戸籍制度9(変遷)

徳川政権の宗教管理・人民把握政策として檀家寺制度が始まったことを、05/12/10「公家諸法度と紫衣事件」以降のコラムで紹介しましたが、この機会に、江戸時代に始まったお寺の役割であった宗門人別帳登録管理から政府の直接の仕事に切り変えた最初の戸籍である壬申戸籍(明治4年大政官布告第170号)以降の制度変遷を大まかに辿っておきましょう。
国家的規模で出来た最初の壬申戸籍は、手がかりとしては、一家の跡取りのいるところ・・現住所を本籍地として始めるしかなかったので結果的に現住所登録と身分登録の渾然としたものから始まりました。
(・・・今では本籍地をどこにしても良い制度ですから、本籍を見てもどこの出身か分りませんが、明治の初めに造った戸籍の本籍地を見ればその人がどこの出身でその村に行けば親族が一杯いる・・氏素性が直ぐに分ることが想定される仕組みでした・・・。)
次の明治19年内務省令による戸籍では、除籍制度が設けられています。
弟の妻子・その子が結婚するとその妻子までと際限なく登録者を増やして行くと戸籍簿が膨大になり過ぎますから、(家の制度思想などの無理な要求がない限り・・当時まだそうした思想要求がなかったのです)自然に任せると都会等他所で定着した人は分籍して新本籍を作って行く人が増えるのが普通です。
また元々家の制度を前提に先祖まで書く必要性を考えて作った制度はなく、当面そこに住んでいる人を基準に登録し、一緒に住んでいなくともまだ所帯を構えていない半端状態の息子や娘を一緒に書くようにしたに過ぎないのですから、本来これらの人が都会等に定着したならば、そこでまた戸籍を作るのが基本思想だった筈です。
その結果分籍したりしていなくなった人を除く必要が出来て来たからでしょう。
このときも本籍と住所は未分化でしたが、住所地の表示が従来の屋敷地番から、地番に変わったそうです。
(09/16/09「地租改正条例1(明治6年)」前後のコラムで不動産登記制度の進展・・結局は土地に地番を順に付して行くシステム整備について紹介しましたが、地番の登記制度が進んで来た結果です。
(そのシリーズで紹介しましたが、それまでは何々の庄・・あるいは何々郷の宮の前何反何畝歩と言う表記でしかなく、土地の特定表記方法は番号がなく・・番号順ではありませんでした)
ちなみに上記シリーズで紹介したように、明治19年には我が国最初の法律である登記法が成立しています。
今でも戸籍内の人が全員死亡や新戸籍編成等によって除籍(いなくなる)になると、最後に除籍簿・・除籍謄本に移りますが、明治19年に出来た除籍簿はその前身です。
明治31年には明治民法成立に伴う大改正で、これまで書いているように民法で定めた家の制度を貫徹するための戸籍法(令や布告ではなく法律制度)になり、従来の戸口調査目的から家の制度貫徹目的に変わり、身分簿と戸籍簿の2種類が設けられました。
この身分簿を見たことがないのではっきりしたことを書けませんが、現在の身分帳(前科や破産歴など有無の証明に使う身分証明書・・これは今でも必要に応じて発行してくれます・・・の元になる帳簿)のことではなく、系図に類する関係を証明するものだったかも知れません。
この時点で本籍は現住所とはまるで関係のない制度になりました・・・・今では住民登録と連動した戸籍付票制度がありますが、これは多分戦後寄留法が廃止された時に作られたものではないでしょうか?
更にFebruary 23, 2011「戸籍と住所の分離3」に紹介したように、大正3年(1914)に大正4年式戸籍法と寄留法が出来て、戸籍と身分登録が一本化されて、これが戦後改正(22年法で施行は23年からです)まで約30年間続いた制度でした。
上記のように寄留法で個人が居住地別に個別管理出来るようになった以上は、中間組織である家の制度・戸籍制度は不要になった筈ですが、これをやめられなかったのは、家の制度を思想的に強調し過ぎたからではないでしょうか?

戸籍制度8(目的)

我が国では庶民から乞食に至るまで公の意識が強く、今回の大地震・津波による生存の危機に際しても三陸方面の人たちは庶民の端に至るまで利己的行動に走る人が皆無と言ってもいいくらい・・全員節度を持って行動しているのに対して、中国では普段から利己的行動こそが行動指針であるかのような国柄です。
明治政府の始めた「戸籍」の熟語自体は中国の律令制から来た用語ですが、内容は中央集権国家確立に必要なものとしてフランスを中心とする西洋の制度を勉強して整備しようしたものですので、中国古来からの戸籍とは違っています。
いわゆる羊頭狗肉の看板と言うか、和魂洋才の具体化です。
中国の戸籍制度が、辛亥革命以降の近代化によって、どうなっていたのかよく分りませんが、中国では今でも国家・・あるいは企業への帰属意識より一族の紐帯の方が強いと言われる・・我が国との違いは何でしょうか?
元々中国では我が国のような封建制を経験していない・・封建制の熟語は周代の用語の借用ですが、周では諸候が封ぜられたのであって、我が国のように先祖伝来の自分の地盤に根を張り割拠して来たのを形式上本領安堵してもらったに過ぎないのとは本質が違います。
我が国の場合、中央の政争に敗れると国に逃げ帰って再起を期すのが普通です。(平治の乱に破れた源義朝のように本拠地に逃げる途中で討たれることもあります)
最近では、ペルーの藤森元大統領が政争に負けると日本に帰って来ていて、日本政府はこれを守っていましたが、この歴史によるのでしょう。
これに対して中国では、まだ専制君主制の始まりでしかなかった時代・・秦の商鞅が失脚して自分の領地商邑に逃げ帰ろうとして、自分の作った制度に阻まれて領民に拒まれる故事が有名ですが、これで明らかなように中国では中央で負けると帰るべき場所がなかったのです。
中国では各地に封じられるのは(貨幣経済未発達の時代における)給与の代わりでしかなく、免官されるとおしまいですし当然世襲出来る地位ではありませんでした。
日本では先祖伝来の領地に対する本領安堵が基本ですので、結果的に世襲制が基本になりますし、江戸時代の旗本は領地との結びつきが薄い点では、中国の官僚に似ていましたが、旗本も他の大名小名等同様に世襲制を流用していました。
中国では歴史上高名な大官でも3代目以降になると零落して食うや食わずになるのは世襲の地位ではないからです。
そのために各州の知事等地方の大守に任ぜられると何時クビになっても食いつなげるように私腹を肥やしておくことが最大の目的になってしまうことが多かったのです。
実力・能力主義の土壌があったので科挙制度が根付いて能力主義が進んでいたとも言えることを、09/28/05「科挙の意義4(憲法132)法の下の平等(国家公務員法1)」で書いたことがありますが、こうした制度で2000年近くもやってくると、イザとなっても自分を守ってくれるべき故郷もなく個々人の精神不安が増し利己主義の権化みたいになってしまいます。
