基本的人権と制約原理2

自己実現論によれば「日本を滅ぼす目的の主張をする権利がある!」という行動も言論/表現の自由の1態様のように見えますので、自己の意見に自信があるならば堂々とその主張をしてくれればスッキリします。
日本の性道徳は国連勧告を受けるほど世界の低レベルだと世界宣伝したいならば、自己実現・言論の自由があるのですから、匂わせ発信しないで堂々とそう言えばいいことです。
あるいは、日本国を中国等の支配下に置くためには、どのような方策が必要かをテーマにしたシンポジューム開催の利用申し入れを日本の公的施設は(犯罪行為を伴う計画の場合には拒否できるでしょうが)利用拒否できないということでしょう。
反日とは言わないものの、反捕鯨の国際活動家が太地のクジラ博物館(名称を正確に知りません)へ入館拒否されて損害賠償請求した事件の顛末をユーチューブで見た記憶がありますが、一見すると「思想で差別するな!」という憲法違反の争いというイメージでした。
以下記憶喚起のために検索したところ、以下の通りです。
https://blog.goo.ne.jp/teramachi-t/e/5d843379b92e8c36792af6f53f6e52e0

建物や施設を設置し管理している側が、特定の人や団体の使用を拒否して社会問題になることが時々ある。
そんな時、「今の時代になっても、こんなことが起きるのか」と感じる。
先日は、クジラの捕獲問題で取り上げられることの多い和歌山県太地町の施設の入館拒否に関して、裁判所が町に「損害賠償を命令」した。
ウォール・ストリート・ジャーナル日本版/時事通信社 2016年3月25日
和歌山県太地町の「町立くじらの博物館」が捕鯨反対の外国人であることを理由に入館を拒否したのは憲法に違反するとして、イルカ保護団体のオーストラリア人女性が町を相手に約330万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が25日、和歌山地裁であった。橋本真一裁判長は原告の精神的苦痛を認め、町に11万円の支払いを命じた。憲法違反は認めなかった。
反捕鯨理由に博物館入館拒否、太地町に賠償命令
読売 2016年03月25日
捕鯨に反対していることを理由に和歌山県太地町立くじらの博物館への入館を拒否され、精神的苦痛を受けたなどとして、オーストラリア人女性(31)が町に335万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が25日、和歌山地裁であり、橋本真一裁判長は訴えの一部を認め、町に11万円を支払うよう命じた。
訴状などによると、自然保護団体メンバーの女性は2014年2月9日、同館の入場券を購入しようとして、職員から「捕鯨反対の方は博物館には入館できません」などと記載されたプラカードをみせられ、入館を拒否されたと主張。思想・信条の自由を保障した憲法に反するとして同年5月に提訴した。
これに対し、町は、女性らがこの数日前に、「観光目的」と偽って同館を訪れ、ビデオ撮影などの取材活動をしたとして、他の来館者の迷惑になるおそれがあったため、入館を拒否したと反論していた。
★≪思想・良心や表現の自由を保障した憲法の趣旨を踏まえ、女性は情報を得ようとする行為を妨げられたと判断≫(朝日)という。

(判決書自体のデータ不明なので)上記各報道の紹介を総合すると、裁判官は一足飛びの憲法判断に行かない・手堅いのが実務ですから、町の主張に対して、入館申請に対して数日前の行為を理由にして拒否する合理性(暴力や破壊行為などがあれば別ですが写真撮影程度では)があったかどうかの事実認定で判断したものと思われます。
そうとすれば、ウオールストリートジャーナルの報道が客観的です。
朝日は例によって憲法違反とは言わないが思わせぶりですし、このブログ作者も朝日の主張のまま本音で受け止めたのでしょう。
誤解のないようにきっちり書いている判決でさえ、このように多くのメデイアが種々の書き方になり、読者は思想差別に対する憲法裁判として受けとめ理解しているのですが、(私が数年前にユーチューブで見たときに受けた印象もそういう編集でしたが、書き方がどうであれ、ほとんどの人が本音で印象づけられるものです)名誉毀損訴訟になると「そんな(例えば反日文言は)ことは、どこにも書いていない」とする攻撃道具になり大方勝訴する巧妙な仕組みです。
裁判所は名誉訴訟では、全体の文意・宣伝者の伝えたい本音を読み取る必要があるのではないでしょうか?
ちょっと前に書きましたが消費者保護の前線では、美辞麗句をいっぱい書いていて能書きの端っこに小さな文字で例外を書いてあっても免責されない運用になっているのと同じように、名誉毀損訴訟でも全体として自分が国連特別報告に如何に貢献していたかを宣伝していたと認められる場合には、裁判になってから、特別報告者に対して、具体的に「何を告げ口?」したかを判断基準にするのではなく、全体印象として消費者の受け止め方を基準にすべきではないかの不満があるでしょう。
慰安婦報道に関する朝日新聞や朝日の記者に対する名誉毀損訴訟問題も、消費者である数百〜数千万国民に与えた影響度で判断すべきか、記者を批判する専門家としての節度基準で判断すべきかによって判決内容が変わってくるように思われます。
ここでなぜ消費者基準をいうかというと我々弁護士でも受任事件として目を皿にして縦横斜めに読み込むときと、出勤間際や電車内で瞬時にちらっとイメージ的にニュースその他の報道を流し読みしているときとでは判断基準がまるで違うから弁護士か、学者かどうかを基準にするのではなく、その都度の置かれた立場による基準が必要です。
昭和40年代のことですが、修習生時代に次席検事が、(当時私のいた地検本庁でも組織が小さく次席まで含めて正検事が4人くらいしかいない牧歌的時代でしたので、修習生を含めてしょっちゅう日常会話がありました)千葉県柏市(当時わたしは千葉県に縁もゆかりもなかったので千葉という地名しか知りませんでしたが)で不動産を買ったところ、被害に巻き込まれて弁護士相談中という話を聞いたことがあります。
「まさか検事さんを騙すなどできこっこないですよ!」という殺し文句にマンマと引っかかったということでした。
池田信夫氏の批判意見自体何かを知らないので断定的意見を書けませんが、NGO弁護士批判は他の本業の合間にちらっと読んだだけの個人意見なのか?政治社会現象の評論家としてのプロの仕事として読み、プロの意見として批判のタネにする場合とすれば、きちっと読むべきだったでしょう。
彼に限らず報道関係者が独立評論家に転身した場合、ムード報道での刷り込み成功で一人前になった人が多いと思われるので、経験上ムード報道自体に噛みつきたくなるのは理解できますが、法の世界では原則として「事実が何か?」で決まります。
法律家=法律論ばかりだと思っている人が多いでしょうが、裁判実務では「事実に法を当てはめる」作業ですから事実認定が先決的重要です。
ムード報道である以上ムードで国民を煽るのは国民を誤った方向へ誘導するから良くないと批判・意見表明するのは自由でしょうが、自分自身ムード方法しか経験がないとムード報道自体を事実かのように批判してしまう傾向がある・そういう批判を書いてしまったように見えます。
私のような素人が仕事の合間にムード的受け止めで反応していた場合に訴えられても、裁判所は消費者目線での判断基準で判断したかもしれませんが、彼は(池田氏の職業を知りませんが?)プロ評論家としての意見を発表している場合には、プロとしての慎重な読み込みが要求される・その基準で解釈されるのは仕方がないでしょう。

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