神は民族利益を超越したか?

法律相談者が、裁判の「勝ち負けに関係なく相手を裁判の場に引きずり出したい」と言い張る人がたまにいますが、こういう人は、神の審判・・御稜威をもらいたいという自然の声に導かれているのかもしれません。
あるいは野党系弁護士が、政治主張が通らない分野で、何かと訴訟を仕掛けるのは同じような信念があるのかもしれません。
しかし彼らは、負けると決まったように「不当判決」の看板を用意しているのはツヤ消しです。
神の意を求めたならば、勝った時だけ神の意を得たかのように騒ぎ、負けると判決をこき下ろすのではなく潔く結果を受け入れるべきでしょう。
孝謙天皇と弓削道鏡の世俗権力の結束がいかに強かろうとも、一たび宇佐八幡の御神託が降ればこれに従うしかない・・権力構造をひっくり返したのが民族精神です。
グローバル化しても異邦人(根っからの日本文化に浸った人以外)にはこうした精神土壌は理解不能でしょうし、これがゴーン氏の日本脱出劇につながったかもしれません。
彼にしてみればイスラム法で裁かれるなら結果を受け入れられるが、日本の「神」に裁かれるのは嫌だということでしょうが、「自民族の法が優れている」という理由で特定国に対する治外法権主張が許されないのが、国際社会の常識です。
「郷に入りては郷に従え」という日本古来の法が現在国際法の基本原理です。
この程度のことは高校生でも大方知っている法原理でしょうが、ゴーン氏が日本の法制度に従いたくなければ日本に入国しなければいいのであって、日本で経済活動しながら日本法を批判さえすれば日本法の適用を免れられると思い込んでいるとすれば、子供レベルの法常識もないことを満天下に晒したことになるでしょう。
フランスやレバノン政府が、日本の法制度は野蛮であるから自国民が日本で法を犯しても日本の裁判制度によって裁くのを許さないと言えるのでしょうか?
大和朝廷の神(天照大神系)は当初侵略者であり征服者の正当性を主張する一方的論理だったかもしれませんが、多数の土着神を抱え込んで行くうちにいつのまにか日本列島の支配的精神である「天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ」神の御心のままに行動すれば自ずと神の道に連なるというモラルを体得し得た神に昇華できたようです。

大日本帝国憲法
告文
皇朕レ謹ミ畏ミ
皇祖
皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ承継シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ顧ミルニ世局ノ進運ニ膺リ人文ノ発達ニ随ヒ宜ク
皇祖・・・以下略

以上は大日本帝国憲法の告文の精神であり、独りよがりに過ぎないと冷笑する方もいるでしょう。
これは日本書紀に始まる神話の継承をことさら強調している大日本帝国憲法の絵空事に過ぎないとも言えますが、日本民族が連綿と継承してきた精神の文字による再確認だったとも言えます。
どちらが正しいかは不明ですが、私個人の印象的意見では日本の神様は各地土着の神を大事にしてきた歴史によって結果的に特定部族宗派の利害に偏らず公平無私の神様に昇華してきたように見えます。
この点キリスト教であれイスラム教であれ、存立基盤民族の生存をかけた戦いの旗印的役割が今尚強すぎることから、(キリストやイスラム教徒には不愉快な意見かもしれませんが・・)異教徒排撃精神が強いすぎる?点で真のグローバル宗教に昇華・脱皮できていないように見えます。
我々弁護士は一方の立場での勝利を目指して依頼者のために戦うのですが、それでも背後にある正義の基準を背負ってその限度で戦う精神が濃厚ですし、その点で弁護「士」であってアメリカ的弁護「屋」ではないという誇りを持って生きてきました。
最近、この基準に反するのではないかが弁護士倫理として厳しく問われるようになりつつあります。
アメリカでは民族人種対立的事件の裁判では、各民族から日系裁判官の裁判を希望する比率が高いと言われるようです。(正確な統計に基づくは不明)
そして「官」とは、この正義感に裏打ちされた職責・・「職を賭しても正義を守る気概を保持する人」をいうように精神面からは考えられます。
ちょっと横にそれましたが、大臣と官と一般公務員との関係に戻します。
日本国憲法は国民主権を謳っているものの一方では、各省大臣は天皇に「任命」された総理大臣(太政官)が任命し、その認証を天皇から受けた大臣が補助者・官僚を任命するという天皇の臣下系列の一貫的残存です。
平安時代にも摂関家・太政大臣の意向で左右大臣以下の人事(叙任)は決まっていたので、(平安末期に清盛が太政大臣になっていた時に源頼政の嘆きの歌を知って、官位をすぐに従三位に引きあげた故事を紹介しました)総理が各大臣を任命できて天皇がそれを認証するだけになったと言っても古代の天皇と実質はほぼ同じです。
現憲法と蘇我氏や摂関時代との違いは、太政大臣に当たる総理を民意で決めるところだけでしょうが、国民主権国家かどうかの原理では、そこにこそ重大な意味があり、それさえしっかり決まっていれば問題がないと言うことで、妥協が成立し日本国憲法は成立したと見るべきでしょうか。
今の日本では神の声=民意でしょう。
神の声=人類共通の人倫とすれば即ち法であり、世俗的表現をすれば価値観共有外交となるのでしょうか?
世界中で子供の頃から日本価値観を基本とするアニメ等に親しんで育ってきた世代が3〜40歳台になろうとしている状態です。
世界的に見れば世界で日本価値観を全面否定したい勢力は、国家民族的には韓国政府と韓国国民に限定されているようですし、ゴーン氏はこれに乗っかって日本の法制度=価値観を正面切って否定しようとしているようですが、上記国際的信用を背景に安倍政権が国際政治上築きあげた日本の国際的地位を理解できない無謀な主張のように見えますが・・。
さて、どこかの政府がゴーン氏の主張に理解を示すことができるのでしょうか?
と書いていたところ、フランス大統領マクロン氏が、ついに〇〇の突き上げに我慢しきれなくなくなったのか?日本の拘留や取り調べについて安倍総理との会談の際に?苦言を述べたことがあるとの言い訳がニュースに出てきました。
今は裁判中で拘留されていないし、取り調べも受けていないので、拘留が長く自白強要の危険があるとしても、それとゴーン氏が自白していないならば、今になって逃亡する必要がないし、拘留中にもしも自白していたとすればその効力を裁判で否定すればいいことで、国外に逃げだす必要がないので国外逃亡の正当化と関係ないことです。
論理関係のないことをマスメデイアは大きく報じていますが、流石に自国と制度が違うからといって日本での裁きを受けなくても良いとまでマクロン氏は言えないようです。

安倍首相に改善要請「何度も」=ゴーン被告処遇めぐり―仏大統領


【パリ時事】フランスのマクロン大統領は15日、レバノンへ逃亡中の日産自動車の前会長カルロス・ゴーン被告に関し、「勾留や取り調べ中の状況は満足できるものではないと思うと安倍(晋三)首相に何度も伝えた」と語り、処遇の改善を要請していたことを明らかにした。新年の記者会見で質問に答えた。
マクロン氏は「全てのフランス国民が、彼らの享受すべき公平さをもって扱われることを願う」と強調。一方でゴーン被告の逃亡については「コメントすることはない」と述べるにとどめた。

大臣・官と公僕思想の両立?

ここで本来のテーマ・公僕と臣・官の関係に戻ります。
現憲法では国家公務員は国民全体の公僕であって天皇の臣や官ではなくなったように思ってきたのですが、憲法に大臣や官名を残した以上、「大臣や官名のある公務員に限っては、戦後も天皇の臣であり官僚は臣下である大臣の任命する官である」と言うDNAを残した印象になります。
国民主権や法の下の平等原理と天皇の存在は一見矛盾するものの、憲法が天皇制度を残した以上は、その限度で憲法違反にならないというのと同じ解釈をすべきでしょうか?
ちなみに大臣とは大和朝廷始まって以来いつの頃からか不明なほど古くから、「おおまえつぎみ」だったかの万葉カナで表記される地位でこれに「大臣」という漢字を当てるようになっていたようで由来がはっきりしないほど古くからの地位です。
神話段階ですが、武内宿禰が初代の大臣でその後ウイキペデイアヤマト王権の大臣によると以下の通りです。

武内宿禰の後裔を称する葛城氏(かつらぎし)、平群氏(へぐりし)、巨勢氏(こせし)、蘇我氏(そがし)などの有力氏族出身者が大臣となった。

と言われます。
(神話)以来、天皇の代変わりごとに天皇によって親任される臣下トップの地位であり続け、代々(よよ)を経て蘇我馬子など蘇我氏の特別な地位に連動して行ったようです。
600年頃に冠位12階を定めた時も蘇我氏は冠位12階の埒外・・誰を冠位(のちの官位?)12階の冠位に就けるかの人事権は大臣である蘇我氏と皇族トップの聖徳太子の連名で行なっていたと言われ、皇族と大臣蘇我氏とは、冠位12階に優越する地位だったと言われています。
大臣は天皇の臣に官位を授ける実質的権限者だったようです。
冠位12階に関するウイキペデイアの解説によれば、以下の通りです。

冠位を与える形式的な授与者は天皇である[11]。誰に冠位を授けるかを決める人事権者は、制定時には厩戸皇子と蘇我馬子の二人であったと考えられている。
学説としては、かつて冠位十二階はもっぱら摂政・皇太子の聖徳太子(厩戸皇子)の業績であるとみなされていたが[12]、後には大臣である蘇我馬子の関与が大きく認められるようになった。学者により厩戸皇子の主導権をどの程度認めるかに違いがあるが、両者の共同とする学者が多い[13]。
馬子とその子で大臣を継いだ蝦夷、さらにその子の入鹿の冠位は伝えられない。
馬子・蝦夷・入鹿は冠位を与える側であって、与えられる側ではなかった。厩戸皇子等の皇族も同じ意味で冠位の対象ではなかった[15]。

ということで、蘇我氏・聖徳太子(実存したとすれば)の時代には、大臣は官吏の任免や格付け等の権限を持つものだったようです。
蘇我氏が専横だったから乙巳の変が起きたかのように習いますが、いつの時代でも・・その後もいわゆる除目は天皇が一人考えて実施したのではなく、太政大臣等の時の実力者の専権事項だったでしょう。
それが今につながりますが、明治憲法以降は平安時代と違い大臣が増えて内閣の仕事が増えたので太政大臣が全て決めるのではなく、国家公務員の採用・任免権者は原則(人事院、会計検査院等の例外がありますが)として各省大臣となり所管事務職限定の任命権となっています。
いずれにせよ人事権は大臣にある点は、蘇我氏や藤原氏が大臣として事実上百官(といっても当時の規模は知れていましたので)の官位を定めていたのと同じです。

国家公務員法(昭和二十二年法律第百二十号)
(任命権者)
第五十五条 任命権は、法律に別段の定めのある場合を除いては、内閣、各大臣(内閣総理大臣及び各省大臣をいう。以下同じ。)、会計検査院長及び人事院総裁並びに宮内庁長官及び各外局の長に属するものとする。これらの機関の長の有する任命権は、その部内の機関に属する官職に限られ、内閣の有する任命権は、その直属する機関(内閣府を除く。)に属する官職に限られる。ただし、外局の長(国家行政組織法第七条第五項に規定する実施庁以外の庁にあつては、外局の幹部職)に対する任命権は、各大臣に属する。

上記の通り、大臣は冠位12階以前の大昔から現在に至るまで官吏の任命権者です。
法制度は政治権力闘争と妥協の結果であることは、国会運営を見ればわかる通りですし、現憲法制定過程も、大戦後の余韻下でのGHQと日本側との政治力学で決まったものですから、あちこちに妥協の産物・矛盾が残っていてもおかしくないでしょう。
国民主権は認めるが、民意によって選ばれる政治家トップは天皇の「大臣」であり、その大臣が官吏任免権を持つという形式的な組織関係だけは残したいという政治交渉が成立したのでしょう。
国民主権国家になっても、それと国民意識は違う・・天皇直属の官僚は天皇の臣であるという意識/誇りを残す狙いがあったのでしょうか。
日本国憲法では、総理は国会での使命に基づくものの、総理と最高裁長官だけは天皇の直接任命制としているのは、明治維新直後の二官八省制度・・神祇官と太政官の二官だけ天皇の直接任命・親任制度と外観が似ています。
太政官は今の総理大臣に該当し、神祇官は、神の裁き=最高裁長官に擬することがこじつけて的・・法律論でなく妄想的推論が可能です。
裁判所はイギリスではキングズベンチと言い、裁判結果は王権・世俗権威の発現ですからその権力を認めない人にとっては弾圧でしかないのですが、日本では「神のみぞ知る」という謙虚な気持ちが今もあり、裁判で決まれば双方不満でも裁判で決まった以上は仕方ないと受け入れる精神土壌です。
福田赳夫元総理が自民党総裁選に敗れた時に「神の声にも変な声がある」という迷言を吐きながらも「神の声」に従ったことがあります。

大臣の各省公務員任命権(忖度)

事務次官党幹部人事は、法的根拠があるか不明ですが、内閣の政治姿勢統一のために?次官〜局長までの幹部については事前閣議了解が必要の慣例?もあるらしく、次官と意見や?ソリが合わなくとも防衛大臣が一存で更迭できないことが、守屋次官と小池大臣との抗争?確執・政治問題に発展したものでした。
ウイキペデイアの記事からです。

新任の小池百合子(防衛大臣)が、守屋の退官と後任に官房長(警察庁出身)を内定した旨の記事が新聞各紙に報道された。これが相談無しに行われたとして、守屋は反発。騒動の際、小池は守屋の対応に対し「夜に二度、携帯電話に電話したが出ず、折り返し電話があったのが翌日朝であり、危機管理上どうなのか」と批判した[8]。守屋は塩崎恭久(内閣官房長官)に根回しをし、塩崎長官が「小池大臣が手順を誤ったやり方をした」と批判した結果、防衛官僚人事が膠着状態となった。最終的に、事態の早期終結を図りたい安倍晋三(総理)が守屋の退官を発表し、小池・守屋双方の推す事務次官候補をそれぞれ退けて、防衛省生え抜きの増田好平(防衛省人事教育局長)を後任に内定した。

数年前の森・加計学園騒動に際してメデイアは事務官僚の忖度を批判していましたが、民間企業であれ公的組織であれ・トップの示す一定の方向性・・トップが基本方針にとどまらず細目まで全部自分で示すのは不可能ですから・・末端はトップの意を体して・・忖度して基本方針に沿うように現場ごとに具体化していくべきものです。
トップの方針が微に入り細に亘って明瞭化していないと意味不明という社員や部下ばかりでは組織が円滑に回りません。
あるいは意見が違うからといちいち反対方向の行動をする・・上司に楯突くような部下が蔓延るようでは、どんな組織でもうまくいくわけがないので、忖度による行動が嫌ならやめるしかないというのが本来でしょう。
トップが職場の整理整頓、お客様に丁寧対応するようにと言っても各店舗でこれをバカにしてまともに掃除をしないとか、ぞんざいな対応であれば直ちに業績に響きます。
このように見ていくと、なぜ官僚だけ上司の意向を忖度することが許されないという批判をするのか合理的説明が必要でしょう。
末端不祥事も末端にとどまらず、トップの政治責任に響き、民間の場合企業業績に響き、トップの経営責任が生じるようになっているのは、忖度を前提としてこそ整合性があります。
忖度があり末端にトップの意向が浸透しているはずだからこそ、直接指示していなくとも結果責任を引き受けるのがトップのありようです。
トップの決意表明と末端社員や官僚が違う行動をした場合、トップの発表は口先だけで本気でないのではないかと国民に批判され、トップの指導力不足が批判されるのもこのせいでしょう。
このように考えると忖度社会が悪いのではなく、忖度によって行われた事務官僚の行為の違法〜不当そのものを論じ、それについて大臣の監督〜忖度的政治責任があるかを論じるべきだった事になります。
メデイアもそれを言いたかったのでしょうが・・。
裁判官のように、組織意思に関係なく裁判官単独で「法と良心」のみに従う仕組みの「官」と違い、行政組織職員の場合、省大臣や長官の最終決断=外部に表明すれば直ちに効力が発生し政治責任が生じるので、発言前に各方面の調査を尽くして補助すべき役割であって自己意見を押し通すべき権能がない黒子の役割です。
末端不祥事があれば担当大臣の政治責任に響き、民間の場合企業業績に響き、トップの経営責任が生じるようになっているのは、忖度を前提としてこそ整合性があります。
忖度があり末端に大臣の意向が浸透しているはず・べきだからこそ、直接指示していなくとも結果責任を引き受けるのがトップのありようです。
トップの決意表明と末端社員や官僚が違う行動をした場合、トップの発表は口先だけで本気でないのではないかと国民に批判され、トップの指導力不足が批判されるのもこのせいでしょう。
各省職員はトップの最終決断に従いその実行役を担う役割の結果、現に実行した場合の進捗具合や実行して初めてわかる制度設計の不具合や大臣決断に対する現場や施策対象となる関連国民の反応等々の情報を整理して(大臣意向関心にとって有利不利双方を)報告するべきですから、そのためには大臣の政策実現に対する本音・意向を知ることが重要です。
とはいえ、直に下位のものが上位者に対して国民の抵抗がどの程度あってもやる気があるのか質問するのは不躾で無礼ですので、高度な政治判断が奈辺にあるかは忖度するのが合理的で望ましいものです。
ちなみに質問とは、上位者が下位者に「問い質す」ことであって、下位者が上位者に質問するものではありません。
上位者の意向を知りたい時には質問ではなく、お伺いをたてるのですが、「伺い」は「窺う」に通じる意味で気配を感じとる意味を含み下位者の職分でしょう。
ご機嫌伺いとも言い、年賀状などで「お元気ですか?」という問いかけが今でもよく使われますが、日本社会では対等者間でも直接的問いかけをしないのが礼儀で、会話の最初は「今日は良い天気で・・」など婉曲的表現から始まるのが普通です。
さらに言うと「臣」とは、目下の者が目を見開いて上を窺うさまの象形文字らしいですが、特に日本の場合椅子形式でなかったので貴人に御目通りするとき臣下は平服して上段の間にいる主君の表情・発言のニュアンス、前後の雰囲気などを必死に「窺う」能力が欠かせません。
部下は上司一人の気配を感じとれば良いのですが、指導者の方は、一度に多くの部下や聴衆を相手にするので大勢の空気を読む能力が庶民の何倍も必要です。
武家社会で言えば主君としては平服している家臣の表情が見えないし、陪席する他の家臣らもむやみに発言しないのでそれらの意向もわかりにくいので、その場の空気を瞬時に読み取る能力が求められます。
忖度、様子を窺うなどによる気配値?感得能力は、組織あるところ情報交換に必須ではないでしょうか?
国家間で首脳会談や企業トップ間の直接対話の重要性・・言語・文字化できる表現に現れない奥深い意味・信頼関係などを構築するために必須とされているのです。
組織内意思疎通も言語化されたものだけでは足りないことは当然です。

事務次官(補助職トップ)

過去は別として現行法を前提に事務職中「官名」がつく基準を私の直感で区別すれば、官名での公式行為がそのまま行政処分や司法効力が生じる権限を有するものを「官」というべき」という意見を1月10日に書きました。
事務次官に戻りますと、事務部門で最高位に昇進しても(民意の洗礼を受けていないので)事務・裏方部門の長でしかないので各省次官は次官名で国家意思を表明する権限はありません。
次官とはその官名での副官ですらない・・補助事務部門トップという程度の意味でしょう。
副総理、副大臣、副大統領副委員長等は正官と同じ格式・選出母体が同じ場合であるからこそ、正官に故障あるときは副委員長等が職務代行できる官名です。
古代から位階によって補職できる幅が決まっていました。
このために藤原北家嫡流の初任は5位だったか正6位だったか?かなりの高位から始まる慣例でした。
源三位頼政が四位の地位に止め置かれ殿上人になれる資格である三位に昇格する希望がないことを嘆いた歌を作り、これを知って驚いた清盛が急ぎ従三位に昇格させた故事が知られています。)

のぼるべきたよりなき身は木の下に 椎(四位)をひろひて世をわたるかな

戦後憲法では社会的身分、門地による差別は許されないので、国民主権の精神から民意による洗礼があるか?が原則的区別になりました。

憲法
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。

民意洗礼を受けていない次官は、選出母体資格が大臣と違うので大臣に故障があっても対外的効力のある国家意思発令権限を持っていませんが、せっかく事務部門トップまでなったのだから、長年の功労を愛でて退職前のほんの1〜2年限定の最後を飾る名誉を与えよう・ということになったのでしょう。
・・退職直前1〜2ヶ月前に一階級特進させて、ヒラを課長、部長〜局長で退職と言えれば名誉なことですから、お手盛り的特進があると聞きますが・・その精神でしょうか?
ちなみに各省次官は概ね1〜2年で勇退するのが慣例です。
事務次官に関するウイキペデイアの記事からです。

おおむね、行政職、法律職又は経済職の国家公務員採用I種試験(旧上級甲試験)を通過して省に採用された事務官のキャリアが事務次官に就任する。任期は存在しないが、慣例的に1年から2年とされており、それまでに勇退(依願退職)して後進に譲る慣行である。

上記暗黙の自発的退職慣例を前提に短期間だけ1階級特進の暗黙の合意があったとすれば、次官の地位に長年年居座り続けた防衛省の守屋次官は暗黙のルール破りだったことになります。
事務次官の実質的権限を見ると内部文書にしか過ぎないものの、次官通達発行権限がある・・局長は局長通達する権限がありますが、司法権ではないので法の公権的解釈権はないものの、法を実際に運用する主務官庁の定める法の運用基準の最高レベルである次官通達は、実務上大きな影響力を有している・通達行政と言われることから、実力に合わせて官名を与えても矛盾しないとしたのでしょうか?
事務次官に関するウイキペデイアの解説の再引用です。

事務次官は、各府省においてキャリアと呼ばれる高級官僚の中でも最高位のポストである。その影響力は大きく、各府省の実質的な最終決定権を有するともいわれる。府省内外にわたる人的資源、調整能力を必要とするポストである。

裁判官や検察官の決定は、担当検察官や裁判官がその事件に関して公式発言や文書発行すれば直ちにその効果が出る仕組みです。
検察官は検察一体の原則によって、事件処理について上司の決裁がいりますが、これはあくまで内部問題であって決裁なしに勾留請求や公判請求しても釈放しても内部規律違反に過ぎず、検察官が起訴した・釈放指揮等 があったという公式効力が生じます。
裁判官の場合、内部的にも決裁があり得ず、(そういうルールを作れば憲法違反です)担当裁判官が担当事件については「良心と法にのみ」従って裁判することになっています。
各省の省代表としての決定は、各省大臣が決定権者であって総理が不満かどうかをどの程度忖度するかは大臣の裁量です。
総理は大臣裁量が気に入らなければいつでも大臣を罷免できることで、政府の統一性を保障している事になります。
個別政策のつど、罷免しているのでは効率が悪いし一々総理の意向を伺わないと決断できない人では間に合わないので、総理の基本方向に沿った言動権限行使できると信用できる人を大臣起用し、各省大臣は総理の意向を忖度して行動するのは憲法の期待し予定している原理です。
逆に一々総理の基本政策に反対したい人がそのまま閣内にいるのでは政府施策の一体性が維持できないので、こういう意見がある場合には大臣就任打診に対して辞退すべきでしょう。
あるいは就任後意見相違が多くなれば、行動を共にできないとして閣僚辞任すべきでしょう。
大臣も自分の意見と違う次官や局長では、各省の統一政策を実行できないので本来局次長等の幹部の補職について発言力があるべきですが、年次昇進や順繰り人事などの慣例で行われることから、大臣の下位官僚(事務職)に対する影響力が減殺される仕組みになっています。

豪族連合体日本の官と臣2

鎌倉〜足利政権同様に徳川幕藩体制も多数の旧豊臣家家臣団やその他大名の協力があってこそ出来上がったもので連合政権の本質があったのですが、徳川家の一強体制確立により連合政権の本質が隠され、表向き主君と臣下の関係化していましたが、(ほとんどんどの大名・・島津でさえ公式には、徳川の旧制松平姓にされていました)幕末黒船来航や北辺の海防に適切対応できない幕府の脆弱性が露呈すると一挙に連合政権の本質が噴出しました。
外様大名を中心に独自の異国対応論が噴出するようになり、幕府はその発言者の一人に過ぎない関係に陥りました。
本来幕藩体制下においては、大老〜老中〜若年寄り〜勘定奉行等の各種奉行による重役会議で議論すべきことでこの役職に関係ない一般大名が大名というだけで特別な決定参加権がない仕組みでしたが、国家の大変革時に当たって幕府機構内では処理しきれないことが明白になると、対応策に関する議論が無関係なはずの有力諸侯間の協議に移って行ったのは、大元に連合政権の本質があったからです。
有力諸侯の協議が行われるようになっても江戸城中で行うのではなく京都で行うようになり、政争の舞台が京都に移ったこと自体が象徴しているように、京都での政争では徳川家が一方的な主催者の地位を降りていたことを象徴しています
京都での協議結果が帰趨を決するようになると、幕府は老中に一任できず幕府のエース一橋慶喜を派遣して対応に当たりますが、彼の役割は諸侯会議に対する徳川家代表的なものでしかなく、上段之間から一方的に命令裁可するような関係では無くなっていました。
彼はその後将軍職に就任するのですが、すでにその時点では本質は変わらなかったイメージです。
一橋慶喜は将軍家の血筋を背景にしたお坊ちゃん秀才でしかないのに対し諸侯会議メンバーは政治駆け引きの猛者揃いですから、徳川家の威光低下に比例し発言力が低下する一方になり最後に決着したのが、薩長の武力を背景にした小御所会議だったのでしょう。
一橋慶喜は優秀の誉れ高かったのですが、何となく秀吉政権の三成のように実務官僚的能力は高かったでしょうが、育ちが良すぎて?政治能力が低かったイメージです。
乱世に活躍し政権樹立に功績のあった豪族や大名家と政権樹立後実務処理に必要な人材は違うのはどこの国でも時代でも同じです。
官制というのは安定期に政権運営に維持に必要な実務官僚に必要な格式・・企業でいえば職制のことでしょう。
事務官僚の職域が多くなるにつれて、任命官僚も増えてくるので天皇がいちいち親任出来なくなった・その分を認証官にしたのではないでしょうか?
明治になって法治国家の体制を整えるためには、各地に裁判官、検察官などの配置が必要ですので官名を持つものがいきなり増えました。
イギリス法では裁判所をキングズベンチクイーンベンチと習いますが・・生殺与奪の権=裁判権こそが、最高権力者が保持すべきという原理の表明です。
戦前の裁判も天皇の名において処罰する仕組みでした。

大日本帝国憲法
第57条司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ

地方の裁判官であろうと上司の代理で判決を宣告するのではなく、天皇の名において国家意思の表示するとなれば官を名乗らせるしかなかったからでしょう。
ちなみにここで言う裁判所とは、法学用語では官署としての裁判所ではなく、受訴裁判所・・裁判を担当する(裁判所を構成するのは事案によって3名のこともあれば1名のこともありますが)裁判官のことです。
法廷で日常「裁判所はこう考えますが・・・」とか「裁判所としては〇〇についてをもう少し主張をお願いしたい・・〇〇を提出していただきいのですが・・」と言う発言は「〇〇地方裁判所」という建物のある官署をいうのではなく、その担当裁判官(合議事件の場合合議体)の意見という意味です。
例えばある地方裁判所に民事部が5部あって、その中に裁判体が10数個ある場合、その一つ一つが裁判所であり、一つの判決や証人採用決定や却下、次回期日決定ごとに、地裁全部の裁判官が集まって合議して決めるのは無理があることがわかるでしょう。
裁判官一人の担当する裁判では、その一人の裁判官が決めればそれが〇〇地裁の判決であり決定であり命令としての効力が生じます。
豪族代表でなくとも朝廷内で何かの職務を持つ中で一定の職域以上に補職できる枠を官位で決めるようになって、(中国では官位と補職関係は厳格だったようですが、我が国はアバウトだったようです・・例えば三位以上でないと殿上人になれないなど)こういう合理化の結果官位制度が生まれたと思われますが、官位をいただけるのは当初天皇の直接任命職だけだった可能性がありますが、次第に人数が増えてきたので直接任命は一定の官位までとなり、例えば三位までになり4位以下は認証するだけの官となって行ったのかも知れません。
千葉市の場合、法律上議会承認を要する委員の場合、担当局長や秘書室長などの立会いで、市長から直接辞令書が交付される1種の儀式が行われますが、議会経由しない委員任命の場合、辞令書が第1回委員会の机上に置かれているだけで市長からの直接任命式はありません。
官名授与対象がインフレ現象で?増えすぎたので認証官という制度が生まれ、明治以降地裁裁判官等がどんどん増えていくと膨大になるので認証式すら必要のない官が生じるようになったのかもしれません。

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