高齢親の虐待2(任意後見制度利用の勧め)

後見制度は資産家が資産管理、処分能力がない時の例外として、禁治産制度の副産物的に生まれたものです。
管理処分権者制度は、後見に限らず、会社においては取締役等の管理処分機関、社団財団等では理事、個人法人共に破産したときの臨時管理処分権者である破産管財人が選任されるの同じでそれぞれ名称が違っているもののそのときの目的に応じた自分以外の法人や個人の財産管理処分権がそれそれ決まっています。
このようにそれぞれの制度設計の1要素でしかなかったのが、後見の役割が資産管理だけでなく介護その他看護関係に広がると元の資産管理処分制度設計を乗り越えたものになったことになります。
それでも大元は資産管理から始まっているので、任意後見制度の利用は事実上一定の資産があることが前提に思っている人が多いでしょうが、資産濃霧が法律上の要件ではないので無資産者でも公正証書作成費用さえあれば利用可能です。
後見費用が高いのでないか?と尻込みする人が多いでしょうが、親族後見の場合報酬自体放棄させれば無報酬ですみます。
私が申請する事件ではこれまで親族後見予定の場合(いずれも資産がある場合ですが)法的手続きをする都合上なってもらうだけだったので全て後見候補者の「報酬入りません」という上申書付きで申し立てていますが、のちに兄弟間で面倒を見たのに!という争い防止のためには、介護してもらう負担を考えて適正な金額(裁判所が決めてくれるのが原則)を決めておいた方が合理的です。
そうしておけば相続時に誰が面倒を多く見たという争いを防げます。
そうすれば介護など面倒見た分は適正報酬を受け取っているので遺産相続争いでは解決済みとなります。
親が養っている中高年の子供がいる場合、いきなり後見報酬のみでは生きていけない場合もあります。
後見が始まれば生活費として子供Aに毎月一定額支給するなど明記しておけば良いことでしょうが、これが制度上どう配慮してくれるかについは実務経験がまだないのでわかりませんが、実際必要になれば、その時点で裁判所の運用を調査してみれば分かるでしょう。
仮にその記載がその通りの効力がなくとも、書いておいて損はないということでしょう。
娘や息子が後見人ならば元気なうちに後見人指名しておいても置かなくとも、結果的に同じようですが、ここのテーマは密室化になりやすい介護家庭に公の目が入る利点です。
後見制度利用メリットは、
① 裁判所が年に1回財産管理のチェックをしてくれる・・預金通帳など提出が求められるのと、
② 年間必要額相当・・たとえば数百万・あるいは年金収入等振込入金で施設費用等に十分間にあうときには、その普通預金通帳だけの管理を後見人に委ねるのが普通です。
日常的出費に必要な額以上の資産は、信託財産(ただし株式など有価証券を扱わないようです)にして(信託財産化に応じないときには後見監督人を別に選任します)後見人が勝手に巨額払い戻しや処分できない仕組みにしています。
③ 介護関係の報告もあるので、後見報酬さえゼロまたは適正にしておけばほぼコストゼロで公のチェックが入る利点があります。
コスト問題ですが、社会に不適合を起こしている子供(と言ってもすでに5〜60台以上)を抱える親にとっては、中高年世代の娘や息子の生活費を出してやるのは良いが、自分が路頭に迷うほど浪費されては困るという親が普通でしょう。
こういう場合・・適正な後見費用支給を決めたり、生活費は支給してやりたいとすればそれを裁判所管理で実行してもらうのは合理的です。
単純に銀行や証券会社その他の手続きを娘や息子にに一任していると必要以上の支出あや売却をしているか不明朗になるのですが、それを裁判所がチェックしてくれるので安心です。を防げます。
裁判所ん費用は当初の申し立て印紙や郵便切手(裁判所から後見人への連絡コスト)など取るに足りないコストです。
毎月後見人に払う後見報酬は息子か娘を後見人に指定しておけば元々娘らの生活費援助資金の一部と考えればタダと同じです。(他人にお金が流出するわけではない)
ここでは、親世代が高齢化し次世代がしっかりしない場合、高齢化でいつか自分で管理し切れなくなったときの問題・家屋敷を売られたり、巨額資金を浪費されては困るジレンマの解決策を書いています。
一般論としては灰色段階の社会システム不備があると社会需要の溜まったマグマのはけ口としていろんな事例が起きる関係のように見えます。
児童虐待問題が火を噴く背景には、現在の子育て環境に問題が大きすぎる・・・人類は長い間大家族制プラス地域社会で大勢の目で育てて来たのに対して金愛社会化に比例して核家族化進み子育ての密室化が進んできたからではないでしょうか?
素人の直感にすぎませんが、補完作用として零歳児保育とか各種受け皿ができて来ましたが、原則と例外の違いで、時々どこか相談窓口があったり、預かってくれるという程度では追いつかないからではないか?と思います。

保険制度と乱診乱療(モラルハザード)

介護認定される本人も家族に家計負担かけない方が気楽なので、「そんなことくらいできるよ!と反論しないで周りの説明にうなづいて済ます傾向があります。
施設入所者あるいはデイサービス利用者の介護度ランク上げも同様で介護事業者にとっては、保険適用外サービスで顧客に対する自費負担・費用請求額アップよりは介護保険適用サービスになって自費負担が1〜2割になった方が顧客が気楽にサービスを頼んでくれるので営業的に楽です。
医師や、医薬品業界が、新薬等について保険適用を求める利害団体になるのと同じでしょう。
認定を受ける高齢者もこれが将来自分に対する人権侵害に使われる「万1」の可能性など気にしませんので、問診あるいは調査担当者に対して親族に経済負担をかけない方向へ協力する傾向が高まります。
ただし後見や保佐関係はどちらかとえいえば財産行為に関する法律行為能力の制限から始まった制度ですので、(平成の改正までは、財産を守るための「禁治産、準禁治産制度」の結果禁治産宣告された人の保護のために後見人、準禁治産宣告された人のために保佐人が選任される制度でした)精神障害による強制入院のように直接的拘束に進むような甚大な影響が少ないので同一には見られませんが、最近では子世代による父母の財産権侵害(使い込み)も「虐待」と表現される時代です。
https://style.nikkei.com/article/DGXBZO09035610R10C10A6WZ8000/?page=2

家族による「経済的虐待」が増加 高齢者の年金・預金搾取
2010/6/14

現在では、資産保護のための禁治産制度でなく、認知症などのために日常生活を自己完結できない人の保護・身上監護が中心の制度になって逆に看護する人による財産使い込みが増えてきたようです。
保険財政負担→国民皆保険制度=国民負担ですので、安易な認定は国民負担を増やすことになりますが、介護認定等の現場に費用負担する国民代表が参加しない仕組みになっていることが、保険財政赤字化(自体は高齢化による面が大きいでしょうが、それだけでなく)の原因の一つにモラルハザードがありそうです。
医療に関しては支払基金や国保連などの事後チェック機関がありますが、中立機関の限界というか実務的に言えば、診療報酬請求書記載自体の矛盾チェックが基本で、診断や手技のミスを争う医療過誤訴訟のようにカルテや検体そのものチェックを原則としていません。
結果的に医師の総合判断を尊重して、その判断を前提にした治療として不要の薬が出ていないか・過剰治療かのチェック程度になっているよう(外野の印象)です。
医師としてまともな能力があれば、一定の治療するにはそれに適合する診断名や治療方法を記載するでしょうから、いわばミスのチェック役程度になります。
これが支払い側の機関・・例えば交通事故の加害者側の保険会社に請求が行く場合には保険会社はコスト削減と利害対立関係があるので、診療報酬明細書まで要求するばかりでなく、その前提のデータも要求することがあるので病名診断の妥当性自体もチェックされる覚悟で診断や治療費が決まって行くので緊張感がありそうです。
これが極端になったのが車の事故修理費関係で、保険会社のアジャスターの査定が先行して、アジャスターがこの凹みや傷は当該事故によるものかどうかの判断をして同意した箇所以上の修理をしても保険会社が払わないので、(もちろん裁判で争えますが、大変な手間コストですので)事実上トラブル防止のために修理業者は保険会社が事前同意した部分しか修理に応じないことになる・水増し修理に対する抑制になっています。
交通事故でも、医療の場合専門性尊重が先行しますが、それでも一定の治療行為が続き症状に変化ない場合、例えば、鞭打ち等で症状安定してから6ヶ月経過する頃には、保険会社側から、症状固定の診断を求める動きが出るのが普通です。
個人が肩や腰が痛いと整形外科に行って、高周波治療とか温湿布してもらうことを2〜3年続けても保険適用が無くなりませんが、利害対立関係になればそうは行かない一例です。
痛みのない健康ライフを送るのためには治る見込みがなくとも、高周波治療や温湿布等で半日程度でも肩や腰の痺れが楽になれば意味のあることですが、(治療でなくとも医療にあたるのかな?)損害賠償責任という限定した場面で考えると、そこから先は治療ではなく後遺症の損害賠償の問題と切り分けることになりそうです。
保険会社の対応が正しいかどうかは別として、中立でなく支払い側に特化した機関とのせめぎあいのある方が、医療の必要性に関する判断がシビアーになる傾向があることは確かでしょう。
また企業健保組合が独自に審査する場合も、チェックが厳しいイメージですので水増し的過剰治療が不正請求が抑制される傾向がありそうです。
精神障碍に戻りますとその原因と治療法がよくわかっていないので、古来から隔離・社会防衛が基本でした。
個々人で言えば、ちょっとあの人おかしいよ!と思えば距離を置くと言うか、(電車内で咳をしている人やブツブツ独り言を言っている人がいると、そっとその場から席を立って移動する)交際を次第に減らしていく方向が今でも同じです。
それを社会全体で強制するのが、隔離病棟であり、島流し・・牢獄の思想でしょう。
障害者の人権・という発想がなくどこ国でも歴史的に隔離最優先で、隔離した上で次第に教育(懲罰や応報刑から教育系の思想)や、治療(矯正教育)可能性を探る発展をしてきたものです。
猛獣はいつ噛み付くか不明という前提で、まず狭い檻に入れて見世物の対象にしてきたのと同じです。
今では動物の快適さを求めてサファリその他一定範囲で自由行動できるような環境設定していますが、基本は人間との隔離から始まりました。
今春中国武漢から始まったコロナ型ウイルス騒動に関連しますが、原因不明→治療法不明の強力伝染性疾患の場合、近づかないこと→患者あるいはその疑いのあるもの周辺地域一帯隔離・避難がベストの抜本的対策です。
ガンの手術でも転移がどこまで広がっているか不明の場合、周辺を大きめに切除する
のも同じでしょう。
武漢経済圏住民約1100万〜湖北省全体・・4千万人前後に及ぶ広範な厳重隔離・・域外入出禁止・・兵士が機関銃を持って閉鎖している思い切った措置の映像は世界を驚かせました。
武漢域内での感染拡大を防ぐために原則として住民を自宅にとどめ、お互いの感染を広げない対策で域内での感染拡大の最小化を図ったもので大規模な思い切った政策断行が結果的に成功しました。

行為能力制度3(定型から実質へ)

2〜30年前頃から意思能力に問題があるために資産等を守り人間として尊厳ある待遇を受ける必要がある人の大多数が、認知症患者に変わり後見人を必要とする家族の受け止め方や社会意識も大きく変わりました。
将来生涯単身者が増えて、認知症患者の見守りがどうなるかにもよるでしょうが、この数十年の認知症患者の大多数は、兄弟間の遺産争いの当事者ではなく、多くの場合妻が元気な場合夫であり夫死亡後の場合介護者は子であり被後見人等は母親です。
介護に困っても今は精神病院と違い介護施設が充実している上に、娘を中心とする子らは母子間で兄弟間のような争いが滅多になく、他の兄弟の目もあるので、母親を精神疾患がないのに監禁ために精神病院へ入れる必要がありません。
意思能力に問題がある場合でも、ある程度の能力があるが健全な判断能力に欠ける場合に対する保護は従来準禁治産宣告でしたが、私が弁護士になった頃には、準禁治産者として浪費者のほか瘖唖者などが定型として例示されていましたが、(耳が聞こえなくとも十分な判断力のある方がいます)聾唖というだけで準禁治産の宣告する方式は問題がありすぎたので昭和54年に聾唖者盲人定型をなくしました。
このとき浪費者という実態不明の定義を残したのは実質認定だから良いだろうとなったのでしょうか?
54年改正前の旧条文がネットではなかなか出ませんので自宅にある昭和8年版六法全書によって、引用しておきます。
昭和8年版六法全書民法編です。

