官と臣(公僕を兼ねる?)2

民主国家・・選挙によって数年〜最大10年単位の権力移動をうまく乗り切る政治力は、室町幕府で管領経験のある(支流ですが)細川家の得意技というべきでしょう。
19世紀以降の国際政治は流動化して今の政治同様で国際情勢も変転とどまるところを知らずの状態でしたが、李氏朝鮮では宗主国清朝の顔色を窺うしか経験がなく多国間動向を読む経験がありませんでした。
この結果右往左往して宗主国の許可がなければ開国できないなどと言い張り、思考停止の大義名分にしていましたが、日清戦争の結果日本の要求で清朝が朝鮮の独立を認めたので、思考停止政策が破綻しました。
この辺は以前下関条約の条項引用して説明しました。
上記条約で独立した以上、属国でないという意味で大韓帝国と称し、同時に日本と天皇表示を問題視して長年受領拒否してきた(これが征韓論を引き起こしたキッカケでした)日本国書を受け入れることになりました。
独立により独自外交権があるというか、独自外交意思表示するより外なくなったのですが、自力による独立を勝ち取ったものではないので実はどういう外交をして良いか全く不明・ロシア公館に逃げ込んだり右往左往した挙句にロシアからも見放され、欧米列強合議で保護国化→外交権制約しないと国際紛争の種になるばかりということで結局日本が引き受けることになったものです。
こういう無茶苦茶な民族を引き受けると大変なので事情をよく知る伊藤博文が反対していたことがよく知られています。
戦後日本が手を引くと米ソは各半分を引き受けましたが、ソ連は朝鮮戦争を契機にして早々に手を引き、義勇軍を派遣した中国が行きがかり上関わってきましたが、中国も辟易していてできれば縁を切りたい・あるいは「深入りしない」と基本姿勢のようです。
米韓関係も同様で米国も辟易状態ですが、どこの移住先のどこの民族ともうまくいかないのは、朝鮮人は長期的な信義を守る意識が低すぎるところにあるようです。
人間関係の経験が浅い、目先が見えすぎて国際信用を損なう方向になっていますが、仁義をどのように切りながら泳ぎ切るかのノウハウを身につけるには長い経験がいることでしょう。
新憲法に戻りますと、「臣民」の権利義務が国民に変わっただけであって、新憲法でも臣や官の単語・・大臣という単語が残り裁判官という官名も残っていますし国家公務員法には、各省次官、政務官あるいは長官等の官名も明記されています。
ですから、官民共同というのは(精神がおかしいというだけで)法律上間違いではありません。

憲法
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一〜四項略
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
第七十三条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
1〜3号略
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
第六章 司法
第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
○2 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
○3 すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

新憲法では臣民の権利義務や臣民の総意と言えないが、人民総意とも言いたくないので?「国民の総意」に変えたのですが、国務「大臣」・総理「大臣」や裁判「官」等の旧用語を残した点ついては、09/19/03(2003年)「日本国憲法下の総理大臣5(憲法32)「新しい酒は新しい皮衣に5」前後で用語変更の不完全さを連載しました。
単語の技術的問題だけではなく、当時GHQとの政治駆け引きの結果?その限度で旧憲法の大臣と官との関係が憲法上も残っている・・大和朝廷草創期以来の「大臣」や官の精神自体が新憲法に承継されたことになるのでしょうか?
結果から見ると、現行法では大臣までは「臣」であり、その次の地位→各省次官+政務官、外局・・・国税庁等の各種長官等の組織トップ、裁判官、検察官までを官と言い、局長以下は「官」とは言わず官僚と言うようです。
私独自の直感的共通理解で見ると上司の補助者としての職務ではなく、その官職名の決定で公権力効果が生じる官職の場合を「官」と呼称する共通性があるように思われます。
ただし近年増設された政務官等は、何の公式最終決定権もない(稟議書に加判する列に入っただけ?)ので官名の安売り現象の一例でしょうか?
各省次官も対外的公式決定権がないのですが、歴史を辿ると明治憲法時代に各省次官が置かれていた・・大臣.公卿の仲間?であったのが、戦後民主的洗礼を得てないので「事務」次官格下げとなって、官名が残った様に理解できます。
律令制で次官級を「スケ」太政官制ではスケを大輔小輔、具体的には左右大臣の次官である大中小納言階級までの貴族が就任できる地位でした。
江戸時代で言えば、大納言家は将軍に次ぐ格式で御三家の尾張と紀州家が大納言、水戸家は中納言家でした。
明治憲法体制の「次官」を徳川家の大中少納言の横滑りだったとすれば、かなりの格式であったことが分かるでしょう。
これがただの事務官僚扱いになったので、ものすごい格落ちです。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC