司法権の限界3(証拠による事実認定)

政治決定の場合、情報源・判断資料が何かを開示する義務がありませんし、国民もAと言う政治家を選んだ理由を説明する義務がないどころか、誰を選んだかも秘密に出来ます。
司法権は国民から政治決定の委託を受けていない専門家と言う位置づけですから、専門的判断である以上は判断根拠を示す義務があります。
しかも根拠とする事実は、証拠によって認定された事実に限られます。
刑事訴訟法
第四十四条  裁判には、理由を附しなければならない。
第三百十七条  事実の認定は、証拠による。
第三百十八条  証拠の証明力は、裁判官の自由な判断に委ねる。
第三百三十五条  有罪の言渡をするには、罪となるべき事実、証拠の標目及び法令の適用を示さなければならない。

民事訴訟法
(判決書)
第二百五十三条  判決書には、次に掲げる事項を記載しなければならない。
一  主文
二  事実
三  理由
以下省略
2  事実の記載においては、請求を明らかにし、かつ、主文が正当であることを示すのに必要な主張を摘示しなければならない。
(自由心証主義)
第二百四十七条  裁判所は、判決をするに当たり、口頭弁論の全趣旨及び証拠調べの結果をしん酌して、自由な心証により、事実についての主張を真実と認めるべきか否かを判断する。

