名誉毀損と政治効果2

政治活動家が一定方向へ誘導していた方向性について、メデイア等で第一人者・パイオニアなどと持ち上げられている時には、名誉毀損などと言わないのですが、世の中の受け取り方が変わってくると、その運動の主役と名指しされたことが「名誉毀損」として法的手続きする動きになるようなイメージです。
例えばこれまであちこちで辛淑玉氏の行動は肯定的報道されている時には、名誉毀損報道と問題視していなかったように思われます。
このシリーズで読んでいるうちに「のりこえねっと」いう団体の共同代表として出てきたのでどういう団体か検索すると以下の通りです。
例えば8月11日現在のりこえねっとで検索すると以下の通りです。
https://ja.wikipedia.org/wiki

のりこえねっとは、2013年に設立された日本の任意団体である[1]。正式名称は「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」[2]。「在日外国人・留学生、国際交流、行政への改策提言」を活動分野として公表する[1]。のりこえネットと表記されることもあるが、「ねっと」は正式にはひらがなである。パルシステム生協連合会専務理事の若森資朗を代表者として登録しており[3]、パルシステム生協連合会の助成団体として資金提供を受けている。
活動
沖縄への「市民特派員」へ5万円支給

カンパで募った資金をもとに、本土から沖縄への交通費にあたる5万円を支給し、沖縄の現地の様子をツイートする「市民特派員」を募集した。2016年9月から12月まで16人を派遣している[5]。チラシに「往復の飛行機代相当、5万円を支援します。あとは自力でがんばってください!」と書かれている[6]。
ガジェット通信によると、2016年ののりこえねっとの講演で、辛淑玉が、高江ヘリパッドの反対デモへの参加予定者に対し、「私は稼ぎます。若い者には死んでもらう。爺さん婆さん達は嫌がらせをして捕まってください。山城博治には『病気で死ぬな。米兵に殺されるな。日本の警察に殺されるな。私が殺してやるから』」などと講義している動画がアップされ、過激な内容ではないかとネットで話題になっているという[7]。
女性の性グッズ専門店のウェブサイト「Love Piece Club」上で、ライターの李信恵が、5万円の支給を受けたことを明かしている[8]。
ニューズウィーク日本版2014年6月24日号で「『反ヘイト』という名のヘイト」記事において、反ヘイトを掲げた団体が、「反差別」を「絶対的な大義」とした上で、「相手の言動に少しでも差別的な響きがあれば容赦なく身元や過去を暴き、徹底的な批判を加え、社会的生命を抹殺しようとする」活動であると批判し、反ヘイト団体が「暴力や権力」を利用することで「憎しみが消えるどころか、新たな憎悪の連鎖を生むだけだ」と報道がされた。
ニューズウィーク記者の深田は、在特会メンバーへの傷害容疑で執行猶予中の反ヘイト団体幹部運動員が、「逮捕上等」と発言し、「次回の暴力の可能性を示唆すると、会場が笑いと拍手に」包まれた会場に居合わせ、ヘイト団体ではなく反ヘイト団体の運動家らだったことで驚いたとし、反ヘイト団体の「正義の仮面」には「憎悪」が存在すると報じた[12]。この記事で「ヘイトデモ」参加者が「反ヘイト活動家」に殴られたと書かれ、また「ヘイトデモ参加者」が「反ヘイト団体からの暴力を恐れて」いる・・

ウイキペデイアの記事が正しいとは限らないとしても、ある程度の検討を経て書いているとした場合これを信用して意見発表した場合、「真実性証明をしたことにならない」として名誉毀損になるのでしょうか?
真実「性」証明とは真実証明まで要求せずに「信じるについて相当の根拠あるとき」のことです。
上記記事を見ると沖縄基地反対運動に交通費5万円を配るのを自分で自慢するのは良いが、誰かに批判的に言われると名誉毀損・・社会的評価低下行為という使い分けをしているように見えます。
しかし、MX事件では、交通費支払いではなく、「日当五千円を払っているという表現が問題になっているようですから、交通費と日当の違いがあるから、これが許せない重要事実なのでしょうか?
お金に色がつかないし、企業会計とは違うので、(交通費の領収書と引き換えに払うなら別ですが・・その場合でもらった方にとっては、5万円を日当・日々の生活費5000円に使っても交通費に使っても懐具合へ影響では同じです。
沖縄県外の人が沖縄基地反対運動に参加するために交通費込みで10万円予算の場合、交通費に関して5万円まで補助金が出る経済効果では同じでしょう。
これを県外の人参加の黒幕という意味で表現したことが名誉毀損になるかどうかです。
BPO決定について書き始めの頃に評論家や弁護士などは日当をもらいたい方で、日当を払うスポンサーになっているというのは、もともと無理っぽい筋だと書いたことがありましたが、上記の通り検索対象を広げていく過程で、パルシステム生協連が「のりこえねっと」への資金提供者になっているとも書いていることが分かったので、辛氏がその運用責任者になるという意味では実質的なスポンサーになれない話ではなさそうです。
またBPOの決定概要では「違法行為の黒幕」と表現したことが重要視されていますが、上記紹介記事では、

「私は稼ぎます。若い者には死んでもらう。爺さん婆さん達は嫌がらせをして捕まってください。」

と発言していることが記録されていますから、「捕まって下さい」とは違法行為を唆しているか前提にしていると普通は読むべきですから、まるっきり根拠のないことをMX・ニュース女子が報道したのではなさそうです。
この程度の違いだけで、BPOが「真実性の証明がない」として勧告したのか否かは「決定概要」だけでなく決定書本体(全文)を見ないと断定的には言えません。
「ニュース女子」製作会社のDHCの関連会社がBPOの勧告を全く受けつけない対応をしている・BPO勧告対応したいMXをDHCが逆に切ったことになっているらしいこともわかってきました。
下請け?納入業者が元請けを切るというのは一見不思議な感じをしていましたが、実はDHC(またはその親会社?)はMXの広告収入の11〜12%占める大口客(で、力関係が逆転している?)あるネット記事もありました。
先にあげた資金力の疑問など、一見不思議なことが起きるには合理的な例外事情が裏にあるということに一例を加えることになります。
私のこのコラムは、事件の詳細事情を知らないで報道だけにまず反応して書いているので、その時点で「この報道は不合理だ」と思って書いた私の批判意見は後日例外事情がわかって修正されることがありますのでご理解ください。
たとえば慰安婦騒動も韓国や日本文化人?主張が虚偽と思うから腹がたつ人が多いのであって、本当であったとすれば日本人は反省する必要があるでしょう。
商品品質であれ、あらゆる分野で虚偽主張が嫌われるのは、公正な判断を妨げるからです。
児童売買春は人権問題で根絶すべきことですが、それと虚偽数字をあげて日本批判して良いかは別問題です。

表現の自由(自己実現・自己統治)とは2

表現の自由は、自己実現・自己統治のためにあると言うだけで、社会との折り合いをどうつけるかは、各自別に考えなさい・制約原理は別に考える・・ここは「権利だけ」考えていると言うことでしょうか。
しかし基本的人権といっても相手のあることが多いので、好きなように主張していると喧嘩が絶えません。
制約原理と合体して同時に考えるようにしないと間違って「自己実現の権利は憲法以前の基本的人権であって法律でも制限できない」から「何を言っても自由だ」と誤解する人も出てきます。
「腹ふくるるワザ」になるのは、相手があって「言いたいことも言えない」前提で兼好法師が書いているのです。
昔から、言いたいことを言う権利があったでしょうが、相手が嫌な顔をするようなことを言うと楽しくないし相応の返礼があるから、セーブして会話を楽しむようにしているのが生きる知恵です。
宮沢憲法のように「国家以前の自然権」「天賦不可譲の人権」というだけでも「戦前と違う」という戦後の大変革時のスローガン的にはインパクトがあったでしょうが、世相が落ち着いてくると素朴すぎるので次世代学者がもうちょっと捻ったようです。
憲法以前に存在する自然権というキャッチフレーズとしては敗戦時に「なんでも国家が悪い」という占領政策の宣伝と合わせて相応のインパクトがありましたが、敗戦ショックが終わり社会が落ち着いてくるとスローガン的学問では納得できない人が増えてきます。
「人権」・自然権という「権利」とは、国家社会が公認して初めて言える概念でないかというあたり前の批判(私の個人的思いつきですが、この程の批判は起きるでしょう)が起きてきたのではないでしょうか。
素人的思いつきですが、「人権」という概念自体が、国法で認められて初めて「権利」に昇格するのですから人「権」という点で国家社会成立前の自然「権」という言語自体に言語的矛盾をはらんでいます。
例えばベンサム(1748-1832)の理論がそうです。
https://plaza.umin.ac.jp/kodama/rights/kanrin_presentation.htmlによれば以下の通りです

ベンタムの自然権論批判
–法実証主義者としてのベンタム– 京都大学 児玉聡

具体的には自然権論のどのような点が誤りなのでしょうか。第一に、ベ ンタムの考えでは、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は、 事実命題として考えた場合、意味を持ちません。というのは、「ある人がかく かくしかじかする法的権利を持つ」と言われた場合は、政府がその権利を保護 する措置を事実とっているかどうかを確かめることによって真偽を判断するこ とができますが、「自然権と称されるものの場合、そうした事実は存在しない– また、そのような自然権が存在していないと仮定したときにも存在するであろう事実しか存在していない」(III, p. 218)からです。そこで、進んで、ベン タムは、法的な権利に先立ち、政府による立法を拘束するとされる自然権は、 空想の産物でしかないと主張します。フランス人権宣言第二条にある「あらゆ る政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」 という主張に対して、ベンタムは次のようにはっきりと述べています。「自然権などというものはない。政府の設立に先行する権利などというものはない。 法的権利と対立し、対比される自然権などというものはない」(p. 500)。
3.3 したがって、自然権は合理的な議論の基礎になりえない
今述べたように、「人はかくかくしかじかする自然権を持つ」という主張は法 的権利の場合と同じように事実命題として考えるならば、無意味な命題になり ます。そして、このような性格を持つ自然権を根拠にした現行の法を批判した り立法の是非を論じたりすると、合理的な議論ができなくなるとベンタムは考 えました。

そこで天賦不可譲論・自然権論に代えて 「自己実現」「自己統治」と言われるようになった(私個人的推測です)のでしょうが、一見何かありがたいような意味ですが、(いつも書きますが「近代法の法理を守れ」とか意味不明言語を用いて思考停止を求めるのが戦後学問の特徴です)単なる言い換えの宿命で?もうひとつピンときません。
自己実現とは本来芸術家が内面を表現する行為としては、最も適した熟語のようなイメージですが、これとても(数世紀後でもいつか)社会が受け入れてこそ、芸術として評価されるものですし、どちらかといえば心理学にその本籍があるものでしょう。
これを社会(人間と人間の)関係をどう律するべきかの学問である法律学者がなぜ使うようになったのか意味不明ですが、法律学は相手のある学問・・人間と人間の関係を規定する学問であって、周囲の迷惑お構いなしに自己実現するのをどうやって規制するのが合理的かを模索することこそが法学ではないでしょうか。
「法」とは社会の人間関係のあり方を規定するための道具ですから、芸術家のように自己実現さえできれば、相手がどう思おうとどうでも良い関係ではありません。
会議や友人との食事でも言いたいことを言う権利があるからと話題の流れと噛み合わない場違いなことを言うと話が噛み合わなかったり相手を不愉快にさせるので次第に会議や食事会等からはずされるようになります。
衣装アクセサリーだって自己実現するのは勝手とはいえ、制服以外にも、レジャー用と事務職用の別があるなど相応のドレスコードがあります。
自己実現は自由としても相手のあることである結果、自由市場で弾かれるのを容認するというのが自由市場論でしょう。
その社会のためになる意見でもその社会を悪くする意見でもどんな意見であっても、政治参加することによって「自己統治できる」?という変な論理(私にはわかったようで分からない熟語?)ですが、憲法学者に言わせれば結果がどうであれ、意見をいう自由が先ずは必要・結果的に社会のためになることが多い(社会や周囲の人の嫌がることを言う人はおのづから遠ざけられる)だけという評価のようです。
表現の自由は自己の幸福追求の権利である以上、「所属する社会・集団をよりよくしたい」か「悪くしたい」かの価値評価を含めてはならない・・・その意見の結果社会がどうなろうと、「個人が政治意見を言いたいなら自由に言わせるべき」だ。
その意見が「国家・社会のためにする意図」あるいは「利敵行為目的」であろうがなかろうが「言いたいことを言える権利」・・国家の介入を禁止したいことに重点があるようです。
人権問題は国家と個人との決まり事であり、国家は思想に価値介入できないが、個々人は自分と意見の合わない人と無理に付き合う必要がないのですから、個々人がノーと言えないことまで言いだすと行き過ぎです。
(利敵目的・勤務先や所属組織の損失目的を仮に明らかにしても)「それを理由にして言論が制限されない」・・・それが支持されるかどうかは、言論の自由市場論で解決する・・別次元で考えるようです。
国連特別報告は、国家が直接検閲し禁止しているのではなく番組から降ろされる事例を書いていましたが、(反日を言えば支持されないので)結果的に「言いたいことが言えない社会」は表現の自由度が低いとなるのでしょうか。
表現の自由は、思想の自由市場が機能していることが前提ですから、言論の自由市場が寡占支配になったり、国家が介入したのでは、市場で売れないのは自由競争の結果ではなくなりますから、寡占の弊害除去と国家権力の介入を厳重に監視する必要があります。
従来国家からの距離だけに関心があって、寡占支配に意図的に目をつぶってきた弊害が出てきたように思われます。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC