住民登録制度4(戸籍制度5)

原発問題の行く末を気にすればきりがない・・心配の種は尽きないのですが、まさか関東圏が壊滅することはないだろうと言う根拠のない楽観的希望に基づきこの辺で一旦休憩し書き溜めのある普段のコラムに戻ります。
(ここのところ,仕事も忙しく帰ってから夜書くには少し疲れたので・・土日頃に余裕が出たら大地震災害・原発問題を連載します)
話が寄留にそれていましたが、国民管理のために何故住民登録から入らず戸籍制度充実が先行して来たかの歴史探求に戻します。
戸籍制度としてはMarch 7, 2011「宗門改めから戸籍整備4」の続きになります。
寄留=ランなど胞子系に擬してみても一応そこで根を生やすところまで行った場合ですが、江戸時代に定職の当てもなく江戸に流入した方にしてみれば、寄留ほどの安定性がある場合とそこまで行かない仮住まい程度の2種類があったのでしょう。
ですから、氏素性を聞かれれば現にいる場所ではなく、どこそこ(実家)の何の誰兵衛と言うしかなかった筈ですし、政府の方も居場所で特定するのではなく出身地で特定していたのでしょう。
古くは熊谷の次郎直実、江戸時代初期の「宮本村の武蔵」と言う表示が続いていたのです。
出身地と名前を言えば、そこの地元に行けば親兄弟が誰でその次男〜3男と特定出来る仕組みだったのですが、なまじ現に寝泊まりしている場所で特定するのでは安定性がなくて特定不能だった実態があったからです。
言わば、今の住所概念がまだなくて、(住所概念が出来たのは明治19年の内務省令当たりからのようですが、今のところこの条文を見ていないので正確には知りません)親元以外の場所には今で言う居所あるいは寄留している(臨時にそこにいる場所)くらいでしかなかったのです。
制度的には、住民登録制の不十分さが戸籍制度を充実させ、ひいては観念的な家の制度創設に繋がったシステム的原動力でもあったことになります。
住民登録制度創設の前提としての居住の安定性が江戸時代には確立しておらず、明治の初め頃にはその状態が続いていた・・March 5, 2011「寄留地2(太政官布告)」で紹介したように「寄留」まで行ってるかどうか程度の把握しか出来なかったこと大きな原因だったでしょう。
以前にも書きましたが、江戸時代の町民とは長屋住まいの人たちのことではなく、自分の家屋敷を持つ人のことだったのですが、明治になると借家人も登録する必要が生まれて来たことによります。
明治の初め頃には東京大阪にいる元の無宿者を登録するための特定には、「どこそこ出身の誰それ」と言う方式しかなかったので、本籍制度(朝鮮では本貫が重視されて来たのも同じ意味でしょう)が必要になったと思われます。
古くは熊谷の次郎直実、宮本村の武蔵と名乗る程度の意識・・どこそこの出身と言う長年経験して来た帰属意識を延長した制度と言えます。
三河屋、越後屋の屋号等が発達したのも起源は同じです。
こうした発想の伝統は今でも大相撲では健在で、どこそこ出身と言う名乗りが今でも続けられていますが、これからは意味のないしきたりになって行く筈です。
紳士録などは未だに本籍地が重要事項として記載されていますが、今時の本籍地は結婚に際して適当に届けるだけであまり意味がありませんので、これにこだわってる意識は、50年以上の時代遅れの制度と言えますし、だれもマトモに利用していないでしょう。
現在ではどこの会社のどういう人か(職業)が相手特定の基準であって、親がどこの人かは関係ありませんし、誰も気にしていません。
ただし本籍と言っても、最初の壬申戸籍では(まだ家の制度が構想されていない時代でしたので)現住所を基本に戸籍を作っていたので、都会に出て行った人の元の住所・・多くは親の住所と一致と言う意味でしかなかったことを今年の2月22日に本を引用して紹介しました。
すなわち、後に家の制度に結びついて大げさになって行きますが、本籍の登録自体は戸籍制度の出来た時に親が定住していた場所を書いたに過ぎないのです。
都会での職が安定し、定住が一般的になって行った外に住民登録制度が充実して行けば、本籍(親の住所)など無意味になって来たのですから,実用面から言えば不要にして行くべきだったでしょう。

戸籍制度整備3と連座制の廃止

 

親元から系統を辿って国民を把握して行く芋づる式方式は、February 16, 2011「戸籍制度整備2(芋づる式)」で書いたように早期に国民を把握するには適していましたが、実際に一緒に住んでいない人まで一つの戸籍に登録すること自体が観念的な取扱ですから、親元に記録する戸籍制度が出来たときから、観念的な家の制度に発展しやすい素地を持っていたことになります。
庚午戸籍あるいは壬申戸籍は、その前提として各戸の存在する場所での現状登録(戸籍作成時の居住地=本籍)を基本とし、そこから出て行って現に同居しなくなった元の未成熟の子(成人した人)までこれに併合して登録するようになったとしても、最初は直系血族だけだったので、今の核家族とほぼ同様で大したことがなかったと言えます。
しかし、この仕組みでは外に出た子の子(孫)まで登録して行き、その後、親(祖父母)が死亡して長男が次の戸主になっても、長男の甥姪(傍系)までその戸籍に記載されたままなってしまい、これを繰り返していくと一戸籍に傍系の傍系まで広がって膨大な数の人が登録されて行く事になります。
この結果転籍手続きが重たくなってしまい寄留簿の流用に繋がって行ったことを20日前後に書きました。
急激な社会変革・・維新進行による旧来の共同体意識解体に対する不満勢力・・醇風美俗を守れと言う反動思想を押さえ込むために、新たな家集団の編成を唱えれば便利だったことから、新戸籍制度による膨張体質が家の制度の説明に結びつき「家の制度」と言う大層な観念が生まれて来たように思われます。
明治政府は国を家に擬制した国「家」と表現し、ムラの内部の集落を字(あざ)と言って、あたかも人為的につくった行政組織である村を親に見立てて従来からあった集落をその子のようにしてしまい、(26日に少し書きましたが「字」の漢字の意味は家にいる子と言う意味ですが、これについては村と邑の違いを書く時に再論します)何もかも家の仕組みに擬制して行きます。
徴兵、徴税その他の目的で、国民に対する国家直接管理が進んで行った結果、郷里を出て行っても出身地の名簿(戸籍)から抹消できなくしたのが新たな戸籍制度ですが、その代わり刑事での連座制が廃止されました。
それまでは累が及ぶのを恐れて除籍していたのですから、除籍を禁止するには連座制を廃止するしかなかったでしょう。
忠臣蔵で仇討を決意した大石内蔵助が妻子に累が及ぶことを恐れて離縁状を書くシーンが有名ですが、明治の40年の刑法では個人責任主義に徹していて、家族の名簿に載っているだけで連座責任を負うことはなくなったのはこうした背景があります。
(たまたま、昨年12月14日赤穂浪士の討ち入りの日の午前に東京地裁の弁論があったので、その終了後に三宅坂の国立劇場に回って「仮名手本忠臣蔵」・・討ち入りを含む通し狂言(幸四郎と染五郎外一門出演)を見て来ましたが、この離縁のシーンはありませんでした・・元禄忠臣蔵で出てくる場面だったかな?)
ちなみに、私ごとですが最近結構な歳になって来たので、仕事ばかりではなく東京地裁の事件が午前中にある時には、直ぐに事務所に帰らずに弁論終了後(証人尋問ん問う長いときは別ですが・・・)に妻と日比谷の松本楼でゆっくり食事して、近くの日生劇場その他開演時間の合う劇場へ行って演劇等を楽しむことにしています。
話を連座制に戻しますと連座制の歴史が長かったので、今でも借金その他不祥事・刑事事件があると離婚した方が良いかの相談を受けることが結構あります。
(先に離婚届を出してしまってから相談に来る人もいます)
連帯保証さえしていなければ夫婦であることと夫の借金とは関係がないと説明するのですが、November 22, 2010「男の存在意義3」その他で「金の切れ目は縁の切れ目」のテーマで書いているように、妻の方はこの機会に離婚したい本音がある場合もあって実際は色々です。

