一式を建設して首都まで高速道路で結び、その途中に最新式の工業団地を作ったとしても、その国の文化度がいきなりその設備に見合った内容レベルになるわけではありません。
最新工業設備や先進国の商品等が表通りに並び国民皆の消費対象になり、自分たちで作れるようになってもすぐにそのレベルの文化になるわけでないことは、ミヤコ見物に出かけて仮に1〜2週間滞在してみやこブリを堪能しても、あるいは1〜2年住むだけでみやこの物腰態度や価値観が身につく訳でないのと同じです。
日本の文化発展の歴史を見ると基礎蓄積の上に外来文化接触による刺激で花開いてきたように見えます。
仏教伝来や大唐の文化受容〜禅文化〜西洋の大航海時代・・鉄砲伝来と国産化成功
鍛冶屋のレベルアップの基礎の上に鉄砲伝来があったのですぐに国産化できたのはその一例ですし、明治の文明開花も西洋文明を受け入れさえすればすぐに産業革命の成果を国産化できる各分野の技術力アップがありました。
西洋の到来に刺激を受けた日本では安土桃山の絢爛豪華な文化が花開き、その反作用としての侘び寂びの文化も成長しました。
基礎文化の厚みがないと外来文化に飲み込まれるか混乱するだけで、民族独自文化発酵にまで行かないで混乱するばかりでしょう。
西洋の大航海時代や産業革命の影響も明〜清両朝や朝鮮の方が日本より先に影響を受けた筈なのに、両王朝でこれによって新たな文化レベルで目立った変化がないまま幕末を迎えました。
幕末においても清朝は日本に西洋の余波が及ぶ何十年前からアヘン戦争〜太平天国の乱に至るほどの激烈な影響を受けながらも、内部混乱するばかりでまともな文化変化〜政体変化もできずにいたのは、新文化価値を受け入れるべき基礎能力がなかった・古代社会文化レベルそのままで来たから混乱するしかなかったと見るべきでしょう。
以前からこのコラムで中国では古代から王朝が代わっても前王朝の繰り替えしで進歩がなかったのはこれを支える社会変化がなかったからであると書いて来ましたが、清朝崩壊も古代歴代王朝崩壊時と同様に社会の変化に合わせるための王朝打倒ではなく従来型軍閥による政権争奪戦でした。
その過程で流行の共産主義を唱えた現政権(私見ではこれも清朝末期の軍閥と本質があまり変わらない)が、山賊的に支配権を確立しただけとみる主張を読んだ記憶です。
政治の目的が古代王朝並みに人民からの収奪しか考えていない場合、専制君主制の王朝再樹立では時代に合わない点を独裁政権と言い換えて、その口実に共産主義を標榜しているだけで本来共産主義(分配目的・・裸官で知られるように共産党幹部の蓄財は半端でない状態です)の精神とは関係ない政権という説明です。
民族意識が古代社会のままで開放路線の結果先端産業を社会レベルと関係なく導入するとこれを文化的に消化できない状態になります。
中国の大規模近代化は、アフリカに飛行場と最新設備を作ったような点として作ったものを大規模にしただけですので、衛生観念も最貧困国並みでおかしくない・摩天楼のようなビルをニョキニョキ立てるだけで足元が不潔な状態・・中国人が日本にくるようになった最初のイメージは「汚い」と嫌われるのが、代表的イメージでした。
最近日本へ来る前に教育を受けてくるようで道路に痰を吐くようなことは目立たなくなりましたが、基本的衛生観念レベルの低さが、今回の新型肺炎の爆発的蔓延の基礎事情のようです。
フィリッピンや太平洋島嶼国などが、一様に厳しい包括的入国制限に走ったのは、自国に少しでも菌が入った場合、防疫能力の低さから見て仕方ないというのが国際的理解でした。
先進国では2次3次感染の広がりを阻止できそう・そういう意味では、WHOが(衛生レベルの低い中国特有の広がりにすぎず)世界的な問題性が低いと判断していたとすれば意外に正しいのかもしれません。

プロの判断と司法審査5

従来X病としかわからなくて、X病の中である人にはAの薬が効き、ある人にはBの薬が効気ある人にはCの薬が効くのは不思議なものだという時代にはX病向きのいろんな薬の中から、経験と勘の直感で薬を選んでれば、過失がない・・プロに任せるしかないのですが、
病態解明が進んでABC型に分類できるようになれば、X病と判断して終わりにしないでさらにABCのどの類型の病気かの判定作業に進む必要があります。
その検査をしていれば、C型とすぐわかったのに、C型に必要な治療をしないでAB型向けの治療をすれば、専門家の意見でも正しいのではなく、単純ミスです。
判断時点での学問水準・情報レベルによってプロに委ねるべきレベルがさらに細かくなっていきます。
プロの判断を尊重すべきという論は、その時点での合理的選択肢がわかっていない場合に限って、鍛え抜かれた(同じ肝臓病でもこういうタイプの人にこれまでよく効いた・・一定率で悪化するのを防げた人が多いなどの相応根拠があるが学問的主張まで行かない程度のものです)高度な直感的判断によるしかない場面に限定されます。
プロに委ねるしかない日常的分野で、しかもそのレベルが日進月歩でない分野は政治の世界でしょうか?
政治というのは「あちら立てればこちら立たず」の利害対立を調整して最終決断していくものであり、変数が無数にあるので、このデータがあればこういう判断をすべきというルールが構築できていません。
その先は鍛え抜かれた専門家・政治家の直感力に頼るしかない現状です。
そこで最終決定者を誰にするかを決めるのは昔は天命により、革命=天命あらたまるという思想や西欧の王権神授説でしたし、日本でも古代から天皇家は御稜威を宣り給う唯一人として敬われ、明治以降の日本ではこれを現人神の思想でした。
政府の高度政治判断はその道のプロである政治家の判断ですが、その代わり政治家はどういう想定外のことがあっても言い訳が許されない結果責任を負うことになっています。
どういう予定外のことがあろうとも、景気が悪くなれば人心が離れる運命を受け入れるしかないのが政権担当者の運命です。
合理的判断の及ばない時の決断能力は、古代社会では神の憑依する特殊能力のある巫女の専業でしたが、実務に足場を持つ武家政権になってからは、その役割りを終えましたが、それでもいざとなれば信長は桶狭間の決戦に臨んで熱田神宮で必勝祈願(のフリをして)配下武将の集結を待ち士気高揚してから出陣したものでした。
戦後は神託に変わる総意であり、総意を感得する権限の付託は民意・民選によるのが国民主権国家です。
民意に直接依拠しない司法権は、立法府の判断通りに政府が実行しているかのチェック権はありますが、立法自体憲法違反でない以上は現場が立法の基準を守っているかどうかのチェック権しかありませんので、立法府の定立した基準に介入するのは許されません。
これを現行法的に言えば違憲行為ですが、その実質はプロに委ねるべき分野だからです。
例えば生存権・・健康で文化的生活保障は憲法で決めた責務ですが、これは責務・・宣言であって法的義務ではないと解釈されています。
健康で文化的生活は国力相応の生活水準であり、現在日本の文化水準といわゆる後進国とは大きな違いがあることは公知と言っても良いでしょうが、結局はその国の国力によって平均が決まるのであって他国を基準にしても意味がないし文化的という意味自体その国、その当時平均的生活水準を意味しているはずです。
例えば大飢饉や戦乱(日本の敗戦時)で国民の多くが飢えているときに、戦争・大災害前の基準で憲法違反という判決をした場合、非常識すぎるでしょう。
憲法は大まかな精神規定であるから政府批判派にとっては何でも憲法問題といえば言えますが、その精神を具体化するのは立法府・政権党の役割であり、国家運営の実務を担当しない司法の役割ではありません。
民意によらないばかりか実務経験もない評論家やメデイアが洪水のように垂れ流す報道は民意でも何でもありません。
国家予算トータルに責任を持つ政治主張を出来ない政党は民主主義政党と言えるのでしょうか?
貧しい人の救済が必要だという理念は正しいですが、総論賛成各論反対という言葉があるように、総予算の中で配分をどうするかの問題です。
貧困とは相対的概念ですから、私の子供の頃の生活水準を思い起こせば、お金持ちの部類に入る家でも火鉢に潤沢に火を熾している程度で家庭にはストーブなど滅多にありませんでした。
私が生まれた池袋の家は空襲で焼けてしまい地方に引っ越していたので都会とはだいぶ違うでしょうが、物心ついた頃にはまだランプのホヤを磨く仕事がありました。
もちろん洗濯機等の三種の神器が出てきたのは高校時代からで、」冷房など見たこともない時代です。
今では、冷暖房もない家は最貧困家庭と言うのでしょうが、時間軸をいつにするか?同時期の諸外国に求めるか自国内に求めるか?平均水準をどこに持ってくるかの問題です。
現時点の自国内平均からどの程度低いと健康で文化的水準でないと言うべきか?
北朝鮮のように等しく?極貧生活に落とし込みたい人はいないとすれば、国力維持向上がまず最優先課題で、その上で分配に気をつけようというのが現在社会の総意というべきでしょう。
現状維持で良いと気を緩めればたちまち競争相手に抜き去られて現状維持どころか、落伍してしまう国際競争熾烈な時代です。

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