消費レベルアップ1→小さな政府へ5

内需拡大・消費レベルアップのためにもインフラ整備は必要ですが、(あちこちに美術館や芸術ホール等の整備も重要です・・これによる文化レベルアップは、数世代以上の長期的効果を見なければ分りません。
ただし、以下に書くアニメの発達が美術館や劇場の設置とどう言う関係があるか分りません・・識者がアタマで考えて何か投資すればある文化が生まれる訳ではない・・自然発生的なところ(民を豊にするしかない)があるのが文化です。
ふすま絵その他は豪荘な建物の発達と関係があるでしょうが、俳諧や、能狂言、文楽や浮世絵や落語江戸期に発達した書籍出版などが、政府が文化発達のために何かした結果?ではないでしょう。
少しは関係があるとしても能のようにせいぜい政府が保護した程度・・後追いが原則です。
歌舞伎や浮世絵あるいは書籍出版はどちらかと言うと禁遏の影響の方が大きかったと思います。
アニメが日本文化発信に役立つと気が付いてその後押しをするのは政治の領分でしょうが、アニメが産業として育ったのは鳥羽僧正の鳥獣戯画巻以来千年単位の伝統文化が基礎にあって、若者に生活のゆとりがあるからですし、政府による成長投資があったからではありません。
(今の若者にゆとりがある訳がないと反論されるでしょうが、若者自身非正規等で困っているとしても豊かな親世代の恩恵を受けて育っていて漫画を書いて,または友達の書いた漫画を楽しむ「ゆとり」があることは確かです)
政府が応援するどころか、数十年前には「いい青年になっても電車で漫画を読んでいる」と眉をひそめる論調が主流でした。
こうした分野の競争が主流になって来ると、仮に政府が後押ししてもその効果は1政権や2政権の間に効果が出る訳がないので、政策効果の有無を議論をすること自体間違っています。
アベノミクスの効果が出ているor出ていないと言う議論が盛んですが、こう言う議論が疑問なく行なわれていること自体で、経済学者は今でも政府の仕事は短期の成長戦略実現のためにあると思い込んでいる・・この目的実現ためには従来どおりの税収が必要であると考えているように見えます。
GDP競争に税を使う時代は終ったことを書いてきました。
先行者利益・・即物的生産力では後進国の模倣による追いつく速度の方が早いのが原則ですので,植民地支配のように被支配国生産を禁止するなど不正がない限り、先進国は早晩並ばれ、追いついた方が活力があるので先行者は没落して行きます。
先進国(デパート言えば三越が)においてはいつの時代でも新たな消費モデル・文化モデルの提示に成功してこそ、その地位を維持出来るのであって、この提示が出来ない限り追い着かれ追い越され廃墟になって行くしかない・・メソポタミアであれ、ローマであれどこであれ栄えた国が滅びるのはこの原理によります。
京のみやこが長年その地位を維持出来ていたのは「みやび」の独占による文化発進力で勝負出来ていたからです。
国民レベルが低くとも体力さえあればある程度出来る・・生産力競争を卒業して消費文化競争→この結果生まれた優れた文化製品輸出であれば、(文化は何世代と言うように)簡単には追いつけませんし、国民レベルの違いが出て来ます。
幸い日本は遣唐使の昔から相手国の文化の粋を選別して持ち帰る能力に優れていましたし、戦後敗戦で廃墟になった直後でも日本は西欧の良いものしか買わない国民性・・文化でした。
消費する国が発言力のある時代になると、輸出ばかりで内需の少ない・・買い物しない国は喜ばれません・・内需率が重要になります。
貿易黒字・将来買うことが出来るようにするのが目的ですから、純債権国になってから何十年も黒字ばかり稼ぐのは能ではありません。
毎年長者番付に載る富豪が昨年より何%増えたと言う程度の成長率の問題にこだわっているのは滑稽です。
成長率・・GDP算出方法自体この後で書くように現地生産の進展で、本来の国力を表さなくなって久しいのです。
労働者賃金も現地従業員指導のために出向すると現地子会社の支払給与になる・・どちらかと言うと高給取りの国内就労者が減り、支払給与がなくなったことになりますが、
国内にいる家族には夫の給与は従来どおり振り込んで来る・・むしろ海外出張手当?分として海外子会社からの支給が増えて余計払ってくれるのが普通です。この家族は無収入世帯になり(フィリッピン人が海外にメードになって出稼ぎしているのと同じ)海外出稼ぎ送金によって生活している分類になるのかな?
いろんな意味で従来は国内生産にカウントされいた多くの分野が皆海外生産の統計に変わっている・・企業実力としては同じことが、別会社として計算されるようになって来ると全体が不明なので、企業会計では連結決算が普通になってきました。
国の実力も連結で見ないと分らない時代になっているのに、日本国単体の売上・生産力で見て・・時代遅れのGDP競争しても意味がありません。
昭和40年代に入って都内から工場がドンドン追い出されて地方に出て行き、今では都内の工場は滅多に見かけませんが、都内の生産が減ったからと言って東京の活力がなくなったと言う人はいないでしょう。
デパートで言えば本店売上が日本一でも国内支店数が競合他社の10分の1しかなくて全体の売上では7〜8番目でしかないのでは意味がないのですが、今のGDP競争・信仰は支店売上にあたる海外売上を見ないで本店売上競争のデータで1喜一憂していることになります。
トヨタ、ホンダ、コマツ・日立などで言えば、世界全体の売上増減が主要テーマであり、国内販売だけで企業の将来性を判断する人は滅多にいないでしょう。
国内生産力が前年比何%の成長をがどうなったと言うGDP論争は、「井の中の蛙」のような議論で意味がないことが分ります。
国民に必要なことは前年比生活水準が良くなったか・その持続性が(国際収支大赤字ではその先貧困が待っていますので楽しめません)どうかでしょう。
生活水準とは結局のところ(パンを人の3杯食べられれば良いと言うのではなく)消費水準の文化度です。

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