アメリカの自治9(草の根民主主義の妥当領域2)

http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.html引用の続きです。

市議はボランティア
「ちなみに、カリフォルニアの政府法では、市長・市議の給料を表1のように規定している[32]。月数万円程度の名目的報酬である。これでは生活できないから、当然、市長・市議は基本的にボランティア活動である。昼は自分の仕事をもっており、夜になると市議会や各種会合に出てくる。市民集会型の市議会では市民も仕事の終わった夜でないと困るわけだが、市議にとってもそれは同じである。
日本でボランティアというと、福祉ボランティアや災害ボランティアなどをイメージするが、アメリカのボランティアはまず市長、市議レベルからはじまっているということである。」
表3 カリフォルニアの市長・市議の給料
出典: California Government Code Section 36516
人口35,000人以下の市     月$300以下
人口35,000-50,000人の市    月$400以下
人口50,000-75,000人の市    月$500以下
人口75,000-150,000人の市     月$600以下
人口150,000-250,000人の市    月$800以下
人口250,000人以上の市    月$1,000以下

小さな自治体・/三万五千人以下の自治体ではわずかに300ドル以下・・3万円あまりです。
25万人以上のサンフランシスコやロスアンジェルスのような大自治体でも市長の月収が月1000ドル以下(今の相場では約11〜12万円)の報酬では本業が別にないと生活ができません。
アメリカの地方自治体政治家は、我々弁護士がただみたいな低い報酬で審議会委員など公職に従事しているようなイメージです。
逆からいえば、州法で決まった範囲は狭く町内会程度の自治しかない・・・その程度の仕事で有給と言うだけでも恵まれているのかもしれません。
このコラムで関心のある自治権の範囲ですが、そもそも自分の本業を切りあげて夕方集会場所に駆けつける住民集会のような市議会で、短時間に住民の意見を聞いてその場で聞いたことを前提に議論して決めていく・・こんな単純なことで可能な政治は身近なテーマに限られるでしょう。
この面からも自治に委ねられているレベルの低さが知られます。
例えば原発の再稼働に関して安全性や原発なしの電力需要にどうするかの議論をデータも見ないで夕方ちょっと集まって意見を聞く程度・ムードだけで賛否の議論しても意味がないことが明らかです。
もともと、数人や数十人規模の自治体を基礎に始まったこの仕組みが、未だに大規模自治体でもそのまま利用されていること自体が時代錯誤的印象です。http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/ronbun/jichius.html引用の続きです。
「市民運動にとっては絶好の動員の場だ。同一団体のメンバーと思われる人たちが次々立って同じような主張を繰り返す。・・」
と報告されていますが、ここに病理現象が顔を出しています。
このような動員力次第になる結果、実際の国民の支持・民意以上の政治力を発揮して来たことがわかります。
これに加えてメデイア支配によるかさ上げ効果もあり、これがいわゆるリベラルに対する世界的反感が湧き起きて来た基礎原因です。
仕事を終えてから集まるタウンミーテング的仕組みは、いかにも草の根の民主主義の実践っぽいですが、これではホンの数十人しか意見を言えないし、党派的対立のあるテーマでは動員された党派的意見の人が列を作って発言を続けると一方的意見の繰り返しばかりで時間が終わり建設的な議論が出来ません。
芸能人やアルバム等のネット投票では、韓国系のマシーンを使った大量の「いいね」投票が席巻して意味をなさなくなって久しいですが、この種の住民集会も同じです。
ここで報告されているサンフランシスコの人口は以下の通り80万人です。
80万人中、(あちこちで何回か開催されるとしても)1回あたり数十人の参加者の意見を参考に決めるのって、これが「草の根の民主主義」と手放しで賛美できるのでしょうか?

17年10月9日現在のウィキペデイアによると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ合衆国の主な都市人口の順位

順位    都市          州           人口
1     ニューヨーク     ニューヨーク州      8,175,133
2     ロサンゼルス     カリフォルニア州     3,792,621
3     シカゴ        イリノイ州        2,695,598
4     ヒューストン     テキサス州        2,099,451
5     フィラデルフィア   ペンシルベニア州     1,526,006
6    フェニックス     アリゾナ州         1,445,632
7    サンアントニオ    テキサス州         1,327,407
8    サンディエゴ     カリフォルニア州      1,307,402
9    ダラス        テキサス州         1,197,816
10    サンノゼ      カリフォルニア州      945,942
11    ジャクソンビル    フロリダ州         821,784
12    インディアナポリス [注 1] インディアナ州      820,445
13    サンフランシスコ   カリフォルニア州      805,235
121   グレンデール     カリフォルニア州      191,719

11月20日に紹介したサンフランシスコ市の議会のようすを写した写真を見ると、市議会というか、住民集会の運営説明と写真を見れば、質問や意見表明したい市民が列をなしていて(一人3分以内と決まっているようです)次々と続く質問や意見表明を聞き続けます。
この意見表明は自治体住民に限定されず誰でもよくて、しかも党派的主張もゆるされるようで次から次へと同じ主張を入れ代わりたち代わり繰り返すこともあるようです。
これが終わると最後に5人前後の当日参加した市議で評決する・・この評決のための議論も市民が見守る中で行われる仕組みです。
ボランテアが原則ですから市議が仮に10人 以上いるような大きな市では、市議が全員出席でもない・都合のつく市議が出席するようなイメージです。

国政政党の役割3

以上、小池旋風や総選挙について感想を書いてきましたが、専門家のわかり良い分析が出ているのに気がついたので長文のために部分的抜粋ですが、以下2日に分けて引用して紹介しておきます。
これによると小池氏は敵を巧みに作りあげる手法でメデイアとの合体でブームを起こしてきたが、都議選後敵がなくなって困っていたところで、解散があったので国政へ逃れて一時的に息を吹き返したという見たてのようで、これまで書いてきた私の個人的印象が裏付けられます。
いつも書くことですが、面倒な内部の利害調整・政治を怠り外敵を求める安易な手法に頼ると次から次へと外敵が必要でいつかは壁にぶち当たります。
以下に紹介する論文は読売のオピニオンに掲載されているのですが、政治家として何をするかの内容のない・スケープゴートを作り上げるだけの小池旋風を煽ってきたメデイア界がどう責任を取るのか?という私の関心・・問いも(遠慮がちに)発せられています。
下記引用の通り、2足のわらじで都政を放り出していることに対する厳しい批判を受けていたので已む無く14日には希望の党の代表を降りたようですが、往生際が悪かった点がどう作用するかについては、以下の引用記事には出ていません。
小池氏が今更パファーマンス政治をやめて都政に真面目に取り組むといっても、もともと利害調整の経験が乏しい小池氏に調整能力があるのかの疑問がある上に、都庁役人や都議会・都民が「都政を踏み台に利用」しようとした点がバレバレになった今となっては、真面目に協力できるか?ということです。
http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20171109.html

衆院総選挙、このあと小池都政はどうなる?
佐々木 信夫/中央大学経済学部教授
専門分野 行政学、地方自治論
飽くなき“権力亡者”にいつまでつき合う
昨年7月31日の都知事選で291万票を得て当選したのが小池百合子氏。今年7月2日の都議選で自ら立ち上げた地域政党「都民ファーストの会」を大勝(55議席)に導き、都議会自民を大敗(23議席)させた。都議会ドンとか都庁を伏魔殿と呼ぶなど敵視戦略で2つの選挙を制してきた。都議選に大勝利した瞬間が小池百合子主演の「小池劇場」(都政版)がピークを迎えた時だった。筆者は、その後の都政は敵を失い自らの仕掛けが敵になる、との見方からこの瞬間で「小池劇場は終焉した!」と本欄に書いた(17年8月31日付)。
ところが第2幕があった。もう1つの国政進出がそれ。安倍首相の突然の衆院解散、10月22日総選挙と慌ただしい動きが始まると、この時とばかり、“私一人で立ち上げます!”と国政新党「希望の党」を立ち上げた。(国政版)「小池劇場」の幕が開いた瞬間だ。マスコミなど世の中はテンヤワンヤの大騒ぎ。“希望のスター現れる”との囃し立てぶり。“初の女性総理誕生”とまで書く新聞もあった。
・・小池氏はあたかも首相の座に手が届きそうな絶頂の表情でテレビに出まくった。
民進党を丸のみして政権を取ろうとした希望の党、それをめぐるゴタゴタ。その主犯は小池氏だろう。中身のない看板だけの民進党の面々も同罪だが、都政を置き去りにし、都政の実績もなく問題提起だけで1年を過ごしてきた小池氏が“私が日本を変える大政治家”とばかりに振舞った罪は重い。そのことを見抜けないで馳せ参じた民進系議員、スターのように囃し立てたメディア、評論家の罪も重い。危うい世論の空気も。日本政治の空白の1ヶ月だった。
・・・その小池氏。大敗に驚き潔く身を引くかと思いきや、「深く反省し、お詫びしたい」と反省の弁を語ったが、それは口先だけ。都知事は辞めないし、依然として希望の党代表を続けるという。そうまでして権力の座に恋々とする、“飽くなき権力亡者”に都民はいつまでつき合うのか。
・・・今回の総選挙で希望の党が過大評価されたのは「メディアの責任が大きい。
マスコミの支持、世論を追い風にしてきた小池都政の推進力はこの先、確実に落ちる。
・・・小池氏は、問題の指摘は上手だが“課題を収拾できない人”と皆が見抜いてしまったからだ。
・・・・本人は「都政に邁進する」と嘯く。「都政を踏み台に首相へ駆け上がる」、その野望を全面に出しての国政勝負に大失敗し“劇場2幕”の幕が下りたにも拘わらず、この先も政党代表と都知事の2足わらじを履き続けるという。
・・・・常識では考えられない。果たしてこの先、都民の支持、都庁官僚の支持、都議会の支持、国民の支持は得られるのか。頼るのはマスコミの支持か。都知事の途中辞任が続く“混乱都政”の収拾を期待されての登板だったはず。だが、やっていることは、それに輪を掛けそれを上回る混乱、専横ぶりではないか。都知事ってそんなものか、都政ってそんな片手間の仕事なのか。都政をないがしろにし、自己ファーストで権力の座にしがみつく、そうした小池氏の姿に怒りと失望を感ずるのは、筆者だけだろうか。
この解散総選挙は何だったか、何に役だったか
現代はメディアの報道が選挙結果を大きく左右する時代だが、商業主義のメディアに翻弄され右往左往した有権者も多かろう。政権選択と嘯き「希望の党」にスポットを当てて小池百合子をスターのように扱ったメディアは今どう抗弁するのだろう。
選挙報道の新聞、テレビはどれも筆先は同じ、コメンターもみな同じ人。そこには小池氏を囃し立てるトーンはあっても有権者の目線に立った対論、争論、ディベートは殆どなかった。第4権力ともされるメディア、これが報ずる“過ち”を私達はどう見抜けばよいのか。」

執筆者はメデイア界で活躍しているからか、「私達はどう見抜けばよいのか。」とメデイアの影響力を過大評価していますが、いくらメデイアが煽っても彼女の政治が何をもたらすかを素早く見抜いた国民がいる・・すぐに彼女を支持しなくなった健全な結果を重視すべきです。
小池旋風がほんの短期間しか効果がなかったのは、メデイアの虚像(いわゆるフェイクニュースの走りです)拡散による誘導効果・メッキも一緒に見抜かれている点をこの論者はあえて過小評価していると思われます。

天皇制変遷の歴史3(連署1)

裁判(裁定)に勝てば、相手が引き渡さなくとも武士は実力で取り返せるので(取られる一方の弱い武士は淘汰されていく・戦国時代に入っていく所以です・・)それでもいいのですが、公卿は実力装置を武士に頼っている状態で、荘園のアガリの分配を武士と争うとなれば、実力行使できないので勝ち目がありません。
徐々に荘園からの上がりが減っていき最後は盆暮れの付け届けくらいになっていく・・藤原氏を頂点とする公卿・朝廷は干上がっていきます。
室町初期の直義の頃の状況を見るとこういう荘園の収入の分配(平安時代初期には荘園成立過程での初期競争では、藤原氏が貴族(古代豪族)間で圧倒的地歩を固めましたが、それが天皇家自体の参入によって八条院領に蚕食され、鎌倉期になるともとからの荘園領主同士の争いよりは内部に地盤を築いて来た武士層に内部蚕食されて行く(合理的交渉で言えば、管理費の値上げ?要求すべきところを集金した管理費を実力で払わないとなれば横領?)時代に入り、公卿や八条院系)と現場管理者の武士層との紛争が多発する時代に入っていたのです。
鎌倉以降武家の時代になってだいぶ経つのに、観応の擾乱を見るとなお貴族や朝廷の荘園収入があったことが逆にわかりますが、応仁の乱を経て戦国時代に入ると中央の訴訟機関自体が機能しなくなっているので、収入ゼロに追い込まれていたであろうことは容易に想像がつきます。
10月26日に天皇家の収入減少を書きましたの一部繰り返しになりますが、さらに詳しく書きますと、公卿の中には大内氏などに縁を頼って地方に落ち延びていくか?文化を売る・天皇家は落ち延びられないので、天皇御真筆でお礼を貰うなどで食いつなぐ中で、地方有力武将への叙任や、大寺の実力者に僧正などの称号を付与するのは貴重な収入源だったし、ひいては乱発気味になっていました。
これが目に余って来たので、紫衣事件になったのですが、その背景には絶対的な収入減があったことがわかります。https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%B4%AB%E8%A1%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6&action=edit&section=1

紫衣と事件に至る事情
紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜った。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあった。
これに対し、慶長18年(1613年)、江戸幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図って、「勅許紫衣竝に山城大徳寺妙心寺等諸寺入院の法度」(「勅許紫衣法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」)を定め、さらに慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。
一 紫衣の寺住持職、先規希有の事也。近年猥りに勅許の事、且つは臈次を乱し、且つは官寺を汚し、甚だ然るべからず。向後に於ては、其の器用を撰び、戒臈相積み智者の聞へ有らば、入院の儀申し沙汰有るべき事。(禁中並公家諸法度・第16条)

幕府権力確立によって、旧来同様にすべて幕府を通すべきとなると朝廷の収入源がなくなります。
これを禁止しっぱなしでは朝廷関係者が生きていけませんので、家康が1万石、次に秀忠が皇女誕生を祝って1万石、綱吉が1万石、慶喜が15万石寄進しています。
現憲法下でも天皇家の生活保障のために26日紹介したように「内廷費」が予算計上されているのと同様です。
生活補償するので生活費稼ぎのために「ハシタないことをやめてください」朝廷の権威が下がってしまうことを恐れた意味でもあったでしょう。
話題が逸れましたが、朝廷の文化活動に戻りますと、昭和天皇の活動も「雑草』研究などに限定されていますが、敗戦でそうなったのではなく、家康以前から「文化を売り物にするしかなかった」そういう仕組みになっていたのです。
家康に言われて初めてそうなったのではなく、当時すでに「朝廷や公卿が政治に口を出すべきではない」という価値観が一般化していたからでしょう。
明治維新でなぜ王政復古になったのかですが、薩長が幕府追及・倒幕の言いがかりに「尊王攘夷」を主張しただけのように思えます。
倒幕運動の大義名分が王政復古だったので、倒幕成功・維新後は表向き天皇親政形式・・政体書体制・二官八省体制を作ります。
(これも6省から8省へ変遷がありますが、重要なことは太政官と神祇官をトプ2としたことです)
しかし、もともと公卿・朝廷には鎌倉幕府以来実務経験も能力もないので、実務をやれるわけがありません。
薩長政府は当初二官八省体制を作りますが、神祇官などが政治をやれるわけがなく、目まぐるしく統治体制変更を繰り返し、最終的には、内閣制度を創設して行きます。
結局は実務政府とお飾りの天皇家・公卿を切り離す方向だったのです。
明治初期の政府組織については、2005年07/21「政体書と中央組織」前後で連載しました。
ちなみに内閣制度は明治憲法によってできたのではなく、その前の明治18年に創設されて伊藤博文が初代総理に選任されています。
明治憲法は22年ですから、約4年間先行して実績を積んでいた内閣制度を憲法に取り込んでいったことになります。
言わば幕府の実務機関である「幕閣」を内閣(幕閣の閣「老」を「大臣」と王朝風に)と変えた上で、朝廷と場所的に合体したようなものでした。
武家が朝廷の影響を避けるために鎌倉に政府を開いた時には幕府が何かするには幕府が京へ使者を立てる必要があったのに対して、徳川体制では十分強くなっていたので・・朝廷が何かしようとすると幕府の同意・許可を取る必要があった・・幕府が京へ参内するのでなく朝廷の方が江戸に下向する(これが忠臣蔵の背景です)必要のある社会体制でした。
薩長藩閥政府も今後の国策として開国しかないとすれば、新政府を京に置くわけにはいきません。
実務政府を江戸に置くしかないとなれば、王政復古を唱えた手前、全て天皇の名において発令するには日常的緊密な連携が必要です。
その都度・・京都まで行って参内する手間を省くために朝廷に江戸へ引っ越してもらった・・実務政府幕府→内閣が朝廷を内部に引きこんで、天皇の名において機動的に実務を行えるようにしたことになります。
ところで、明智光秀謀反の黒幕に絡んで
「信長が(恐れ多くも?)安土城内に朝廷・ 御座所を取りこむ構想を持っていた」ことが前の関白を中心にしてクーデターの陰謀が成立したなどという着想が時々小説などに出てきますが、このような視点でこれを眺めると、幕末小御所会議のクーデター以降、事実上天皇・錦旗を擁した薩長勢力が、天皇の神輿を担いで(安土城への移転に代わって)そのまま江戸に移動した格好です。
10月26日に憲法を紹介して少し書いた天皇権力の本質を示す連署に戻りますと、我が国では古くから重要文書には連署する習わしがあります。
王朝時代にどうであったかの記録は今のところ私には分かりません。
連署制は北条泰時が始めたと言われますが、少なくとも江戸時代には幕府正式文書には老中が連署する習慣になっていたようです。
三田市の資料では以下の通りです
http://www.city.sanda.lg.jp/gakushuu/sisi/documents/siryo2.pdf

「三田市史」の史料 その2
『三田市史』第4巻近世資料(166頁63号)
江戸幕府老中連署奉書
(年未詳)三田市所蔵九鬼文書
御状令披見候、公方様益御機嫌能被成御座恐悦旨得其意候、将又今度首尾好御暇日光山御宮御堂参詣有之而去五日在所到着難有被存之由
尤之事候、依之為御礼被差越使者御肴一種進上之候、
右之趣遂披露候処一段之仕合候、
恐々謹言
板倉内膳正重矩(花押)
六月十九日
土屋但馬守数直(花押)
久世大和守広之(花押)
稲葉美濃守正則(花押)
(隆昌)
九鬼長門守殿

幕府老中は月番制度と言われていますが、重要事項に関しては臨時に合議していた他に公文書発給には連署していたようです。
この習慣が各大名家に広まったからか、家老会議に加わるものの中で連署資格のあるものを加判の列に加わると表現されるようになります。
明治憲法下での国会召集詔書の写しは国立公文書館史料に出ています。
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000014526には明治23年10月9日付け帝国議会招集の詔勅の写しが出ていますが、これには明治天皇の「睦仁」の署名の他に次ページに山縣有朋以下の閣僚の署名があります。
※ 1年ほど前に、この原稿を書いた控えには、その写しが残っているのですが、今年8月頃にサーバーの不具合で過去の事前掲載用送信分が皆消えてしまったので、今コラムに再アップしようとすると何故かコピペできませんので、関心のある方は国立公文書館に入って確認してください。

憲法論と具体論の重要性(韓独など憲法裁判所の観念性1)

理念の言い合いでは最後は罵り合い・解決になりませんが、私の地元自治会婦人部では「生を受けた以上全うせてやりたい」ということから、「公園に罠を仕掛けて捕獲すると避妊手術して放してやり、避妊手術済みの猫には責任を持って毎日一定の場所で餌やり」しています。
それでも「避妊手術すること自体許されない」という人がいますので、自治会でやるのではなく「有志」が寄付でやっているようです。
避妊手術費用や毎日の餌代等一定の費用がかかるので有志の寄付(私も寄付しています)によっていますが、動物愛護という掛け声だけで野良猫の繁殖放置でも困る矛盾解決努力の結果、避妊していない猫を無くしていく努力がある程度効果を奏しているようです。
近所の野良猫は毎日餌もくれるし目の敵のよう追い回されなくなったからか?入れ替わり立ち替わり来ては(みんな顔見知りばかりで知らない猫はいなくなりました)我が家の庭で安閑と昼寝をしています。
冬には、日の当たる場所に落ち葉をある程度掃き集めると、その上に座って私が残りの落ち葉を掃き集めるのを じっと見ている猫もいます。
佛教〜儒教〜実学(御定書の編集などによる判例重視)への流れについては、03/13/08「政策責任者の資格9(儒教道徳と市場経済4)」前後で連載しました。
この意見の延長で、儒学の深遠な哲理では、赤穂浪士を裁く基準にならず困ってしまった例を引いて「非理法権天と野党1」December 25, 2016でも書きました。
なお、そこでは最近盛んになっている近代立憲主義の萌芽について、「非理法権天」の法理主張が始まった流れ・公儀に対する政策批判道具として用いられた経緯も少し紹介しています。
18年1月27日日経新聞土曜夕刊10p(最終裏)には、「法廷劇が問う撃墜の是非」の題名で面白い記事が載っています。
以下は私の要約です。

満員のサッカー場に突入予定のテロ犯によるハイジャック機を、空軍少佐が独断で急発進してこれを撃墜し乗客等合計164人の命が奪われ、他方7万観衆の生命が救われた。
少佐は英雄なのか殺人罪で処罰すべきかの判断を観客が、芝居が終わるまでに一人一人回答する・一種の陪審劇です。
ドイツで実際に10年ほど前に起きた航空安全法の議論を下敷きにしたものだそうです。
この法案は連邦憲法裁判所によって違憲とされたらしいのですが、2015年の公演開始以来世界各地の「評決」では、無罪にすべき・合憲論が圧倒的多数で、ロンドンやウイーンでは全公演で無罪だったと出ています。
ちなみに作者のシーラッハは、違憲判断支持らしいですが、作者の思惑・意図とは逆の結果になっているようです。
ちなみに日本公演結果は、(現在も進行中らしいですが)上記新聞記事記載まで12回の公演では6対6で欧州と違いどっちつかずになっている・・・テロの脅威実感の低さがこの結果になっているとの記事の解説です。

