国債破綻シナリオ3

ところで何故赤字国債がはびこり易いかと言えば、個人の震災等による被害の場合、比喩的に言えば「貯蓄1億円の一部・・数千万円で間に合う被害」の場合、先ず貯蓄の一部を取り崩して家の改築・改修などするのが普通で、貯蓄をそのままにして借金を先にしようとする人は滅多にいないでしょう。
これが組織になると無責任体質(共産主義国家で何事も親方日の丸体質になってソ連が駄目になったのと本質が似ています)になり易いからです。
収支トントンで運営している組織で会員百人、会員平均一人当たり1億円の個人資産がある組織(無限責任・・民法の組合形式を想定して下さい)で、その組織が災害で10億円の出費を必要としたときに、会費として1000万円ずつの特別徴収をすれば間に合うのに、これをしないで借金で賄う図式です。
収支トントンの組織ですから、いつまでたっても借金を返せないばかりか金利負担分が累積して行くので、いつかは会員が自己負担して借金を減らすしかありません。
ところが、その内元金を減らしていくどころかまた別の特別出費が必要になって更に借金を追加して行き、ついには借金総額が各人の資産総額に迫って来た状態です。
目先の自己資金を拠出するのがいやなので先送りしたくなるのでしょうが、増税・自分の懐から出すのを渋り赤字国債で賄うここ20〜30年以上の我が国経済はこの大型版です。
日本の個人金融資産が1400兆円と言われてましたが、現在の国債総額が仮に7〜800兆円だとすれば、国民が出す気になれば出せるお金があるのに、税・会費として拠出するのを嫌がって国債増発に頼って来た結果と見ることが出来ます。
本当に拠出するお金がなくて借金しているなら仕方がないですが、我が国の場合衆愚政治と言うか国民の我がまま度合の合計が国債の残高と言えるでしょう。
あるいは建前社会が進み過ぎたと言うか、エイズ被害あるいは何とか被害があるたびに政治家はその救済を約束するし、運動家は成果を誇るのですが、運動家自体あるいは関係政治家自身、自腹を切って救済資金を作る気持ちがありません。
乞食に何も恵まないで通り過ぎる人を「可哀想じゃないか」冷酷だと非難しながら、自分は一銭も出さないような傾向です。
総論賛成各論反対とよく言われますが、高度成長期には、「道路陥没」、「手すりがないので崖から落っこちた」、「公園の遊具がさびていて怪我をした」等々何でも政府の責任にして自分ではないみんなの責任=税負担にして薄める習慣が身に付きました。
高度成長期には自然税収増があったので支出項目を足して行く方法でも間に合っていましたが、自然税収増が停まると、建前としての救済拡大は結構なことですが、これが広がり過ぎるとこれに対応する税収増・・増税しないと計算が合わなくなってきます。
民主党は政権公約で無駄を削減してこうした大判振る舞いの資金を捻出するとしていましたが、大々的な事業仕分けをしても結局大した結果になりませんでした。
少なくとも民主党政権では公約通り無駄の削減をして収支均衡予算を組めなかったのですから、本来赤字分は支出を削減するか増税しかなかったことになります。
ましてやその後に新たな補償約束をするときにはどの支出を削ってその資金を出すのかを詰めてから、(政権党である以上、野党時代のように政府の冗費非難だけでは済みません)約束すべき責任があります。
政治家は、薬害補償その他の約束をするときには、どの支出を減らして保障するのか、あるいはその分増税して保障するのかを明示して約束すべきです。
薬害その他国に責任ある分は国で責任を持つべきは当然ですから、私はこうした救済・傾向に反対しているのではありませんが、道徳論ではなく「支出するには対応する収入がなければならない・・増税出来ないならばその分をどこかの支出を減らす覚悟がいる」という当たり前のことをここ20年以上無視する傾向が続いていることに異議を唱えているのです。
どこかの支出を減らして、その分を補償に充ててこそ痛みをかち合うことになる筈です。
何時払うか分らない・借り換えで先送りばかりして行って将来は踏み倒すしかない国債で賄うのでは、痛みを分ち合うことにはなりません。

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