任命の効力4→下野と謀反

立憲政体・憲法制定準備進行過程で、北海道開拓庁汚職?問題で追求し過ぎたこともあって、明治14年の政変で大隈重信が一時野に下りましたが、明治6年当時と違って政権も下野した方もスマートになり、野に下る→謀反人扱いでなく官職辞職した程度の扱いですぐに閣僚に復帰しています。
こうしてみると下野=反乱へ結びついた支持母体の地域は全体に民度が低かったのかな?という憶測につながります。
不平士族の乱が起きたのは主に明治新政府を構成した薩長土肥の主流プラス準主流(佐賀)の地域中心であった点が特徴です。
幕末騒乱で戦勝国=準戦勝国になりながら政権運営で意見相違を理由に下野するとすぐに反乱に転嫁したのは同じ地域出身でも頑迷派と柔軟・進取派が倒幕では一致行動していたものの倒幕成功してみると同床異夢だった違い(廃藩置県等の改革が進むと島津久光が不満だったことが知られています)が出たのでしょう。
昨日から板垣の身の振り方が気になっていますが、出身地の土佐藩はもともと幕末政争で中立的であった分公平な見方が身についていたと思われます。
権力闘争目的で幕末騒乱に参加していたのではなかったのです。
この辺は同じ土佐出身坂本龍馬が、暗殺目的で勝海舟を訪問して逆に説得されて開国派に転じたように板垣も上海に連れて行かれて欧米海軍力を目の当たりに見て、攘夷論の無謀さを知るようになったのと同じです。
要するに政権奪取が目的ではなく日本をどうすべきかの、愛国心だけで動いていたのが土佐藩だったように見えます。
このためには旧来の幕藩体制では対応できない・・下からの民度アップが重要という欧米思想を信じていたように見えます。
この点で旧来型の延長である藩主の大政奉還論・諸侯会議→徳川家主導妥協案には反対していたようですし、この点で薩摩らの倒幕に組みしたことになります。
土佐勤王等の本旨は維新政府の五箇条御誓文の精神だったので「これを守れ」いうことにあったようです。
板垣や土佐出身者の下野は薩長の派閥政治に参加できない不満でなく、「万機公論にて決すべき」という旗印で頑張ったのに薩長の独裁政権になっていくのは約束が違う・・という不満だったので、薩長内の久光的古代発想・守旧派・時代錯誤的・・江戸時代よりもっと前の王朝時代の政治に戻すべきという主張とは方向が真逆だったのです。
板垣ら(後藤象二郎など土佐出身が参加するなど)の政治理念は下野後わずか数ヶ月で提出した明治7年の民選議会設立建白書に明白に出ています。
要は五箇条の御誓文の精神を守れ、有司専制(薩長・大久保の独裁批判)はけしからんというものを骨子とするものです。
だから大阪会議に合意したという意味で請われて参議に復帰しても、自分はあくまで在野にあって民選化の定着を見届けたいという固い意思で・・政争で負けたわけでもないのに自分から辞職して在野を育てるための自由民権運動に特化していきます。
数人で企業を起こして成功して大規模化していく過程で路線違いが大きくなり分裂することが多々あるのと同じです。
建白書原文(要旨)を見ておきます。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf

【民撰議院設立建白書】(抄) 【前略】
明治七年一月十七日
高知県貫属士族  古 沢 迂 郎
高知県貫属士族  岡 本 健 三 郎
名東県貫属士族  小 室 信 夫
敦賀県貫属士族  由 利 公 正
佐賀県貫属士族  江 藤 新 平
高知県貫属士族  板 垣 退 助
東京府貫属士族  後 藤 象 二 郎
佐賀県貫属士族  副 島 種 臣

左 院 御 中
臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而独有司に帰す、夫有司上 帝室を尊ぶと曰はざるには非ず而帝室漸く其尊栄を失ふ、下人民を保つと云はざるにはあらず、而政令百端、朝 出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出づ、言路壅蔽、困苦告るなし。
夫如是にして天下の治安ならん事を欲 す、三尺の童子も猶其不可なるを知る。

困仍改めず、恐くは国家土崩の勢を致さん。臣等愛国の情自ら已む能は ず、即ち之を振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張るに在る而已。
天下の公議を張るは、民撰議院を立 るに在る而己。則有司の権限る所あつて、而して上下其安全幸福を受る者あらん。請遂に之を陳ぜん。
夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は、乃其政府の事を与知可否するの権理を有す。是天下の通 論にして、復喋々臣等の之を贅言するを待ざる者なり。
故に臣等竊に願ふ、有司亦是大理に抗抵せざらん事を。
今民撰議院を立るの議を拒む者曰、我民不学無智、未だ開明の域に進まず、故に今日民撰議院を立る尚応さに 早かる可しと。
臣等以為らく、若果して真に其謂ふ所の如き乎、則之をして学且智、而して急に開明の域に進ましむるの道、即民撰議院を立るに在り。
何となれば則、今日我人民をして学且智に、開明の域に進ましめんとす、先 其通義権理を保護せしめ、之をして自尊自重、天下と憂楽を共にするの気象を起さしめんとするは、之をして天下の事に与らしむるに在り。
如是して人民其固陋に安じ、不学無智自から甘んずる者未だ之有らざるなり。
而して今 其自ら学且智にして自其開明の域に入るを待つ、是殆んど百年河清を待つの類なり。
甚しきは則今遽かに議院を 立るは、是れ天下の愚を集むるに過ざる耳と謂ふに至る。噫何自傲るの太甚しく、而して其人民を視るの蔑如たるや。
有司中智功固り人に過ぐる者あらん、然れ共安んぞ学問有識の人、世復諸人に過ぐる者あらざるを知らん や。蓋し天下の人如是く蔑視す可らざる也。
若し将た蔑視す可き者とせば有司亦其中の一人ならずや。然らば則 均しく是れ不学無識なり、僅々有司の専裁と、人民の輿論公議を張ると、其賢愚不肖果して如何ぞや。
臣等謂ふ、有司の智亦、之を維新以前に視る、必ず其進し者ならん、何となれば則、人間に智識なる者は、必ず之を用るに従て進む者なればなり
>故に曰、民撰議院を立つ、是即人民をして学且智に、而して急に開明の域に進ましむるの道なりと。
【略】             (文は縦書、片仮名旧字体)

上記のうち以下の節は「有司専制」批判として有名な部分ですが、今も役に立つ卓見です。
「甚しきは則今遽かに議院を立るは、是れ天下の愚を集むるに過ざる耳と謂ふに至る。噫何自傲るの太甚しく、而して其人民を視るの蔑如たるや。・・何となれば則、人間に智識なる者は、必ず之を用るに従て進む者なればなり」

公務員任命制3(下野=謀反から在野活動へ)

公務員の任命に戻ります。
ある政権の役人に任命されてもこれに応じないのは、その政権不支持→小田原征伐になったのですが、この逆コース・・脱藩の場合もおなじ意味ですので幕末までは原則として(中期以降は建前だけ)死罪扱いでした。
脱藩に関するウイキペデイアの引用です。
戦国時代では、主君を変える行為は一般的に発生していたが、江戸時代に入ると、臣下の身で主を見限るものとして、許されない風潮が高まり、追手が放たれることもあった。これは、脱藩者を通じて軍事機密や御家騒動などが表沙汰になり、藩(藩主:大名)にとっては致命的な改易が頻繁に生じたことも一因であった。
しかし、江戸時代中期以降、泰平の時代に入ると軍事機密の意味はなくなり、慢性的な財政難のため、家臣が禄を離れることは枢要な人物でない限り事実上自由になっていた。もっとも、その場合にも法的な手続をとることが要件となっており、これに反して無断で脱藩した場合には欠落の罪として扱われて、家名は断絶・闕所、本人が捕らえられれば場合によっては死刑にされた。
明治に入っても、6年ころまでの有力者の下野は江戸時代の続き・反抗・危険勢力と見なされる社会だったようです。
下野すると各地の不平士族を糾合し反乱の旗印になることが多かったので・・西郷隆盛の場合は、国に帰ってしまうこと自体が事実上謀反準備行為的評価を受けて政府の圧迫誘導によって蜂起せざるを得なくなった・本当は賊軍ではないかのように歴史漫画等では描かれます。
ただし板垣だけは地元不平士族に取り込まれなかった・・いわゆる武断派だったのに反乱軍に担がれる方向に行かず、言論の自由・・民主化運動に特化していったのを見れば、個性人格面が重要ですが、それだけではなくバック・出身母体土佐藩の軍事力・士族勢力が強かった程度差だったかもしれません。
以上は直感的想像ですが小説家は私のような推論をしているようです。
板垣に関するウイキペデイア記載の人物評の一部です。

尾崎咢堂 「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた」
谷流水 「子供の時から習字が嫌い、読書が嫌い、物をしんみり考えることが嫌い。好きなのは鶏の喧嘩、犬の喧嘩、武術、それに大人の喧嘩でもあると飯も食わずに見物するというのだから今日このごろだったら中学校の入学試験は落第だね」
小説家の海音寺潮五郎や司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[22]。

不平士族の乱に関するウイキペデイアの引用です。

明治六年政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれた。
1874年に江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士宮崎車之助を中心とする秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧された。
1877年には旧薩摩藩の士族が中心になり西郷隆盛を大将に擁立して、日本国内では最大規模の内戦となる西南戦争が勃発。西郷隆盛に呼応する形で福岡でも武部小四郎ら旧福岡藩士族により福岡の変が起こった

こういう不平士族の乱が頻発する中で、板垣や後藤象二郎、副島らのグループは、明治7年民選議院設立建白書を提出します。

いわゆる有司専制(大久保独裁批判)批判に対して、政府は意見対立の都度下野させて反政府運動に追い込むのでは政権が安定しませんので,知恵を絞って?明治 8 年(1875)1月の大阪会議(大久保や木戸と下野した板垣との会議・・板垣は参議に復帰)によって下野組の一人である板垣との協議開催に成功します。
この会議で、木戸孝允の構想する立憲政体案が内定し、(板垣も同意)同年4月に「立憲政体樹立の詔」が発せられました。

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf

朕 即 位 ノ 初 首 ト シ テ 群 臣 ヲ 會 シ 五 事 ヲ 以 テ 神 明 ニ 誓 ヒ 國 是 ヲ 定 メ 萬 民 保 全 ノ 道 ヲ 求 ム 幸 ニ 祖 宗 ノ 靈 ト 群 臣 ノ 力 ト ニ 賴 リ 以 テ 今 日 ノ 小 康 ヲ 得 タ リ 顧 ニ 中 興 日 淺 ク 内 治 ノ 事 當 ニ 振 作 更 張 ス ヘ キ 者 少 ナ シ ト セ ス 朕 今 誓 文 ノ 意 ヲ 擴 充 シ 茲 ニ 元 老 院 ヲ 設 ケ 以 テ 立 法 ノ 源 ヲ 廣 メ 大 審 院 ヲ 置 キ 以 テ 審 判 ノ 權 力 ヲ 鞏 ク シ 又 地 方 官 ヲ 召 集 シ 以 テ 民 情 ヲ 通 シ 公 益 ヲ 圖 リ 漸 次 ニ 國 家 立 憲 ノ 政 體 ヲ 立 テ 汝 衆 民 ト 倶 ニ 其 慶 ニ 賴 ラ ン ト 欲 ス 汝 衆 庶 或 ハ 舊 ニ 泥 ミ 故 ニ 慣 ル ヽコ ト 莫 ク 又 或 ハ 進 ム ニ 輕 ク 爲 ス ニ 急 ナ ル コ ト 莫 ク 其 レ 能 ク 朕 ガ 旨 ヲ 體 シ テ 翼 贊 ス ル 所 アレ
明 治 八 年 四 月 御璽

板垣は征韓論にやぶれて西郷らと一緒に下野したものの、実力行使運動に加担せず、大阪会議を以降参議に復帰して政府に一見取り込まれますが、すぐに辞職して在野での自由民権論で言論戦を展開することになります。

上記引用続きです。

元老院における「國憲編纂」の作業は、明治 9 年(1876)9 月、元老院議 長・ たる 熾 ひと 仁親王(有栖川宮)に対し、憲法草案の起草を命ずる勅語が発せられた  ことによって始められた。
【立憲政体樹立の詔】
熾仁親王に対する勅語
「朕爰ニ我建國ノ體ニ基キ廣ク海外各國ノ成法ヲ斟酌シ以テ國憲ヲ定メントス汝等ソレ宜シク之 ガ草按ヲ起創シ以テ聞セヨ朕將ニ擇ハントス」

任命の効力2(拒否・辞職→反抗認定→小田原征伐)

小田原攻めのきっかけになった真田昌幸は、武田家最盛時には武田24将の一人でしたが、武田家滅亡後武田旧領地を一括支配させるために信長が派遣した滝川一益の与力となって本領安堵し?本能寺変後滝川一益が畿内に逃げ帰って空白地帯かしたあと甲州〜信州一帯が家康と北条の草刈り場になった時に(天正壬午の乱)北条と家康の講和条件として信濃は家康、北関東は後北条の切り取り勝手となった結果に怒って自立したものです。
すなわち、真田家は武田家の信州から上州への進出により獲得した東信濃と上州吾妻郡と利根郡だったかの沼田城を根拠地とするいくつかの枝城の支配を許されていた状態で武田家滅亡後、旧武田家領地一括支配として入った滝川一益から本領安堵されたいわゆる地元豪族・小名でした。
武田家滅亡後滝川一益退却後空白地帯となった東信濃に侵攻した北条氏に一旦従ったものの、家康の信濃侵攻に応じて家康に服属していたのですが、家康と北条との講和で勝手に上野国を北条の切り取り勝手と決められても、上州2郡を家康にもらった領地でないので服属条件・本領安堵の約束違反で飲めるものではありません。
止む無く上州の領地を北条に差し出すか、双方に反旗を翻して双方と敵対して滅びるかの瀬戸際で頼ったのがまずは上杉家であり、豊臣家の惣無事令でした。
徳川から北条への上州の領地・沼田城他の引き渡し勧告を拒否した上で上杉と真田が同盟を結んだので徳川家からの攻撃が始まったのですが、上杉の応援と(第一次上田合戦)昌幸の巧みな戦術で何倍もの徳川軍を撃退して、徳川方が攻めあぐねているうちに昌幸が次男幸村を豊臣政権に送り込み、豊臣家直接臣従に成功します。
それまでは配下武将の更迭と謀反に対する制裁は内部問題のレベルで、惣無事令の対象外でした。
この辺は徳川体制下でも同じで、大名が家臣の領地を取り上げたり切腹を命じたり処分するのは大名家内の自由でしたが、将軍家お目見え→将軍直臣までなると大名の自由処分権が制約されたのと同じです。
これによって大名として自立してしまったので、豊臣政権の惣無事令の対象となりましたので、徳川からの攻撃の心配がなくなり後は豊臣政権への出仕を拒んでいる北条との攻防だけ残る状態になっていました。
後北条は武田家の圧迫が亡くなった後、北関東に勢力を伸ばすチャンスと見てジリジリと勢力を伸ばしていて、関東地場大名連合軍との合戦(沼尻の合戦・1584年(天正12年))を制していよいよ北辺の真田領・沼田城を中心とする地域に触手を伸ばすようになったのですが、この時点ではすでに秀吉の四国〜九州征伐が終了していた点が重要です。
秀吉は西国方面の平定に関心があったのでこれまで関東の戦闘にあまり関心を示さなかったので、甘く見たのでしょう。
しかも直接の臣下になっている真田攻撃を秀吉が放置できるわけがなく、総攻撃の決定となりました。
真田昌幸は武田家滅亡〜本能維持の変後激変する信州〜北関東の政治情勢下でうまく生き延びて大名昇格を果たした類まれな政治感覚と戦巧者でしたが、うまく生き延びられたのは秀吉の厚遇があったことによるのでこの恩義を大事にしたことで歴史に名を残しました。
徳川はこの攻防戦を経て真田家の武勇・戦略の確かさを知り、味方につけて損がないと見て、重臣と真田家の縁組を図り味方に取り込む戦略を採用し、真田家はいわゆる豊臣恩顧の大名であるものの、秀吉死後家康必勝の勢いがわかっていたので家督相続者である長男信之を家康側近の娘を嫁にとって保険をかけるなど双方冷徹なプロ対応を取ります。
幸村と大谷刑部との関係や上記上杉との義理などいろんな経緯を踏まえて、関ヶ原の時には家督相続させた長男を家康軍に派遣し、自分は隠居身分となり次男信繁(通称幸村)が西軍につく義理を尽くしたものでした。
ちなみに講談で知られるように真田幸村の活躍で徳川家に信之家が睨まれていたかというと、長男の家系はその後も幕閣で重用され幕末近くには老中にまで上り詰めています。
現在でも総裁選で争って負けた政治家が組閣時に入閣に応じることは、政権を支える意思表示となり現政権に挑戦する意欲を持っている以上は入閣要請に応じないのが原則です。
反主流あるいは批判的意見を主張していても入閣した以上は、鉾を収めて従う意思表示になります。
倒閣運動あるいは現政権の続投を阻止して次期総裁選を戦う以上は、早めに閣外に出て旗幟鮮明にしておくのが普通です。
内閣にいるときに現政権施策に協賛していたのに、閣外に出た途端に現政権の過去の政策批判するのは論理的に無理があるからです。
北条氏は秀吉が関白太政大臣として上洛を命じても応じなかったのは、秀吉を覇者と認めない・挑戦権を放棄しない意思表示でした。
現在一般企業でも社員が病気でもないのに出社を拒む・・学校の場合生徒の欠席が続くなど・不審に思い、同僚上司を使い何があったのか様子を探るのが普通です。
荒木村重が、信長に伺候しないで居城に篭り度重なる同輩の勧告(秀吉配下の黒田官兵衛が説得に赴いて土牢に監禁されています)など伺候命令に応じなかったので謀反の意思表示として総攻撃を受け一族悲惨な結果に終わったのもその一例です。
その頃はしょっちゅう信長のもとに伺候していないと謀反の疑いを受けるので、諸大名は戦線現場から抜け出してでも中間報告と称してまめに伺候するのが普通でした。
気配りに長けた秀吉の場合、中国方面の支配地拡大戦略を任されていた秀吉が自分の戦功が大きくなりすぎる危険を察知して、信長直々の采配による派手な戦勝演出のため備中高松城などの小さな城を地味に落としていくのではなく、水攻めで時間をかけて毛利本軍おびき出し戦略をとり毛利本軍が出てくると「上様でないと」自分の能力ではとても無理なので・・とおだてて信長本軍の出動を懇願して信長をその気にさせたと(小説の世界です)言われます。
このお願いのために肝心の城ぜめを部下に委ねて安土に舞い戻るなど小まめな行動をしていたことがわかります。

公務員は労働者か?2(任命1)

国家公務員法を見れば「公務員」に関する法(組織法の亜流?)であって、公務員の地位をどうやって取得し、公務員になればどのような職務義務があるかを法で定めている法律であり、その一環として給与等の勤務条件記載がある程度の印象です。
裁判所法では裁判所の種類や重要人員構成に関する裁判官になる方法・権限を書いたものであって裁判官の労働条件確保を決めるためのものでないのと同じです。
労働の対価である賃金と言わず職務に対する給与(給わり与えられるもの・・目上の者から下の者に物品を与えるもの)ですし、内容的には賃金の仕組みを踏襲して残業手当や休日出勤手当など同様にしているでしょうが、法の建て付け・精神の有りよう・・本質は労働対価という形式をとっていないと思われます。
個人的経験によりますが、司法修習生の頃にお世話になった地裁刑事部長(専門誌に論文を書いている著名な人でした)が交通事故被害にあったとかで長期休暇中でだいぶ経ってから出てこられたのですが、ある時の雑談で裁判官は労働者でなく身分官僚なので、事故で半年〜10ヶ月程だったか?長期休んでも俸給に何の影響もないんだよ!というお話を伺ったことがあります。
要は官職に応じた俸給があり、個々の労働の対価ではないということでした。
言われて見れば勤務時間や残業とか細かいルールもなく、公判のある日とか何か予定(合議予定、令状当番など)が決まっている日以外は出てこなくても良いのが当時の裁判官でした。
平成に入った頃からだいぶ世知辛くなって、裁判官もほぼ毎日出てくるような印象ですが・・。
(自宅書斎で調べ物をしているより裁判所で資料を見ながら思索する方が効率がよくなった面があります・この辺は最近の大学教授も同じでしょう)
我々弁護士も勤務時間の縛りがないものの、事務所で処理した方が合理的なので家に仕事を持ち帰る頻度が減っています。
研究も同様で鉛筆一本で思索する時代が終わり各種研究所が発達している・勤務時間の定めがなくとも資材の揃っている研究所にいる時間が増えているのはこのせいでしょう。
労働法のように契約交渉等で決まる仕組みを前提に弱い個々の労働者の地位を守るために団結権や団体交渉や争議権を認めるのではなく、あるいは契約に委ねると対等な力がないので労働者が不利になりすぎないように最低賃金、最大労働時間等の最低基準を決めて労働者を保護しようとするためではなく、別の目的で職務内容の他給与基準まで全て法律で決まっている前提です。
国民代表の意思による法で決まっているものを公務員が上司との交渉で変更できるとした場合、お手盛りになり兼ねないし、法治国家・国民主権に違反するということかな?
公務員の地位につくのは試験等の公的基準に従って任命されるだけであって、労働契約によって始まるのではありません。
私も法律家の端くれなのによく分からないまま生きてきたのですが、契約でないとすれば「任命」すなわち命令ですから命令された方は結果として従うかどうかしかないと言う建て付けでしょう。
事前根回しや同意・納得があった方がスムースと言う程度の位置づけです。
現在は受験制度ですので受験する段階で、任官(就職)したいと言う事実上の意向が示されているので、事前同意の概括的担保がある仕組みです。
ただし腕試しに一応受けて見たとか滑り止めなどいろんな要素があるので、各省採用に当たっては、もう一度一種の二次試験みたいな申し込みと面接試験などが必要になっています。
ここまで来た人は、任官意思が固いので採用通知を特別な事情なしに蹴飛ばす人は滅多にいないでしょう。
古代〜中世は別として近代社会においては、人に対して特定行動を命じ、それに応じない場合行為そのものの強制は許されないのが社会の合意です。
馬を水飲み場に連れて行けるが飲ませることはできないと言われる所以です。
結果的に徴兵あるいは、法令で決まった帳簿検査、提出命令などに応じなければ罰則で間接強制するしかないようになっていますが、保釈条件違反→保釈決定取り消しなどの不利益が用意されているのが普通です。
しかし、任命に応じない場合には罰則まで設けるのは行きすぎでしょう。
労働法ではこの点はっきり書いています。

労働基準法
(賠償予定の禁止)
第十六条 使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。

戦闘集団が基本である武家社会では主君の命令は絶対であり、これに応じないことだけで首を刎ねられることが許されるような価値観のストーリーが多く見られます。
上洛後の信長からの越前朝倉家に対する義昭名での上洛命令に応じないところから信長と朝倉の対決が起きたものでした。
このように出仕=任官すること自体が時の事実上権力者に従属することを受け入れることを意味することから、信長や秀吉政権樹立を認めたくない勢力は当然応じません。
小牧長久手の戦いが長引き、秀吉が徳川とのヘゲモニー争いで勝敗がつきかねている時に、秀吉が関白太政大臣の官位による召集をかけて出仕すれば徳川はその下位につく意思表示になるという、政治駆け引きに徳川が応じたことで豊臣対徳川の抗争が収束しました。
秀吉が人質まで出して徳川との和平をした実態を見て小田原北条氏(後北条)は(徳川と誼を通じていれば・・秀吉政権が弱体と甘く見たのでしょう)出仕命令無視するばかりか総無事例も無視した上で、北条と真田間の沼田城支配をめぐる争いに関して豊臣政権(支配地分割)の裁定により沼田城を受け取りながら、真田側領地に残った真田の枝城(大くるみ城だったか?)を攻めたことが秀吉の怒りを買い、ついに小田原攻め→北条氏照や主な家臣らの切腹と領地全面没収になりました。

国家公務員は労働者か?1

一族だとか、側近、譜代の臣、時々応援してくれる近隣豪族との違いと言っても、それは比較をいうだけであって、側近の関係に限定すれば、他人と同じ対立関係が凝縮されて、あるいは複雑化していていろんな要素で相殺される結果見えにくくなっているにすぎません。
関係が遠くなるに比例して利害が単純化する・・土地勘のない通りがかりの客にとっては刹那的な利害の一致だけ・例えば我慢できないほどの空腹者にとっては、目につくところに飲食店一軒の他は、建築資材その他物販店ばかりであれば、その飲食店の料理が標準以上に美味しいかどうかの吟味の余地がありません。
これが近隣の店であれば、以前の客あしらいや料理と値段のバランス、複雑な情報処理が行われます。
しょっちゅう顔を合わす関係だと何か気に入らないことがあってもストレートに顔や態度に出しません。
側近や身内の場合、主人との接触濃度が違うので複雑な関係に比例して総合判断を経るのでちょっとした不満にすぐ反応しない違いでしょう。
独身男性が「所帯を持って一人前」と言われていたのは、幼い子供など弱者に対する日々の思いやりの蓄積による人間的深みの成長と同時に自分の言動が及ぼす影響に対する責任感が言動を慎重にさせる面があったでしょう。
近隣や顧客関係と違って、儒教道徳下の臣従の場合は、命まで捧げる特殊な契約?なのでやめる権利がない・実施したかどうかは別として幕末頃には理念的には脱藩は死罪という・極端なパターン・・「君君たらざるも臣臣たらざるベカラズ」刃向かう権利もないという、特殊道徳の教育理解でやってきました。
ただし徳川体制の思想的基盤を固めた林羅山が敷衍した儒教道徳は、彼独特の創作に係るものであった可能性がありますが、ともかく日本人はこれに従い受け入れてきたのです。
民間でも一旦正規従業員になれば、一時的に売れ行きが落ちて競合他社より給与が低くなっても、挽回盛り返せるように皆で頑張ってくれるのが従業員という意識が一般的に濃厚でしょう。
これに対してメール着信に応じて数時間だけ配車サービスする人の場合、少しでも単価の良い方のメールに応じる簡単な関係です。
自分の会社、お店意識を共有するようになる方が改良努力もしてくれるのですが、明治政府は国民は皆日本国家事業体の従業員だと言えば、外国との競争に頑張ってくれると思ったからでしょうか?
現在でもこの精神が濃厚なせいか?国民=臣民の図式がダメになっても国家公務員はまさに国家の直接の従業員なのだから、国家の外側の民間の従業員とは違うという面を強調したいのではないでしょうか?
民間も含めて皆「臣民」だったのを民間だけ止む無く切り離したという仕方ナシの論理のようです。
憲法上でもいまだに総理大臣と内閣を構成する大臣と大臣に任命される省庁の公務員という建てつけであることを見てきました。
国家公務員には各種労働法の適用がないし、地方公務員もほぼ同様であることを1月9日に紹介しました。
なぜ適用がないかについては、その代わり人事院で公正な給与計算をしているし安全管理も監督官庁の方が厳しいからその必要がないという意見があるでしょうが、事務職の場合、同じ職務内容なのに民間と国家等で待遇が違うのはおかしいという批判に耐えるためにそういう制度を作って糊塗しているだけであって、違いの生じた原因ではないでしょう。
このように待遇だけが信頼関係の基礎ではないので、国家公務員には、特殊な御恩と奉公の古い意識の温存を期待するものがありそうです。
企業でも会社側の労働者・・管理職には、争議権がありません。
その視点で見れば、官は国全体から見た場合の管理側の人たち・・民間管理職と共通論理によると思われます。
そもそも国家公務員法は労働条件を定める目的の法ではなく、公務員になる為の資格やその職務や管理体制を法定し、そのついでに待遇も書いている印象です。

国家公務員法
(昭和二十二年法律第百二十号)
第一条 この法律は、国家公務員たる職員について適用すべき各般の根本基準(職員の福祉及び利益を保護するための適切な措置を含む。)を確立し、職員がその職務の遂行に当り、最大の能率を発揮し得るように、民主的な方法で、選択され、且つ、指導さるべきことを定め、以て国民に対し、公務の民主的且つ能率的な運営を保障することを目的とする。
2 この法律は、もつぱら日本国憲法第七十三条にいう官吏に関する事務を掌理する基準を定めるものである。
第六十三条 職員の給与は、別に定める法律に基づいてなされ、これに基づかずには、いかなる金銭又は有価物も支給することはできない。
(俸給表)
第六十四条 前条に規定する法律(以下「給与に関する法律」という。)には、俸給表が規定されなければならない。
○2 俸給表は、生計費、民間における賃金その他人事院の決定する適当な事情を考慮して定められ、かつ、等級ごとに明確な俸給額の幅を定めていなければならない。
(給与に関する法律に定めるべき事項)
第六十五条 給与に関する法律には、前条の俸給表のほか、次に掲げる事項が規定されなければならない。
一 初任給、昇給その他の俸給の決定の基準に関する事項
二 官職又は勤務の特殊性を考慮して支給する給与に関する事項
三 親族の扶養その他職員の生計の事情を考慮して支給する給与に関する事項
四 地域の事情を考慮して支給する給与に関する事項
五 時間外勤務、夜間勤務及び休日勤務に対する給与に関する事項
六 一定の期間における勤務の状況を考慮して年末等に特別に支給する給与に関する事項
七 常時勤務を要しない官職を占める職員の給与に関する事項
○2 前項第一号の基準は、勤続期間、勤務能率その他勤務に関する諸要件を考慮して定められるものとする。

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