ドイツや韓国では、具体的事件に関係なく観念論で成否を判定する憲法裁判所があるようですが、具体的事件に関係なく判定するのでは、裁判所というよりは学問所みたいな仕組みです。
慰安婦騒動や徴用工問題がこじれる原因になったのも、韓国の憲法裁判所が政府が日韓条約で権利放棄しても国民を拘束できないと観念論で判決したことが始まりです。
国政の重要事項を現実に即して考えるか、観念論で決めるのが良いかは国によって違いますが、わが国や英米法のように「争訟性」具体的事件の当事者が訴訟提起できる・・現実に即して考えるのが正しいと言えるでしょうか?
具体的事件が起きる前からある法律が憲法違反かどうかを決めるのでは、例えば現亜pつ訴訟やその他多くの裁判は政治効果の大きなものがありますが・特に憲法判断は政治効果に直結する高度な政治行為です。
このように政治に直結するので実務(商売人ほどその商売)に詳しくないとはいえ、裁判実務に精通した裁判官が判断するし、詳細事実認定をした上で判定するものです。
憲法裁判制度は、具体的事象が起きない内に判定するものですから、原則として抽象論で決着しがちです。
集団自衛権論でいえば、具体的事件が起きて政府の他国援助が自衛権の範囲を超えているかどうかで具体的に判定する必要がある・事案が発生しない段階で「こういう違憲の場合しかない」と前もって言えないはず」という意見を書いてきました。
憲法裁判所制度は、神様のようにあらゆる事象を前もって見通す能力を前提に「違憲」になるという断定するものですから、そもそも無理があります。
民族性として「一般人とエリートでは格段の能力差がある」→エリートの指導に従って行動すべきという思想を前提にした制度です。
我が国では憲法裁判所制度ではなく具体的事件があって初めて・前提となる法律が憲法に違反しているかどうかを判断する仕組みです。
これは、ボトムアップ社会に適合した議院内閣制などと共通した制度設計というべきでしょう。
以下に紹介するように、憲法81条では「最高裁判所は一切の・・終審裁判所」となっているので最高裁判所以外の憲法裁判所の設置は予定されていません。

憲法
第76条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

次に抽象的に憲法判断を求めらるか?というと、76条で「すべて司法権は・・」となっています。
司法権とは具体的事件を法に基づいて裁くものですから、争訟性がないと末端裁判所に訴え提起しても却下される仕組みです。

裁判所法(昭和22・4・16・法律 59号)
3条 裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する。

いわゆる「板マンダラ事件」に関する最高裁判例です。
http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/84-3.html

寄附金返還請求事件
最高裁判所 昭和51年(オ)49号
昭和56年4月7日 第3小法廷 判決
[1] 裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法3条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であつて、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものに限られる(最高裁昭和39年(行ツ)第61号同41年2月8日第3小法廷判決・民集20巻2号196頁参照)。したがつて、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であつても、法令の適用により解決するのに適しないものは裁判所の審判の対象となりえない、というべきである。
[2] これを本件についてみるのに・・・以下略
・・・・本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となつていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであつて、裁判所法3条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない。
[3] そうすると・・論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。・・被上告人らの本件訴は不適法として却下すべきである・・・」
※寺田治郎裁判官の補足意見は多数意見とは違い争訟性があるが、宗教教義に立ち入れないので、結局原告は錯誤内容を主張できない・許されない?ことを理由に棄却すべき・だが被告が控訴していないので高裁に差し戻しても棄却できないので、結局的に却下という結論を同じくするというもののようです。
(勉強不足の私にとっては、補足意見の処理の方がわかり良いように見えますが、ちょっと技巧的にすぎるということでしょうか?)
日弁連の事例では、ある単位弁護士会で懲戒処分したことに対して対象弁護士が弁明を聞く手続違反があるとして異議申し立てしていたところ、日弁連がこの手続き違背を理由に破棄して単位会に差し戻した事例があります。
ところが、その事件では対象弁護士が単位会の懲戒処分後他の弁護士会に移籍していたために原単位会に差し戻されても原単位会では(対象弁護士はもはやその単位会の会員ではないのですが・懲戒処分後日弁連に継続した後に事件が原単位会に戻った場合には、その手続きの範囲内でその間に移籍していてもなお原単位会で処分できるような規定が整備されていなかった・今も同様です)再審査できない状態だったので、日弁連で自判しないと事件が宙に浮いてしまう事例であったのに、日弁連が差し戻してしまったことがあります。
上記最判の運用を見れば、こういう場合差し戻さずに「自判」すべきだったことになります。

