14年政変→大隈重信下野

14年政変による大隈重信の下野と政権内復帰・・下野=反乱図式がなくなった流れの事例に戻ります。
大隈重信に関するウイキペデイアの記述からです。

立憲改進党の設立[編集]
野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した[57]。しかし党首としての大隈は、演説をすることもなく、意見を新聞等で公表することもしなかった[58]。明治17年(1884年)の立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している[59]。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている[60]
明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した[61]。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった[59]。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した[62]。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である[62]。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている[6

明治14年「国会開設の詔」に関するウイキペデイア引用です。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原文(原文では句読点がないため、適宜、句読点を挿入している)

朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緖ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總攬シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。
顧ミルニ、立國ノ體國各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業實ニ輕擧ニ便ナラス。我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ變通シ、斷シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今在廷臣僚ニ命シ、假スニ時日ヲ以テシ、經畫ノ責ニ當ラシム。其組織權限ニ至テハ、朕親ラ衷ヲ栽シ、時ニ及テ公布スル所アラントス。
朕惟フニ、人心進ムニ偏シテ、時會速ナルヲ競フ。浮言相動カシ、竟ニ大計ヲ遺ル。是レ宜シク今ニ及テ、謨訓ヲ明徴シ、以テ朝野臣民ニ公示スヘシ。若シ仍ホ故サラニ躁急ヲ爭ヒ、事變ヲ煽シ、國安ヲ害スル者アラハ、處スルニ國典ヲ以テスヘシ。特ニ茲ニ言明シ爾有衆ニ諭ス。
奉勅   太政大臣三條實美
明治十四年十月十二日

以上のように地方議会を先に開設して地方から議論の経験を積んでいくなど着実に国会開設の準備が進むにつれて不満があれば言論活動で・という動きが加速していき、実力行動が影を潜めていきます。
こういう面では板垣による自由民権運動の啓蒙的役割が大きかったと思われますし、「有司専制」を排し、庶民に政治参加経験させれば民度が上がるという板垣らの主張を政府を取り入れて板垣の言うようないきなり国会経験でなく地方議会を設立してそこで議論経験から人材を育てるという着実な運用をしてきたことが上記「国会開設の詔」の

「嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ步ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。」

によって分かります。
昭和の頃には地元政治経験・現場を経て・市町村〜県会→国会→派閥領袖に成長後国家基本を論じるパターンができていました。
現在の菅官房長官も地方議会出身ですし自民党元幹事長の野中努氏もそうでした。
企業で言えば若手の頃には営業現場や地方(今では海外子会社も含む)経験を積ませその実務経験をもとに本社企画部等に抜擢されて最後は社長になるパターンが多く見られるのと同じです。
地方議会もない社会でいきなり国会だけ作っても空理空論の激突しかないので明治政府は発足直後から廃藩置県に始まり地方制度創設、村〜郡単位の地元民の意思決定経験〜日常決定参加から始めて行ったようです。
こうして着実に国民に政治経験を積ませた上で、明治23年に帝国議会開設になるのですが、自由民権運動は国会開設にこぎつけたことで国民啓蒙的運動としては目的を達したので本来の使命は終わったことになります。
コストカッターとしてのゴーン氏はリストラ成功で役割が終わったことになるのと同じです。
住宅公団が戦後住宅不足対応の役割を終えたのに、都市整備公団という名に変えて生き残ろうとしているものの、都市整備?この数十年何をしているのか不明・・を批判したことがあります。
日本も民選議員が必要という西洋の聞きかじりを吹聴する程度でも明治維新当時はそれでも新知識だったでしょうが、大久保らが数十年も行ってきた啓蒙運動の成果でそういう制度がある程度のことは誰でも知るようになり、具体的にどう運用するかの実用段階に入ると草分けを自慢しても時代遅れになります。
実務運用・「罵り合いではなく対話が必要」という書物の受け売りではなく、自分が対話力があるかは別です。
政治家と評論家とでは能力の方向が違います。

任命の効力4→下野と謀反

立憲政体・憲法制定準備進行過程で、北海道開拓庁汚職?問題で追求し過ぎたこともあって、明治14年の政変で大隈重信が一時野に下りましたが、明治6年当時と違って政権も下野した方もスマートになり、野に下る→謀反人扱いでなく官職辞職した程度の扱いですぐに閣僚に復帰しています。
こうしてみると下野=反乱へ結びついた支持母体の地域は全体に民度が低かったのかな?という憶測につながります。
不平士族の乱が起きたのは主に明治新政府を構成した薩長土肥の主流プラス準主流(佐賀)の地域中心であった点が特徴です。
幕末騒乱で戦勝国=準戦勝国になりながら政権運営で意見相違を理由に下野するとすぐに反乱に転嫁したのは同じ地域出身でも頑迷派と柔軟・進取派が倒幕では一致行動していたものの倒幕成功してみると同床異夢だった違い(廃藩置県等の改革が進むと島津久光が不満だったことが知られています)が出たのでしょう。
昨日から板垣の身の振り方が気になっていますが、出身地の土佐藩はもともと幕末政争で中立的であった分公平な見方が身についていたと思われます。
権力闘争目的で幕末騒乱に参加していたのではなかったのです。
この辺は同じ土佐出身坂本龍馬が、暗殺目的で勝海舟を訪問して逆に説得されて開国派に転じたように板垣も上海に連れて行かれて欧米海軍力を目の当たりに見て、攘夷論の無謀さを知るようになったのと同じです。
要するに政権奪取が目的ではなく日本をどうすべきかの、愛国心だけで動いていたのが土佐藩だったように見えます。
このためには旧来の幕藩体制では対応できない・・下からの民度アップが重要という欧米思想を信じていたように見えます。
この点で旧来型の延長である藩主の大政奉還論・諸侯会議→徳川家主導妥協案には反対していたようですし、この点で薩摩らの倒幕に組みしたことになります。
土佐勤王等の本旨は維新政府の五箇条御誓文の精神だったので「これを守れ」いうことにあったようです。
板垣や土佐出身者の下野は薩長の派閥政治に参加できない不満でなく、「万機公論にて決すべき」という旗印で頑張ったのに薩長の独裁政権になっていくのは約束が違う・・という不満だったので、薩長内の久光的古代発想・守旧派・時代錯誤的・・江戸時代よりもっと前の王朝時代の政治に戻すべきという主張とは方向が真逆だったのです。
板垣ら(後藤象二郎など土佐出身が参加するなど)の政治理念は下野後わずか数ヶ月で提出した明治7年の民選議会設立建白書に明白に出ています。
要は五箇条の御誓文の精神を守れ、有司専制(薩長・大久保の独裁批判)はけしからんというものを骨子とするものです。
だから大阪会議に合意したという意味で請われて参議に復帰しても、自分はあくまで在野にあって民選化の定着を見届けたいという固い意思で・・政争で負けたわけでもないのに自分から辞職して在野を育てるための自由民権運動に特化していきます。
数人で企業を起こして成功して大規模化していく過程で路線違いが大きくなり分裂することが多々あるのと同じです。
建白書原文(要旨)を見ておきます。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/chosa/shukenshi027.pdf/$File/shukenshi027.pdf

【民撰議院設立建白書】(抄) 【前略】
明治七年一月十七日
高知県貫属士族  古 沢 迂 郎
高知県貫属士族  岡 本 健 三 郎
名東県貫属士族  小 室 信 夫
敦賀県貫属士族  由 利 公 正
佐賀県貫属士族  江 藤 新 平
高知県貫属士族  板 垣 退 助
東京府貫属士族  後 藤 象 二 郎
佐賀県貫属士族  副 島 種 臣

左 院 御 中
臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而独有司に帰す、夫有司上 帝室を尊ぶと曰はざるには非ず而帝室漸く其尊栄を失ふ、下人民を保つと云はざるにはあらず、而政令百端、朝 出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出づ、言路壅蔽、困苦告るなし。
夫如是にして天下の治安ならん事を欲 す、三尺の童子も猶其不可なるを知る。

困仍改めず、恐くは国家土崩の勢を致さん。臣等愛国の情自ら已む能は ず、即ち之を振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張るに在る而已。
天下の公議を張るは、民撰議院を立 るに在る而己。則有司の権限る所あつて、而して上下其安全幸福を受る者あらん。請遂に之を陳ぜん。
夫れ人民政府に対して租税を払ふの義務ある者は、乃其政府の事を与知可否するの権理を有す。是天下の通 論にして、復喋々臣等の之を贅言するを待ざる者なり。
故に臣等竊に願ふ、有司亦是大理に抗抵せざらん事を。
今民撰議院を立るの議を拒む者曰、我民不学無智、未だ開明の域に進まず、故に今日民撰議院を立る尚応さに 早かる可しと。
臣等以為らく、若果して真に其謂ふ所の如き乎、則之をして学且智、而して急に開明の域に進ましむるの道、即民撰議院を立るに在り。
何となれば則、今日我人民をして学且智に、開明の域に進ましめんとす、先 其通義権理を保護せしめ、之をして自尊自重、天下と憂楽を共にするの気象を起さしめんとするは、之をして天下の事に与らしむるに在り。
如是して人民其固陋に安じ、不学無智自から甘んずる者未だ之有らざるなり。
而して今 其自ら学且智にして自其開明の域に入るを待つ、是殆んど百年河清を待つの類なり。
甚しきは則今遽かに議院を 立るは、是れ天下の愚を集むるに過ざる耳と謂ふに至る。噫何自傲るの太甚しく、而して其人民を視るの蔑如たるや。
有司中智功固り人に過ぐる者あらん、然れ共安んぞ学問有識の人、世復諸人に過ぐる者あらざるを知らん や。蓋し天下の人如是く蔑視す可らざる也。
若し将た蔑視す可き者とせば有司亦其中の一人ならずや。然らば則 均しく是れ不学無識なり、僅々有司の専裁と、人民の輿論公議を張ると、其賢愚不肖果して如何ぞや。
臣等謂ふ、有司の智亦、之を維新以前に視る、必ず其進し者ならん、何となれば則、人間に智識なる者は、必ず之を用るに従て進む者なればなり
>故に曰、民撰議院を立つ、是即人民をして学且智に、而して急に開明の域に進ましむるの道なりと。
【略】             (文は縦書、片仮名旧字体)

上記のうち以下の節は「有司専制」批判として有名な部分ですが、今も役に立つ卓見です。
「甚しきは則今遽かに議院を立るは、是れ天下の愚を集むるに過ざる耳と謂ふに至る。噫何自傲るの太甚しく、而して其人民を視るの蔑如たるや。・・何となれば則、人間に智識なる者は、必ず之を用るに従て進む者なればなり」

海外収益の還流持続性5(ギリシャ・フランスの選択)

この5月6日 (日本時間では7日報道)に行われたギリシャの選挙で経済危機対策として行われている緊縮政策に反対する政党が躍進し、フランスでもドイツと連携して緊縮政策を進めて来たサルコジ現職大統領が敗れ、公務員増加など緊縮よりも支出拡大を主張して来た社会党のオランド氏が勝利しました。
第1次世界大戦後巨額賠償金債務に参ってしまったドイツが、その反動としての開き直りの主張でナチスドイツが躍進したのを想起させる事態です。
フランスやギリシャではナチスのように、景気対策として軍需産業を拡大して隣国を侵略する力はないでしょうが、それでも債務を踏み倒す(「貧者の核兵器」みたいな権利です)ことは出来ます。
債権国の言いなりの緊縮生活は御免・お断り等の主張の結果は、どうなるでしょうか?
緊縮反対と言うことは「倹約して借金支払に努める約束をしたくない」ということですから、言わば開き直りです。
1国だけで支払い拒否すると国際社会から除け者になるので出来ませんが、南欧諸国やフランスその他がまとまって未払い同盟を結ぶと除け者にしておく訳に行かなくなります。
世界中では債務国の方が多いので、金融資本の横暴と言う大義名分を打ち立てて思想的裏付けを得れば、瞬く間に金融資本打倒・・未払いを主張する政治結社が出来てこの主張が世界中に広がるでしょう。
緑の党・環境運動などに比べれば実利があるので、多くの賛同を得易い筈です。
折しも金融資本の総本山でオキュパイウオールの運動が起きたばかりでもあり、金融資本の儲け過ぎ・・横暴批判の思想が広がり始めています。
一定時期・・例えば2020年1月1日午前零時を期してそのトキ現在の債権債務を全部帳消しにするという国際合意(国際的徳政令)が出来たらどうなるでしょう。
このような合意ではっきり損をするのは純債権国ドイツと日本くらいで、その他は収支トントンまたは得する国が殆どでしょうから、この合意(と言う協定成立は無理でもこうした風潮・・今の基準で言えばモラルハザード・・)が成立する可能性が高いのです。
貿易黒字で外貨準備が大きいと思われている中国でも、全部チャラに出来れば日本や諸外国からの投資(木の書いたようにこれらは金融債権・株式です)をすべて接収出来るので損がありません。
以前どこかに書きましたが、約千年も続いた今のイタリア・ベネチア共和国は、最後のころは金融資本で食っていて、スペインやイギリスに次々と踏みたされたことが衰亡の原因になりました。
日本は世界最大の債権国ですが、この蓄積のある内に高齢化時代を乗り切り、人口7〜8000万人程度の安定期を迎えられれば理想的ですが、中南米諸国の国有化の動きやギリシャやフランスの動きを見ていると予想外に早く資本収益の本国送金が許されなくなる時代が来そうな雰囲気です。
我が国が高齢者の方が多い頭でっかち状態の人口構成から脱しない状態で資本収益回収が出来ない時代が来ると大変です。
高齢者が過去の蓄積による資本収益の(年金資金の運用先の焦げ付きにより)回収が出来なくなり、他方で、ここ数十年では現役世代は自分の働きだけでは高齢化した親世代を養うことが出来ないことが明らかです。
そのときまでに、一日も早く少子化を徹底して人口5〜7千万くらいでの安定状態に持って行き、国民の多くが物造り従事しこれによる収入を基本として、これに付随した程度のサービスや商人・金融業者等の均衡のとれた社会になるべきです。
そうなれば、日本は所得再分配による格差是正の必要性が少ない社会になります。

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