説明責任2(弁護士と医師の違い?)

間に入る人は、聞いて来た以外の事実は知らないので、弁護士の立場で気になる要点を質問してもそれを聞いていない人が普通で質問しても時間の無駄になります。
中には「要点を書いてください聞いて来ますから・・」という人もいますが、ある質問に対する答えがABC3通りあり得る場合、Aならばさらにabcdの4通りの質問がありうるし、その中のaの場合にはさらに①②③④のどれかについて突っ込んだ事実確認が必要な場合があります。
第一の設問でAか Bかすら記憶がないとか曖昧な答えの場合、「アイウエオのどれがありましたか」などの質問が必要なこともあります。
当事者から弁護士が聞きたいのは事実であって意見ではないのですが、事実と意見の区別がつかない人がほとんどです。
「こう言うことがあった」と言う場合、その結論自体その人の経験した生の事実を自分の知っている単語に言い換え要約した意見でしかなく事実そのものを語れる人は滅多にいません。
事実は自ら語るより聞かれる順に逐一語っていくものかもしれません。
訴訟の証人尋問では「質問されないことを話さないでください」と言う説明を裁判長が最初にするようになっているのはこの意味でしょう。
言いたいことをなぜ言わせないのか?と不満に思う人がいるでしょうが、言いたいことは証人尋問でなく「主張」として弁護士が整理して書いて出していますので、証人尋問では主張を聞く場でなく、主張した事実があったかの裏付けになるべき事実を聞く場です。
証人尋問の場で当事者の解釈した意見を聞くのではなく、そう思い込むに至った根拠として、裁判所はどういう事実があってそう思い込むに至ったかを聞きたいのです。
聞いてみたらABDの事実をABCの事実と誤解していた場合があります。
何故DをCと思ったかをさらに聞くと、イロの事実があればDと思うのが当たり前ではないですか!という人が結構います。
イとロの事実からCにはなるが、Dにはならない場合もあるし、証人の思う通りのこともありますが、それは意見主張であって自分の考えが正しいとは限らないので意見の押しつけは危険です。
パワハラ相談も同様でパワハラ被害という説明だけでは一応言いたいことがわかるだけであって、それが事実を表す単語ではありません。
弁護士にとって知りたいのは、どういう前後事情があって何を言われたりされたのか、どの程度の繰り返しがあったかなど具体的事実次第です。
その内容程度によっては、パワハラとは言えないことがありますし、立証できるかになるともっと周辺事情・誰と誰がいる前でこう言われたとかその人が証言してくれそうか?録音があるか?などが必要です。
診断書にパワハラで不眠症になったと書いてあっても医師は事実確認する方法がないので、その人の説明を記録しただけですので、その頃パワハラ被害を受けているという理由で診察を受けていた事実・・その頃第三者にパワハラ被害を訴えていた事実は証明できますが、事実の有無に関してはパワハラ被害者の主張のコピーにすぎません。
その場に居合わせた友人でさえも細部については記憶していない・前後何があったか知らないがいきなり大きな怒鳴り声がしたので振り向いて見たという程度の場合、上司が怒鳴ることがあった事実の証明が部分的に出来ることがありますが、(事実の再現はこういう部分証言のつなぎ合わせで成り立っていることが多い)このように目撃者とか同席者の場合でも知っていることは部分的なことが多いものです。
交渉ごとを客観化するためにわざわざ複数同席で出向いた場合でも、それぞれに事情聴取すると、片方は相方(同僚)が何を言い交渉相手が何を言ったか、細部の記憶がないか結論として違った印象を語ることが結構あります。
会話は複雑なもので、一直線に一貫した主張ばかりでなく、相手をおだてて見たり自己を卑下したり「硬軟両用」のモザイク的単語の組み合わせで成り立っているので、トータルで再現しないと真意が掴み難いものです。
