表現の自由(自己実現・自己統治)とは2

表現の自由は、自己実現・自己統治のためにあると言うだけで、社会との折り合いをどうつけるかは、各自別に考えなさい・制約原理は別に考える・・ここは「権利だけ」考えていると言うことでしょうか。
しかし基本的人権といっても相手のあることが多いので、好きなように主張していると喧嘩が絶えません。
制約原理と合体して同時に考えるようにしないと間違って「自己実現の権利は憲法以前の基本的人権であって法律でも制限できない」から「何を言っても自由だ」と誤解する人も出てきます。
「腹ふくるるワザ」になるのは、相手があって「言いたいことも言えない」前提で兼好法師が書いているのです。
昔から、言いたいことを言う権利があったでしょうが、相手が嫌な顔をするようなことを言うと楽しくないし相応の返礼があるから、セーブして会話を楽しむようにしているのが生きる知恵です。
宮沢憲法のように「国家以前の自然権」「天賦不可譲の人権」というだけでも「戦前と違う」という戦後の大変革時のスローガン的にはインパクトがあったでしょうが、世相が落ち着いてくると素朴すぎるので次世代学者がもうちょっと捻ったようです。
憲法以前に存在する自然権というキャッチフレーズとしては敗戦時に「なんでも国家が悪い」という占領政策の宣伝と合わせて相応のインパクトがありましたが、敗戦ショックが終わり社会が落ち着いてくるとスローガン的学問では納得できない人が増えてきます。
「人権」・自然権という「権利」とは、国家社会が公認して初めて言える概念でないかというあたり前の批判(私の個人的思いつきですが、この程の批判は起きるでしょう)が起きてきたのではないでしょうか。
素人的思いつきですが、「人権」という概念自体が、国法で認められて初めて「権利」に昇格するのですから人「権」という点で国家社会成立前の自然「権」という言語自体に言語的矛盾をはらんでいます。
例えばベンサム(1748-1832)の理論がそうです。
https://plaza.umin.ac.jp/kodama/rights/kanrin_presentation.htmlによれば以下の通りです

ベンタムの自然権論批判
–法実証主義者としてのベンタム– 京都大学 児玉聡

具体的には自然権論のどのような点が誤りなのでしょうか。第一に、ベ ンタムの考えでは、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は、 事実命題として考えた場合、意味を持ちません。というのは、「ある人がかく かくしかじかする法的権利を持つ」と言われた場合は、政府がその権利を保護 する措置を事実とっているかどうかを確かめることによって真偽を判断するこ とができますが、「自然権と称されるものの場合、そうした事実は存在しない– また、そのような自然権が存在していないと仮定したときにも存在するであろう事実しか存在していない」(III, p. 218)からです。そこで、進んで、ベン タムは、法的な権利に先立ち、政府による立法を拘束するとされる自然権は、 空想の産物でしかないと主張します。フランス人権宣言第二条にある「あらゆ る政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」 という主張に対して、ベンタムは次のようにはっきりと述べています。「自然権などというものはない。政府の設立に先行する権利などというものはない。 法的権利と対立し、対比される自然権などというものはない」(p. 500)。
3.3 したがって、自然権は合理的な議論の基礎になりえない
今述べたように、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は法 的権利の場合と同じように事実命題として考えるならば、無意味な命題になり ます。そして、このような性格を持つ自然権を根拠にした現行の法を批判した り立法の是非を論じたりすると、合理的な議論ができなくなるとベンタムは考 えました。

そこで天賦不可譲論・自然権論に代えて 「自己実現」「自己統治」と言われるようになった(私個人的推測です)のでしょうが、一見何かありがたいような意味ですが、(いつも書きますが「近代法の法理を守れ」とか意味不明言語を用いて思考停止を求めるのが戦後学問の特徴です)単なる言い換えの宿命で?もうひとつピンときません。
自己実現とは本来芸術家が内面を表現する行為としては、最も適した熟語のようなイメージですが、これとても(数世紀後でもいつか)社会が受け入れてこそ、芸術として評価されるものですし、どちらかといえば心理学にその本籍があるものでしょう。
これを社会(人間と人間の)関係をどう律するべきかの学問である法律学者がなぜ使うようになったのか意味不明ですが、法律学は相手のある学問・・人間と人間の関係を規定する学問であって、周囲の迷惑お構いなしに自己実現するのをどうやって規制するのが合理的かを模索することこそが法学ではないでしょうか。
「法」とは社会の人間関係のあり方を規定するための道具ですから、芸術家のように自己実現さえできれば、相手がどう思おうとどうでも良い関係ではありません。
会議や友人との食事でも言いたいことを言う権利があるからと話題の流れと噛み合わない場違いなことを言うと話が噛み合わなかったり相手を不愉快にさせるので次第に会議や食事会等からはずされるようになります。
衣装アクセサリーだって自己実現するのは勝手とはいえ、制服以外にも、レジャー用と事務職用の別があるなど相応のドレスコードがあります。
自己実現は自由としても相手のあることである結果、自由市場で弾かれるのを容認するというのが自由市場論でしょう。
その社会のためになる意見でもその社会を悪くする意見でもどんな意見であっても、政治参加することによって「自己統治できる」?という変な論理(私にはわかったようで分からない熟語?)ですが、憲法学者に言わせれば結果がどうであれ、意見をいう自由が先ずは必要・結果的に社会のためになることが多い(社会や周囲の人の嫌がることを言う人はおのづから遠ざけられる)だけという評価のようです。
表現の自由は自己の幸福追求の権利である以上、「所属する社会・集団をよりよくしたい」か「悪くしたい」かの価値評価を含めてはならない・・・その意見の結果社会がどうなろうと、「個人が政治意見を言いたいなら自由に言わせるべき」だ。
その意見が「国家・社会のためにする意図」あるいは「利敵行為目的」であろうがなかろうが「言いたいことを言える権利」・・国家の介入を禁止したいことに重点があるようです。
人権問題は国家と個人との決まり事であり、国家は思想に価値介入できないが、個々人は自分と意見の合わない人と無理に付き合う必要がないのですから、個々人がノーと言えないことまで言いだすと行き過ぎです。
(利敵目的・勤務先や所属組織の損失目的を仮に明らかにしても)「それを理由にして言論が制限されない」・・・それが支持されるかどうかは、言論の自由市場論で解決する・・別次元で考えるようです。
国連特別報告は、国家が直接検閲し禁止しているのではなく番組から降ろされる事例を書いていましたが、(反日を言えば支持されないので)結果的に「言いたいことが言えない社会」は表現の自由度が低いとなるのでしょうか。
表現の自由は、思想の自由市場が機能していることが前提ですから、言論の自由市場が寡占支配になったり、国家が介入したのでは、市場で売れないのは自由競争の結果ではなくなりますから、寡占の弊害除去と国家権力の介入を厳重に監視する必要があります。
従来国家からの距離だけに関心があって、寡占支配に意図的に目をつぶってきた弊害が出てきたように思われます。

表現の自由(自己実現・自己統治)とは1

民意による公権力=社会秩序と「距離を保つ」価値観であれば、いわゆる吉田調書のような「反日フィクション創造」に喜びを見い出して大喜びで大々的報道したい人が多いのもわかります。
メデイア界でこのような主張を英雄視する風潮・空気を読んで「公権力とは距離を保つ」と言えば格好いいとして、発言したのでしょうか?
「公権力とは距離を保つ」というのですが、全ての権力と距離を保つのではなく「公権力とは」と限定して距離を保つとしている意味が不気味です。
公に対する対語は私ですから「私権力」には「距離を保たない」と言う反語的意思表示でしょうか?
「公権力」とは、民意による正当性を付与された権力とすれば、「私権力」とは、民意による正当性を付与されていない・・・山賊やギャングが、民家に押し入って事実支配している状態・・マフィア的アウトロー権力を言うのでしょうか?
中国の共産党政権は民意による洗礼を受けていない・山賊(共産党私兵・人民軍は国家の兵ではなく共産党の私兵です)が国家を乗っ取った状態と言われていますが、「民意による「日本の政府・公権力とは距離を保つ」が、中国共産党政権には近づきたいと言う意味を含むのでしょうか?
7月9日に
「日本をより良くしたいと思うならば、国内の言論市場で先ずは勝負すべきです。」
と書き、その後カンヌ映画際に話題がそれましたが、元に戻ります。
私はいわゆる宮沢憲法で勉強した世代ですが、蒙昧な私は、自分に都合の良いように
「言論の自由、思想表現の自由が結果的に「その」社会発展に貢献するから重要」
という意味で理解してきましたが、最近そういう意見が(なくなった訳ではなさそうですが)背景に退いているようです。
旧ソ連に限らず中国その他の(人権無視の)独裁社会では、自由主義社会に遅れてしまうはず・・とメデイアでも一般的に言われている大方の刷り込みは、上記理解のもとで語られてきたと思います。
今朝の日経朝刊24pにもフランスの元文化相ラング氏との対談記事で、文化を大事にすると結果的にその国社会の発展に資するという添え言葉がありました。
「文化に投資するのは窓から金を投げ捨てるのではありません。それは大変に還元性の高い「投資」であり、世界にはすでに多くの実証例があります。」
と書いています。
文化に力を入れているフランスの元文化相らしい意見です。
我々個人も同じで、18年7月7日に上野東博の縄文展を見てきて感動し(後期も見に行く予定)ましたが、何千年も前の古代に高度・・・現代的に見て最先端センスでしかも精巧な器や櫛、土器等々がすでに製作されていたのを見ると「日本人は古代から手の込んだ「ものづくり」の好きな民族なのだなあ」と感動せずにいられませんでしたが、その背景にあるのはわが列島人(今の民族)が、かくも素晴らしい「ものづくり」続けていたのか?という感動であり民族の誇りです。
我々一人一人が一人で育ったのではなく「海よりも深い山よりも高いちちははの恩」というと古臭すぎるかもしれませんが、物心つく前から周囲の風のそよぎに始まって一言で言えば、民族の中で生きているのではないでしょうか?
芸術こそ他者無視でも「自己実現」に最適の分野ですが、それだけでは庶民に訴えるものがないからでしょうが、フランス文化相が「社会のために良いのだと付け足す」必要を感じたのでしょう。
いろんな基本的人権の中でも表現の自由は、とりわけ「受け手」があるものですから、聞いたら意見相違・・不満な不愉快になる人の存在が避けられません。
これに対して「言いたいことを言うのは勝手でしょう」と言うだけでは現実社会の支持を受けられないからではないでしょうか?
言いたいこというのは必要だがそれは「時と場所を選らんで言うものだ」という程度は子供だって知っています。
ところがいつの間にか?学問の世界では、表現の自由は「自己実現」のためにあるという意味が中心化して、ひいては国家社会の発展に資するという意味合いは否定されないようですが、副次効果的扱いに変わっているようです・・。
この扱いは昔から同じだったのにレベルの低い私は副次効果ばかりに印象が強く残っていたのかも知れません。
現在の主流的学説・・表現の自由で検索すると以下の通りで、社会のためになるのは二の次で、先ずは個人人格の発展に資するという主張が前面に出ています。
http://kenpou-jp.norio-de.com/hyogen/

ひとつは自己実現の価値。
自己実現の価値とは、
表現活動を通じて個人の人格を発展させるという個人的な価値といわれていますが、人間的成長のために表現活動が大事であるという価値観であるといえます。
もうひとつは自己統治の価値。
表現活動によって国民が政治的意思決定に関与するという民主主義と密接不可分な、社会的な価値をいいます。
このような価値を支えるためには、
「思想・言論の自由市場」の形成が不可欠であるといわれています。

ネットに出ている憲法の解説では、表現の自由は個人の幸福追求權の一種?誰でもいいたいことを言えるのが(ストレスがなく?・・兼好法師流に言えば言いたいことも言えないのでは「腹ふくるるわざ」)であり、「自己統治」に必要で人間として生きていくための基本的権利であり、最重要だと言うようになっているようです。
政治参加権のことを「社会の一員として当然発言権がある」という私流の粗雑な理解?いわば社会参加論ではなく、「自己統治」と言うようです。
ちらっと説明を読むと、「政治参加するには、多様な情報を知る必要がある・だから表現の自由が必要」というような説明ですが、その程度の説明をするのに難解な「自己統治」というのか不明です。
要は、「表現の自由は社会発展に資する」とは言いたくない・・「何事も個人のためにある」という強調のために言い出してこれが格好いいということで定着してきたようです。
そう言いながらも社会のためになると憲法の解説者はつい口を滑らせるようです。
https://blog.goo.ne.jp/kodomogenki/e/7ddf217e3a7af1c482364e1eb34d335d

「自己統治ですが、これは、私たちの社会の大切な仕組みである、民主主義を支えるとても大切な価値です。
自己実現でも述べましたが、ひとりひとりが、社会に起きている事柄について、情報を集め、分析することで、社会がどうあるべきかについての意見を自己決定することができます。
政治家を選び、その政治家が、私たちの未来の社会を決めるのですから、その判断材料となる情報は、とても大切であることが分かりますよね。
表現の自由の中でも、この政治にかかわる情報は、一番手厚い保護を与えて行かねばならないと考えられています。」

「自己統治」とは、国家・民族のためになるからではなく、政治参加する個人の「権利」を尊重しようという側面強調のために考え出された・・いかに共同体利益を消し去るかの工夫のためにできた概念のようです。
何が何でも共同体・社会と個人は対立するべきものだという戦後の風潮がここに現れています。

「公権力とは距離を保つ」2(是枝監督)

日露講和条約時の7博士意見書以来書いてきたように、メデイアが対露強硬論を煽ってこれに共鳴した庶民による焼き討ち騒動を起こしましたが、その当時はまだ民意による政治の建前が弱かったので、政府は無視できたので無事講和条約成立しました。
April 10, 2018,「7博士意見書と学問の自由1」で詳細を書きましたが、空理空論に対して当時の政府は
「伊藤博文は「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と冷淡だったという。」
と相手にしないで済んだのです。
その後普通選挙実施等による選挙制度拡充に伴いメデイアによる扇動効果が大きくなり、政治家はメデイアのあおりを無視できなくなっていきます。
アメリカは日露戦争で日本を極端に応援して、満州からロシアを追い出し、続く第一次世界大戦で日本に対して相応の権益取得を認めたのは、日本の応援をしておけばその後の満州進出にアメリカが一枚噛める思惑があってのことでした。
日本もその辺は知っていたのですが、「尊い血を流して獲得した満州死守」のメデイアの大合唱で、政治家はアメリカの逆鱗を買う「満州独占支配」しか選択肢がなくなったのです。
この辺はApril 15, 2018,「メデイアと学者の煽り8(軍国主義肥大化へ2)」にも書きました。
ここからアメリカの対日オレンジ作戦→日本の孤立が始まり、ひいては軍事突破戦略しか無くなっていきます。
国内政治ではメデイアは政府のあら探しばかりで、これに呼応する野党が国会審議妨害ばかりでまともな政策論争ができなくしてしまったことにより、国民が政治家に愛想をつかしてしまった・・これが純粋に国の将来を憂うる清廉イメージのある軍部(未熟な若手将校)への期待感を高めてしまった原因です。
天皇機関説事件に始まってメデイア界が根拠のないあら探しばかりをして、(今の森かけ問題集中・官僚のセクハラ暴露も「政治家や官僚に任せて置けない」という国民意識を醸成するのがメデイアの主目的である点は戦前同様です。
メデイア界は・・戦前政治に及ぼした自分らの悪行を棚上げして被害者イメージばかり広めて自己反省をしない結果、戦前のあら探し報道に回帰している流れです。
せっかく始まったばかりの議会政治を政策討論よりは揚げ足取りの不健全な方へメデイア界が引きずり込んでしまったことが日本の政治を窒息させていった反省がありません。
戦前の戦争責任論としては、上記のように、世論を戦争方向へ誘導していった(3・15〜2・26事件等では違法行為は許されないが、「政治のあり方を反省する必要がある」かのようなメデイアお得意の事実上の応援論調が大きかった)これに反する政治家や学者を葬るのに大きな役割を果たしてきました。
メデイア界は対外強硬論に協力させられた被害者のような主張ですが、むしろ帝大7博士による強硬論以来何かと言うと対外強硬論の煽り中心で、国際孤立を避けるために日米和平を模索していた政府を袋小路に追い込む役割を果たしてきたのが他ならぬメデイア界です。
戦前の政治家も今の政治家も、政治家はメデイアの煽る世論動向に左右される役者の立ち位置でしかなく、権力=政策決定の方向を決めてきたのが映画監督に当たるメデイア界であったという厳然たる事実認識・・反省こそがメデイア界には求められています。
「公権力と距離を保つ」是枝発言は、戦争方向へ誘導していた第四の権力とまで言われるメデイアの責任にほっかむりして、「権力」という意味不明の主体に責任転嫁して映画界が(権力に協力」させられた被害者のごとく責任転嫁して「事足れり」としているメデイア界の開き直り・すり替え姿勢そのままです。
無色透明の権力が勝手に方向を決めるのではなく、権力=政策方向づけに当たってメデイアが大きな役割を果たしてきた点の理解が足りないか、あえて知らんぷりしているのではないでしょうか?
戦前「抑圧」国家体制が出来上がって行った原因と戦後の変化をみない・・戦後70年以上の経過で社会が大きく変わっている現実を見る目がない・・・見たくない人が日本の(戦前でもありえない環境設定)暗部を「創作・(捏造して)?」映画にして海外で日本の暗部だと宣伝する。
これが格好いい文化人?の仕事だと信じているのでしょうか?
NHKテレビ小説「おしん」は戦前の貧しい農村部の生活を描いたもので現在日本社会の状況として描いていませんが、是枝監督は(映画を見ていないで不明ですが題名等から察するに)、現在日本という時代設定で映画を制作しているように見えます。
これが後世に残ると当時の日本はこんな社会ではこうだった例として利用されるモデルになっていくのでしょうか?
映画が本当に日本社会の現実を描写したものか?仮に、本当に存在する核心を描いたとしても日本の現実には滅多にない変な・醜悪な部分を拡大して描くと国を代表する監督として国外で表彰されるのでしょうか?
「万引き家族などあるわけがない」という批判が起きれば、慰安婦騒動の「吉田調書」同様に「フィクションで何が悪い?」となるのでしょう。
幕末から明治にかけて浮世絵などがジャポニズムとして西欧文化に大きな影響を与えましたが、日本の醜悪な部分(仮にあるとしても)を日本国民が国外宣伝する意味が日本のためにも国際的にもあるでしょうか?
国内で発表してみんな豊かになったわけではないから浮かれないで、こう言う人もいると警鐘を鳴らすのは意味がありますが、海外発表して国内に持ち込む意味があるのでしょうか?
中韓等で日本の悪口を言いふらして喝采を受けて表彰された場合、帰国して日本政府から「よくやった表彰する」と言われると居心地が悪い人が多いでしょう。
こう言う人が、日本政府の表彰を辞退したい気持ちになるとすれば潔いことです。
『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に・・」というのですが、国益や国策に反することが映画の使命であるかのように公言するとは驚くべき主張です。
国益とは国民の利益であるべきでしょうし、国益に資する政策を国策とすれば、民主国家における国益に資する方策決定=民意そのものです。
民意にも誤りがあるでしょうが、「民意と一体化すれば(常に)大きな不幸を招く」かのような言い回しには飛躍があります。
誤りが後に分かるコトがあるとしても民意で決まった政策→法律をみんなが守る義務があるし、法で強制されなくとも一定の方向が決まれば(お祭りその他の行事など)率先して協力するのが良き共同体員の生き方でしょう。
彼の論法によれば、是々非々ではなく常に「民意」・地域共同体や地方自治体=公権力との一体化を拒み「距離を保つ」べしと言うかのようです。
国策=政府方針と常に距離を置く=何でも否定的反応→反対しかないのでしょうが、こののちに紹介するように、カンヌ映画祭出品作品は政府補助金を得て製作していると言うネット批判が早速出ています。
国策の内容に関わらず常に距離を置くと言うからには、国の補助金だけ貰えるものは貰う/困った時には救急隊や警察の助けを借りるのって矛盾していませんか?
個別に救援されたり補助金をもらうから目立つだけで、個別の援助がなくとも一定の集団に属する場合には、その組織の運営による恩恵・・我々弁護士会でいえば、良い仕事をする弁護士のおかげでその他弁護士も信用されるが悪い弁護士がいると他の弁護士の評価が下がる関係.自治体や国でいえば、共用施設・・公的空間や街路樹や街灯ガス水道・医療施設その他治安の良さなど・・税で運営されている恩恵を受けて生きているのが普通です。
いわば属する組織や集団と関係がないことなどあり得ないのに、自分の都合の良いトキだけ「距離を置いたり縮めたり」が許されるか?という常識の問題です。

報道自由度ランキング2(「公権力とは距離を保つ」1)

ここで、2018/06/13「報道の自由度ランキング1」〜2018/06/29「(フェイク?)報道と信用失墜3(国連特別報告2)」の続き・・日本の言論自由度ランキングが政府批判的意見を言う書店主が政府によって拉致されてしまう香港などよりも低いという国連報告に戻ります。
言論に関しては本当の自由市場があれば、国民の意向に合わない言論は売れないし、メデイアの場合視聴率も下がり自然に出番が減ります。
流行作家や流行商品が売れなくなるのと同じですが、それを言論の自由がなくなったと転嫁批判していないかの疑問があります。
実験らしい実験もしない研究発表が自由に出来なくなった場合に、研究発表の自由度が下がったと嘆くようなものです。
日本をより良くしたいと思うならば、国内の言論市場で先ずは勝負すべきです。
外国に向かって日本の批判ばかりする習癖(自虐史観)は、「自分だけは別」という優越思想発露の一環でしょうか?
数年〜4〜5年前に「そこまで言って委員会?」の議論を見ていたら、慰安婦事件に関連して日本兵の蛮行批判をしていたある有名女性の(父職業軍人であった?か忘れました)「ではあなたのお父様もその一人ですか?」という趣旨の質問をされて「私の父はそんな人ではありません」と「憤然」と言い切って会場の失笑を買っていましたが・・・。
日本人の多くが「自分の父さまはそんな人ではなかった」と思いたい人ばかり・・国民心情と切り離して日本批判する人は「自分または自分の父だけは違う」と問題の圏外・高みにいる思想の人が多い印象です。
社会派と称する映画を見ると、日本の最底辺層をアップして「日本はいかに貧しく汚い街か!」というイメージを海外に宣伝するものが多いのですが、そういう画像ばかり見て日本へ来てみると実態とは大違いなのに驚く人が多いようです。
社会が発展し景気が良くても、苦しい人や犯罪を少しでも減らせると言うだけであってゼロにはできません・・高成長や発展から取り残される人がいるのは当然です。
そういう人々・・日本の0、00何%!の人に焦点を当てる・・自分の収入が増えて成功者になっても、いつもそういう人へ想いを馳せることは重要ですし、他人に対しては、謙遜する姿勢が必要です。
しかし、それは個々人の内省や国内政治のあり方を国内で発信する問題であって、日本の暗部を対外宣伝する必要性とは関係のないことです。
日本の欠点とも言えない・強い絆で結ばれ一体感が強く過疎地の隅々まで貧窮に苦しむ人の少ない・世界一格差の少ない社会から暗部を探し出して国際社会に訴えたい人が多い・・そのような逆境でも健気に?頑張っている人を描くのが表向きのメッセージですが・・視覚的に圧倒的影響力がある(ことこそ映画の最大の強みです)のは汚い空間表現です。
・・映画界ではそんな最底辺に焦点を当てる監督ばかりが「社会派」と称して幅を利かしてきたのが不思議です。
どんなに頑張っても貧困率や犯罪率をゼロにできないが、その比率を下げることに政治は努力すべきですし、しているのです。
あばら家やゴミも不良も犯罪もゼロにはできないが、比率を下げる努力が重要です。
犯罪等をゼロにはできないが、日本をよくしようと頑張っている人や政府を嘲笑うために特別汚い場所を選んで報道する・・自分だけが偉くなったよう気になる人がいるようです。
最近カンヌ映画際で「万引き家族」という日本で現実にありえないような題名の映画ですが・・受賞した是枝監督が、政府のお祝いの招きを断った記事が新聞に出ていました。
私は例によって「見出し」しか見ていませんので読んだ時に「不思議なことをいう人がいるものだ」と印象だけ残っていたのですが、今回のテーマに関係ありそうなので以下検索して見ました。
https://www.asahi.com/articles/ASL68677QL68UCVL025.html

是枝監督、文科相の祝意を辞退 「公権力とは距離保つ」
2018年6月8日20時39
是枝監督は同日付で「『祝意』に関して」とする文章をサイトに掲載。
受賞を顕彰したいとする団体や自治体からの申し出を全て断っていると明記し、「映画がかつて、『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような『平時』においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています」

「公権力とは潔く距離を保つ」とはどういう意味でしょうか?
公権力の主体は政府であり、民主国家においては政府は国民代表ですから、言い換えれば日本人代表と距離を保ちたいということでしょうか?
是枝監督は、「政府は国民を代表していない」というのでしょうか?
こう言う根拠のない言い切りを喝采して売れっ子?の虚像を作り上げてきたのが、情報独占にあぐらをかいてきたメデイア界でした。
もしかして、フランス政府主催の映画祭で受賞すれば、(フランス政府に公認されれば)日本国民代表になったつもりでしょうか?
上記論法によれば日本人代表が日本人の選挙によらずに、フランス政府によって選ばれるイメージです。
革新系運動家の政府批判はほぼ毎回、「国民大多数の声を無視して・・」という合唱ですが、根拠なく「国民大多数」を僭称しているのと共通です。
メデイア界にいると日本批判「自分は日本人一般とは違う人間・・高みにいる」と思い込んでしまうのでしょうか?
彼は戦前権力に抵抗した実績があるのでしょうか?
一見したところ戦後だいぶ経ってからの生まれで戦前政治と関係がなさそうな世代のようですから、いわば自分を安全地帯において格好つけているだけのようにみえます。
では現在の権力と戦ったことがあるのでしょうか?
メデイアという第4権力に身を置いて、その中の多数派の意見を代弁しているだけではないでしょうか?
是枝監督の公権力・・主張は、june 6, 2018,「慰安婦=性奴隷論の説明責任1(言葉のすり替え1)」以降書いてきた戸塚弁護士が「私」の主観を媒介に「売春婦を性奴隷」とすり替えたように「公権力」概念の巧妙なすり換えが行われています。
今彼が指す公権力は現在の公権力なのに、なぜか戦前の公権力のイメージに切り替えて距離を保つ必要があるのでしょうか?
いかにも現政府も国民を代表していない・・国民抑圧者のようなイメージすり替えが行われています。
その上で、「映画がかつて、『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つ・・」というのですが、彼の脳裏では戦前の国民抑圧者的公権力が今も続いているような論理です。
いわば戦後の民主化と70年の結果を見ないことにしている・・現実無視の態度です。
そもそも戦前政治が権力による抑圧社会であったか?メデイアの誘導に抵抗できなかったか否か自体検証されていません。
メデイア界こそ敗戦時にきっちりした自己批判・総括してこなかったことが、未だに尾を引き我が国を変な方向へ引っ張っているのです。

本田鑑定3の検証必要性

第三者委員会〜検察審査会に話題が逸れましたが、7月2日まで書いてきた袴田事件再審手続きでの本田鑑定に戻ります。
本田教授が訴訟中にも関わらず鑑定データ廃棄してしまった行為が事実とすれば、学問の自由を守るために学者のモラルとして問題がないか学会の信用維持のために、相応の調査報告があってしかるべきでしょう。
当該学会や大学で判断→処分する能力がないならば、第三者委員会の出番ではないでしょうか?
袴田再審事件で鑑定意見を書いた本田教授の場合、小保方氏とは違い論文発表経験豊富な教授=若手の論文書き方指導の立場?である上に、刑事訴訟の正規鑑定・・たぶん鑑定証言もしているでしょう・・で実験記録や資料保存しないで鑑定書を提出しているとすれば(ミスか実験自体が虚偽か不明ですが)軽視できないモラル違反ではないでしょうか。いずれにせよ、彼がこれまで発表してきた研究実績の信用がどうなるか?彼の所属する学会で検証しないで放置・・知らぬ顔の半兵衛を決め込めるのでしょうか?
(小保方氏の場合博士論文では遡ってデータ捏造がないかの検証がされていました)
早稲田大学のようにせっかく不正を検証したのに、学位剥奪しない処分もありえますが、少なくとも本田教授の過去の論文が実際の実験に基づくかの検証をする必要があるように思いますが?
鑑定の見方は人によって違うでしょうが、訴訟の帰趨・・有罪か無罪か・本件は死刑事件ですから、生死の分かれ目が鑑定成果の信用性次第になっている重要資料であり、その信用性の有無が論点になっているのに、DNA検査記録や資料をその訴訟進行中に「廃棄して保存していない」とすれば致命的欠陥ですから、本田教授は本当に実験成果が得られたかの証明を出来るのか?どういう釈明をするのでしょうか?
高裁では本田教授が「係争中の鑑定資料を保存せず、かつ検査経過記録を廃棄した」かの説明をしない・説明責任を果たさなかったとすれば「鑑定を信用できないとされても仕方ない」という開き直りに徹したことになるのでしょうか?
発明発見の場合と違い、鑑定資料が微量すぎて一回の実験で使い切ることがありますが、その場合には実験結果を保障するためには相応の工夫があるべきでしょうしその旨の説明責任があります。
訴訟確定後何年も経過して書類整理の過程で破棄したならば別ですが、訴訟進行中・しかもその実験ではそういう鑑定結果が出るはずがないと別の鑑定人から批判されている最中に、資料や経過記録さえ廃棄しているとすれば何ために廃棄したのか?の疑いが生じるのが普通です。
それで(高裁で問題になる前の)「地裁決定前に廃棄していた」と言わざるを得なかったのでしょうか。
高裁が本田鑑定を信用しない・採用しない理由は小保方氏論文同様の捏造ではないかと言わんばかりの認定ですが、高裁認定が正しいかどうかは、最高裁で決着がつきます。
これまで、もしも東京高裁の鑑定に対する評価が正しいとした場合の意見を書いてきましたが、大手メデイアの報道があてにならないだけでなく・・理研の小保方氏に始まり大学教授という肩書きによる科学論文の信用性も(ほとんど誰も検証作業がされないと良いことに?)地に堕ちてきました。
企業連携の研究発表の場合には、続いて実用化実験が待っているので、実験をしていないのに実験したような架空論文発表して(一時的に株価急騰して)もすぐにバレてしまいますが、企業製品と関係ない分野・それが何の役に立つか不明の基礎実験発表では誰かが論文発表しても多くの科学者が「そうなの?」という程度で皆読み飛ばしていくだけでしょう。
論文の市場評価として引用数ランキングがよく言われますが、論文の前提になっている「こういう実験をしたら、こういう結果が出た」という実験そのものを再現実験しないで、本当ならば「すごい」と引用しているだけのことです。
本当に実験した結果かどうかは数十年たってから誰かが、その成果を利用しようとしたときにならないと分かりません。
数十年後に何かを研究開発する段階で、数十年前の先人の論文が検索に引っかかって、これを発展させれば自分の考えている新製品の開発に使えるかも?と「その論文で書いている実験してみたがどうもうまく行かない」・・自分の再現実験の仕方が悪いのかな??で挫折して発表者に問い合わせて論文に書いていないちょっとした触媒の必要性を教えてもらってもうまくいかないときも、「ありがとう」とお礼を言って終わりにして、(本当は怪しい発表?と胸に収めて)別の方法を考えるのがふつうでしょう。
自分の構想する新技術開発実現するのが先決ですから、正義感に燃えて?(例えばカナダや中南米の無名人の論文の場合・発表者が生きているかどうかも不明)「その論文捏造でないか?」と社会問題にする暇のある人は滅多にいないでしょう。
このようにすぐには再現実験をする人がいないのをいいことに学位論文に限らずその道の有名教授であっても・・実用に遠い論文の場合、発覚リスクが滅多にないので嘘八百の論文発表がまかり通っているということでしょうか?
小保方氏の場合には「実用性のない学者の論文ってそんなもんだ」という達観した低評価定着した方が・それが実態であれば社会全体にとって合理的なのか?もしれませんが、本田鑑定の場合には学者の信用性ばかりではなく、司法の信用性・人の生死決定に関わる実用に直結することです。
袴田再審開始手続きの鑑定は実用分野ですから、即時に検証手続きが始まることが予想されているにも拘わらず(検証妨害のために?)あらかじめ実験記録意一式を廃棄していたとすればその図太さに驚くばかりです。
実用に裏打ちされている企業製品の場合、画期的性能開発の虚偽宣伝しても(株式相場が一時急騰しても)その部品を組み込めばすぐバレる点で市場評価が確かです。
メデイアの信用低下は消費者(ネット発達によって独自に情報収集できるようになって)のレベルアップによって、すぐに批判される・市場評価にさらされるようになって始まったように、学問発表の評価も「どうせ一般人には分からない」という閉鎖性に守られてきたのが、民度アップによって批判に晒される・・文字通り「思想表現の自由市場」が始まったように見えます。
「実用に結びつく企業発表でない学者の独自発表など誰も検証しないので結局眉唾もので、ほとんど信用できない」という風潮が広がる方が健全かもしれません・(学問世界では常識になっているのか?)これが小保方氏擁護論・中部大学の武田教授主張の核です。
小中高校・一般ホワイトカラーに優越する地位を失って久しいように全入時代に入った大学の地盤沈下が進む一方だから、その現実を受け入れるか、地位低下を阻止したいならば、それぞれの分野で、何か問題が起きた時に(権限がはっきりしませんが)アメリカの特別検察官のような臨時任命の調査官・・第三者委員会の調査発表を必要とする時代が来ているように思われます。
大学は地位低下を阻止する気概さえないと言うべきなのでしょうか?
ただ日本人は、日本の裁判や検察のイメージ・清廉潔白で「神のお告げ」のように穢れのないもの・・彼らは局外中立で「絶対的に正しいことをする」と信じ込む傾向がありますが、国連特別調査官でもアメリカの特別検察官でも皆政治任用であって、(官僚も政権交代で多くが入れ替わる社会です)政治的に動く本質を持っていることに注意する必要があります。
国連特別報告者が特定の立場で不満分子の意見だけ選んで聞いて歩けば、日本の言論の自由度ランキングでは、中国批判をしていた書店主がたちまち拉致されてしまう香港以下の評価になるのは当然でしょうか?

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