民法11条 心神耗弱者、聾者、盲者、浪費者ハ準禁治産者トシテ之ニ保佐人ヲ付スルコトヲ得
このように、明治以来定型が法定されていたのですが、昭和54年に浪費者を残して削除され、

民法第11条
心神耗弱者及ヒ浪費者ハ準禁治産者トシテ之ニ保佐人ヲ附スルコトヲ得

となり、これが平成11年

現行民法(1999年改正2000年施行)

(後見開始の審判)
第七条 精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、未成年後見人、未成年後見監督人、保佐人、保佐監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、後見開始の審判をすることができる。
第十一条 精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、保佐開始の審判をすることができる。ただし、第七条に規定する原因がある者については、この限りでない。

平成11年改正後障害や限定行為能力の決め方は、定型障害で能力制限するのではなく、「精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分」という原則定義一本になり具体的認定が必要になりました。
明治民法制定時に行為能力不足者も権利能力の主体にするとその権利を失うリスクが高まるのでその保護の必要性があったものの、能力不足の判定能力(科学?)が追いつかないのでまず心神耗弱という原理を掲げた上で、その認定がなくともさしあたり誰も外見でわかる定型的場合を掲げたのでしょう。
それにしても表現がキツすぎました。
例えば禁治産宣告の改正前の漢文式表現では「心神喪失の常況」というのですから、禍々しいことこの上ない「おっソロシイ」表現でした。
今で言えば認知症→認知能力の欠如という意味ですから、我々高齢者は徐々に視力、聴力が落ち結果的に文書に限らずいろんな情報に穴が空くので結果的に判断も誤る・誰もが将来そうなる流れが可視化されます。
認知能力低下といえば高齢化に伴い徐々に身体機能が落ちていくのは仕方ないよね!となりますが、「心神喪失です」と言われるとまるで何の理解もできない廃人のイメージでした。

 権利能力と行為能力の峻別1(詭弁?)

人としての資格・権利能力は、体の大きさや、性別、体格や頭脳、運動能力による差をつけられませんが、弁護士は国家の決めた試験に合格し訓練を経て弁護士会に登録して弁護士になります。
東大生も東大入試に合格して入学手続きして学籍登録して初めて東大生であり、銀行に就職して初めて銀行員です。
このように全て、職業につく資格は能力差によって違いが生じますが、これは権利能力の差ではなく、人間としての同じ土台の上での行為能力の差になります。
特殊法人のように法人になると(銀行や医療法人など)同時に特定業種を行う資格がいるのとは違います。
生まれる前に何の資格もいらないのが人間です。
法人と違い自然人に限って天賦人権説・生まれつき平等!とは言うものの、人にはそれこそ生まれつきの能力差があります。
能力差による区別(差別?)なしに世の中が回っていかないので、その合理化が必要になってこれは人間としての差でないと言うために、行為能力という概念が必要になったように思われます。
権利(享受」能力と行為(する」能力の分類が必要になったようです。
ベンツとトヨタカローラを比べて「車」と言う点では同じ価値だが、性能が違うから価値が違う・・「車の価値の差ではなく性能差です」と言うようなもので一種の詭弁っぽく聞こえます。
あいつは感じ悪いから誰も付き合わない・雇ってくれない・仕事ができないから、給与半額という場合でも、人間としては価値が平等だが能力が違うだけという言い方で何となくわかったような気になっているというより分かったフリしないと今の社会で生きていけない無言の圧力がありそうです。
これを車やミカンやリンゴと置き換えればどうでしょうか?
味が違う・見栄えがいいので値段に差がつくだけ・・・リンゴとしては価値が同じだと言えば詭弁じゃないのか?という疑問が湧いてきます。
種類としての分類として、同じ類や科、目に属するという分類上の同一性を言っているだけでないか?
人皆同じというのは犬や猫あるいはその他動植物と魚類貝類と岩石等に比べて人として共通性があるのはその通りですが、それ以上のことがあるのでしょうか?
人にも大きく分ければ男女、老若青少年乳幼児の差あり、病人健康者の違いあり、職種別や、善人悪人、無信心者と信心深い人、酔っ払いとシラフなど言い出せばキリがないほど無限の違いがあります。
人にも大きく分ければ男女、老若青少年乳幼児の差あり、病人健康者の違いあり、職種別や、善人悪人、無信心者と信心深い人、酔っ払いとシラフ、前科者など言い出せば無限の違いがあります。
衣類といえば皆同じだから一つで良いのはなく、夏冬物に始まり上着下着、作業着、部屋着やタウンジャケット、同じスーツでも生地やカットの善し悪し色柄の好み等々の多様なものがあってこそ文化的生活になります。
靴も一足あれば良いのではなく用途・洋服に合わせて色々履き替えるし、果物といえば皆同じなのでミカンだけあれば良い・・柿もりんごバナナも一切の選択肢不要・何事も一種類しかない単調な生活の方が良いわけがありません。
選択肢の多い都会生活に人が憧れる所以です。
人類の進歩?は、多様性の進化と言い換えても良いくらいです。
これを一旦全面否定して、「人皆同じ」とか「同じ地球に住むから仲良く」というのは、現実無視の意見・・意見というより「あっと驚かせる」程度の極論です。
日常的交流があるから競争や利害対立が起きるのであって、関係なければ争いも起きません。
(テロ行為は別として無関係な通行人にいきなり斬りかかるのはいわゆる狂人の類でしょう)
同じ地球にいるから競争が起きるのであって、もしも土星や火星に人がいても今のところ、地球人は土星人や火星の人と競争し争う気持ちがないでしょう。
どうせいつか死ぬのだから・と言い出したら、何もする意味がなくなってしまうのと同じです。
生きている以上より良い生活をしたくて生きているのであって「同じ人間だから」「どうせ死ぬ運命だから・・」と言って向上意欲を諦め悲惨な現実を受け入れるように説教するのは、あらゆる向上の道が閉ざされた究極の人(死刑執行が今日明日に迫っているなど努力による運命を変える可能性がない人)に対する最後の慰めでしかありません。
パラリンピックがもてはやされるのを見ると障害があっても、努力すればこんなことすらできるという向上意欲を刺激させ期待させる意味があるからでしょう。
これも一種の錯覚を利用したのであって、そんな恵まれた才能を有するアスリートは健常者障害者を通じてホンの数%いるかどうかでしょう。
運動神経+運動能力は千差万別であって、人類の一定率で分布しているので障害者や一時の病人であってもその中に一定率の能力のある人がいるはずですから、同じハンデイを抱えている人同士の中で誰が有能かを見るのは合理的です。
柔道やボクシングでは、早くから体重別の競技になっているし、子供の場合年齢別の学級があり、子供に重労働させてはいけないというのも原始的知恵です。
もっと言えば性別差が大きい(体力だけでなく好みの方向性も大きい)ので、男女別競技になっているのもその原理です。
これを同じハンデイを背負った障害者同士の国際競技に仕上げたのがパラリンピックということでしょう。
健常者で言えば、同じ能力があってもその日の体調によって、能力発揮できないことがあります。
たまたま体調不良の日に走っても調子が悪いような偶然に左右されるのを防ぐために
学業テスト等は一発勝負の比率を下げて、何回受験してもよく、その中の最高成績を基準にする制度もありますし、一定期間の平均成績によるというのがあっても良いのです。
過失がない方がいいのですが、100%過失のない者だけというのでは社会が回っていかないので、過失さえあれば厳しく処罰するのではなく、一定期間内の過失回数や軽い違反の繰り返しの累積で見るのが交通反則の点数制度です。
以上の通り、現在の科学技術では、行為能力と権利能力を峻別するのは論理のための論理として詭弁っぽいのですが、これも近い将来ではないものの未来的には峻別可能な領域に近づくかもしれないのでこの点の思いつきを明日書いて行きます。

