国民総意2と神威

古代ではモーゼ・・神の啓示・・我が国では神威?宇佐八幡の御神託などの受信能力のある人・結局は意味不明ですが、卑近な例で言えば企業経営での投資・撤退決断等々集団トップに求められる決断力でしょうか。
宇佐八幡の御神託についてはJan 16, 2020 「神は民族利益を超越したか?」でも少し触れました。
政治家で言えば、国内や世界情勢の空気を読む能力であり、読みが狂うとリスクを取る立場ですが、いつもギリギリ決断の積み重ねです。
各種評論家、学者はその道のプロのように見えますが、「無数の与件が一定としたら」こうなる・こうすべき論にすぎません。
厳格なルールで行われるスポーツでさえも選手の体調、気温風向き等による誤差が生じますし、政治経済などの社会現象では何万あるか不明・無限大要素の組みわせですから、与件一定などあり得ないので、高名な評論家・学者等が経営や政治家になって成功した事例は皆無に近いでしょう。
「政治の世界は一寸先は闇」というように、数分後の大地震や今回の中国武漢発のコロナウイルス騒動による大リスクなどは合理的分析では予測不能です。
安倍総理の中東歴訪直前に米国によるイランの司令官殺害とこれに激昂するイランがどう動くかの緊迫した情勢下で、安全保証専門家が総理に示した選択肢が数種類あって(これが官僚システムの原則らしいですが)総理がその中で最も順位の低い予定通りの歴訪を選んだということでしたが、結果的にイランによる米軍基地へのミサイル攻撃が限定的だったことで報復合戦のエスカレートにならず歴訪決断が良かったことになります。
このような限界状況下では、プロの高度判断に頼るしかないことが今でもいっぱいあります。
政治の世界では世界中の情報が手元に揃っていない中での(後講釈は誰でもできると言われる所以です)緊急判断が求められることが多いので、直感力.神の啓示の受信能力のレベルによります。
サッカー・ラグビーなどで瞬時動物的勘による的確なパスや移動、戦闘現場での司令官や救急担当医師等の専門家判断の場合鍛え抜いた訓練の結果でしょうが、政治家の場合鍛え抜いた直感と神の啓示受診能力双方が必要な感じです。
菅直人氏には市民運動をしてきたせいか?で緊急時の胆力というか現場指揮経験がない・・実務能力欠如が目立ちました。
方向性がズレましたので東北大震災による原発事故に関する国民総意に戻しますと、当時の日本は敗戦時同様の国難に遭遇して悪くいえば民族挙げての総ヒステリー状態下で国民挙げて国家民族のいく末に誰もが想いを致す特殊環境下にあったので「民族意思が形成された」状況であったというべきでしょう。
国民全員に憑依した原発に関する国民総意は、「もともと危険なものである」「この危険なものが、通常状態では飼い慣らせる・危険除去施設設置は可能であっても、突発的自然現象については中短期的将来の科学技術の発達によっては予測不能である→100%安全確保できない」というものでした。
ただし、「いつ自然の猛威が襲い掛かるか不明であるので、すぐやめると電力不足で社会生活が成り立たない現実を踏まえ、代替発電産業の成長するまで最大限危険予測を鋭敏にしながらも代替電力が成長するまで「恐る恐る運転継続する」という国民総意があったことになります。
例えば、東北大震災級津波がいつどこに来るか不明ですが、だからと言って日本中の海岸ベリの生活を全員一斉に明日から放棄するわけにはいきません。
東北の大津波に被災地で明日もう一度津波が来ないという確信がなくとも警戒しながら海岸ベリで堤防その他の復旧作業を続けています。
要するに「危険が否定できないからすぐやめる」という選択肢を国民総意が取らなかったのです。
こういう考えは原発に限らず、もともと法律学で「許された危険」という基礎理論の応用です。
卑近な例でいえば、車の場合、交通戦争と言われ最盛期には年間1万人以上に事故死者が出ていましたし、今でも自動車による死亡事故を皆無にすることはできないが、社会的に有用な道具であることを理由に製造販売使用が許されています。
料理も食中毒の危険が否定できないからと、フグやキノコに限らず何もかも禁止していれば多種多様な日本の食文化が生まれなかったでしょう。
飛行機も墜落しない保障がありませんが、今よりもっと危険性の高かった初期から許容されて技術開発の結果次第に安全性が高まってきたものです。
原発というか放射能漏れによる死者が一人も出ていないのに比べれば、車の被害の方がその何万倍も大きくしかも(死者だけでなく傷害・物損事故の方が死亡事故の何十倍もあるほか排ガス公害など)現在も日々発生しています。
原発に限って、危険の可能性があるという程度で停止命令を出すことは国民総意に反していないかの違和感です。
伊方原発で稼働停止命令が出たとの報道ですが、この国民総意を無視して司法が「危険性がない」証明を求めたとすれば危険を除去できない前提の国民合意・・与野党合意を無視した判断となります。
できるだけ慎重審査するという政府の決めたルールを守っていないという判断でしょうか?
決定文自体がまだネットに出ていないので正確な決定理由が不明ですが一応引用しておきます。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200117/k10012249231000.html

伊方原発3号機 運転認めない仮処分決定 広島高裁
2020年1月17日 18時02分

・・広島高等裁判所は、地震や火山の噴火によって住民の生命や身体に具体的な危険があるとして、運転を認めない仮処分の決定を出しました。・・

伊方原発の敷地の近くに地震を引き起こす活断層がある可能性を否定できないとしたうえで「原発までの距離は2キロ以内と認められるが、四国電力は十分な調査をせず、原子力規制委員会が問題ないと判断した過程には誤りや欠落があったと言わざるをえない」と指摘しました。

また火山の噴火に対する安全性については、熊本県の阿蘇山で噴火が起きた場合の火山灰などの影響が過小評価されているという判断を示しました。

国民総意1と神威

大震災の猛威を見て、当時国民投票こそしていないものの、原子力発電は「やめてしまうしかないほど危険なものである・科学技術で100%安全確保できない」という国民認識が一般化していました。
いわゆる「総意」ですが、本当に重要なことは形式的な多数決ではなく総意によるのが正義というべきでしょうか?
弁護士会内や公共団体の各種委員会で議長または委員長がいろんな意見交換後議論の流れ・空気を読んで「ではこのような答申・議決でよろしいでしょうか?」などと取りまとめるのが99%以上といっても過言ではありません。
千葉県弁護士会の総会ではこの10数年以上前から政治的立場による意見対立が激しくなってきた結果か?議長により「この方向でいいですか?」的な取りまとめ方が通用しなくなって、対立の激しい総会決議等では毎回(賛成反対棄権何票等きっちり数えて)厳密な決を取っています。
日本国憲法制定は「国民総意」によるというのですが、どうやって「総意」を確認するのかしたのかが法的に問題になります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/八月革命説#大日本帝国憲法の改正と憲法改正限界説

「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
御名御璽
昭和二十一年十一月三日(以下略)」

私は、上記8月革命説を提起した宮沢憲法で勉強した世代ですが、その頃読んだ記憶ではルソーの意見を引用しながら、それでもないというような私の能力では理解困難な議論を書いていた記憶ですが、理解できなかったという記憶だけ残っています。
ちなみにルソーの「総意」とはウイキペデイアによれば以下の通りらしいです。

ルソー社会契約論において意思の総和だけでない正しい理念と言う意味(一般意思)で用いた(これをヴォロンテ・ジェネラールともいう)

上記を読み直しても多数決の程度ではない・国民投票で決めるべきでもない・意味不明ですが、私流の直感的理解では、民族意思を超能力的直感で実現する行為でしょうか?
日本国憲法制定時の国会の議論では、時間的条件として制定時の国民意思ではなく、民族の過去現在未来を通じた民族意思と言うようです。

https://www.kantei.go.jp/jp/singi/koumu_keigen/dai1/sannkou4.pdf

【内閣法制局長官 真田秀夫君(昭和 54 年4月 19 日 衆・内閣委員会)】 天皇の地位は主権の存する国民の総意に基づくと書いてございます場合のその総意 というのは、一億何千万の国民の一人一人の、具体的な国民一人一人の意思というよう な意味ではなくて、いわゆる総意、いわゆる総体としての国民の意思ということでござ いますので、特定の人がその中に入っているとか入ってないとかいうようなことを実は 問題にしておる条文ではないというふうに考えられます。…先ほど申しましたように、 ここに言う総意というのは、いわゆる総体的な意思、一般的な国民の意思という意味で ございますので、証明しろとおっしゃっても、それはなかなか困難であろうと思います。 …いまの憲法ができますときに、これは帝国憲法の改正の形をとりましたけれども、当 時の帝国議会で衆知を集めていろいろ御検討になって、そして国民の総意はここにある のだというふうに制憲議会において御判断になった、それがこの条文の規定にあらわれ ておると、こういうふうに言わざるを得ないのだろうと思います。

総意」とは過去現在未来の民族意思と言うのですから、投票によって数字で(単純多数か、特別多数か、全国民一致か、成人だけに限定するかなどの議論以前の概念です。

自由民権運動の系譜2(メデイア)

社会保障費は社会全体の経済力の範囲でしか出せない→保育所であれ、生活保護であれ、芸術やスポーツ振興〜科学振興であれ国全体で必要なものがいっぱいある・比喩的に言えば、数万種類の必要分野にそれぞれどの比率で資金や人材を分配すべきかのトータル判断をするのが政治というものです。
教育費予算に絞っても大学や高校小中学校の耐震補強工事費と学費補助の優先順位、保育所設置基準を緩めてより多くの保育所設置に舵を切るか等々何事も総合判断です。
こう言う政治判断に司法が介入するのは、司法権の乱用です。
設置基準を緩めたから事故が起きたのは国家の責任だと言うのは、政治判断に司法が優越するかのような結果になります。
よくある事例では、ガードレールがなくて車が転落したり、道路陥没で車が落ちて損害を被ったなどの国家賠償事件ですが、全部の崖や道路にガードレールを一斉に設置するのは無理があるので、通行量の少ないところはあと回しにするなど予算の許す範囲で順次工事していくのが普通です。
道路陥没などの通報があればすぐ現地急行して通報後通行禁止柵などを設ければ良いですが、滅多にない陥没事故のために大勢が常時待機できないので、駆けつけるまで一定時間がかかります。
この所要時間は予算次第・要員を増やし、出動待機場所の増減次第・予算配分によります。
人員不足のためにその作業が翌朝になったために陥没に気づかなかったオートバイの転落被害が起きた場合、道路管理者に責任があると言えるでしょうか?
予算に応じた配置人員で可能なことをしたが、間に合わず柵で囲う前に事故が起きたなら、それは予算配分問題..政治が決めるべき・・その分野の予算が少なすぎるかどうかは地域住民・・市町村議会が決めるべきことであり、司法がこれを「道路の瑕疵」として賠償を命じるのは行きすぎでしょう。
瑕疵には違いないですが、瑕疵を補修すべき予算配分の優先順位を決める権限は立法府にあるのです。
都内では電車ホームの転落防止柵設置が進んでいますが、これも予算次第で一気に設置できず順次工事中ですが、最後になってまだ設置していない駅で事故があった場合の責任も同じです。
国家や公共団体の予算優先順位を決めるのは、民意=議会・・政治分野です。
このトータル利害調整を「有司専制」で行うのでなく、民意に基づく合理的分配をするのが政治力であり調整力です。
〇〇反対・それを廃止することによってこれまであったサービスをなくすのか?
既存サービス受益者をどうするかという問題に対しては何も考える必要がない・再軍備反対→中ソが侵略してきたらどうするかについては答えない。
〇〇設置要求運動・その施設ができたらその後の運営費や維持費など、どうするという問いには答えない・・。
あらゆる主張を通せばその必要コストに応じて他の施策の比率を減らすしかないのですが、その点に関する意見はないし議論に応じない、自分の主張を実現したいだけという無責任主張が一般的に行われています。
はじめから他の主張団体との利害調整に応じる気持ちがない・・他のことはどうでもいいから自分の主張だけを通したいという主張になります。
自分の主張が通ればその分他の予算が減るという関係を敢えて無視している人・集団は、自己実現と利害相反する他の集団との利害調整拒否する政治団体と言い換えることができるでしょう。
素人の場合、自分は素人だから、要望を出すだけで、あとは政党が全体のバランスを考えて正式公約にするかどうかを決めればいいのじゃないかと言えますが、政党自体が全体予算バランス無視で
「この分だけ予算措置を求める・その結果他のどの部分の予算が削れるか知ったことでない」
と言うようになると国家運営を任せろと言う政党とは言えなくなります。
言い換えれば、今は少数政党で弱いから弱者の意見を尊重しろと主張していますが、唯我独尊ですから権力を握った場合、他の要望は受け入れないし利害調整する気もない、独裁政党になると宣言しているようなものです。
民主党政権は八ッ場ダム工事をやめるとした場合、その穴埋めをどうするかの意見がなくて結局続行に決まりましたが、結果からみるとやめる場合の総合判断による意見ではなかったことを露呈しました。
子供が南米に2週間の家族旅行したいと言っても家計や休暇期間・健康等の都合の事情等で親が国内旅行にしようと言っても聞き入れず、駄々をこねていたようなものです。
流石に民主党政権時代に原子力発電をやめるしかないとしても約30年(あるいは30年までにだったか?)かけて徐々に減らしていく・その間に風力や太陽光発電等を育てていくという基本方針が策定されましたが、社会運営に責任ある政党としては、「ある工事をやめるまたは何かを新設する」というからにその影響を総合的に判断して決めて行く必要があったことを示しています。
原発に戻しますと、民主党政権のやめる方向の決断はいかに工夫努力しても危険性を無くせないという国民意識を前提にしていたものです。
努力工夫次第で、100%安全になるという自信があれば、30年までに?やめる決断自体があり得ないことでした。
ということは太陽光等で補充できるようになるまでの間はリスクゼロではないが、恐る恐る・できるだけリスク軽減しながら運転して行きましょうという国民合意であり、今の各野党自身そのような意図であったことになります。
山奥に行った帰り道で崖崩れがあり、絶壁の上の道路幅が半分に削れてしまいその約1キロの区間を走破するのは危険極まりないものの、そのまま山に止まれば餓死するしかないときに「100%安全ではないが慎重に通り抜けましょう」というのと同じです。
夜中に数百メートル危険そうな路地があるときに、危険を冒しても変えるしかないこともありますし、企業経営でも一定のリスク承知で新興国進出して成功することがあります。

自由民権運動の系譜1

たとえば、板垣退助に対する批判論では以下に紹介するようなものがあります。
板垣に関するウイキペデイアの中に紹介されている板垣に対する評価です。

小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[22]
尾崎咢堂  「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた
谷干城  「板垣という男は困ったもんぢゃ。学問がないから人騒がせしたり大言する。人間は根本の学問が第一ぢゃ。フランス流の自由がなんぢゃ。口を開けばルソオの民約論に何と書いてあるという。実際読みもせずに偉そうにしゃべるとは一体あれや何ぢゃ?俺はあんな演説を聞くと胸糞が悪くなる」[18]

谷干城とは板垣と同郷の士で、儒家の生まれで25歳で藩校の史学助教授となっている外、西南戦争では西郷軍の猛攻に対して寡兵よく熊本城を死守したことで知られている有能な軍人であり学習院長にもなっている教育者であり政治家です。
日本の革新系野党が空理空論に走る傾向があるのは、メデイア受けのよかった板垣の運動体の系譜を引く、企業経験や地方政治等の実務経験がないグループの弱点でしょう。
明治に戻れば板垣と大隈の違いでしょうか?
大隈重信は維新当時佐賀藩内の地方的人材で維新の英傑ではありませんでしたが、幕府崩壊による長崎奉行の仕事を佐賀藩が穴埋め的に担当したことで長崎で外交手腕を発揮し、中央から赴任した井上馨の目に止まり中央での活躍の場が与えられるとその都度外交手腕を発揮していた外、内政においても、何かある都度原則にとらわられず手腕を発揮して中央政界中枢に参画して行った経歴で実務能力に秀でた人材のようでした。
年末の給与支払いに困って旧来の太陰暦から太陽暦系に切り替えた大隈の蛮勇が有名ですが、その他混乱期に特定資金を状況によっては別の資金に振り向けて難局を切り抜けるなど柔軟性に富んだ人材だったようです。
大隈は14年政変での下野をチャンスに政党を結成したことによりその後の政治基盤を確保できて政治力を長続きせる方向に利用するなど(その後下野すると早稲田大学創立するなども含めて)社会変化に対応して生き抜く力の強い人でした。
板垣系・自由民権運動系はその後大隈と連立していわゆる「隈板内閣」として連立政権を組みましたが、利害調性的実務経験がない結果か?利害調整に最も遠い内相担当になって板垣の声望を一気に落としました。
「板垣死すとも自由は死せず」をもじって宮武外骨の『滑稽新聞』は、「自由は死んだのに板垣は生きている」と揶揄したとも書いています。
板垣系の真骨頂は啓蒙「運動」と政府批判することにあって国会開設後は目的を達したので隠居すべきだったと思われます。
最近流行語では発展的解消といって名称変更で組織存続することが多い・・民意実現を見届けるかのように政界に未練を残した・引退した社長が後継社長を監督したがるようなもので、却って恥を晒したことになります。
以後自由民権運動系・・メデイアを含めて各種運動体は実務政治能力がない不満分子の運動体というイメージが定着して行きます。
日露戦争の講和反対の大騒動や戦後のサンフランシスコ講和反対、日米安保反対等々、多くは現実無視の反対論でした。
これを賞賛する現在メデイア〜革新系野党は実務経験より空理空論というか、理念(と言えるかな?)重視傾向・要するに「運動」すること自体に生きがいを求める人たちになっていきます。
自由民権系は、国会で政治を決める民主主義というスローガンが達成された後は、どのような政策が良いかの政治テーマを提供できず、達成後は「民主主義を守れ」と言う運動体でしかなくなったようです。
戦前はまだ民選議会が完全でないと批判していれば良かったのですが、理想とする米国肝いりの現行憲法ができるとこれを守ることが自己目的化していき、平和憲法と民主主義を守るためには改憲反対・情報公開が必要という一点?集中になってきました。
情報公開の必要性も(産業機密を筆頭に)程度問題であることは世界の常識ですし、平和を守るためには一定の自衛力が必須であることも常識ですが、こういう具体論になると口をつぐみ議論に応じません。
政府は総合的に政策実現の責務があるので、情報公開さえすれば、外交や安全保障、経済政策その他万般の重要政策について関心がありませんというのでは責任政党とは言えないでしょう。
結局政権獲得を目的とせずに、反対運動することに意義があるかのように自己目的化していき、どういうデモを組織し、どれだけの人数がデモに参加したかが強調ネタを求める人たちに特化して継承されてきたようです。
自由民権系の弱点は実務・政治力の源泉である調整能力不足ですが、この閉塞打破のためにマイノリティ=社会の少数派・主に弱者に着目して社会の陰に埋もれていくマイノリティーに光をあてることに活路を求めるしかないようです。
マイノリティーに光をあてるのは映画等の芸術のテーマにすることは意味がありますが、政党がそれを主看板にするとマイノリティ支持者中心に限定されていくようになります。
例えば医療全般の予算を増やせという場合と特定疾患者を救済のための運動とでは支持母体の規模が違ってきます。
トマト特化、ワイン用ブドウ農家特化で利権を求めるより野菜・果実全般で政治活動する方が支持母体が大きくなるように、何かに特化すれば利害調整能力不要で一致しやすい代わりに、支持母体が小さく影響力が小さくなる関係です。
大きな組織・・野菜だけでなく農産物業界全部あるいは、食品業界全部と広げれば政治力が大きくなる代わりに今度は内部調整力が必要です。
政治というものは利害プラス同情心.正義感等で動くものとすれば、lGBT運動その他マイノリティ支援に特化すればするほど政党支持率は下がるしかない理屈です。
物事はバランスで成り立っています。
映画や芸術で「弱者を忘れないで!とアッピールする程度で意味がありますが、これに特化した政党が仮に政権政党になった場合、政権運営するには無理があります。
マイノリティー保護・生活保護基準を上げろ、母子家庭保護、保育所増設.最低賃金を引き上げろ式の主張・・バラマキ型の政党が、政権担当するとその資金をどうするか・どこかの予算を削るしかない・総合調整能力の現実にすぐ直面します。

14年政変→大隈重信下野

14年政変による大隈重信の下野と政権内復帰・・下野=反乱図式がなくなった流れの事例に戻ります。
大隈重信に関するウイキペデイアの記述からです。

立憲改進党の設立[編集]
野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した[57]。しかし党首としての大隈は、演説をすることもなく、意見を新聞等で公表することもしなかった[58]。明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している[59]。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている[60]
明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した[61]。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった[59]。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した[62]。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である[62]。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている[6

明治14年「国会開設の詔」に関するウイキペデイア引用です。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原文(原文では句読点がないため、適宜、句読点を挿入している)

朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緖ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總攬シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。
顧ミルニ、立國ノ體國各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業實ニ輕擧ニ便ナラス。我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ變通シ、斷シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今在廷臣僚ニ命シ、假スニ時日ヲ以テシ、經畫ノ責ニ當ラシム。其組織權限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ栽シ、時ニ及テ公布スル所アラントス。
朕惟フニ、人心進ムニ偏シテ、時會速ナルヲ競フ。浮言相動カシ、竟ニ大計ヲ遺ル。是レ宜シク今ニ及テ、謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ。若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ爭ヒ、事變ヲ煽シ、國安ヲ害スル者アラハ、處スルニ國典ヲ以テスヘシ。特ニ茲ニ言明シ爾有衆ニ諭ス。
奉勅   太政大臣三條實美
明治十四年十月十二日

以上のように地方議会を先に開設して地方から議論の経験を積んでいくなど着実に国会開設の準備が進むにつれて不満があれば言論活動で・という動きが加速していき、実力行動が影を潜めていきます。
こういう面では板垣による自由民権運動の啓蒙的役割が大きかったと思われますし、「有司専制」を排し、庶民に政治参加経験させれば民度が上がるという板垣らの主張を政府を取り入れて板垣の言うようないきなり国会経験でなく地方議会を設立してそこで議論経験から人材を育てるという着実な運用をしてきたことが上記「国会開設の詔」の

「嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。」

によって分かります。
昭和の頃には地元政治経験・現場を経て・市町村〜県会→国会→派閥領袖に成長後国家基本を論じるパターンができていました。
現在の菅官房長官も地方議会出身ですし自民党元幹事長の野中努氏もそうでした。
企業で言えば若手の頃には営業現場や地方(今では海外子会社も含む)経験を積ませその実務経験をもとに本社企画部等に抜擢されて最後は社長になるパターンが多く見られるのと同じです。
地方議会もない社会でいきなり国会だけ作っても空理空論の激突しかないので明治政府は発足直後から廃藩置県に始まり地方制度創設、村〜郡単位の地元民の意思決定経験〜日常決定参加から始めて行ったようです。
こうして着実に国民に政治経験を積ませた上で、明治23年に帝国議会開設になるのですが、自由民権運動は国会開設にこぎつけたことで国民啓蒙的運動としては目的を達したので本来の使命は終わったことになります。
コストカッターとしてのゴーン氏はリストラ成功で役割が終わったことになるのと同じです。
住宅公団が戦後住宅不足対応の役割を終えたのに、都市整備公団という名に変えて生き残ろうとしているものの、都市整備?この数十年何をしているのか不明・・を批判したことがあります。
日本も民選議員が必要という西洋の聞きかじりを吹聴する程度でも明治維新当時はそれでも新知識だったでしょうが、大久保らが数十年も行ってきた啓蒙運動の成果でそういう制度がある程度のことは誰でも知るようになり、具体的にどう運用するかの実用段階に入ると草分けを自慢しても時代遅れになります。
実務運用・「罵り合いではなく対話が必要」という書物の受け売りではなく、自分が対話力があるかは別です。
政治家と評論家とでは能力の方向が違います。

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