権利能力と行為能力の峻別2(未来の夢か?)

足腰が弱くてもその他の機能が一人前の人がそのために移動できず、能力を100分の1しか発揮できないのではその人だけでなく、社会にもマイナスなのでそれを補完するためにエレベーターその他バリアフリー化が進んでいます。
尿失禁ために外出に支障のある人がオムツの発達で自由に外出できるようになるのもその一つでしょう。
こうした部分故障で全体能力制限のバリアー解消に成功した最初の発明がメガネの利用でしょうか?
補聴器や義足の発達や車運転も重いハンドルさばきを軽くして、力の弱い女性が運転しやすくしたのもその一種ですし、出歩き易くするために女性用トイレ整備が進んだのもその一例でしょう。
このように違いを前提にハンデイを与えたりいろんな受け皿を用意するのは人類の知恵ですから、今はまだ外形で分かる範囲の工夫でしかないですが、将来的には例えば短気な人が実は脳内のある物質不足によることがわかり、その補給可能になって人格が温和になったり、ある物質の不足で記憶力減退していく原理がわかり不足物質の補給によって、あるいはある神経回線の伝達能力が落ちる原因を除くなどによって劇的に記憶や判断能力が上がる・数学的処理能力差も同様の原理で未来的には部品や神経伝達回路系の補修交換できる時代?がくるようになるかもしれません。
こうなってくると固有の人格と思われてきたものでさえ、部品レベル差でしかないと言う時代がくるのでしょう。
数時間以上落ち着いて本を読んだり物事の観察できない原因がわかるなど・・。
この栄養を脳のある部分に補給すると文化芸術の理解力が上がり、別の栄養素で創作能力が上がり、思いやりが深くなるなど・・・。
将来その人の本来的属性と思われてきたいろんな分野の部分の故障(病気)を直すだけでなく、気質まで変えられるようになってくると、現在眼鏡や補聴器で能力不足を補正できるように部分障害の有無で全体評価するのは間違いという時代がkrう可能性ありあります、
そう言う時代が来れば権利能力と行為能力を分離する現在の思想は、超長期的に見れば意外に合理的な先見の明のある意見かもしれません。
ただし現在のところ、人の個性・違いを前提にせず人類皆同じ・だから努力したものもしないものも同視すべきという方向に結びつける主張とすれば無責任です。
老荘思想は、そんなあんちょこなものではないのでしょうが、若い頃に読んだ印象では、一見斬新奇抜で「目から鱗」のようなイメージを受けたものですが、それは一服の清涼剤あるいは、薬味程度の意味しか持たないで思想界の主流になり得なかった所以ではないでしょうか。
色々言えばキリがないので、この辺でやめて、現在の法常識に合わせて行為能力に入っていきます。
法の下の平等という意味は、結果平等を保障するのではなく同じ能力なら、家柄身分性別等によって差をつけるのが不平等として許さないという説明が一般的です。

憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

民法では基本法ですので法人のように事業ごとに行為能力を細かく決めていませんが、権利の主体であっても赤ちゃんは自分でその権利を享受するために行動する能力がありません。
あるいは臨時に体力の衰えた傷病者、精神障害者などもその保護(医師介護者)が必要です。
この解決のために赤ちゃんだけでなく一定年齢まで自分で権利を守れない定型的場合を想定してその保護者が必要として行為能力制度設定をしたものと思われます。
ひとつには年齢による保護・未成年制度であり、もう一つは年齢を問わない無能力者制度(是非弁別能力欠如)です。
無能力制度は精神病にかこつけた人権侵害がありうるので、専門医の診断が要件になっています。
ただし精神医学というのは科学ということになっていますが、患者の行動や、幻覚・幻聴・幻視等の訴えの聞き取りとその解釈が中心で、客観的データが少ないのが特徴です。
認知症の検査でもこのような質問にこのように応答したという医師やテスト要因が書き込んだデータだけで、血液検査や脈拍体温や、摘出した細胞などの標本を残す他の医学部門データとまるで違います。
上司に毎日叱責されてストレスで何日も眠れないなどと医療相談すれば、その相談だけで?うつ病診断になるイメージです。
専門家は表情などよく見ていると言うのかも知れませんが、いずれにせよその医師の判断重視である点は変わらないでしょう。
強制措置入院には2名以上の医師による診断が必要とされていますが、客観データなく経験豊富な医師の意見一致なら間違いないだろうという程度の担保しかありません。
これが強制措置入院隔離病棟となると、医師の診断が絶対化して思いがけない牢獄現象になります。
客観基準がないまま専門医というだけで聖域化してくると悲惨な事件が起きます。
精神病院の人権侵害事件では、宇都宮病院事件が著名で詳細はウイキペデイアに出ていますので以下、骨子だけ紹介しますが、ようは隔離・収容しておくだけで治療らしい治療をしない前提なので入院患者や一人当たりの医師や看護師数が一般病棟より少なく済むことに目をつけてバンバンと入院患者を増やしてこれに応じて専門家と言えない一般内科医を大量採用して、終身?監獄のような(患者を暴力で制圧する)運営をしていたという事件だったようです。
行為能力制限には、このようなリスクもあるという程度で宇都宮病院事件の紹介は外見に頼るリスクのテーマの時に回します.

 権利能力と行為能力の峻別1(詭弁?)

人としての資格・権利能力は、体の大きさや、性別、体格や頭脳、運動能力による差をつけられませんが、弁護士は国家の決めた試験に合格し訓練を経て弁護士会に登録して弁護士になります。
東大生も東大入試に合格して入学手続きして学籍登録して初めて東大生であり、銀行に就職して初めて銀行員です。
このように全て、職業につく資格は能力差によって違いが生じますが、これは権利能力の差ではなく、人間としての同じ土台の上での行為能力の差になります。
特殊法人のように法人になると(銀行や医療法人など)同時に特定業種を行う資格がいるのとは違います。
生まれる前に何の資格もいらないのが人間です。
法人と違い自然人に限って天賦人権説・生まれつき平等!とは言うものの、人にはそれこそ生まれつきの能力差があります。
能力差による区別(差別?)なしに世の中が回っていかないので、その合理化が必要になってこれは人間としての差でないと言うために、行為能力という概念が必要になったように思われます。
権利(享受」能力と行為(する」能力の分類が必要になったようです。
ベンツとトヨタカローラを比べて「車」と言う点では同じ価値だが、性能が違うから価値が違う・・「車の価値の差ではなく性能差です」と言うようなもので一種の詭弁っぽく聞こえます。
あいつは感じ悪いから誰も付き合わない・雇ってくれない・仕事ができないから、給与半額という場合でも、人間としては価値が平等だが能力が違うだけという言い方で何となくわかったような気になっているというより分かったフリしないと今の社会で生きていけない無言の圧力がありそうです。
これを車やミカンやリンゴと置き換えればどうでしょうか?
味が違う・見栄えがいいので値段に差がつくだけ・・・リンゴとしては価値が同じだと言えば詭弁じゃないのか?という疑問が湧いてきます。
種類としての分類として、同じ類や科、目に属するという分類上の同一性を言っているだけでないか?
人皆同じというのは犬や猫あるいはその他動植物と魚類貝類と岩石等に比べて人として共通性があるのはその通りですが、それ以上のことがあるのでしょうか?
人にも大きく分ければ男女、老若青少年乳幼児の差あり、病人健康者の違いあり、職種別や、善人悪人、無信心者と信心深い人、酔っ払いとシラフなど言い出せばキリがないほど無限の違いがあります。
人にも大きく分ければ男女、老若青少年乳幼児の差あり、病人健康者の違いあり、職種別や、善人悪人、無信心者と信心深い人、酔っ払いとシラフ、前科者など言い出せば無限の違いがあります。
衣類といえば皆同じだから一つで良いのはなく、夏冬物に始まり上着下着、作業着、部屋着やタウンジャケット、同じスーツでも生地やカットの善し悪し色柄の好み等々の多様なものがあってこそ文化的生活になります。
靴も一足あれば良いのではなく用途・洋服に合わせて色々履き替えるし、果物といえば皆同じなのでミカンだけあれば良い・・柿もりんごバナナも一切の選択肢不要・何事も一種類しかない単調な生活の方が良いわけがありません。
選択肢の多い都会生活に人が憧れる所以です。
人類の進歩?は、多様性の進化と言い換えても良いくらいです。
これを一旦全面否定して、「人皆同じ」とか「同じ地球に住むから仲良く」というのは、現実無視の意見・・意見というより「あっと驚かせる」程度の極論です。
日常的交流があるから競争や利害対立が起きるのであって、関係なければ争いも起きません。
(テロ行為は別として無関係な通行人にいきなり斬りかかるのはいわゆる狂人の類でしょう)
同じ地球にいるから競争が起きるのであって、もしも土星や火星に人がいても今のところ、地球人は土星人や火星の人と競争し争う気持ちがないでしょう。
どうせいつか死ぬのだから・と言い出したら、何もする意味がなくなってしまうのと同じです。
生きている以上より良い生活をしたくて生きているのであって「同じ人間だから」「どうせ死ぬ運命だから・・」と言って向上意欲を諦め悲惨な現実を受け入れるように説教するのは、あらゆる向上の道が閉ざされた究極の人(死刑執行が今日明日に迫っているなど努力による運命を変える可能性がない人)に対する最後の慰めでしかありません。
パラリンピックがもてはやされるのを見ると障害があっても、努力すればこんなことすらできるという向上意欲を刺激させ期待させる意味があるからでしょう。
これも一種の錯覚を利用したのであって、そんな恵まれた才能を有するアスリートは健常者障害者を通じてホンの数%いるかどうかでしょう。
運動神経+運動能力は千差万別であって、人類の一定率で分布しているので障害者や一時の病人であってもその中に一定率の能力のある人がいるはずですから、同じハンデイを抱えている人同士の中で誰が有能かを見るのは合理的です。
柔道やボクシングでは、早くから体重別の競技になっているし、子供の場合年齢別の学級があり、子供に重労働させてはいけないというのも原始的知恵です。
もっと言えば性別差が大きい(体力だけでなく好みの方向性も大きい)ので、男女別競技になっているのもその原理です。
これを同じハンデイを背負った障害者同士の国際競技に仕上げたのがパラリンピックということでしょう。
健常者で言えば、同じ能力があってもその日の体調によって、能力発揮できないことがあります。
たまたま体調不良の日に走っても調子が悪いような偶然に左右されるのを防ぐために
学業テスト等は一発勝負の比率を下げて、何回受験してもよく、その中の最高成績を基準にする制度もありますし、一定期間の平均成績によるというのがあっても良いのです。
過失がない方がいいのですが、100%過失のない者だけというのでは社会が回っていかないので、過失さえあれば厳しく処罰するのではなく、一定期間内の過失回数や軽い違反の繰り返しの累積で見るのが交通反則の点数制度です。
以上の通り、現在の科学技術では、行為能力と権利能力を峻別するのは論理のための論理として詭弁っぽいのですが、これも近い将来ではないものの未来的には峻別可能な領域に近づくかもしれないのでこの点の思いつきを明日書いて行きます。

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