資格の発達(外見有用性と責任)1

精神科医の精神病認定の恐ろしさから、被後見人等に偏ってしまいましたが、行為能力制度=能力制限制度全般と外見規制時代に戻します。
生まれ育った郷里で一生を終え見知らぬ人と会うことの稀な時代と違い、1日の内に早朝の満員電車に始まり見知らぬ人と遭遇し続けて何かしらの関係を大量に持つのが日常になると、チラッとも見ただけで駅員かその店の店員か救急車かなど即断できないと世の中がスムースに行きません。
初対面の人でも相手がどういうことを出来る人かすぐに分かり迷わずに対応できるためには、一定の資格制度やユニホームがあれば見知らぬ人でも一定の技術やノウハウを持っていると分かり、一定の仕事を委ねられるようになるのでスムースです。
初対面の人に名刺を先ず出すのも、その人がどこの会社の人でどういう職種かが即時に判明することによって、その人に何を頼んで良いかがわかって無駄な時間が省けます。
昨年夏ころ都内大病院の病室に見舞いのために繰り替えし通っていたところ、医師がジーンズにTシャツ姿でしたが、男性の場合作業員が立ち入って病状説明するわけがないので「あ、医師がきたんだ」とわかりましたが、話を始めて内容から判断しないと判断がつかないシステムになっているのには驚きました。
女性医師が来た場合、当初看護師さんが様子を見に来たのかとばかり思っていたら、看護師さんの説明とちょっとレベルが違う・付き添いしている身内の質問内容接し方等からもしかしたら医師かな?とこれも総合判断した次第です。
看護師の場合も昔のイメージ白衣の天使ではなくブルーの作業着式衣服で、いろんなことをするのでベッドメーキング的清拭作業する職種?の人と洋服だけでは区別がつかなくなっているのには驚きました。
たまに来る人には職種区別が分からなくとも良いというのが、大病院の主流的考え方なのでしょうか?
コンビニやスーパー、デパートやデイズニーランド、ファミレス、交通機関など今流行りの「濃厚接触」を前提にしない業態では店員・施設職員と客の違いが外見ですぐわかる方が客にはあり難いものです。
工事現場付近の誘導員もユニフォームと警棒式の赤い?棒を振り回しているので一々何してるんですか?と聞かなくとも、その指示に従って迂回歩行すると安全なのだと瞬時判断ができ、迂回路誘導がスムースに行われます。
対面相手の能力内容が初対面の人にも一定水準の能力保障をしてくれるのが資格制度やユニフォーム着用や名刺であり、〇〇銀行や弁護士等の名称を使用できる許可?制であり、(銀行の看板だけでビル内に入る用事があるかどうかも判断可能)近代社会をスムースに動かせる必須のアイテムです。
こうして交流拡大に応じて各種職業の資格制度・外見の統一が発達してきました。
江戸時代までは武士と町人では衣服や髪形や会話形式からして違う・・家に門構えが許されるか土塀か生垣かなどあらゆる方面で格式が分かる仕組みでした。
京都に行くと土塀でも門跡寺院には、線が入っているなど外観で判断できるのはそれなりに便利です。
外見判断の合理化という意味で見れば、江戸時代の士農工商の区別は身分というより職業分類であったと見るべきでしょう。
(世襲といっても当時も大名家自身の改易や家臣の家禄召し上げ等が結構あったので、大名家家老等の名門でも盤石ではありませんでしたので、本来身分と言えないと思われます)
大手銀行(大大名)でない地方銀行(10万石内外の大名)や相互銀行(3〜5万石の大名)信用金庫(戦国レベルの上流武士・多くは旗本クラス)でも銀行員(金融機関・武士)であれば一生食いはぐれがないという1世代前までの職業観と似ていたように見えます。
身分でなくとも従業員としての雇用安定程度?や格式重視制度はそれなりに意味があったというべきでしょう。
現在に戻りますと一定の規格基準に合致して初めて医師、建築士であり理髪師、調理師、代議士であるし、政党と言えるし、大手企業従業員であれば(せっかく得た地位を安易に棒に触れないので)一定の信用ができるという意味で所属が重視されます。
信用力の高さを求めればその維持のために期待外れのことができない不自由度は表裏の関係です。
外見でまず判断できる社会は省エネ・・効率の良い社会ですが、これを悪用する人がもちろん出てきます。
「看板にいつわりあり」ということですが、〇〇職員を名乗るオレオレ詐欺などもこの一種です。
商人や法人がある人に対して名目だけの外見的資格使用を許している場合、その責任を負う制度を法人制度と同時に採用しています。
法人制度の骨格を決めた基本法であった民法旧規定(公益法人3法成立と同時に削除される前の規定)は以下の通りです。
http://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/koueki/kyuminpou.html

(名称の使用制限)
第三十五条 社団法人又は財団法人でない者は、その名称中に社団法人若しくは財団法人という文字又はこれらと誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(法人の代表)
第五十三条 理事は、法人のすべての事務について、法人を代表する。ただし、定款の規定又は寄附行為の趣旨に反することはできず、また、社団法人にあっては総会の決議に従わなければならない。
(理事の代理権の制限)
第五十四条 理事の代理権に加えた制限は、善意の第三者に対抗することができない。
上記条文は、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成十八年法律第四十八号)
77条にそのまま引き継がれています。

商法

(明治三十二年法律第四十八号)
第九条
2 故意又は過失によって不実の事項を登記した者は、その事項が不実であることをもって善意の第三者に対抗することができない。

会社法(平成十七年法律第八十六号)

第七条 会社でない者は、その名称又は商号中に、会社であると誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(表見支配人)
第十三条 会社の本店又は支店の事業の主任者であることを示す名称を付した使用人は、当該本店又は支店の事業に関し、一切の裁判外の行為をする権限を有するものとみなす。ただし、相手方が悪意であったときは、この限りでない。
(表見代表取締役)
第三百五十四条 株式会社は、代表取締役以外の取締役に社長、副社長その他株式会社を代表する権限を有するものと認められる名称を付した場合には、当該取締役がした行為について、善意の第三者に対してその責任を負う。

工事現場付近の誘導員もユニフォームと警棒式の赤い?棒を振り回しているので一々何してるんですか?と聞かなくとも、その指示に従って迂回歩行すると安全なのだと瞬時判断ができ、迂回路誘導がスムースに行われます。
対面相手の能力内容が初対面の人にも一定水準の能力保障をしてくれるのが資格制度やユニフォーム着用や名刺であり、〇〇銀行や弁護士等の名称を使用できる許可?制であり、(銀行の看板だけでビル内に入る用事があるかどうかも判断可能)近代社会をスムースに動かせる必須のアイテムです。
こうして交流拡大に応じて各種職業の資格制度・外見の統一が発達してきました。
江戸時代までは武士と町人では衣服や髪形や会話形式からして違う・・家に門構えが許されるか土塀か生垣かなどあらゆる方面で格式が分かる仕組みでした。
京都に行くと土塀でも門跡寺院には、線が入っているなど外観で判断できるのはそれなりに便利です。
そういう意味で見れば、江戸時代の身分というより(当時も大名家自身の改易や家臣の家禄召し上げ等が結構あったので家老等の名門でも盤石ではありませんでした)今で言えば大企業従業員としての雇用安定程度)?や格式重視制度はそれなりに意味があったというべきでしょう。
現在に戻りますと一定の規格基準に合致して初めて医師、建築士であり理髪師、調理師、代議士であるし、政党と言えるし、大手企業従業員であれば(せっかく得た地位を安易に棒に触れないので)一定の信用ができるという意味で所属が重視されます。
信用と不自由は表裏の関係です。
外見でまず判断できる社会は省エネ・・効率の良い社会ですが、これを悪用する人がもちろん出てきます。
「看板にいつわりあり」ということですが、〇〇職員を名乗るオレオレ詐欺などもこの一種です。
商人や法人がある人に対して名目だけの外見的資格使用を許している場合、その責任を負う制度を法人制度と同時に採用しています。
法人制度の骨格を決めた基本法であった民法旧規定(公益法人3法成立と同時に削除される前の規定)は以下の通りです。
http://www.pref.osaka.lg.jp/houbun/koueki/kyuminpou.html

(名称の使用制限)
第三十五条 社団法人又は財団法人でない者は、その名称中に社団法人若しくは財団法人という文字又はこれらと誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(法人の代表)
第五十三条 理事は、法人のすべての事務について、法人を代表する。ただし、定款の規定又は寄附行為の趣旨に反することはできず、また、社団法人にあっては総会の決議に従わなければならない。
(理事の代理権の制限)
第五十四条 理事の代理権に加えた制限は、善意の第三者に対抗することができない。
上記条文は、一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(平成十八年法律第四十八号)
77条にそのまま引き継がれています。

商法

(明治三十二年法律第四十八号)
第九条
2 故意又は過失によって不実の事項を登記した者は、その事項が不実であることをもって善意の第三者に対抗することができない。

会社法(平成十七年法律第八十六号)

第七条 会社でない者は、その名称又は商号中に、会社であると誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。
(表見支配人)
第十三条 会社の本店又は支店の事業の主任者であることを示す名称を付した使用人は、当該本店又は支店の事業に関し、一切の裁判外の行為をする権限を有するものとみなす。ただし、相手方が悪意であったときは、この限りでない。
(表見代表取締役)
第三百五十四条 株式会社は、代表取締役以外の取締役に社長、副社長その他株式会社を代表する権限を有するものと認められる名称を付した場合には、当該取締役がした行為について、善意の第三者に対してその責任を負う。

行為能力制度3(定型から実質へ)

2〜30年前頃から意思能力に問題があるために資産等を守り人間として尊厳ある待遇を受ける必要がある人の大多数が、認知症患者に変わり後見人を必要とする家族の受け止め方や社会意識も大きく変わりました。
将来生涯単身者が増えて、認知症患者の見守りがどうなるかにもよるでしょうが、この数十年の認知症患者の大多数は、兄弟間の遺産争いの当事者ではなく、多くの場合妻が元気な場合夫であり夫死亡後の場合介護者は子であり被後見人等は母親です。
介護に困っても今は精神病院と違い介護施設が充実している上に、娘を中心とする子らは母子間で兄弟間のような争いが滅多になく、他の兄弟の目もあるので、母親を精神疾患がないのに監禁ために精神病院へ入れる必要がありません。
意思能力に問題がある場合でも、ある程度の能力があるが健全な判断能力に欠ける場合に対する保護は従来準禁治産宣告でしたが、私が弁護士になった頃には、準禁治産者として浪費者のほか瘖唖者などが定型として例示されていましたが、(耳が聞こえなくとも十分な判断力のある方がいます)聾唖というだけで準禁治産の宣告する方式は問題がありすぎたので昭和54年に聾唖者盲人定型をなくしました。
このとき浪費者という実態不明の定義を残したのは実質認定だから良いだろうとなったのでしょうか?
54年改正前の旧条文がネットではなかなか出ませんので自宅にある昭和8年版六法全書によって、引用しておきます。
昭和8年版六法全書民法編です。

民法11条 心神耗弱者、聾者、盲者、浪費者ハ準禁治産者トシテ之ニ保佐人ヲ付スルコトヲ得
このように、明治以来定型が法定されていたのですが、昭和54年に浪費者を残して削除され、

民法第11条
心神耗弱者及ヒ浪費者ハ準禁治産者トシテ之ニ保佐人ヲ附スルコトヲ得

となり、これが平成11年

現行民法(1999年改正2000年施行)

(後見開始の審判)
第七条 精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、未成年後見人、未成年後見監督人、保佐人、保佐監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、後見開始の審判をすることができる。
第十一条 精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分である者については、家庭裁判所は、本人、配偶者、四親等内の親族、後見人、後見監督人、補助人、補助監督人又は検察官の請求により、保佐開始の審判をすることができる。ただし、第七条に規定する原因がある者については、この限りでない。

平成11年改正後障害や限定行為能力の決め方は、定型障害で能力制限するのではなく、「精神上の障害により事理を弁識する能力が著しく不十分」という原則定義一本になり具体的認定が必要になりました。
明治民法制定時に行為能力不足者も権利能力の主体にするとその権利を失うリスクが高まるのでその保護の必要性があったものの、能力不足の判定能力(科学?)が追いつかないのでまず心神耗弱という原理を掲げた上で、その認定がなくともさしあたり誰も外見でわかる定型的場合を掲げたのでしょう。
それにしても表現がキツすぎました。
例えば禁治産宣告の改正前の漢文式表現では「心神喪失の常況」というのですから、禍々しいことこの上ない「おっソロシイ」表現でした。
今で言えば認知症→認知能力の欠如という意味ですから、我々高齢者は徐々に視力、聴力が落ち結果的に文書に限らずいろんな情報に穴が空くので結果的に判断も誤る・誰もが将来そうなる流れが可視化されます。
認知能力低下といえば高齢化に伴い徐々に身体機能が落ちていくのは仕方ないよね!となりますが、「心神喪失です」と言われるとまるで何の理解もできない廃人のイメージでした。

権利能力と行為能力の峻別2(未来の夢か?)

足腰が弱くてもその他の機能が一人前の人がそのために移動できず、能力を100分の1しか発揮できないのではその人だけでなく、社会にもマイナスなのでそれを補完するためにエレベーターその他バリアフリー化が進んでいます。
尿失禁ために外出に支障のある人がオムツの発達で自由に外出できるようになるのもその一つでしょう。
こうした部分故障で全体能力制限のバリアー解消に成功した最初の発明がメガネの利用でしょうか?
補聴器や義足の発達や車運転も重いハンドルさばきを軽くして、力の弱い女性が運転しやすくしたのもその一種ですし、出歩き易くするために女性用トイレ整備が進んだのもその一例でしょう。
このように違いを前提にハンデイを与えたりいろんな受け皿を用意するのは人類の知恵ですから、今はまだ外形で分かる範囲の工夫でしかないですが、将来的には例えば短気な人が実は脳内のある物質不足によることがわかり、その補給可能になって人格が温和になったり、ある物質の不足で記憶力減退していく原理がわかり不足物質の補給によって、あるいはある神経回線の伝達能力が落ちる原因を除くなどによって劇的に記憶や判断能力が上がる・数学的処理能力差も同様の原理で未来的には部品や神経伝達回路系の補修交換できる時代?がくるようになるかもしれません。
こうなってくると固有の人格と思われてきたものでさえ、部品レベル差でしかないと言う時代がくるのでしょう。
数時間以上落ち着いて本を読んだり物事の観察できない原因がわかるなど・・。
この栄養を脳のある部分に補給すると文化芸術の理解力が上がり、別の栄養素で創作能力が上がり、思いやりが深くなるなど・・・。
将来その人の本来的属性と思われてきたいろんな分野の部分の故障(病気)を直すだけでなく、気質まで変えられるようになってくると、現在眼鏡や補聴器で能力不足を補正できるように部分障害の有無で全体評価するのは間違いという時代がkrう可能性ありあります、
そう言う時代が来れば権利能力と行為能力を分離する現在の思想は、超長期的に見れば意外に合理的な先見の明のある意見かもしれません。
ただし現在のところ、人の個性・違いを前提にせず人類皆同じ・だから努力したものもしないものも同視すべきという方向に結びつける主張とすれば無責任です。
老荘思想は、そんなあんちょこなものではないのでしょうが、若い頃に読んだ印象では、一見斬新奇抜で「目から鱗」のようなイメージを受けたものですが、それは一服の清涼剤あるいは、薬味程度の意味しか持たないで思想界の主流になり得なかった所以ではないでしょうか。
色々言えばキリがないので、この辺でやめて、現在の法常識に合わせて行為能力に入っていきます。
法の下の平等という意味は、結果平等を保障するのではなく同じ能力なら、家柄身分性別等によって差をつけるのが不平等として許さないという説明が一般的です。

憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

民法では基本法ですので法人のように事業ごとに行為能力を細かく決めていませんが、権利の主体であっても赤ちゃんは自分でその権利を享受するために行動する能力がありません。
あるいは臨時に体力の衰えた傷病者、精神障害者などもその保護(医師介護者)が必要です。
この解決のために赤ちゃんだけでなく一定年齢まで自分で権利を守れない定型的場合を想定してその保護者が必要として行為能力制度設定をしたものと思われます。
ひとつには年齢による保護・未成年制度であり、もう一つは年齢を問わない無能力者制度(是非弁別能力欠如)です。
無能力制度は精神病にかこつけた人権侵害がありうるので、専門医の診断が要件になっています。
ただし精神医学というのは科学ということになっていますが、患者の行動や、幻覚・幻聴・幻視等の訴えの聞き取りとその解釈が中心で、客観的データが少ないのが特徴です。
認知症の検査でもこのような質問にこのように応答したという医師やテスト要因が書き込んだデータだけで、血液検査や脈拍体温や、摘出した細胞などの標本を残す他の医学部門データとまるで違います。
上司に毎日叱責されてストレスで何日も眠れないなどと医療相談すれば、その相談だけで?うつ病診断になるイメージです。
専門家は表情などよく見ていると言うのかも知れませんが、いずれにせよその医師の判断重視である点は変わらないでしょう。
強制措置入院には2名以上の医師による診断が必要とされていますが、客観データなく経験豊富な医師の意見一致なら間違いないだろうという程度の担保しかありません。
これが強制措置入院隔離病棟となると、医師の診断が絶対化して思いがけない牢獄現象になります。
客観基準がないまま専門医というだけで聖域化してくると悲惨な事件が起きます。
精神病院の人権侵害事件では、宇都宮病院事件が著名で詳細はウイキペデイアに出ていますので以下、骨子だけ紹介しますが、ようは隔離・収容しておくだけで治療らしい治療をしない前提なので入院患者や一人当たりの医師や看護師数が一般病棟より少なく済むことに目をつけてバンバンと入院患者を増やしてこれに応じて専門家と言えない一般内科医を大量採用して、終身?監獄のような(患者を暴力で制圧する)運営をしていたという事件だったようです。
行為能力制限には、このようなリスクもあるという程度で宇都宮病院事件の紹介は外見に頼るリスクのテーマの時に回します.

 権利能力と行為能力の峻別1(詭弁?)

人としての資格・権利能力は、体の大きさや、性別、体格や頭脳、運動能力による差をつけられませんが、弁護士は国家の決めた試験に合格し訓練を経て弁護士会に登録して弁護士になります。
東大生も東大入試に合格して入学手続きして学籍登録して初めて東大生であり、銀行に就職して初めて銀行員です。
このように全て、職業につく資格は能力差によって違いが生じますが、これは権利能力の差ではなく、人間としての同じ土台の上での行為能力の差になります。
特殊法人のように法人になると(銀行や医療法人など)同時に特定業種を行う資格がいるのとは違います。
生まれる前に何の資格もいらないのが人間です。
法人と違い自然人に限って天賦人権説・生まれつき平等!とは言うものの、人にはそれこそ生まれつきの能力差があります。
能力差による区別(差別?)なしに世の中が回っていかないので、その合理化が必要になってこれは人間としての差でないと言うために、行為能力という概念が必要になったように思われます。
権利(享受」能力と行為(する」能力の分類が必要になったようです。
ベンツとトヨタカローラを比べて「車」と言う点では同じ価値だが、性能が違うから価値が違う・・「車の価値の差ではなく性能差です」と言うようなもので一種の詭弁っぽく聞こえます。
あいつは感じ悪いから誰も付き合わない・雇ってくれない・仕事ができないから、給与半額という場合でも、人間としては価値が平等だが能力が違うだけという言い方で何となくわかったような気になっているというより分かったフリしないと今の社会で生きていけない無言の圧力がありそうです。
これを車やミカンやリンゴと置き換えればどうでしょうか?
味が違う・見栄えがいいので値段に差がつくだけ・・・リンゴとしては価値が同じだと言えば詭弁じゃないのか?という疑問が湧いてきます。
種類としての分類として、同じ類や科、目に属するという分類上の同一性を言っているだけでないか?
人皆同じというのは犬や猫あるいはその他動植物と魚類貝類と岩石等に比べて人として共通性があるのはその通りですが、それ以上のことがあるのでしょうか?
人にも大きく分ければ男女、老若青少年乳幼児の差あり、病人健康者の違いあり、職種別や、善人悪人、無信心者と信心深い人、酔っ払いとシラフなど言い出せばキリがないほど無限の違いがあります。
人にも大きく分ければ男女、老若青少年乳幼児の差あり、病人健康者の違いあり、職種別や、善人悪人、無信心者と信心深い人、酔っ払いとシラフ、前科者など言い出せば無限の違いがあります。
衣類といえば皆同じだから一つで良いのはなく、夏冬物に始まり上着下着、作業着、部屋着やタウンジャケット、同じスーツでも生地やカットの善し悪し色柄の好み等々の多様なものがあってこそ文化的生活になります。
靴も一足あれば良いのではなく用途・洋服に合わせて色々履き替えるし、果物といえば皆同じなのでミカンだけあれば良い・・柿もりんごバナナも一切の選択肢不要・何事も一種類しかない単調な生活の方が良いわけがありません。
選択肢の多い都会生活に人が憧れる所以です。
人類の進歩?は、多様性の進化と言い換えても良いくらいです。
これを一旦全面否定して、「人皆同じ」とか「同じ地球に住むから仲良く」というのは、現実無視の意見・・意見というより「あっと驚かせる」程度の極論です。
日常的交流があるから競争や利害対立が起きるのであって、関係なければ争いも起きません。
(テロ行為は別として無関係な通行人にいきなり斬りかかるのはいわゆる狂人の類でしょう)
同じ地球にいるから競争が起きるのであって、もしも土星や火星に人がいても今のところ、地球人は土星人や火星の人と競争し争う気持ちがないでしょう。
どうせいつか死ぬのだから・と言い出したら、何もする意味がなくなってしまうのと同じです。
生きている以上より良い生活をしたくて生きているのであって「同じ人間だから」「どうせ死ぬ運命だから・・」と言って向上意欲を諦め悲惨な現実を受け入れるように説教するのは、あらゆる向上の道が閉ざされた究極の人(死刑執行が今日明日に迫っているなど努力による運命を変える可能性がない人)に対する最後の慰めでしかありません。
パラリンピックがもてはやされるのを見ると障害があっても、努力すればこんなことすらできるという向上意欲を刺激させ期待させる意味があるからでしょう。
これも一種の錯覚を利用したのであって、そんな恵まれた才能を有するアスリートは健常者障害者を通じてホンの数%いるかどうかでしょう。
運動神経+運動能力は千差万別であって、人類の一定率で分布しているので障害者や一時の病人であってもその中に一定率の能力のある人がいるはずですから、同じハンデイを抱えている人同士の中で誰が有能かを見るのは合理的です。
柔道やボクシングでは、早くから体重別の競技になっているし、子供の場合年齢別の学級があり、子供に重労働させてはいけないというのも原始的知恵です。
もっと言えば性別差が大きい(体力だけでなく好みの方向性も大きい)ので、男女別競技になっているのもその原理です。
これを同じハンデイを背負った障害者同士の国際競技に仕上げたのがパラリンピックということでしょう。
健常者で言えば、同じ能力があってもその日の体調によって、能力発揮できないことがあります。
たまたま体調不良の日に走っても調子が悪いような偶然に左右されるのを防ぐために
学業テスト等は一発勝負の比率を下げて、何回受験してもよく、その中の最高成績を基準にする制度もありますし、一定期間の平均成績によるというのがあっても良いのです。
過失がない方がいいのですが、100%過失のない者だけというのでは社会が回っていかないので、過失さえあれば厳しく処罰するのではなく、一定期間内の過失回数や軽い違反の繰り返しの累積で見るのが交通反則の点数制度です。
以上の通り、現在の科学技術では、行為能力と権利能力を峻別するのは論理のための論理として詭弁っぽいのですが、これも近い将来ではないものの未来的には峻別可能な領域に近づくかもしれないのでこの点の思いつきを明日書いて行きます。

法人3(自然村と法律村)

話題を法人に戻します。
法人は前もって存在目的やそのような組織にするための設計を定めないと成立自体ができないと書いてきましたが、この考え方はロボットその他人工物は前もって存在目的や目的実現するに足る機能を備えたものであるという設計図?と機能等を定める必要がある点は同じです。
建物は建築前に用途を決めて、その目的にあわせて基準法に合致した設計図を揃えて新築(生まれてくる)されます。
ところで視点を変えると人間の場合もDNA(建物の設計図?)で実は生まれる前からいつ頃こういう病気になるとか役割が決まっているとすれば、今の所それこそ「神の領域でしょう」とすぐ思いたくなるのが凡人である私の習癖ですが、実存哲学では「神は死んだ」というニーチェの宣言を前提に発達した思想のようで、「神にお任せ」と言えない点が厄介です。
身体障害で生まれた子も、「自分で運命を切り開いて行くべき」となりますし、生まれつきの虚弱者に限らず劣悪環境も「運が悪かったと開き直るのでなく)自分でどうやって切り抜けて行くかの知恵次第・可能性を提示したのは実存哲学の功績ですが・・みんながみんなそういう能力があると限らないのが辛いところです。
もちろんそのハードルを下げるための社会的底上げ政策は必要ですが・・。
それは健常者や社会的成功者による所得分配→インフラ整備によるので、(卑近な例で言えば駅にエスカレーターやエレベータの設置、障害者用トイレ設置普及率)結果的に豊かな社会で生まれるか貧困地域で生まれるかの運次第ともなります。
インフラだけでは異性から愛されるかの究極的願望は解決できません。
個々人の生き方の蓄積が人格形成するのですが、インフラは画一的平等化を進めるもののヒトは他者との違い・・個性を重視するものですから個性・他者との違いをどのように形成するかは、文字どおりDNAによるところ大です。
これが劣っているために誰からも愛されない状況に陥ると政治の力で解決するのは不可能です。
モテない男にとってはサルトルのいう自由刑に処せられている牢獄に生きるようなものでしょう。
サルトルとボーボワールは実存・自己実現競争社会の勝者として、一世を風靡したので若者にはまぶしかったというべきです。
(異性にモテる人よりモテない方が多数です)その矛盾を直感的に感じている若者に対して(パリでのカルチェラタンの占拠学生運動)彼は「既存秩序をぶち壊せ!」社会活動扇動によって落ちこぼれる若者の不安に応えたのでしょうか?
昭和40年代前半の世界で吹き荒れた「荒れる大学の時代」が終わって彼ら夫婦?の偶像がしぼんで行ったと見るべきでしょう。
唯物史観・・下部構造が概ね上部構造を規定していく面があるとしても、これに対すr反動もあれば金融政策や財政出動等で景気下降を防ぐなどのいろんな修正要素があるように実存哲学もある一面の真理を表しているに過ぎなかったのでしょう。
話題を人工物に戻します。
ビルも飛行機や車も薬品も民間の創意工夫によって新製品が生まれるとしても、最終的に商品として世に出るには、国家が決めた基準に合致する申請をして許可を受けて初めて出荷や建築可能です。
このように(物品であれ法人であれ法制度であれ)人工のものはAIによって動くロボットやドローンであれ、概ね国家が認める方法によって製造され完成品検査を受けて合格して初めて流通するというか、規格品になります。
国家が関知しない製品もありますが、それは自由に任せても大した危険がないから許容範囲として細かいことまで許認可を必要としないだけです。
人間の場合、妊娠前に国家の許可がいらないし、生まれてから完成検査を受けて問題ないと合格して初めて人間になるわけではありません。
障害者も貧困者も生きる権利があります。

憲法
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
○2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
このように人としての権利主体性があるとしても、法人と人とはだいぶ違うので法人制度ができる前の人を法学上「自然人」と言い、法の定める規準規格合致で初めて権利主体となれる法人と区別しています。
明治以降の村をその道の専門家が行政村といい、村に昇格する前および、昇格しなかった集落を自然村ということをFeb 18, 2020 12:00 am「さと」(郷と里)2(村)で紹介しましたが、自然人と法人の区別に関連する関心からいえば、行政上の村?と言うより法律上の村と自然村と区別すべきかと思われます。

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