廃藩置県と藩の負債処理

話を明治までの地方の名称であった国から縣へ変えた意味に戻しますと、半独立性の強い区域を表す国から中間管理職・任命制の地方長官が管理する「縣」の漢字の意味に合わせたことになります。
国のママでは半独立性があって中央集権を貫徹出来ない恐れ・・奈良時代の律令制導入が失敗に終わった経験から国のママでは都合が悪いと思って国を縣に戻したことになります。
我が国では縣を地方制度トップにするのは初めてのことであって旧に戻した訳ではなく、中央集権制で3000年も継続して来た本来の中国の制度に戻したと言うことでしょう。
このとき中国の古い制度を真似するのならば郡が上にくる郡県制であるべきですが、明治時代の中国では既に郡制がとうの昔になくなっていて省府縣制であったことも影響があったかも知れません。
ちなみに、真水康樹 氏の研究によりますと、秦の乾隆帝(乾隆35年といえば1770年頃?)以降の地方制度は省府縣制(直隷州を含む)だったようです。
これは府の下に縣が来る制度ですが、我が国明治以降の府縣制度は府と縣を上下関係ではなく対等にしている(今も上下関係がありません)点が違っています。
省を第1級の行政単位とする清朝の制度が、現在の中華人民共和国の省制度に繋がっているのです。
明治の版籍奉還が成功したのは、江戸時代中期以降には殆どの大名家が財政赤字に苦しんでいたことにあります。
大名家を取りつぶすだけならば、その大名の借金に将軍家は責任がありません。
しかし,版籍をそのまま引き継いだ以上・・会社で言えば吸収合併したようなものです・・引き継いだ政府の方で責任を引き継ぐしかないでしょう。
各大名家では財政改革(上杉鷹山その他が有名な大名家がいくつもあります、佐久間象山など改革で名を挙げた人物もたくさんいます)が行われていたことはご承知の通りです。
徳川家自体では享保、寛政、天保の三大改革がありますし、財政改革にある程度成功していた大名家は少数だったからこそ、彼らは幕末に発言力を持つのです。
大多数の大名家では財政赤字のために元々窮乏の極みにあって、地元商人層からの借金で首が回らなくなっていただけではなく、領内流通の紙幣類似のものを発行していて(当時は藩と言う名称がなかったので藩札と言う概念はありません)これが財政赤字に伴い累増していたのです。
成功していた大名家でも幕末動乱期になると無理して洋式兵器を買いあさったり、戊辰以降の兵役に参加せざるを得なかったりして、緊急の軍資金確保(戦争参加には巨額資金が必要です)のために大量の大名家家発行の紙幣類似のもの・・結局は借用証文みたいな効力ですから、国債や社債に似ているものの、小口ですから小切手みたいなものだったと言えます。
財政改革に成功していた大名家でも、幕末動乱で資金を使いはたしていましたので大量発行の藩札(慶応4年6月の政体書で藩と言う名称が生まれていますので、版籍奉還の頃には藩札と言うのは正しい)を償還することが不能になっていました。
朝敵になったことで有名な長岡藩(河合継之助のいた藩です)その他経済苦境にあった大名家は、一斉の版籍奉還前から独自に領地返納の申し出でをしていたくらいです。
多くの藩では発行済藩札や豪商に対する借金の支払不能状態・破綻状態でしたので経営権の返上を望んでいたことにあります。
今で言えば、経営破綻した銀行や企業を国有化してもらって自分は経営権を維持しようとする虫のいい思い込みです。
財政赤字の責任を明治政府に持って貰って、自分は責任をとらないまま藩知事に残れると言う都合(虫)の良いことを考えていたのです。
政府の方もこれに応えて版籍奉還後元藩主を知藩事に横滑りさせた(古代の国造を郡司に横滑りさせた例もありました)ので大名の方は安心したのでしょう。
政府は藩を承継した形ですから借金の責任を取るのですが、版籍奉還直後から藩札(この時には正式に藩と言っていましたので名称はあっています)回収命令を出し、これを市場価格で査定して回収することにしていました。
幕末混乱期の財政難のために各大名家では幕末から明治にかけて膨大な額の発行をしていたことから、殆どの藩ではデフォルト状態ですから、市場価格での政府負担・償還となれば、藩札保有者・債権者は表面価格の何十分の一に低下した市場価格で政府発行の紙幣を受け取ることになります。
債券が大暴落した時に額面で買い取ってこそ政府保障の意味ですから、市場価格で支払うと言うのでは、政府が責任を持ってやった事にはならないでしょう。