戸籍制度整備2(芋づる式)

従来の無宿者をどのようにして登録するかについては現地調査による方式と、無宿者扱いをやめさせて親元で登録を維持することの2方式が考えられますが、前者の場合当時は現地登録するには都会の住まいは安定していない人の方が多かったことと、現住所を確定して行く作業・・しらみつぶしに調査するのは大変なことになります。
現地調査から入って行くとその間に住所移転があったりして・・動き回っているひよこの数を数えるようなもので大変ですし膨大な調査員が必要です。
例えば現在でも、銀座や新宿の雑踏の中で行き交う人を捕まえて東京の人口を特定をするのは不可能で、どこかの住所等から芋づる式に特定して行くしか方法はないでしょう。
このように書いていると、数十年前に白血病の事件をやっているときにある時点での白血球・赤血球の数値が問題になった時の事を思い出しました。
データの正確性を検証しようとしたところ、血液を採取して顕微鏡でのぞいて動き回っている白血球だったか赤血球だったかを目で追いかけて大体の数を数えると聞いて驚いた事を想起します。
そのときの説明では一定量だけ数えて後は倍数を掛けて計算するので如何にも緻密な端数まで結果が出るのですが、その前提は殆どいい加減な認識によるものです。
勿論同じ医師が何回も採取して数えればその変化のグラフは同じ比率で変動します・・2〜3割の誤差のある医師の場合同じ比率で、多め少なめの傾向も数値が同じように変動するのでそれで良いのかもしれません。
しかし、前後の流れから見て途中の数値に間違いがあったのではないかの疑問による検証作業の場合、写真にとって固定して数えて置かないと、データの正確性についての検証の方法がなく、そんないい加減な事で良いのかと驚いたものです。(今は知りませんが・・)
話を戻しますと、一戸を構えている親元を特定した上で、そこから芋づる式に特定して行く場合、出先でまだ一戸を構えていない子らを無宿者扱い・除籍さえやめさせれば自動的に親元に名簿が残るので把握が簡便です。
しかも親に東京や大阪にいる息子や娘などの居場所を申告させて、後に紹介する寄留簿(現在の現住所登録)を作って行く方が簡便ですから、この方策がとられたのは自然の成り行きですし、これが同居していないものまで家族に組み入れるというか残して行くことになった始まりと言えます。
ちなみに、このまま無限に残して行くと大変になったので、死亡した時には除籍する制度が出来たのは戸籍法中出生死去出入及寄留等届出方並違背者処分 (明治19年9月28日内務省令第19号 )と戸籍取扱手続(明治19年10月16日内務省令第22号 ) による大改正によるものです。
平行して都会の未定着の住まいは親の申告に基づいて都会地の役所自体が寄留地として管理・・徐々に整備して行き、この寄留簿どおりかについて役人が確認して歩き同じ長屋に寄留簿のない人がいれば確認してその人だけ身元調査すれば良いので寄留簿の完備も簡単です。
(これが後の寄留簿・・現行の住民登録制度に結実して行ったと思われます。)
中には親兄弟がいない人もいるでしょうが、そういう人には独立戸籍を作ればすむことです。

戸籍制度整備1

扶養義務法定と関連して扶養義務の範囲を定めるためには、都市住民の登録が必要になってきます。
逆に都市住民登録の必要が大家族制導入の原動力だったかもしれません。
2月13日にも少し書きましたが、戸籍制度は律令制の一環として中国から入りましたが、我が国ではこれが根付かずに、受領や国司・・荘園主等の地方有力者に国民把握が一任され、有力者による適当な届出制になり、以後約1000年余りも政府は国民の間接統治に甘んじて来たのです。
直近の江戸時代を見ても、大名を通じた間接統治でしたし、大名は家臣団を通じた間接統治と言う具合に重層的間接統治の時代が荘園制度発達以来長かったのです。
明治維新になって今度は「政府が直接人民を管理するぞ!」と言う意気込みで始まったのが、先ずは天皇行幸に合わせて明治2年3月東京で実施された「東京府戸籍編製法」と「戸籍書法」の2法です。
このころは各地でそれぞれの戸籍らしきものが出来ていましたが、全国統一戸籍の意気込みで始まったのが明治3年の庚午戸籍及び明治4年太政官布告による壬申戸籍(明治5年施行)でした。
学校教育では大名家の版籍奉還・廃藩置県のみ大きく取り上げられますので支配主体が藩から政府一部局の県に変わっただけのような印象で教えられますが、この時政府は、大名小名をなくすだけに留まらず人民の直接統治を計画していたので、その思想的成果が壬申戸籍の施行だったことになります。
(今でも戸籍管理は政府・法務局の権限であり、住民登録は地方自治体の権限です)
壬申戸籍の布告が法令全書に出ていますが、これは写真らしくコピー出来ないので、一部(前文)だけ手写しで紹介しておきましょう。
(簡単に旧字体が出ない漢字は現在の漢字になっています・文中◯は欠字のような印象で空白があります)

第170 4月4日(布)
今般府藩縣一般戸籍ノ法別紙ノ通リ改正被仰出候条管内普ク布告致シ可申事
戸籍検査編成ハ來申年2月1日ヨリ以後ノ事ニ候ヘ共右ニ関係スル諸般ノ事ハ今ヨリ処置スベシ・・・以下中略・・・
右ノ通リ被仰出候事
人生始終ヲ詳ニスルハ切要ノ事務ニ候故ニ自今人民天然ヲ以テ終リ候者又ハ非命ニ死シ候者等埋葬ノ處ニ於テ其ノ時々其ノ由ヲ記録シ名前書員数共毎歳11月中其管轄管轄庁又ハ支配所へ差出サセ・・・中略・・・。
右の通り管内社寺ヘ可触達候事
戸数人員ヲ詳ニシテ猥リナラサラシムルハ政務ノ最先シ重スル所ナリ夫レ全国人民ノ保護ハ大政ノ本務ナル ◯素ヨリ云フヲ待タス然ルニ
其保護スへキ人民ヲ詳ニセス何ヲ以テ其保護スへキヲ ◯施スヲ得ンヤ是レ政府戸籍を詳ニセサルヘカラサル儀ナリ 又人民ノ安康ヲ得テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ政府保護ノ庇蔭ニヨラサルハナシ
去レバ其籍ヲ逃レ其数ニ漏ルヽモノハ其保護ヲ受ケザル理ニテ自ラ国民ノ外タルニ近シ、此レ人民戸籍ヲ納メザルヲ得ザルノ儀ナリ中古以来各方民治趣ヲ異ニセシヨリ僅ニ東西ヲ隔ツレハ忽チ情態ヲ殊ニシ聊カ遠近アレハ即チ志行ヲ同フセス・・・以下省略

地方有力者を通じた国民の間接把握から、直接把握に移行するために一戸ごとの戸籍整備に着手すると言っても、国民管理には先ず住所の安定している一戸単位から始めるしかなかったのですが、一戸=安定住所まで行かない都市住民をどうするかが大問題でした。
都市住民の多くが浮浪者=無宿者中心だった江戸時代とは違い、明治に入ると正規職業人の比率が上がって来たし、しかも有益な人材が多くなっていましたので、これらを無宿者・・浮浪者扱いするのは実態に合わなくなって来たことがあって、これの管理制度も政府としては必要となりました。
政府の立場としても国家のために役立つ労働力・・いざとなれば徴兵の対象になる有益な人材として出産を奨励し都会へ誘導していった以上は、郷里を出て行った弟妹の戸籍を抹消して無宿者にしてしまうようなことが出来なくなったことによると思われます。
政府としても国民の管理上、都会人の大多数が無宿者ばかりでは(兵役に徴収出来ないし税も取れませんし治安も乱れて)困りますから、無宿者扱いを廃止・浮浪者発生抑制メリットがあったのです。
この後に書いて行きますが、戸籍制度創設の担当役所は民部省から大蔵省租税寮に変わって行ったことも、政府が農民以外の管理に関する意識変化を窺い知る参考になるでしょう。
地租改正は農民に偏っていた税収を都市住民にも広げる目的だった(今の消費税拡大と同じです)ことを09/10/09「地租改正8(金納は農民救済目的?)」で書いたことがあります。

家の制度2(実効性)

 

農家の多くは元々最小単位の核家族で漸く生活していましたから、これ以上構成員を減らせないとすれば、周辺産業にあわせて生活水準を引き上げるには耕作面積の拡大でしか対応出来ないのですが、農家をやめる人がいないと自分の耕地を増やせないことから(・・この誘導をしなかった、出来なかったのは政治の失敗です)農業以外の生産性が上がるのに比例して農家の相対的窮乏化がいよいよ進んでししまいます。
戦後は機械化が進み農業生産性も少しづつ上がりましたが、それでも農家戸数を減らせないので規模拡大が出来ず、戦後の兼業・農家出稼ぎが広がりましたが、これは家族構成員をこれ以上減らせないことを前提にした・・・一人あたりの従事時間を減らして行く試みだったことになります。
農家の収入は(生産性が上がらない限り)明治維新前後を通じて増えないとしてもまわりで景気良く収入が増えていると、農家の人もラジオを聞いたり新聞を読み近代的な乗り物に乗ったり本を買ったりしなくてはなりません。
これは現在でも同じ原理ですから、農業生産性上昇が周辺産業に追いついていないにもかかわらず農家も周辺産業従事者並みに生活水準を引き上げて行くには、規模拡大か補助金注入しない限り窮乏化を防ぐ方法はありません。
高度成長期には自民党政権が資金注入続けていて、農家経済のかさ上げに努力して来たのです。
この注入が限界に来たのが昨今の経済情勢ですが、この解決・・補助金を減らして行くには農家戸数を減らし一戸当たり規模拡大しかない筈です。
家の制度に戻しますと、家督相続人が明治民法で新たに得たものは何もなく範囲の広がった扶養義務だけ負荷されるのでは納得し難いので、戸主の居所指定権などの観念的指導権限を強化したのですが、東京大阪等に出て行った弟に対する居所指定権などと言っても実効性がなくお笑いです。
他方この扶養義務ですが、家の制度を論理的に説明するために何かあればその代わり故郷の実家で面倒見てくれると言う制度的保障・・観念強調だけですが、家を出た弟妹にとっても「江戸時代までの扶養2」 February 9, 2011 でも書きましたが、元々弟妹まで養いきれないから都会に押し出していたのですから、いざとなっても、長男が面倒見るほど経済力がないことを知っていましたので、お互いに茶番だと理解していたことになります。
家長と構成員どちらから見ても家の制度は意味のない制度で、すべての分野で家の制度は、実効性のない観念だけだったことになります。
今になると戦前の家の制度を過大に評価して如何にも悪い制度であったかのように思われていますが、実は思想的には親族・集落共同体崩壊の危機感に対する歯止め役としての観念的期待に過ぎず実体経済的裏付けがなかったことと、この次に書いて行く戸籍制度と整合させ維持するために自動的に構築しただけで、何らの実効性もない制度だったので、物の分かる人は家の制度に何の意味も見いだしていなかった筈です。
今でもマスコミが御拠もなくいろんなことを書き立てるとすぐその受け売りで困ったものだと言う人が多いのですが、宣伝に乗りやすい庶民に対しては大きな効果を持っていたでしょう。
何かあっても親戚が面倒見てくれる訳ではないことが何十年も前から既に証明されているし、その結果親戚に相談しても解決してくれないからこそ弁護士に相談来ているのですが、その状態でも弁護士に向かって親戚付き合いしておかないと何かの時に困ると言う潜在意識を吐露する人が多いものです。
勿論私は面と向かって反対はしませんが・・・。
これは古くは農業社会では核家族だけでは賄えない作業が多いことによる親族共同体での助け合いが必須だったことの遺伝子的記憶と明治民法制定直前頃に親族共同体崩壊が進んで行くことに対する保守層による危機感に応える意味で、観念だけでも家の制度を創設して保守反動層をなだめた思想教育の残滓に過ぎないでしょう。

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