天皇制変遷の歴史3(連署1)

ところで、明智光秀謀反の黒幕に絡んで
「信長が(恐れ多くも?)安土城内に朝廷・ 御座所を取りこむ構想を持っていた」ことが前の関白を中心にしてクーデターの陰謀が成立したなどという着想が時々小説などに出てきますが、このような視点でこれを眺めると、幕末小御所会議のクーデター以降、事実上天皇・錦旗を擁した薩長勢力が、天皇の神輿を担いで(安土城への移転に代わって)そのまま江戸に移動した格好です。
連署については、10月26日に憲法を紹介して少し書きましたが、我が国では古くから重要文書には連署する習わしがあります。
北条泰時が始めたと言われますが、江戸時代には老中が幕府正式文書には連署する習慣になっていたようです。
http://www.city.sanda.lg.jp/gakushuu/sisi/documents/siryo2.pdf

「三田市史」の史料 その2
『三田市史』第4巻近世資料(166頁63号)
江戸幕府老中連署奉書
(年未詳)三田市所蔵九鬼文書
御状令披見候、公方様益御機嫌能被成御座恐悦旨得其意候、将又今度首尾好御暇日光山御宮御堂参詣有之而去五日在所到着難有被存之由
尤之事候、依之為御礼被差越使者御肴一種進上之候、
右之趣遂披露候処一段之仕合候、
恐々謹言
板倉内膳正重矩(花押)
六月十九日
土屋但馬守数直(花押)
久世大和守広之(花押)
稲葉美濃守正則(花押)
(隆昌)
九鬼長門守殿

幕府老中は月番制度と言われていますが、重要事項に関しては臨時に合議していた他に公文書発給には連署していたようです。
この習慣が各大名家に広まったからか、家老会議に加わるものの中で連署資格のあるものを加判の列に加わると表現されるようになります。
明治憲法下での国会召集詔書の写しは国立公文書館史料に出ています。

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/F0000000000000014526には明治23年10月9日付け帝国議会招集の詔勅の写しが出ていますが、これには明治天皇の「睦仁」の署名の他に次ページに山縣有朋以下の閣僚の署名があります。

※ 1年ほど前に、この原稿を書いた控えには、その写しが残っているのですが、コラムに掲載しようとすると何故かコピペできませんので、関心のある方は公文書館に入って確認してください。

現在の議院内閣制でも天皇の名において国会を召集しますが、詔書には内閣総理大臣の副書が必要です。http://ryoichiinaba.jp/?p=110からの官報の写し引用です。 

日本国憲法第七条及び第五十二条並びに国会法第一条及び第二条によって、
平成二十五年一月二十八日に、国会の常会を東京に召集する。

  御 名  御璽

    平成二十五年一月十八日

                     内閣総理大臣臨時代理

                       国務大臣 麻生 太郎

法令を公布する場合には内閣総理大臣と担当大臣の連署が必要です。
連署を拒むことはありえないと思いますが、仮に内閣総理大臣や担当大臣の副署しない詔書が発行されても、公布の効力がないとされるでしょうか?
徳川時代でいえば、将軍家の同意がないということで無効(紫衣事件)でしょうし、現在でも天皇が独断で任命したら内閣の助言承認がないという点では同じです。
いわゆる天皇の大権と内閣の助言承認との違いですが、実際の実力関係・実質決定権は徳川時代も明治時代も現在も変わらないように思うのは私だけでしょうか。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC