プロの判断と司法審査5

従来X病としかわからなくて、X病の中である人にはAの薬が効き、ある人にはBの薬が効気ある人にはCの薬が効くのは不思議なものだという時代にはX病向きのいろんな薬の中から、経験と勘の直感で薬を選んでれば、過失がない・・プロに任せるしかないのですが、
病態解明が進んでABC型に分類できるようになれば、X病と判断して終わりにしないでさらにABCのどの類型の病気かの判定作業に進む必要があります。
その検査をしていれば、C型とすぐわかったのに、C型に必要な治療をしないでAB型向けの治療をすれば、専門家の意見でも正しいのではなく、単純ミスです。
判断時点での学問水準・情報レベルによってプロに委ねるべきレベルがさらに細かくなっていきます。
プロの判断を尊重すべきという論は、その時点での合理的選択肢がわかっていない場合に限って、鍛え抜かれた(同じ肝臓病でもこういうタイプの人にこれまでよく効いた・・一定率で悪化するのを防げた人が多いなどの相応根拠があるが学問的主張まで行かない程度のものです)高度な直感的判断によるしかない場面に限定されます。
プロに委ねるしかない日常的分野で、しかもそのレベルが日進月歩でない分野は政治の世界でしょうか?
政治というのは「あちら立てればこちら立たず」の利害対立を調整して最終決断していくものであり、変数が無数にあるので、このデータがあればこういう判断をすべきというルールが構築できていません。
その先は鍛え抜かれた専門家・政治家の直感力に頼るしかない現状です。
そこで最終決定者を誰にするかを決めるのは昔は天命により、革命=天命あらたまるという思想や西欧の王権神授説でしたし、日本でも古代から天皇家は御稜威を宣り給う唯一人として敬われ、明治以降の日本ではこれを現人神の思想でした。
政府の高度政治判断はその道のプロである政治家の判断ですが、その代わり政治家はどういう想定外のことがあっても言い訳が許されない結果責任を負うことになっています。
どういう予定外のことがあろうとも、景気が悪くなれば人心が離れる運命を受け入れるしかないのが政権担当者の運命です。
合理的判断の及ばない時の決断能力は、古代社会では神の憑依する特殊能力のある巫女の専業でしたが、実務に足場を持つ武家政権になってからは、その役割りを終えましたが、それでもいざとなれば信長は桶狭間の決戦に臨んで熱田神宮で必勝祈願(のフリをして)配下武将の集結を待ち士気高揚してから出陣したものでした。
戦後は神託に変わる総意であり、総意を感得する権限の付託は民意・民選によるのが国民主権国家です。
民意に直接依拠しない司法権は、立法府の判断通りに政府が実行しているかのチェック権はありますが、立法自体憲法違反でない以上は現場が立法の基準を守っているかどうかのチェック権しかありませんので、立法府の定立した基準に介入するのは許されません。
これを現行法的に言えば違憲行為ですが、その実質はプロに委ねるべき分野だからです。
例えば生存権・・健康で文化的生活保障は憲法で決めた責務ですが、これは責務・・宣言であって法的義務ではないと解釈されています。
健康で文化的生活は国力相応の生活水準であり、現在日本の文化水準といわゆる後進国とは大きな違いがあることは公知と言っても良いでしょうが、結局はその国の国力によって平均が決まるのであって他国を基準にしても意味がないし文化的という意味自体その国、その当時平均的生活水準を意味しているはずです。
例えば大飢饉や戦乱(日本の敗戦時)で国民の多くが飢えているときに、戦争・大災害前の基準で憲法違反という判決をした場合、非常識すぎるでしょう。
憲法は大まかな精神規定であるから政府批判派にとっては何でも憲法問題といえば言えますが、その精神を具体化するのは立法府・政権党の役割であり、国家運営の実務を担当しない司法の役割ではありません。
民意によらないばかりか実務経験もない評論家やメデイアが洪水のように垂れ流す報道は民意でも何でもありません。
国家予算トータルに責任を持つ政治主張を出来ない政党は民主主義政党と言えるのでしょうか?
貧しい人の救済が必要だという理念は正しいですが、総論賛成各論反対という言葉があるように、総予算の中で配分をどうするかの問題です。
貧困とは相対的概念ですから、私の子供の頃の生活水準を思い起こせば、お金持ちの部類に入る家でも火鉢に潤沢に火を熾している程度で家庭にはストーブなど滅多にありませんでした。
私が生まれた池袋の家は空襲で焼けてしまい地方に引っ越していたので都会とはだいぶ違うでしょうが、物心ついた頃にはまだランプのホヤを磨く仕事がありました。
もちろん洗濯機等の三種の神器が出てきたのは高校時代からで、」冷房など見たこともない時代です。
今では、冷暖房もない家は最貧困家庭と言うのでしょうが、時間軸をいつにするか?同時期の諸外国に求めるか自国内に求めるか?平均水準をどこに持ってくるかの問題です。
現時点の自国内平均からどの程度低いと健康で文化的水準でないと言うべきか?
北朝鮮のように等しく?極貧生活に落とし込みたい人はいないとすれば、国力維持向上がまず最優先課題で、その上で分配に気をつけようというのが現在社会の総意というべきでしょう。
現状維持で良いと気を緩めればたちまち競争相手に抜き去られて現状維持どころか、落伍してしまう国際競争熾烈な時代です。

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