能力主義が行き着くところに精神不安定が増えることを、10/10/09「能力主義3と精神の安定1」で書きました。
中国や朝鮮半島では、我が国のように中間に大中小の豪族が存在していたのとは違い、君臨する専制君主と砂粒のように弱い個々の人民との2層構造でずっと長い間構成されて来た歴史です。
もしかしたら共産中国では、この伝統を基にいきなり人民を砂粒のようにばらして国家直接管理にしてしまったので、ある者は国家の教育理念通りに自分の親でさえ国家に売る(・・文化大革命時にはこうした悲劇が一杯ありました)あるものは、国家や中間の企業を全く信用していない・・・前近代のまま一族の助け合いしか念頭にないグループとに価値観が分裂しているのかもしれません。
今回の大地震→放射能問題が起きると、日中貿易に携わっているある日本企業の中国人従業員は、責任者であるにも拘らず企業の都合を無視して即座に帰国してしまったようです。
あるいは生活保護を受けている中国人女性が、放射能汚染を恐れて子供を放置して帰国してしまう例が後を絶たないと報道されていました。
名目上は中国にいる親が危篤のためと言うことらしいですが、残された子供に聞くと放射能を怖がって一日も早く出国したいと言う動機らしいです。
(こういうときには流言飛語が飛び交うので、報道の正確性は不明です)
日本人と結婚して子供が生まれて定住資格を取得してから離婚をすると生活が苦しいことから、外国人生活保護所帯が結構あるらしいのです。
生活保護の生活でも日本にいた方が良いが、放射能を浴びてまで日本にいたくないと言うことでしょう。
行動形態が合理的=功利的・打算100%・・分りよいことはその通りですが、自分の利益の(放射能被害を避ける)ためには、子供さえ放棄して帰ってしまうメンタリテイの違いに驚いた日本人が多いでしょう。
我が国では、企業帰属意識が強いのは、(企業を守るために法令違反も結構やるのは国家より企業一家意識優先の現れです)明治までの各大名家を守り維持する意識・・赤穂藩のように取りつぶしになると全員路頭に迷うので・・の伝統に加えて明治以降の大家族主義と融合して強固な企業一家意識を形成して来たからでしょう。
頼るべき集団がある・・国民・人心の安定をもたらしている基礎でもあるようです。
今回の東北大地震大津波の結果、大方の家が流され地域社会の生活基盤が物理的に崩壊しているように見えても、なお地域再生に対する意欲の強さを表明しているのに感心するのですが、先祖伝来住み続けて来た郷土への愛着・大家族での助け合い習慣が強固な地域であることがエネルギーの源泉になっている筈です。