極端な例で言えば、一人は相手が交渉をまとめる気がなく言いがかりをいってるから交渉を打ち切った方が良いと受け取り、他方はこの不満をうまく受けとめて改善すれば却って喜んでもらえるチャンスと受け取るような違いです。
単語の確認の場合、1方が、「自分がこう言ったら相手がこう言ったのをお前も聞いていただろう!と何回言っても、同席者が申し訳ないけど思い出せないということがあるものです。
人によって関心の持ちようが違うので、面談相手の説明の力点がどこにあるかの理解・記憶の要点が違うことが原因でしょう。
同じ経験をしていても記憶に残らない部分と残る部分が違います。
この端的な例が、高校時代の友人から、自分の言ったりやった古い記憶を持ち出されても、自分のことなのにまるで覚えがないことが多いことでわかります。
自分にとっては自然に出た言葉や行動であれば記憶対象でないが、驚いて見たり聞いたりした相手には新鮮だったりするから記憶に残るのでしょう。
一方でこちらの記憶に残っていること・一緒に〇〇の映画を観に行ったことなどについて相手の方が一緒に行ったことすら全く記憶していないことがあります。
アイウエオどれもなかったとなると、そもそもこういうことがあったという事実認識自体に誤解や記憶違いがないかの問題に発展することがあります。
持参した写真をいつ撮影したか、横から見たらどういう形の家かが問題になる場合もあり事案により色々です。
弁護士が聞きたい・必要なことを全部聞いてくる能力があると自信を持つ人がたまにいること自体不思議ですが、そういう人が間に入って本人を連れて来るのをいやがる?相談が来ると厄介です。
医療行為の場合、数日前からの容体変化について患者本人は痛みの始まり等の印象的説明は出来るものの・・いつ頃から声に元気がなくなったとか粗相が増えたなどの外形事実や体温脈拍変化等の説明は奥さんの方が詳しく説明できることが多い(というか自己認識とハタ目の認識のズレ)し、要介護になると介護者の説明や介護記録が必要な場合が多くなる点で患者本人説明に頼る要素の比重が弁護士受任と大幅に違うのがわかります。
また交通事故等の救急搬送や入院患者の容体急変など緊急事態など本人から聞く余地のない事例が多いことも大きな違いです。
寸秒を争って処置する必要がある時には、まずその手配を周りに指示し自分もその準備にかかりたいときに、事前説明の余地がない場合が多いのもわかります。
弁護士の場合いかに急ぐ事件でも、例えば急ぐので仮処分申請してくれと言われても事件内容の説明がないと申請理由・ストーリーも不明ですしストーリーに合わせた証拠集めの指示すらできません。

専門家の責任5(説明責任)

心療内科や精神科に関係すると「この頃眠れなくて」というと何か心配事ありますか?勤務先でこういうことがあってなどと、説明するとあんちょこに安定剤、睡眠導入剤等を処方されて終わりの印象です。
本当に眠れないのか眠れないように思っているだけか?勤務先で嫌な思いをしているというが本当かなどのチェックなど一切しないし、する方法もないでしょうから、信じて治療するしかないのでしょうが?
プロの目から見れば瞬時に信用性がわかるからでしょうか?
(ただし、私の少しの経験を一般化するのは間違いの元ですので、そのように理解してお読み下さい)
基準がはっきりしないので、同意入院を原則化している内に本人が自分で入院したいと言ってくるなら良いか?というあんちょこな診断基準になっている・本人の作り話でもそれを記録化してあやふやな診断基準の補強に使うことに慣れている危険性です。
ある人を殺すためにあらかじめ精神病になったふりして入退院を繰り返しその後狙った殺人行為を敢行する映画を見たことがありますが、仮病での入院の繰り返しがいとも簡単にできる実態が映画に出てきます。
日頃から厳密診断していないといざ厳密診断が必要な時にその能力が錆びてしまっているのではないかの疑問です。
本当に眠れないのか眠れないように思っているだけか?勤務先で嫌な思いをしているというが本当かなどのチェックなど一切しないし、チェックしたくとも検証する方法もないでしょうから、信じて治療するしかないのでしょうが?
弁護士の場合立証できないと負けますので、信じるかどうかより、説明を聞いて事件のストーリーが決まれば、次に村スローリーが立証できるかどうかに関心が向きますので、根掘り葉掘り聞く必要が先行します。
その段階で立証以前に相談者の主張自体が、事実に基づかない独断意見に過ぎないなどストーリいー自体が破綻していることが判明することが多々あります。
医師は安易に患者や関係者の説明・・経緯を恰もあった事実かのように書く傾向があるのは、プロの目から見れば瞬時に信用性がわかる自信によるのでしょうか?
(ただし、私の少しの経験を一般化するのは間違いの元ですので、そのように理解してお読み下さい)
医師の場合、客観検査できること以外は、患者や付添人の説明そのまま前提事実として治療していくようですし、これとパラレルの関係か不明ですが、一方では治療の説明をしたがらない印象です。
私自身医療にかかるようになったこの6〜7年の経験で言えば、5〜7年ほど前に右手人差し指の先・第一関節というのかな?痛みとともに変形しているのに気づいて、心当たりとしてはその直前頃に小さなブラッシュを握って庭先のタイル磨きに精出したことが原因かな?と思って事務所近くの新設されたばかりのリハビリ施設を併設した医院に診察を受けに行ったら、「年とったら誰でもそうなりますよ、痛いなら痛み止めの薬を出しておきましょう」という程度で会話にならず帰りました。
その後庭仕事をやりすぎると痛みが出ることはありますが、痛みは指を休めたり撫でて指を伸ばしたりしてれば治るので、二度と医療にはかかっていません。
この数年前から左足首のあたりに赤いポツポツができて痒くなる症状が続いていて事務所近くの皮膚科に行くと「心配いりません高齢化すると皮膚が乾燥してそうなるのです」というだけで塗る薬を処方されて痒くなると塗れば治る・・1週間ほどするまたポツポツが見えてくるので痒くなる前に早めに塗るの繰り返しで4〜5ヶ月に1回前後の間隔で薬がなくなれば貰いに行く繰り返しで、医師と面談しますが、「変わりないですか?はい」程度の応答で・・数十秒で終わりです。
年寄りの繰り言をこの機会にぶちまけますが、2年ほど前にメガネが合わない・・遠くからくる人の焦点が合わず困ると思って眼科で検査してもらったところ、高齢化のせいで心配いりません」という説明で終わりました。
医師としては何か危険な病気が潜んでないか調べたつもりのようですが、私の方としては、こちらは高齢化の所為でメガネが合わなくなったから検査に行ったので「ふざけた説明だ」と思いましたが、検査目的のミスマッチがあったようです。
その後自分なりに納得した論理は、メガネの機能は水晶体の不具合をレンズで修正できるが、左右の目に別々に映る映像を焦点にフォーカスする作業は、水晶体→レンズで調整する作業と関係ない=メガネが合わなくなったわけではない・焦点を合わす脳内の作業が下手になったからではないか?
卑近な例で言えば、双眼鏡で焦点を合わす作業能力が落ちてきたことにあたるのかな?という素人的理解です。
そうすると現在医学ではまだ脳内の複雑な原理解明が進んでいないし、ましてや眼科医の領域外ということだったかもしれません。
脳医学の複雑な説明を三分診療ではできないということだったのでしょうか?
でも私の上記自己流納得が間違っているかも知れないし、素人は脳科学での複雑な数式や過去の研究成果・A〜Dの学説の細かい説明を求めているのではありません。
「メガネが合わない」と相談した患者の関心に答えるには「高齢化で起きるもので心配がない」というのではなく、「眼鏡の調整の問題でない」という程度の素人向け数十秒で足りる説明をすべきだったように思っています。
我々弁護士の場合、現在持参した手持ち資料と説明によれば、法理論上こういう主張ができるがこの主張にはこういう反論が想定されるので、相手の手持ち資料にどんなものがあるかを聴き、相手の反論が事実とした場合にこういう再反論ができますがあなたに裏付ける事実とその資料がありますか?など順に聞いていくのが普通です。
こういう順を追ったやり取りを経て何が争点になるかを素人も知ることができる仕組みです。
説明責任以前に前提情報を入手しないと(医師の場合各種検査データ)処理方針が立たないから質問と応答の繰り返しが必須であるからです。
眼科医診察を受けた場合の例で説明すると順番で呼ばれる診察もしないですぐ看護師による視力その他(麻酔で瞳孔を開くなど)の検査に入って検査が終わってからの医師面談でした。
弁護士の場合、補助職による事前チェックなしに直接面談(サラ金整理等では債権者表を書いてから面談していましたが、一般事件の場合)ですが、たまに代理で相談にくる人がいます。
大雑把にどう言う処理が可能か?どの程度の費用か聞きに来る程度で、「今度本人と一緒に来ます」ということになります。

専門家の責任4

元のテーマ・精神障害者に対する強制隔離の問題点に戻ります。
精神医学の基礎的本(法律家が必要とする程度の基本書のレベルですが)を読むとエピソードと称していろんな病名診断の事例紹介が出てきます(素人には分かりよくてありがたいです)が、患者自身が語るのは一応の信用性のある病状説明でしょうが、患者自身が語ることの裏付けとして周辺が語るのを利用する場合は補強証拠としてならば有用です。
しかし、周辺の人が過去にこのような異常なことがあったと語るエピソードを患者が言わないか否定しているにもかかわらず本当にあったことと決めつけて・あるいは誘導的質問で迎合的同意を取り付けたり患者が自分のしたことを忘れている証拠に使えるかは慎重であるべきです。
経験による総合判断程度の精神病の診断では、周辺関係者の共謀による場合には口裏合わせのからくりを見破る能力にかかる率が高いので、隔離する判断の客観性担保は複数医師による診断に求めるだけでは、抜本的信用回復にはなりません。
宇都宮精神病院事件のウイキペデアイアを紹介しましたが、内科や産婦人科等の医師が一定の講習を受けさえすれば、ある日精神科医になれるのでは、複数の医師による診断制度といっても技術担保というより2人がそろって悪いことをしないだろうという程度の人格期待にしかなりません。
内科医から心臓外科や脳外科医になるのはちょっとした何時間の講習何回受講程度では無理があるのは明白ですが、内科医から精神科医になるのが簡単なのは、そもそも専門家と言えるスキルが必要とされていないからでないかとうがった見方もできます。
宇都宮病院事件に関するウイキペデイアの再引用です。

精神科医の人数は病床の増加に見合ったものではなく、実際のところ増加した精神科病院に勤務する医師の殆どは、内科医や産婦人科医からの転進であった。精神科病院は、内科や産婦人科よりも利益率のよい事業のため、医師たちは診療科を精神科に変更したのである。宇都宮病院もこの時期(1961年)に、内科から精神科へ事業を変更している[6]

これに加えて、こういう症状・・エピソードがあればという一般向け解説書が出回っていると、隔離を計画的に画策する方は、そういう口裏合わせをすることが容易です。
関係者の経過説明の信用性判断を基本としての診断が科学と言えるかどうか怪しい医学基礎知識の上に加味して決めるのであれば、こういう判断には医師以外の関与が必須でしょう。
しかし毎回の診断に第三者関与を求めるのは物理的に無理があるので、圧倒的多数の第一次診断は従来通りとなります。
宇都宮精神病院事件を契機に患者の外部への不服申し立て方法が整備され、不服があれば審査会が設置されるようになっていきましたが、精神医学自体がはっきりしないエピソードに頼る以上(素人の私に理解不能なだけかもしれませんが)問題が起きてから審査する制度に頼るしかないのが、現状というべきでしょう。
審査委員の構成も累次の改正によって、福祉に経験のある人が加わるなど多様化するようになっています。
とは言え、精神科医の多くは、この未知の領域で苦しむ患者を救うための崇高な理念で正解を目指して少しでも良いから徐々にわかる範囲を広げようと努力していること自体は非常に尊敬すべき立派なことです。
こういう医師が大多数であるものの、(私の知っている限りそれぞれ真摯に患者に向き合っている人ばかりでしたが)たまに宇都宮病院のように金儲け目的で始めると、匂いがするのか?そういう目的の邪悪な人が利用するようになる・・一般人に匂いがするようになっても監督機関に匂いがしないのか?