行為能力制度と資格の発達1

このように考えていくと一定年齢まで自分で権利を守れない定型的場合を想定してその保護者が必要として行為能力制度設定をしたものと思われます。
ひとつには年齢による保護・未成年制度であり、もう一つは年齢を問わない無能力者制度(是非弁別能力欠如)です。
無能力制度は精神病にかこつけた人権侵害がありうるので、専門医の診断が要件になっています。
専門医も聖域化してくると悲惨な事件が起きます。
精神病院の人権侵害事件では、宇都宮病院時間が著名で詳細はウイキペデイアにでています。

1983年4月、食事の内容に不満を漏らした入院患者が看護職員に金属パイプで約20分にわたって乱打され、約4時間後に死亡した。また同年12月にも、見舞いに来た知人に病院の現状を訴えた別の患者が、職員らに殴られ翌日に急死した[2]。
1983年(昭和58年)、宇都宮病院に不法収容されていたA氏が、東京大学医学部附属病院精神科病棟を訪れ、宇都宮病院の内情を暴露し、告発する意志があることを伝えると、東大病院精神病棟内に「宇都宮病院問題担当班」を設置し、弁護士や日本社会党と協力し、朝日新聞社宇都宮支部とも情報交換を行う[23]。A氏の証言がきっかけとなり、入院患者2人について、殺人事件が立証されることになる
精神科病院ゆえの閉鎖病棟や閉鎖性により、上記の実態や患者死亡事件は公にならなかったが、事件の翌年1984年3月14日に、朝日新聞朝刊によって報道され、日本の世論の大きな注目を集め、国会でも精神障害者の人権保障の面から、日本国政府の対応が糾された[3]。地方公共団体の行政(都道府県)による病院監査も不十分であったため、実態の把握ができなかったこと、精神科病院の管理者を筆頭に、病院職員には倫理的な思考能力が欠落していたこと、日本社会の精神科医療に対する理解が、著しく不足していたことも背景としてある[34]。さらに、宇都宮病院には「必要悪」としての社会的存在意義が生じていた。宇都宮病院では、対応困難と見なされた患者を積極的に受け入れ、収容施設の様相を呈していた[37]。
家族間の人間関係の悪化により、措置入院させられてしまう場合もある。前述したA氏は、兄B氏によって措置入院させられてしまった[38]。A氏は、宇都宮病院を告発して民事訴訟を起こしており、1998年10月時点で第1審裁判が続いていた[39]が、2013年11月に死去した[40]。A氏は晩年まで宇都宮病院の廃院を訴えて活動していた。

このあと精神病棟の閉鎖性が改善され、先進的医療を進めていた病院の見学会を千葉県弁護士会では司法修習生対象に長年継続してきました。
今はその延長で、研修先病院を医療観察法制定後千葉県で受け皿主力になっている病院に変え(選択制ですが)研修を継続しています。
この20年前頃から意思能力に問題があるために資産等を守り人間として尊厳ある待遇を受ける必要がある人の大多数が、認知症患者に変わり家族の受け止め方も大きく変わりました。
意思能力に問題がある場合でも、ある程度の能力があるが、健全な判断能力に欠ける場合に対する保護は準禁治産宣告でしたが、私が弁護士になった頃には、準禁治産者として浪費者のほか瘖唖者などが定型として例示されていましたが、(耳が聞こえなくとも十分な判断力のある方がいます)心身障害の名称を例示せず実質判断で決めるようになっています。

運動の成果

旧民法第11条の改正
1979(昭和54)年までは、ろう者は「準禁治産者(心神耗弱・浪費癖のため、家庭裁判所から禁治産者に準ずる旨の宣告を受けた者。法律の定める重要な財産上の行為についてのみ保佐人の同意を要した。)」と見なされ、住宅ローンの利用や家業を継ぐことも出来ませんでした。連盟の粘り強い運動の結果、1979(昭和54)年に改正されました。

現行民法

第十一条 精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、保佐開始の審判をすることができる。ただし、第七条に規定する原因がある者については、この限りでない。

行為能力制度と法の下の平等の関係について
法の下の平等という意味は、結果平等を保障するのではなく同じ能力なら、家柄身分性別等によって差をつけるのが不平等として許さないというだけです。

憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

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