 戸籍制度7と家の制度5

ところで、制度が二本立てになると今の参議院がいつも存在意義を問われているように、明治始めに父か祖父が住んでたところ=本籍・・一緒に生活していないし、跡継ぎ以外の弟らが行った先で新たな家族関係も生まれているのにそこを本籍とさせずにいつまでも、一緒に登録しているようにするには、現住所である寄留地以外の登録の意味・理由付けが必要になります。
もしも出身地が人の特定のために必要とする論を進めれば、明治の始めに親が住んでいたところに本籍地を限定する意味が不明・・元は三河武士だから本籍は三河になるのか、あるいは薩摩出身の人は薩摩になるのかなど、どこまで遡るべきか際限のない論争になってしまいます。
そこで、明治の初めに所帯を持っているところで戸籍として登録し、登録した場所が一家の始祖であると構成し、それ以降(このときが家の制度創設時だからと言う理由でそれ以上遡らなくとも良い)結婚して新たに所帯を設けても分家しない限り、元の戸籍の構成員であるとするしかなくなったのでしょう。
家の制度を進めたかったから戸籍制度が残ったのか、戸籍制度を残したかったから家の制度を思いついたのかどちらが先かと言うところですが、March 26, 2011「家の制度3と戸主の能力」で書いたように家の制度は実際には何の実効性もなかったことから見て、後者・すなわち戸籍制度墨守の役人がこれに固執したからだと思っています。
自然の動きに任せれば寄留地・・今の住民登録の方が合理的ですから住民を現地で登録する制度の充実に反比例して戸籍制度は消滅して行くことになりますが、一度出来上がった制度に固執したいのが役人のサガで、そのために家の制度が国家統治思想としても便利だなどと言う後づけ講釈が固まって行ったのではないでしょうか?
これを受けた民法典(民法第四編・民法旧規定、明治31年法律第9号)が成立して家の制度・・観念的一家意識の構成が求められて、これが完成してしまいます。
明治の家制度の結果、具体的な田舎の家・建物を出て、東京大阪等の都会へ働きに出てそこで住まいを建てあるいは借家で別の生活をしている弟妹の一家・所帯単位まで、田舎の長男(戸主)の観念的な家の構成員とする制度になったので、(江戸時代で言えば無宿者として除籍出来ないようになっただけのことですが、)これを「家の制度」と言い変えるようになったとも言えるでしょう。
家と言う言葉の意味・・一つ屋根の下で生活する実態とまるでかけ離れているからこそ、却ってわざわざ「家の制度」と言うカギ括弧付き呼称が必要になったと言えます。
ただし、明治政府の家単位の管理の発想は、今考えれば個人の直接管理に比べて無駄なように見えますが、それまでの地方豪族を通じた間接管理を排した中央集権国家への第一歩としてむしろ進んだ制度として位置づけられて始まったようです。
ついうっかりしますが、それまでは幕府は大名家を通じて武士を統率し、大名は家臣を通じて家臣の家の子郎党を間接統治し、家臣その他の国人層は、自己の領内の農民等を支配していました。
間接統治の積み重ねが、平安中期以降明治までの我が国の社会構造でした。
これを一族ごとの籍ではなく、戸ごとの籍・・各戸口ごとに人民を直接管理したい・・まさに中央集権国家の基礎と考えて、明治政府は戸籍簿を作り始めた最新式の制度構想が戸籍制度の始まりです。
言わば一族概念をバラバラにして、国家が核家族ごとに直接統治する政体を考えていたのです。
その後に揺り戻しの結果、家の制度がはびこったので、明治の戸籍制度は核家族とは違う制度目的だったかのような印象ですが、始まった当初は、その時の所帯=核家族を登録するものであり、先祖を遡って一族の登録をする目的はありませんでした。
その内族=士族僧侶その他の族称が廃止されて行ったのは、人権思想のためだけではなく当然の結果だったと言えます。
一旦登録が始まるとその後に分裂して新たに所帯を持った弟らの家族まで分離しないで際限なく登録して行くと大家族制になってしまうので、国民の管理としては生計が独立すれば新たな戸籍を創設して行く方が住んでいる場所と一致して合理的です。
(現行戸籍制度は、婚姻を基準にして新戸籍編成主義です)
ところが、戸ごとの人民登録による一族意識解体の進行で危機感を持っていた保守層の反撃で妥協制度として、弟が新たに所帯を持っても更に既存戸籍に付け加えて行く仕組みで温存することになって家の制度の原型になってしまいました。
それでも明治以降に形成された家族が最大で、(ただし、壬申戸籍の最初の頃には使用人・住み込みの家臣まで書いていました)それ以前の一族まで遡って記載しないのですから、まさに一歩前進半歩後退の中間的解決だったことになります。
(そこから先は、ルーツ探しに熱心な人の趣味の世界です)
この中間的解決が、人心の帰属意識をイキナリ断ち切ってしまわずに安定感を維持出来たので結果的に良かったように思えます。
今回の大地震・大津波被害・・極限状況下においても利己的行動に走る人は一人もいない・・利己主義だけではない連帯感・「公」の観念を維持出来たゆえんです。

戸籍制度6と家の制度4

 

こう着状態に陥った(と言えば小康状態のイメージですがそうではなく、より危険な方向に進んでいる様子ですが、直ぐに慣れてしまうのが不思議です・・)原発問題を一旦休憩して、いつものコラムMarch 26, 2011「家の制度3と戸主の能力」の続きに戻ります。
親の家から出て行っても無宿者(死んでようが生きていようが数のうちに入れない無責任放逐制度)にするのをやめて、等しく国民として管理し、制度的に待遇するには効果から考えれば住民登録制度が合理的です。
戦前でも徴兵や配給制度などは、現況を把握している寄留簿から行っていた筈です。
本籍を基準に編成・登録する戸籍制度が出来上がったのは、明治の初めは現地で登録するシステムがなく個々人の登録は血縁による戸籍簿しかなかったので、東京等大都会に出て行っても出身地での登録に残しておくか無宿者になるかしかない二者択一制であった過渡期の産物として始まったことが分ります。
ただ、戸籍登録の始まりは、当然のことながら住所地の戸口(当時は地番制度がありませんでした)ごとに編成したのですが、安定した住所地ではない寄留の場合にその人の特定のために本籍(出身の家や親の氏名)を書き込む必要があって、言わば本籍と現住所登録が未分化の時代だったことによります。
これが観念的な本籍と現住所とに分離して来た(住所のウエートが高まって来た)のは、明治20〜30年代になって郷里から離れた都市住民が増加してそこで結婚して所帯を構えて根を生やして来たし、現住所登録の技術・方法も定着して来たのですから、実は旧民法・現行制定のときから現住所登録を基準にして、出身地別登録を廃止すれば良かったことになります。
元々これまで書いている通り、戸籍制度の始まりはその時に存在した一家・所帯持ちの所在地登録から始まったもので(遠い先祖の出身地を問いませんでした)すから、明治2〜30年頃に新たに都市住民として定着した(・・少なくとも夫婦になって所帯を持った場合)場所を基本に更に登録し直しても何も変わらなかった筈です。
明治2〜30年代には、結婚すればその時に住んでいた場所を新本籍を決めることが出来る現在同様の制度採用のチャンスでもあったのです。
これを採用していれば、今の住民登録制度だけで間に合っていた筈です。
ところがこの頃には,維新以来息もつかないでやって来た急激な社会変革反発する反動思想が渦巻いていて、民法典延期論争が起きたくらいですから,いわゆる「醇風美俗」を守れの運動と妥協するしかなくなって、家の制度を逆に強化するしかなくなったのが,明治20年代だった思われます。
(旧民法も結構家の制度に気を使って妥協した条文にしていたらしく、結果的に現行民法が出来てみるとそれほど変わらなかったらしいので,言わば反対のための反対だったとも言えます。)
ここまで進めば、壬申戸籍で書いてあった身分・・士族か否かなどは個人特定には意味がないように、「出身地を現す本籍って何故必要なの?」と言う、疑問がわいてくるのが普通の思考回路でしょう。
(今では、初対面の誰かと会った時に出身地や本籍を説明されても意味がないし、それどころか兄弟姉妹の名前を言われても、その人の特定にあまり関係がないでしょう。)
それなのに、戸籍制度がせっかく充実して来たことから勿体ないと思ったのか、元の出身地を基本にした制度そのまま更に精密化する方向に進んでしまったのがその後の日本だったと思えます。
とは言え、現況把握の必要性も無視出来ず、既に紹介したとおり大正3年には寄留法が制定されたので、以後国民管理制度は現況把握とそれ以外(・・何の目的か不明ですが・・・先祖のルーツ探しには役立つでしょうから国営の系図業務みたいなもの)の二本立てになって現在に至っています。

家の制度3と戸主の能力

    

明治民法で確立した本籍地を基本とする人民管理・・家の制度は、前回まで書いたように何の実効性もなかったことから見ると何のために創設したのか不明です。
その結果から眺めると、戸籍制度の創設・充実・完成との関連で自動的に・・付随的に出来上がったに過ぎないけれども、保守反動層をなだめる効果があるので、(実効性がないので何の実害もない)作っておいて損はない程度の制度だったような印象です。
明治政府は都市住民の管理もしたくなったので、明治4年の太政官布告以来、江戸時代のように出て行った次男三男や弟妹を郷里の実家では無宿者扱い・・すなわち除籍出来なくなったのですが、無宿者として除籍しないで郷里の戸籍に残す以上は広がりすぎる一家の定義・・が必要になったに過ぎません。
元々庶民が出て行った者を除籍して無宿者にしていたのは連座責任を免れる目的だったので、無宿者にするのを禁止して家族の一員として残すことを強制した見返りに親族共同体の一員としての連座責任は解除されましたが、大家族の一員とする以上は何らかの統率権が必要です。
一家意識を高め統率を期待しながらも、2月11日頃まで書いて来たようにその見返りに扶養義務が法定されてしまいました。
家父長制度の創設は、扶養義務に見合う指導権・口出し権があると言う意味合いがあったでしょう。
戸主の権限が強化され、その見返りに扶養義務があるとされてもイキナリ大地主になった訳ではないばかりか,単独相続であることも江戸時代までと同じです。
それまで分割相続であったのが明治民法で単独に変わったのなら,その見返りに弟妹を養う義務の法定は合理的ですが、江戸時代にも単独相続が法定されていなかっただけで,事実上のルールでしたから,明治になっていきなり無宿者・・無関係にするのを禁止されて,しかもイザとなったら扶養しろと言われても,それだけの裏付けがありません。
もともと自分の直系家族を養うのにぎりぎりの最小生活単位(多くは水呑百姓です)の農地を江戸時代同様に相続するだけのことで、弟妹の面倒を見るために特に農地が拡大したり、政府から補助金が出た訳でもないのに義務だけ明記されたのです。
長男が田舎のわずかな農地を家督相続しても、明治になってイキナリ単位面積当たり収量が上がった訳ではなく、弟妹とその家族全部の生活を見るのは元々無理だから都会に押し出していました。
これを江戸時代には無宿者にして人別帳(今の戸籍あるいは住民登録)から抹消して法的にいない事にしてしまい、人間として最低の義務である(・・死者を悼む気持ちは儒教に限らずどんな宗教世界でも同じでしょう・・)死体引き取りの義務さえを免れていたのですから、生きているうちに生活全般の扶養義務を長男=戸主に課した明治の家制度は無理な制度設計だったことになります。
農家収入だけでは養って行けないから弟妹が都会に出て働いていたのですから、「困ったら何時でも帰って来いよ」の論理自体矛盾です。
実際には中堅農家=自作農以下では(どこの国でも同じでしょう・・)一所帯(直系家族)で生活するのが漸くであって、相続した農地で2所帯も3所帯も養える筈がありません。
この理は現在の都市生活者でも同じで、ちょっとくらい(大手企業の役員になっても)出世した程度では並の昇進をした同僚より少し豊かな生活が出来る程度に過ぎず(一定規模以上の経営者以外には)直系家族以外に養える人は稀でしょう。
今回の地震被害者の親族でも,短期間の同居は可能でも半永久的に一方的に養うので不可能なことです。
一家の農地を世代交代の度に2〜3戸に分割していたのでは食べて行けない・・共倒れになってしまうから、新田開発が停まった後の江戸期を通して長子あるいは姉、末子が単独相続していて、婿や嫁に行かない弟妹は結婚せずに家に残っている場合「厄介」と呼ばれていた(独立の所帯を持てなかった)のですから当たり前です。 
都市化・貨幣経済化が進むと世襲財産の比率が下がってくることを、September 14, 2010「農業社会の遺産価値」〜September 16, 2010「高齢者と社会(ご恩と奉公)」前後までのコラムで紹介しました。
世襲した財産価値(近郊農家で農地の売値が仮に上がっても、同じ面積での収量が上がる訳ではないので家族を養う能力)が目減りする一方・・むしろインフレの継続で農地を世襲した一家の方が生活が苦しくなる一方でしたから、戸主(そのほとんどが農家承継者です)として観念的な権威だけ強くされても何のメリットもありません。
家の制度が昔からあるかのように誤解している人がほとんどでしょうが、明治の民法・戸籍法成立までは、家にある弟妹とは文字どおり具体的な家・建物に同居している弟妹(厄介・居候)のことでした。
これが明治民法では「家にある」と言っても戸籍に載っていると言う意味に広がってしまったのです。

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