ある程度怪しい噂が監督官庁に入っても警察と違って内偵能力などないし、ブレーキが効きにくくなるのが困ったものです。
精神医学ではいまだに群盲象を撫でるような努力が続いている(素人には見える)のですが、それでも発達障害その他多くの分類ができるように発展してきただけでも大きな進歩のように見えます。
地震や火山噴火予知などもこれが学問と言えるかどうか不明と言えるほど未知の分野がほとんどのようですが、それでも地震予知学の救いは地震発生のメカニズムの全体が不明でも議論前提の各種データ自体は科学的数字のデータ中心なので、見るからに科学っぽい点がまるで訳のわからない精神障害の研究より、やっている学者にとっては救いがあるでしょう。
予測不能の変数が多すぎて、いつも予測を外す経済学者の論説も同じで結果だけ見ると無駄な議論だと乱暴に?切り捨てることも可能ですが、今は直ちに成果に結びつかなくとも地道に研究していくことがそれなりに有用です。
宇宙の神秘について、古代エジプトやギリシャ人が数学的に色々研究していたことがその当時の成果に直結しなかったにしても、その頃からの連続した研究成果(たとえば地動説や万有引力の法則→相対性理論・結局何もわからない=不可知主義の台頭?→「無知の知の自覚」がモテはやされたり)が現在のいろんな科学発展に資していることは明らかですし、人工衛星等の実用化の基礎になっていることでしょう。
米中対立が一時休戦で今年になれば中国経済が持ち直し世界経済も拡大という予測が一般的でしたが、今回の新型ウイルス事件で全部吹き飛びました・・結果だけ見れば学問と言っても皆そんな程度のものです。
結果がわからないといえば、新型コロナウイルスや精神病に限らず全ての学問は同じですが、地震学で言えば一応の論理があるので一歩一歩地球の仕組み解明に近づいていくように思えるのですが、精神病の場合まるで手がかりさえない・・素人にはそのように見える点で、学問というよりともかく困ったものに近づかない程度の社会合意しかないイメージです。
ただし、いろんな委員会で出会う精神科医あるいは一般医師と話していると頭が良い感じで、こう言う優秀そうな人たちが取り組んでいる以上は、(素人に理解困難なだけで)学問的にも科学的批判に耐える合理的な議論をし、研究してくれているのでしょう!と言う個人的信頼感を持ちたくなります。
要は地震等は一般人の関心が高いので新聞等の解説記事が多いので、まだ全体の仕組みが分からないなりに地道な研究が進んでいるのだ!という理解が進み易いのに対し、医療の方は庶民に身近になっているで分、逆に忙しすぎて丁寧な説明をする時間がない・・3分診療になってしまう関係でしょうか。
その結果、心療内科や精神科に関係すると「この頃眠れなくて」というと何か心配事ありますか?勤務先でこういうことがあってなどと、説明するとあんちょこに安定剤、睡眠導入剤等を処方されて終わりの印象です。
本当に眠れないのか眠れないように思っているだけか?勤務先で嫌な思いをしているというが本当かなどのチェックなど一切しないし、する方法もないでしょうから、信じて治療するしかないのでしょうが?
プロの目から見れば瞬時に信用性がわかるからでしょうか?
(ただし、私の少しの経験を一般化するのは間違いの元ですので、そのように理解してお読み下さい)

高齢親の虐待2(任意後見制度利用の勧め)

後見制度は資産家が資産管理、処分能力がない時の例外として、禁治産制度の副産物的に生まれたものです。
管理処分権者制度は、後見に限らず、会社においては取締役等の管理処分機関、社団財団等では理事、個人法人共に破産したときの臨時管理処分権者である破産管財人が選任されるの同じでそれぞれ名称が違っているもののそのときの目的に応じた自分以外の法人や個人の財産管理処分権がそれそれ決まっています。
このようにそれぞれの制度設計の1要素でしかなかったのが、後見の役割が資産管理だけでなく介護その他看護関係に広がると元の資産管理処分制度設計を乗り越えたものになったことになります。
それでも大元は資産管理から始まっているので、任意後見制度の利用は事実上一定の資産があることが前提に思っている人が多いでしょうが、資産濃霧が法律上の要件ではないので無資産者でも公正証書作成費用さえあれば利用可能です。
後見費用が高いのでないか?と尻込みする人が多いでしょうが、親族後見の場合報酬自体放棄させれば無報酬ですみます。
私が申請する事件ではこれまで親族後見予定の場合(いずれも資産がある場合ですが)法的手続きをする都合上なってもらうだけだったので全て後見候補者の「報酬入りません」という上申書付きで申し立てていますが、のちに兄弟間で面倒を見たのに!という争い防止のためには、介護してもらう負担を考えて適正な金額(裁判所が決めてくれるのが原則)を決めておいた方が合理的です。
そうしておけば相続時に誰が面倒を多く見たという争いを防げます。
そうすれば介護など面倒見た分は適正報酬を受け取っているので遺産相続争いでは解決済みとなります。
親が養っている中高年の子供がいる場合、いきなり後見報酬のみでは生きていけない場合もあります。
後見が始まれば生活費として子供Aに毎月一定額支給するなど明記しておけば良いことでしょうが、これが制度上どう配慮してくれるかについは実務経験がまだないのでわかりませんが、実際必要になれば、その時点で裁判所の運用を調査してみれば分かるでしょう。
仮にその記載がその通りの効力がなくとも、書いておいて損はないということでしょう。
娘や息子が後見人ならば元気なうちに後見人指名しておいても置かなくとも、結果的に同じようですが、ここのテーマは密室化になりやすい介護家庭に公の目が入る利点です。
後見制度利用メリットは、
① 裁判所が年に1回財産管理のチェックをしてくれる・・預金通帳など提出が求められるのと、
② 年間必要額相当・・たとえば数百万・あるいは年金収入等振込入金で施設費用等に十分間にあうときには、その普通預金通帳だけの管理を後見人に委ねるのが普通です。
日常的出費に必要な額以上の資産は、信託財産(ただし株式など有価証券を扱わないようです)にして(信託財産化に応じないときには後見監督人を別に選任します)後見人が勝手に巨額払い戻しや処分できない仕組みにしています。
③ 介護関係の報告もあるので、後見報酬さえゼロまたは適正にしておけばほぼコストゼロで公のチェックが入る利点があります。
コスト問題ですが、社会に不適合を起こしている子供(と言ってもすでに5〜60台以上)を抱える親にとっては、中高年世代の娘や息子の生活費を出してやるのは良いが、自分が路頭に迷うほど浪費されては困るという親が普通でしょう。
こういう場合・・適正な後見費用支給を決めたり、生活費は支給してやりたいとすればそれを裁判所管理で実行してもらうのは合理的です。
単純に銀行や証券会社その他の手続きを娘や息子にに一任していると必要以上の支出あや売却をしているか不明朗になるのですが、それを裁判所がチェックしてくれるので安心です。を防げます。
裁判所ん費用は当初の申し立て印紙や郵便切手(裁判所から後見人への連絡コスト)など取るに足りないコストです。
毎月後見人に払う後見報酬は息子か娘を後見人に指定しておけば元々娘らの生活費援助資金の一部と考えればタダと同じです。(他人にお金が流出するわけではない)
ここでは、親世代が高齢化し次世代がしっかりしない場合、高齢化でいつか自分で管理し切れなくなったときの問題・家屋敷を売られたり、巨額資金を浪費されては困るジレンマの解決策を書いています。
一般論としては灰色段階の社会システム不備があると社会需要の溜まったマグマのはけ口としていろんな事例が起きる関係のように見えます。
児童虐待問題が火を噴く背景には、現在の子育て環境に問題が大きすぎる・・・人類は長い間大家族制プラス地域社会で大勢の目で育てて来たのに対して金愛社会化に比例して核家族化進み子育ての密室化が進んできたからではないでしょうか?
素人の直感にすぎませんが、補完作用として零歳児保育とか各種受け皿ができて来ましたが、原則と例外の違いで、時々どこか相談窓口があったり、預かってくれるという程度では追いつかないからではないか?と思います。

児童虐待と高齢親の虐待(尊属殺重罰規定違憲判決)

高齢者に対する成人子供世代の虐待問題は、封建道徳の遺物と言われ、戦後憲法違反判決になって刑法から削除された尊属殺人罪などの特別規定は実は恒例化した場合における家庭内の力関係逆転を見通した制度だったことになるのでしょうか。
因みに私が司法修習した時に所属した(指導を受けた)刑事部長〇〇さんがその一審判決を書いた裁判長でした。
尊属殺重罰規定違憲判決に関するウイキペデイアを引用します。

尊属殺重罰規定違憲判決(そんぞくさつじゅうばつきていいけんはんけつ)とは、1973年(昭和48年)4月4日に日本の最高裁判所が刑法第200条(尊属殺)を憲法14条(法の下の平等)に反し無効とした判決である。最高裁判所が法律を「違憲」と判断した最初の判例(法令違憲判決)である。
この裁判の対象となった事件は、1968年に栃木県矢板市で当時29歳の女性が、自身に対して近親姦を強いた当時53歳の実父を殺害した事件で、「栃木実父殺し事件[4]」「栃木実父殺害事件」などと呼ばれる。
一審の宇都宮地方裁判所は、刑法200条を違憲とし、刑法199条(殺人罪)を適用した上で、情状を考慮し過剰防衛であったとして刑罰を免除した。
二審の東京高等裁判所は、同条は合憲とし、その上で最大限の減刑を行い、かつ未決勾留期間の全てを算入して、懲役3年6月の実刑を言い渡した。
終審の最高裁判所大法廷は、従来の判例を変更し同条を違憲と判断した上で、刑法199条を適用し懲役2年6月、執行猶予3年を言い渡した。

被告人の弁護人を務めた大貫大八は、国選ではなく、無報酬(金銭の代わりにジャガイモを差し出した)の私選弁護人であった[5]。これは、国選では各審の度に弁護人が選任しなおされるため、弁護方針が一貫できないことを危惧したためであった。後に控訴審で大八が健康を害したため、[要検証ノート]息子の大貫正一に交代した[5]

上記によると昭和48年最判ですので、私の宇都宮地裁での実務修習時期と重なります。
大貫正一先生は前年7月からの弁護修習中に地元の中堅働き盛りの弁護士としてお世話になった人格の立派な先生でした。
時の人!敢然と違憲判決を書いた刑事部長判事は、当時まだ宇都宮地裁在席中でしたので、狭い(と言っても20坪前後?)裁判官室(部長と左右陪席2名の合計3名の部屋に修習生4名配属)で終日(刑事4ヶ月民事4ヶ月で部屋が変わりますが、隣室であり修習生同士の行き来があるし、当時地裁には裁判官が6人プラス所長の7しかいなかったのでお互い気楽に日常的に行き来がありました。)一緒にいたわけですが、もの静かで温厚な人柄だったくらいの記憶で何を習ったかとなると不肖の弟子で何も思い出せません。
ただ、思い出して見ると梅棹氏の「知的生産の技術」の読書を勧められた記憶があります。
以来無意識の内に梅棹氏の主張・業績には親近感を抱くようになっていたらしく、数十年後に機会があって大阪万博会場跡地にできている国立民族学博物館博に見学に行った動機の元にもなっていたことに今になって気がつきました。
それ以外に学恩の記憶ははっきりしないのですが、部長は登山愛好家でしたので、修習期間中の10月8日出発の1泊2日の奥日光(鬼怒沼)へのハイキングに連れて行っていただいた記憶は鮮明です。
メンバーは民刑6人の裁判官と修習生全員8名で、行きは裁判所の車で奥日光の金精峠まで送ってもらい、下車して奥日光の山に分け入り、夕方4時頃にはカニ湯とかいう山奥(今調べると奥鬼怒温泉郷)のランプしかない温泉のある山小屋風の温泉旅館に入り、野天風呂・今風の露天風呂の先祖みたいな温泉で・お月様だけ煌々と照らす温泉に浸かりました。
何しろ寒いので(午後4時頃宿に着いた時に温度計を見ると4度でしたが歩いているときは良かったのですが囲炉裏端は別としてジッとしているとどんどん寒くなるので温泉から出るとすぐせんべい布団にくるまり寒さに震えながら眠りました。
山は上の方から順番に紅葉していて、山裾にかけてグラデユエーション・・豪華な着物の裾模様のようで錦ってこういうものを言うのかな?と感嘆したものでしたし、鬼怒沼に登ると一面の草原が一面紅葉していて赤トンボのように焦げ茶から真っ赤になっている一面の景色には感激しました。
今になると謎ですが、帰りは裁判所主催旅行なのに何故か検察庁所有の?マイクロバスが上記温泉町に迎えに来てくれていて、五十里湖の方をぐるっと回って宇都宮に帰りました。
公共輸送機関を利用すると、2泊でもどうか?なという奥地の行程でしたが、奥地のギリギリまで車送迎があって効率が良かったことが今になるとわかります。
修習生相手の行事については、当時3庁(裁判検察弁護士会)共同作業という運用だったのかもしれません。
今から50年近くも前の記憶ですが、今になると日本国憲法下で初めての違憲判決が出て思想界で騒然としているちょっとした歴史の端っこに偶然立ち会っていたことになります。
話題を戻しますと直接の暴力だけでなく、高齢化が進み、親世代が介護・・要支援等で次第に弱い立場になっていく力関係変化に社会が意を用いない・対応遅れがこれからの問題です。
社会の支援がないままですと元農水次官のように自分が元気な内に家庭内が将来の地獄図絵になる芽を摘もうとしたくなる人が一定数出るでしょう。
江戸時代の武家の自裁精神に戻って元農水次官のように世間に迷惑かけないうちに自から手がけるか、金属バット事件やボーガンに利用事件だけで結構顕在化している各事例のように息子に殺傷され被害顕在化を待つか?中間をとって、精神病院での隔離を求めるか?戸塚ヨットスクールのようなグレーの合宿制度?に頼るかになります。
成人した子供世代の親世代虐待防止を図るという正面からの施策ではないですが、介護の社会化(密室化防止)が一般化され後見制度が充実透明化し、高齢者に対する虐待が、外部に漏れやすくなったのが一つのガス抜きですが、介護など頼まない家庭では(同居の娘が自分で面倒見ると称して)密室化・・悲惨化しますので、その前段階からの社会関与システム構築が重要でしょう。
社会システム整備を待ってられない期間においては、不肖の次世代を抱える親の自衛のためには、元気なうちに任意後見を決めておくのは一つの予防法です。
後見制度のチェック機能やコストについては明日簡略に説明します。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC