テロと暗殺1

暗殺・刺客では、始皇帝暗殺に失敗した刺客列伝の荊軻が有名です。
上記に明らかなように暗殺自体アラブ特有の問題ではなく、どこの国でもあるものです。
刺客列伝の特徴は「義士」であると言うものですが、その理由とするところは刺客は依頼者が自己を認めてくれたことに対して義を感じて、自己の生命を犠牲にしてでもその恩に報いるための行為だからです。
赤穂浪士を義士というのもこの流れでしょう。
テロと刺客・暗殺の違いは、自己犠牲を前提にするか否かで大きな違いがあると言えます。
テロはソ連のテロで有名なとおり自己犠牲ではなく、集団抗争の一手段・・自己政策実現のための支配権力行使策・・恐怖政治のことですが、暗殺や刺客は自分の命を犠牲・死を原則的前提にした義挙のことです。
今では遠くからの狙撃が可能なので自分も助かることがありますが、昔は刀槍しかないので仮に成功しても多くはその場で斬り殺されます。
今でも自爆テロが普通であるし、今年プラント企業の日揮が被害を受けたアルジェリアのテロ(マスコミはテロという汚名を着せますが,実際は上記のとおり暗殺の一種です)でもテロリストみんな死亡したことからみても、自分の死を恐れない・・義(本当の正義を守るためか、単なる思いこみかは別ですが・・)のための戦いが彼らの行動原理であることが分ります。
自己を犠牲してもやりたいのは、已むにやまれぬ抑圧等をしている相手の非正義を正すための行為・・正義のための行為と位置づけられることが分ります。
どんなに相手(政府権力の行使)が不当であろうとも弱者の武器である命をかけた実力行使・抵抗がいけないといえるのでしょうか?
強いものが権力を握り、権力行使に名を借りて実質不当なことを合法的に押し付けて来る場合、弱者グループの正義感実現には命がけの暗殺しかないと言う追いつめられた立場を道義的非難出来るのでしょうか?
この辺は、史記の刺客列伝に詳しいところで,狙われた君主自身が刺客を「勇士」であるとか「義士」であるなどと、その名誉を讃えています。
本当に狙われた君主が讃えたか否かは不明ですが、史記の編者・司馬遷の正義感が(李陵を弁護して武帝に官刑に処せられた悲憤が背景にあって)こう言う記述になっているのでしょう。
欧米マスコミはこれ(弱者の命がけの抵抗を正義の戦いと言われるの)をいやがって(欧米の世界支配が不正・非人道行為と認めるような感じがするので)フランスのジャコバン〜ソ連の恐怖政治とすり替えてアラブの命がけの抵抗をテロと言い張っているように見えます。
今でも盛んにあるアラブの宗派間(主としてシーア派対スンニ派)のテロは、フランス〜ソ連で世界的に知られるようになったテロの創始者・本家としての行為そのものですが、アルカイダ等による欧米社会に対する襲撃はテロと言うべきか、正義の抗議と言うべきかは別問題です。
ここ数日問題になっている自民党の石場幹事長のブログでの発言・・秘密保護法案反対デモはテロ行為だという発言も同じで、弱者の行動をテロという汚名を着せる欧米マスコミ流の意図が濃厚です。
殺傷行為を全く含まないデモ行進までマイクの音量が大きいだけで「テロ行為」と言い出すと、政権批判行為を封じ込めるために何でもテロと名付ければ良いという安易な意図が明白になります。
4〜50年前まで流行していた何か批判すると「あいつはアカだから」と言って問答無用式に批判していたやり方を、最近流行の「テロ」批判に石波氏が置き換えているのではないでしょうか?
assassin・暗殺者、assassinate・アサシネイトは元はアラブの発祥の単語でしょうが、英語の始まりは十字軍に対抗するために、アラブのキリスト教徒に対する暗殺集団がいるのではないかと憶測した・・せいぜい刺客を意味する英語が使われるようになったのが英語の語源らしいです。
十字軍が相手に刺客がいると思うようになったのはその前から、アラブ社会ではシーア派対スンニ派の異宗派に対する暗殺の応酬が繰り返されていたことによります。
これに対してテロはフランス革命初期ジャコバンの恐怖政治が発祥らしいですが、英語になったterrorismが世界的に行き渡ったのはロシア革命で政権争いのための集団的な殺しあいの繰り返しが大規模にあって、世界的に知られるようになった英語で、これは本当にあった歴史事件です。

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