明治政府の紙幣発行制度について、01/16/07「不換紙幣と中央銀行の独立性1」で少し書きましたが、日銀券の発行が1885年に始まり、統一紙幣になったのは1889年のことでした。
廃藩置県(明治4年)の頃には、政府発行紙幣さえ存在しない時代でしたので、実際に政府から紙幣を受け取れたのは何十年後だったようです。

國から縣へ3

明治になって、地方制度を国制から縣制への何故移行したかの関心・・4月末から5月初めのコラムに戻ります。
ところで県の旧字体は縣で、これは間にぶら下がる意味・・すなわち中央政府と地方の間にぶら下がっている意味(今で言えば中間管理職の謂いです)で、「縣」となっているそうです。
(本来県と縣は別字ですが、戦後ごっちゃになって今では簡略化するだけのためにクビを逆さ吊りした意味の「県」を使っています)
古代において日本語のアガタに縣の漢字を当てたのは、(日本書記の頃は万葉仮名ですから、漢字を当てたのは平安時代以降になります)國の造との権力構造の若干の違いを前提にしたものです。
比喩的に言って徳川譜代大名が古代律令制開始前のアガタ主に該当するとしたら、国造は伊達や毛利、島津のように容易に転勤・国替えを命じられない地生えの豪族・・朝廷成立後に服属した朝貢国類似の豪族を意味していたのでしょう。
明治初めの版籍奉還で先祖伝来の領地を持つ大名もすべて版籍を天皇家=朝廷に差し出したので、平安中期以降荘園の増大で人民に対する直接支配権を失っていた大和朝廷(この時は東京朝廷と言うのかな?)が全国に直接支配権を再獲得した瞬間です。
大和朝廷では、理念としては中央集権でしたが、地方豪族の領地に直接手を付けられなかったのに比べれば、明治の版籍奉還は例外のない直接統治を実現したので、我が国初の快挙?となります。
(明治政府が王政復古を旗印にした所以です)
そこで、明治政府(大和朝廷)は直接支配権を明らかにするために、地方が國に別れていたのを改めて秦の始皇帝バリに縣郡制にしたことになります。
(地方の小単位として郡制度が古代から定着していたので今更郡を國よりも大きな単位に出来なかったので、縣を上に持って来たのかも知れませんし、我が国では古来から「郡」は地方豪族の単位だったこともあって、郡には良い思い出がなかったからでしょう)
しかし、國に分かれていてその上に君臨するからこそ皇帝・・帝国と言うのですから、(従来は大王・オオキミと称してしていて、大海人の皇子が政権獲得して始めて天武「天皇」と称するようになったのは、諸国を國に再編し再統一したことと無縁ではありません。)その後の大日本帝国の称号と合わなくなって行きます。
(その後植民地を持つようになって名実共に帝国になりましたが・・・)
08/04/05「法の改正と政体書」07/18/05「明治以降の裁判所の設置2(3治政治体制)」前後で何回か紹介していますが、明治の三治制度以降の廃藩置県と第一次府縣統合・県内行政区域の大区小区制その後の郡区町村制(明治11年)は大和朝廷が律令制導入時に制定したままになっていた国・郡郷里制・・地方政治体制の大変更となります。
これに合わせて官名も藩主から知藩事へ、さらに知藩事(ここまでは旧藩主の名称変更)から県知事に漢字を変えたのは、県知事以降は中央の任命・官僚制に代わったので意味があっていました。
明治政府は、中央集権体制整備思想を漢字の利用・意味にまで貫徹していたのです。
戦後地方自治制度が出来た時には、中央による任命制から地元民の信望によって選任されることに変わったのですから「縣」や県知事の名称も変えるべきだったことになります。
明治憲法では中間組織の管理責任者あるいは地域としての「縣」だったのですから、これをクビを逆さにした形の県に書き換えても国民主権に切り替わった意味に変更したことにはなりません。
この種の意見は天皇主権下での総理や大臣の名称を、国民主権になった戦後もそのまま使っているのはおかしいのではないかと言う意見として、09/17/03「日本国憲法下の総理 3(憲法30) 「新しい酒は新しい皮衣に3」前後のコラムで書いたことがありますが、これもその一例です。
版籍奉還により国内全部が朝廷に直属するようになった結果、従来の各大名の領域や国名の領域にこだわらず・・過去の元領主の意向を気にせずに、純粋に統治の便宜のための基準で地方行政区域を決めることが可能になりました。
政体書発布によって始めて藩概念が生まれた事については、07/19/05「藩の始まり(政体書)1」以下のコラムで紹介しましたが、領地を藩と称するようにお触れを出したこと自体、(版図はマガキで囲うことですから)領主ごとの飛び地経営はまずい・・一円支配へ変更したいとする思考が生まれていたことが読み取れます。
廃藩置県によって、抜本的地方組織の改編が可能になったので、明治4年11月の第一次府縣統合によって、(廃藩置県時には大名家・旗本領ごとの飛び地経営だったのが)先ず一円政治が可能になりました。
この後順次地方行政組織の整備が進んで行くのですが、その後の地方単位は行政の便宜を中心にして自然発生的範囲・歴史経緯をある程度尊重する程度にとどめて行政区域は政府の都合で統治し易く区切るものに変わったのです。
この端的な実現が県内の行政区域として人工的な大区小区制から始めたことと、関東の都県境でしょう。
以前書きましたが、千葉と東京の間は江戸川で区切り、東京と神奈川の間は下流では多摩川で区切り、東京と埼玉の下流では荒川で区切り、千葉県と茨城は利根川で区切るなどそれまでの歴史経緯・・郡制を100%無視です。
江戸川両岸は葛飾地方として1つの文化圏ですし、10年ほど前の金融界の再編成で市川東葛信金や船橋信金と東京の何とか信金が合併して東京東信金となりましたが、これなどはもとの葛飾地方の江戸川両側経済一体制を基礎とするものです。
利根川両岸も銚子と鹿島市、佐原と潮来などは1つの水郷文化圏(下総の国)で、今でも人的交流は盛んです。
その辺の人は今でも殆どみんな千葉の弁護士(佐原や成田方面所在弁護士が中心ですが、私の事務所の依頼者になることも結構あります)に相談にきます。

郡縣・郡国制から州縣制へ

  
漢字導入時期は5〜6世紀と言われ、しかも王任と言う人の名を教科書で習った記憶ですが、実際には、交易を通じて人の交流があれば(渡来人も住み着いていました)徐々に入って来て気のきいた人が使い始めていたものでしょうから、彼がまとまった千字文を紹介したと言う程度のことでしょう。
ですから、本来誰が何時とは言えない性質のものです。
5月3日には中国の郡縣制ないし郡国制はなくなっていたと書いてきましたが、この際私の想像だけではなく実際の文献で紹介しておきましょう。
諸葛孔明の出師の表では既に州が出てきます。
「天下三分して益州疲弊す」
がこれです。
いつからかは不明ですが、後漢最後の三国鼎立直前の頃には既に州縣制に移行している様子です。
ちなみに第6代景帝のときの呉楚7国(王)の乱があって、これを鎮圧してからはいわゆる郡国制は消滅に向かい、次の武帝の頃からは全国が郡縣制となり皇帝が完全に掌握するようになっていました。
第7代武帝の時に郡大守による不正が横行したためにこれを監察するために全国に103あった郡の上に全国に13の州(冀・兗・青・并・徐・揚・荊・豫・涼・益・幽・朔方・交阯の13の州(最後の二つは郡))を作ります。
州1つごとにに州内の郡大守の不正を監察する刺使を置いたのが始まりです。
郡大守の格式に比べて刺使の格式が低くて監察の実が上がらないことと、州の軍事権を持つ州の牧制度が始まったことから、監察権を州の牧に与えるようになり、その後監察権が刺使に戻ったりある郡では刺使、ある郡は牧と言うように刺使と牧が並列したり、州の牧が権力を握ったりしている時期が続きましたが、結果的に州の軍権を一手に握るようになった牧が優位になり、牧が郡の行政権まで握るようになって行ったようです。
州内全部の郡の行政権を握るようになれば、結果的に州単位の行政になります。
中央集権国家では、郡の大守は行政権だけで軍権や警察権がありません
(我が国でも大名時代には、軍事力と警察権がありましたが明治以降の県知事や市長・・官選でしたので彼らが警察権や軍事権を持っていなかったのと同じです・・戦後地方自治制度になって地方自治体ごとの警察権を持つようになりましたが、これは直ぐに実態をなくして行きます)
何時の頃からか知りませんが州の「牧」は州(地方の)の軍事力を持つようになって行きましたので、(今で言えば軍管区長官?)中央権力が弱体化して動乱期になると地方で軍事力を持つ州の牧・・州単位が重要になってきます。
三国志でよく出て来る「徐州の牧」豫州の牧になったと言うくだりは、その州(郡)の軍事力を手中に収めたと言う意味です。
所によっては逆に郡の大守が実力を持っていて隣の郡も併呑して強大な軍事力を持っていたこともあるでしょうが、事実上の権力移行期には、いろんなパターンがあってもおかしくありません。
後漢以降・・特に黄巾の乱以降は中央政府はあってなきが如しでしたが、郡の大守には基本的に軍事力がなかったので、動乱期には奪い合う対象でなくなり、独立の意味がなくなって行ったのです。
州の牧の独立性が高まる・・行政権も掌握して行くと、その下部に位置する郡の大守や県令だけを中央で任命して派遣することが不可能になりますから、州内の行政組織もその州の牧ごとのやり方になって行ったことでしょう。
上記の通り州の権力と郡の統治権が競り合った結果、州の政治権力の方が優位になって行ったいきさつがあるので、州権力の定着に応じて郡大守と郡の政治自体が消滅して行ったと見るべきです。
各州には大きい州では120くらい小さな州でも5〜60くらいの縣城がありましたから、治安の悪い動乱期には軍事拠点でもある城を中心に行政が行われ、中間の郡の役割が消滅して行ったのだと思われます。
ちなみにウイキペデイアのデータ(何時のデータか不明ですが・・・)によると最大の益州(この中に巴郡や蜀郡がありました)で118の城、戸数1526257、口数7242028、荊州で117の城、戸数1399394口数6265952、徐州で城数62、戸数576054、口数2791693、最小の交州で56の城、戸数270769です。
(ついでですが、一戸当たり4人平均程度の人数で、以前から書いてきましたが昔から核家族だったことが分ります。)
郡が制度としてなくなったのではなく、中央の権力衰退に応じて事実上衰退・消滅して行ったと見るべきでしょう。
これが何世紀も続いているうちに地名を現すのに州名が原則になって行くのです。
ただ人名の説明をみると、かなり遅い時代でもその生地として「何々郡◯◯の人」と言う説明があるのは、上記のように法制度としてなくなった訳ではないから史書ではこのように書いているのでしょう。

漢字導入時の試行錯誤(縣の消滅)

郡縣、郡国制は後漢以降廃れて行き、我が国に漢字が入って来た5〜6世紀頃には、既に州と縣の制度になっていて郡がなくなっていたように思われます。
それならば何故我が国で國・国司の下に縣(コオリの当て字としての縣)ができず、中国ではなくなっていた郡が我が国で復活採用されたのでしょうか。
元々我が国では何々の國(くに)の下位に「コオリ・コホリ」と呼ばれる下位の行政単位・・地方豪族の治める単位があったのですが、これに縣を当てていた時期もあったのに、縣をこおりと読むのをやめて郡の漢字を当てるようになったいきさつを考えてみたいと思います。
郡縣制や郡国制では、天下・國の次にくるのは郡でしたから、ある程度中国の歴史を勉強して漢字の意味内容が分ってくると、全国をいくつかの國に分類した(州にしなかった)以上は、この段階(大宝律令制定時)で下位の組織として郡が来るべきであって(縣は郡の次に来る組織単位ですから)縣が郡に取って代わられたのは論理的です。
では郡の下に縣(あがた)が何故生き残れなかったかですが、その下となると郷や里ですから単位が小さすぎて元々アガタヌシの領域を当てていた縣を当てることが出来なかったように思います。
広大な中国の制度をそのまま狭い我が国に全部持ち込むのは無理がある筈ですが、加えて州縣制を前提にした制度と郡国制の両立では地方単位が重複してしまいます。
当時世界最先端の唐の制度・・専制君主制の州と縣制にするのは日本の発展段階からして無理があるとして、遣唐使の時代からすれば5〜600年前になくなってしまった国と郡の制度を換骨奪胎して利用することになったものと思われます。
漢字導入以来徐々に中国の真似して取り込んで来た制度のうち、國の規模が違うので何かを省略するしかなかったのす。
州の代わりに國を導入しましたが、(それでも政府の制度採用は別として州を國と読む用法が入っていましたので、九州や関八州などと國を州に当てる用法が副次的に我が国に残っています)既に使用していた縣をどうするかです。
縣が漢字導入の始めの頃にコオリやアガタに当てて使われるようになったのは、漢字が入って来た経緯によるでしょう。
漢字が入って来た当座は、(5〜6世紀)最初から中国の歴史が分りませんから当時中国に存在していた地域的行政単位を國や縣と言うらしい程度の知識から始まった筈です。
(魏晋南北朝・5胡16国の國が乱立していた時期で、既に郡国制や郡縣制は消滅していました)
乱立している我が国のクニに國を当て、次の地方単位である縣に我が国のコオリ・コホリを当てることから始まったのは自然の成り行きです。
魏志倭人伝は、平成23年4月28日に書いたように中国側で我が国の地域名称に魏の国制を当てはめて翻訳して紹介しているのです。
何世紀か過ぎて中国の歴史や制度内容が詳しく分ってくると地方単位でも皇帝や国主の信任する人がその行政を預かるのを縣と言うのが分って来ます。
我が国のアガタヌシの治める地域をこれに当てるようになってある程度の独立性のある地域を國と使い分けるようになってから、縣をアガタと読むようになった可能性があります。
縣を当初はコオリと読む時期があって、その次にアガタに変化した・・時間差があったことになります。
大和朝廷成立前には諸勢力が乱立していて、これら乱立する地域を「くに」と言っていて、これに國の漢字を当てていたのです。
その「くに」が周辺地域を併呑して大きくなって来て、いくつかの部族を統合した大きな「くに」が出来た頃には配下武将支配地域をアガタと言うようになっていたものと思われます。
当時の中国では地名としては、後漢以来の何々州が存在していましたが、勢力範囲としてはこれに一部またがる國名を使っていた複雑な関係でした。
我が国の「くに」はその前に地名らしいものがなかったので、これが原始的地名を兼ねていたので、現在まで古い地名として残ってるのですが、中国の場合、州名が地名として残った上に後から魏晋南北朝の乱世となって勢力範囲・國が州境を越えて来たので、州名と国名がズレて重なった関係になっていました。
我が国の戦国末期の大名が隣国と更に隣の國の一部を併呑しているような関係です。
大和朝廷成立時に半独立国で朝廷の権威に服属した地域を従来通りの國と言い、大和朝廷成立時の支配下の武将をアガタ・アガタヌシと言って使い分けていたのではないかと言うのが、4月30日に書いた推測でした。
郡縣制は秦時代の制度ですし郡国制は私の知っている限り後漢の終わり頃にはなくなっていたので、漢字導入直後ころには郡と言う漢字は自然の交流・・日常会話的には過去の漢字として入って来てたとしても一般的でなかったでしょう。
漢字の入って来た当時の中国の制度として地名などに「どこそこの國」、「どこそこの縣」が頻繁に使われていたので、それぞれ支配下領域をクニに当てて、(やまたい国と言うなど)くにの支配下の地域・・こおりに「縣」の漢字が利用されたと思われます。
国造(くにのみやつこ)に國と言う漢字を当てるようになったころには、大和朝廷成立後のことでしょうから中国で言う國の制度も知られていた筈です。
國のヌシは皇帝の子供が封じられていることが分って、ミヤツ子=宮の子・大王の子を擬制する我が國の風習とも一致したと思われます。
親子さえ擬制すれば世襲制であり半独立性があること、域外の服属国・・朝貢国類似の関係などその他すべてが一致していたのです。
これに対して縣の長官は世襲制ではない・・単なる代官的立場の人が治める地域でしかないらしいと分かるのですが、それならば國をアガタと読めば良いようなものですが、日本古来の「くに」の名称をなくすわけにはいかず、他方で既にアガタは國の一部として定着していたので、今更國をアガタと読み替える訳にはいなかったのでしょう。
また地方の単位ではあっても、國の次の単位は縣ではなく郡であったことも分って来たので、郡に取って代わられたと思われます。
ですから縣をこおりと読んでいた次期があるとしても、郡と同時期に縣もこおりと読んでいたのではなく時間差があることになります。
こんないきさつから縣の漢字の利用がなくなってしまったのではないかと言うのが私の現在の到達点です。
辞書等のない時代にいろんな人・ルート経由で少しずつ入って来た漢字の当てはめに、思考錯誤する期間が長かったのは仕方がないことです。
物品の名前と違い國の制度は微妙に違うので(相手の制度も変わるしこちらも変わるなど)制度が安定するまではくるくる変わっても仕方がないでしょう。
日本では将軍の名称が同じでも、鎌倉・室町初期・室町末期・江戸時代の将軍は、時代・時期によって権力構造はまるで違うことが明らかです。

國と縣1

原発や地震で有名になっている福島県の中通りや浜通の呼称、長野県で言えば松本市を中心とする地域と信濃川流域の地域の意識差などを見ても縣制度施行から既に百年前後経ってもいくつかの国が一緒になった殆どの縣で一体感はなかなか出来ない・・今でも張り合っていることが多いものです。
ただし、千葉県の場合、上総下総あるいは安房の國と行っても、間に峻険な山脈がある訳でもなく、いずれも元は房、総(ふさ)の國でそれほど気候風土の違いがないく、はりあう気風は全くありません。
(律令制前の国造の時代には1つの総の國となっていましたが、その後3カ国になったものです)
この状態で各県に政令指定都市が続々と出来てきましたので、行政単位としての県の存在意義が軽くなってきました。
郡単位の行政上の仕事がなくなって行き、生活空間の広がりによって「こおり」の実態がなくなってくると「郡」の漢字を「こおり」と読む人が少なくなって行き、いつの間にか消滅しそうなのと同じ運命が縣にもあります。
村をムラと読まないうちに市に合併してしまった市原市のように、縣制度に関しては日本中で誰も訓読みをしないうちに道州制になると縣の訓読みがいよいよ進まないでしょう。
従来の小集落の名称であったムラに代えて行政組織として出来た「村」でも、時間の経過で一体感が育てばこれもムラと読むようになった例が多いように、県内で生活圏として一体感をもてれば、縣を「くに」あるいは「こおり」と訓読みする人が増えたのでしょうが、殆どの人がそう思わないまま現在に来ています。
今は気候風土よりは鉄道沿線別一体感の時代で、千葉県で言えば、総武・京葉沿線と常磐沿線では日常的交流が少ないので一体感が持ちにくい状態ですし、これは首都圏のどの地域でも同じでしょう。
結果的に各鉄道の合流地域である首都圏・名古屋圏・大阪圏と言うような一体感の方が進んでいる状態です。
その結果、縣の訓読みが定着しないまま現在に至っているのですが、「縣」を古代に使われたアガタと読むのは古文や史書の世界だけであって、今の用語として復活して使う人はいないでしょう。
古代でもアガタ主は日本書記にあるもののその実態が不明なようですが、(書記に書かれている成務天皇自体実在したか否かさえ不明なのですが、)これは神話であって編纂した時の政権に都合良く時期を遡らせたものですから実際の時期は違うとしても、律令制以前に大和朝廷に服属した地域の豪族をアガタ主として支配機構に組み込んで行ったらしいことが分ります。
地方豪族の勢力範囲を縣(アガタとかコホリ)と言うとすれば、当然勢力圏に関係なく気候風土で区域を決めた国の方が大きくなります。
元々神話的部分なので国造とアガタ主の関係がはっきりしないのですが、(ものの本によっては対等だったり、国の下位に県がある筈とする後世の考えの類推でアガタ主を下位に想定するなど)その分布を見ると東国では国造が多く畿内以西ではアガタ主が多くなっているようです。
これは、早くから大和王権の支配が及んでいた(大和王権成立までには直接戦って勝敗が決していた)畿内・西国方面では地方政治の担い手を王権代理人としてのアガタ主として(直属家臣のような官僚機構類似の関係になり)、まだ充分に支配の行き渡らない東国では服属した地元豪族をそのまま国造にして行ったので、東国に国造が多くなっていると言える(私の独自推測)ようです。
中国の古代制度で言えば、直轄地と外地の服属・朝貢国の関係です。
(豊臣秀吉も天下平定最後の頃には全面征服(叩きつぶ)して行かずに、本領安堵で支配下に組み入れる方式でした・・これに従わない小田原の北条氏が抵抗して消滅したのです。)
また、徳川氏も自分の本拠地近く(現在の関東甲信越)では直属の家臣(譜代大名)中心ですが、本拠地から遠い西国・東北の大名はその殆どを本領安堵しただけの大名で占めています。
ただし、我が国の場合、直轄地と言えども基礎は小集団の連合体ですから、直轄領地内でも中国のように専制君主制で貫徹することは出来ず直臣の大小名に分割統治を委ねざるを得ない点が本質的に違います。
政権樹立時に徳川家が把握していた本来の直轄地の殆どが、服属地域と同じ大名支配形式を基本にしていて、その後も功労者(例えば大岡越前や田沼意次など)を大名に取り立てるたびに幕府が代官支配する直轄収入地は少なくなる一方でした。

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