ピープルと文字文化普及2

今の中国語では、漢字と漢字を繋ぐ文字として,普通に知られているところでは・・「的」「地」「得」などの利用が知られていますが,(構造助詞と言うそうです)自民族言語使用の文字になれば自然発生的にこう言う助詞副詞間接詞的な繋ぎ文字表現が生まれて来るのが普通の発展形態です。
そこで最も多く使われている[的」がいつから使われるようになったかが気になって調べてみると,以下の論文が見つかりました。
一部引用しか出来ないので,関心のある方は全文をご自分で御読み下さい。
http://www.ffl.kanagawa-u.ac.jp/graduate/ronsyu/img/vol_17/vol17_04.pdf
中国語構造助詞「的」の歴史的変遷
     ─表記と構造から考える─ 于 飛
1.1 中国の唐代
構造助詞「的」の最初の形は「底」という漢字で書かれて、中国の唐代に初めてみえてくる。最初に記載された文献の中には以下の二つの用例しかない。
「底」の構造は「X(名詞、代名詞、動詞、形容詞)+底」及び「X(動詞、形容詞)+底+名詞」である。次は最初の2例をとりあげる・・以下中略
1.4 中国の元・明・清時代
・・中国の元代から、表記としての「底」の代わりに「的」という漢字がよく用いられる。・・以下中略
5 現代中国語における構造助詞「的」の研究
現代中国語で最も多く用いられる漢字が「的(de)で、使用頻度はおそらく5%を超える(100字のうち5字以上を占める)。現代中国語において、「的」は使用頻度といい機能といい、きわめて重要な助詞である
・・・・中略・・表はコピペし難いので省略・・
表1でみると、「的」の表記と構造の歴史の変化ははっきり分かってきた。
表記の方は、中国の唐代に「底」という漢字を使いはじめ、宋代に「的」という漢字は「底」の代わりに用いられた。その「的」の使用率は元代から普及されて、現代まではもう完全に「底」に取って代わっている。構造の方は、「A(名詞、代名詞、動詞、形容詞)+底・的」の構造は唐代から現代までほとんど変わっていない。
「A+底・的+B」の構造は唐代と五代では「的」の前に名詞と代名詞が出てない。それ以外、現在の話し言葉の中で、「数量詞+的+数量詞」の構造も用いられた。用法からみると、「的」は最初の連体修飾と準体助詞の2つの機能から、現代中国語の副詞の後置成分、状態詞の後置成分と助詞(朱德熙氏の『現代漢語語法研究』(1980年)によると帰納された)の3つの機能に発展した。」
となっています。
唐の衰退が始まった頃(安禄山の乱が起きたのが天宝14年です)から、徐々に口語に合わせた表記方法が発展して(上記論文には日付がないので発表年月日が分りませんが,)現代表記になって(簡体字化+学校制度を構築してから数十年経過でみんなが使えるようになって)助詞が漸く一般化して来た経緯が分ります。
(このコラムは時々注記しているとおり専門論文ではなく,思いつき自由奔放な素人判断ですので念のため・・)
唐の時代に漸く「低」と言う「つなぎ言葉(中国の定義では構造助詞)」が2例出て来たのですが,(代表的な「的」を見ているだけなので,その他繋ぎ文字の有無までは分りません)我が国万葉集では殆ど全てに万葉仮名を工夫して副詞・助詞や間接詞が使われています。
日本では既に14〜500年前から多様な助詞を使っていたのです。
昨日書いたように,聖徳太子以前から数百年単位で徐々に日本列島の独自意識成長が進んでいたコトが分ります。
縄文時代以来数千年以上育んで来た独自文化・・民族気質・価値観からすると文字その他便利なものは明治維新時の和魂洋才・・同様に大陸から導入するとしても,気質・価値観は受入れられない関係だった可能性があります。
その後の律令制導入も同様であったことも繰り返し書いて来ました。
ここのテーマは文字導入ですが,漢字を導入・・記録することの便利さを導入したものの表記方法はすぐに独自開発していたことを書いています。
自民族の発音どおりに文字化するには,昨日書いたとおり表意文字だけでは不便なので,どうしても表音文字が必要です。
これが唐時代初見と言うのが上記論文です。
上記論文では出典書物が唐時代と言うだけですが、唐も長いので念のために時期を調べてみました。
昨日紹介した論文の内2例が出ている文書の1である「隋唐嘉话」はどう言う文書でいつ書かれたものか?
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8B%E5%94%90%E5%98%89%E8%A9%B1によると、「隋唐嘉話》,又名《國朝傳記》、《國史異纂》,凡三卷[1],唐代劉餗著。」「记载南北朝至唐代开元年间史事,以补正史之阙」とあります。
要するに正史に漏れた部分の私的補遣文書と言う意味でしょうか?
著者の生没年不明となっていますが,著者劉餗の経歴をhttps://zh.wikisource.org/wiki/Author:%E5%8A%89%E9%A4%97で調べると「劉餗,字鼎卿,徐州彭城(今江蘇徐州)人。生卒年不詳。劉知幾次子。進士及第,天寶初年,歷官河南功曹參軍、集賢院學士,兼修國史,官終右補闕」となっています。
進士及第の天宝は玄宗皇帝の年号でhttps://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AE%9D_(%E5%94%90%E6%9C%9D)によると,「天寶(742年正月—756年七月)是唐玄宗李隆基的年号,共计15年。天寶與開元兩個年號可以合稱為開天」と記載されています。
美術家は若くても立派作品を出せますが,歴史書は資料蓄積ですので若い頃にはまとまった歴史書を書けないでしょうから,晩年の著書とすれば,760年前後頃の著作でしょうか?
第2例の朝野佥载はhttp://baike.baidu.com/view/1039792.htmによれば、以下のとおりです。
作者张鷟,字文成,号浮休子,史称“青钱学士”;深州陆泽(今河北深县北)人。生卒年不详,大致在武则天到唐玄宗朝前期,
則天武后から玄宗皇帝前期の人です。
現在中国語になるまで、マトモな口語表記が生まれなかった・・今でも[的」1つの漢字を多様に使い回しをしている・・発展途上・未発達なことが分ります。
唐時代には2通りの使い回ししかなかったのが今では多種多様な利用が行なわれている・・生活高度化により言語表現が発達したのに新たな文字創作力が追いつかない様子が窺われます。
「的」だけではなく前後に来る文字によって1つの漢字が意味の違う使い方をするから表意文字とは言い切れない・・中国文字は「表語文字」と言うらしいですが,単に表音(間接)文字が未発達なだけではないでしょうか?
昨日からこれを私流の理解で「繋ぎ文字」と書いて来ましたが,中国ではこれを「構造助詞」と言うらしいです。
「構造助詞」など学校で習わないな!と思って検索してみると,中国語勉強関連の情報ばかりで中国語以外にはない・・一般的用語ではない印象です。
中国人自身の使っている言語表現に合わせた文字文化が未発達だから「的」「得」など限られた文字を多様に使い回す必要になっているだけではないでしょうか?
北朝鮮同様で,中国は何でも謙虚に考えず開き直り・・強弁する傾向がありますが、これでは発展性がありません。
(劣等感が強過ぎるからではないかと一般に思われていますが,もっと根深い問題・・エリ−トだけが本当のこと知っていれば良い・・庶民は支配・教育の対象であり,都合の良いコトだけ教えておけば良い・・真実は教える必要がないと言う思考による・・ここでテーマにしている西洋式エリートとその他庶民・民族分断思考が基礎にあるというべきです)

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