「自由心証主義」と聞くと自由自在のような印象を受けますが、証拠評価について自由な心証によると言うだけで、(法律論としては「法定証拠主義」でないと言うだけで「事実の認定は証拠による」義務があるので)証拠のないことを認定することは許されていません。
上記のとおり、判決するには、訴訟手続で厳格に管理された「証拠によらないといけない」のですから、証拠調べしていない・・裁判官が個人的に知っていることや感じたこと・・心象風景を判断根拠に持ち込むのは、ルール違反になります。
訴訟に出た証拠からそのような事実認定が合理的であるかの基準には、経験則が用いられ当事者が不満の場合には上訴審でチェックを受け・・社会的影響力のある事案では、学者や世間の批評対象になります。
昨日紹介した日経の意見によれば、社内で証拠を吟味したところ、証拠からは決定理由となる事実を導けない・・・・だから証拠以外の心象風景を根拠にしたのではないか?と言う遠回しの評価意見になったと思われます。
訴訟手続の技術論を離れて司法権と政治の関係に戻りますと、司法権の優越性と言われることがありますが、国民心象・民意・・心象風景を理解し実現する政治判断能力ではなく、法の解釈・精神がどこにあるか・事実が法に合致しているかの最終認定能力・権限でしかありません。
憲法上は、国会が国権の最高機関ですし、実質的にも妥当です。
法の解釈を司法手続内でしか覆せないので、最終決定権者のように見えるだけです。
それがいつの間にか、拡大されて法そのものを創造出来るかのような振る舞いを始めようとしているように見えるのが、現在社会と言えるでしょうか?
古来から南都6宗に始まり叡山のゴリ押し、弓削の道鏡や宦官等の側近・・近代では軍部が戦後では農協や総評・日教組・医師会などが政治に口を挟むなど、特定分野が強くなると政治に容喙したくなり勝ちですが、司法権もその一事例を加えるようなことにならないように司法に関わる人々は自戒する必要があります。
どんな分野も突き詰めれば政治の影響を受けるので、古くは衆生済度を目指す宗教界が影響力を持ちました・・戦争の危機時には軍人の発言力が増すし、経済危機には経済関係者・・オリンピックが近づけばその関係者のニュ−スがにぎわいます・・台風が近づけば気象ニュースとそれぞれ変わって行きますが、特別なことがなくても衆生済度は永遠のテーマですので、今ではこの役割を担う弁護士会が「人権擁護」(平和・難民)を主張する限りいつでも主役を張れると言うところでしょうか?
何事でも熱心になるとツイ、政治に口出ししたくなりますが、政治を後援するのは別として政治決定そのものに参加出来るのは、昨日書いたように選挙手続を経て民意代表として公認された人だけです。
古くは一定組織で昇進を重ねた人は、多くの支持を受けているので間違いがないと思われてきましたが、中国のように内部ネゴ(付け届けや足の引っ張りあい)のうまい人がはびこるマイナスもあるので、結局は多数の民意による選挙・・テスト社会になったのです。
中には感性が発達していて選挙を経ないでも民意吸収能力の高い人もいるでしょうが、自己満足の場合が多いので、選挙の洗礼を受けた人だけを有資格者とする現在の制度が合理的です。
評論家や弁のたつ人が選挙に出て落ちるのは,選挙制度は自己主張をおしつける人ではなく民意吸収能力(御用聞き能力)のテストである本質からすれば当然です。
自分らの気持ちを代弁して主張を通す能力のある人に託すのが合理的ですから、一定の説得力・・弁論能力が要求されますが、先ずは良く聞いてくれる人が第1の要件です。
政治決定をする・・濫用的動きをしている裁判官がいるとした場合、ソモソモ「憲法や法と良心のみに従う」べき憲法違反ですし、(「良心」とは何かについて後に書きます)法創造する前提としての価値判断をどうやって形成するのか、どうやって民意を吸収したのかが問題です。
民意吸収能力差を基準にすると秀才はむしろ一般人よりも劣っている場合が多いのですから無理があります。
27日に紹介した日経の記事では、心象風景の認定」が基礎にあるようだと書いているように私には読めますし、本件仮処分決定は正にそうではなかったかの疑問(決定書をまだ読んでないので疑問でしかありません)を抱いて書いています。
(証拠によらない認定をすると、当事者に対する不意打ちになって反証を出すチャンスすら与えないことになり不公正な裁判になってしまいます。)
古来から南都6宗に始まり叡山のゴリ押し、弓削の道鏡や宦官等の側近・・近代では軍部が戦後では農協や総評・日教組・医師会などが政治に口を挟むなど、特定分野が強くなると政治に容喙するようになり勝ちですが、司法権もその一事例を加えるようなことにならないように司法に関わる人々は自戒する必要があります。
どんな分野も突き詰めれば政治の影響を受けるので、古くは衆生済度を目指す宗教界が影響力を持ちました・・戦争の危機時には軍人の発言力が増すし、経済危機には経済関係者・・オリンピックが近づけばその関係者のニュ−スがにぎわい、台風が近づけば気象ニュースとそれぞれ変わって行きます。
特別なことがなくても衆生済度は永遠のテーマですので、今ではこの役割を担う弁護士会が「人権擁護」(平和・難民救済)を主張する限りいつでも主役を張れると言うところでしょうか?
つい、政治に口出ししたくなりますが、政治を後援するのは別として政治決定そのものに参加出来るのは、昨日書いたように選挙手続を経て民意代表として公認された人だけです。
古くは一定組織で昇進を重ねた人は、多くの支持を受けているので間違いがないと思われてきましたが、中国のように内部ネゴ(付け届けや足の引っ張りあい)のうまい人がはびこるマイナスもあるので、結局は多数の民意による選挙・・テスト社会になったのです。
中には感性が発達していて選挙を経ないでも民意吸収能力の高い人もいるでしょうが、自己満足の場合が多いので、選挙の洗礼を受けた人だけを有資格者とするのが合理的です。
評論家や弁のたつ人が選挙に出て落ちるのは,選挙制度は自己主張をおしつける人ではなく民意吸収能力(御用聞き能力)のテストである本質を理解していないからです。
政治決定をする・・濫用的動きをしている裁判官がいるとした場合、ソモソモ「憲法や法と良心のみに従う」べき憲法違反ですし、(「良心」とは何かについて後に書きます)法創造する前提としての価値判断をどうやって形成するのか、どうやって民意を吸収したのかが問題です。
政治決定する正統性の根拠が、民意吸収能力差であるとした場合、秀才はむしろ一般人よりも劣っている場合が多いのですから選挙を経た公認資格がないだけではなく、実質的にも無理があります。
27日に紹介した日経の記事では、心象風景の認定」が基礎にあるようだと書いているように私には読めますし、本件仮処分決定は正にそうではなかったかの疑問(決定書をまだ読んでないので疑問でしかありません)を抱いて書いています。
(証拠によらない認定をすると、当事者に対する不意打ちになって反証を出すチャンスすら与えないことになり不公正な裁判になってしまいます。)

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC