表現しての自由市場論(愛知トリエンナーレ展)1

憲法学者・戦後思想界は表現の自由市場論を金科玉条にしていますが、自由市場の定義がはっきりしません。
商品の優劣は市場が決めるのが合理的と多くが認めるようになると何でも市場の選択に委ねるべきかのような比喩が行われるようになりました。
しかし「比喩」という言葉自体がそのまま適用できないという意味を含んだ概念です。
思想表現の世界に、本当に自由市場論が成立するか、どう言う場合に成立するか等の吟味なしに、憲法学や憲法学に連なる思想界が安易に飛びついたまま一向に検証しようとしないで、約1世紀間も安易に比喩し続けているとすれば、憲法学界・思想学会の怠慢(人材不足?)が窺われることになりそうです。
研究成果を門外漢の私が知らないだけという可能性がありますが、その論争や検証作業が一般に知られずに、何かというと「思想表現の自由市場に委ねるべき論」が横行している現状からすれば、仮に研究する(したい)人がいても学会でまともにその種研究が相手にされていないから誰からも引用紹介されないからではないでしょうか。
最近の事例では愛知トリエンナーレ展の論争が知られています。
例えば以下の主張です。

採録掲載「公的芸術支援と表現自由 憲法の観点から」志田陽子さん 武蔵野美術大学教授(憲法、芸術法)

スピーカー:志田陽子
武蔵野美術大学造形学部教授(憲法、芸術法)、博士(法学)
2020年2月13日 於:Kosha33
・・・ここでいう中立というのは、例えばある政治政党に関わっている作家だけが優遇されることがあってはならないといったような意味です。芸術作品に対して政治的中立を求めるという意味になるべきではありません。そしてその選別は一般市民よりも専門家の判断を信頼し委ねるべきだということで、審査員が必ずいるわけです。税金を使う行政の側は、専門家の判断を信頼して選別には直接関わらず距離を置くという考え方です。この考え方は主にイギリスなどでとられていると聞いています。日本でもこの方面の知識がある人は、「アームズ・レングスの原則」という言い方でこの考え方を取っています。

出展審査は芸術家グループが決めるので、その審査結果に行政は中立であるべき→行政や一般人の口出し禁止論ですが、審査員という特権階級が出品権を奪うのは構わないと言うことになりそうです。
この論は権力からの自由はあるかもしれませんが、同業者の「検閲」とは言わないでしょうが出品審査を許すので、特定思想の支配する集団が営む芸術祭展示はその方向性の主張一色になるのをどうするかです。
報道の自由も同じですが、審査委員会を通りさえすれば特定政党のプロパガンダばかりでも中立と言えるのでしょうか?
放送の場合反対意見を平等に扱うことが求められていますが、愛知トリエンナーレ展で左翼系出展機会を失っているものの救済強調ばかりで、右翼系が過激すぎるとして?公共機関での出展できていない展示がなかったという批判もされています。
以下の記述です
https://the-criterion.jp/mail-magazine/m20190902/

浜崎洋介】芸術における「政治主義」を排す―「表現の不自由展・その後」をめぐって

・・・・・・百歩譲って、今回の企画展の「政治主義」を認めたとしましょう。しかし、それならそれで、かつて、「芸術は、政治的プロパガンダのためにこそある!」と言ってはばからなかった共産党のように、主催者側は、飽くまで自らの筋を通すべきではなったか。津田氏は、「大量の抗議や脅迫の電話によって現場の組織機能が失われ、トリエンナーレとは無関係の組織にまで同様の電話が殺到して文字どおり悲鳴があがっていました」(前掲)と言いますが、そんな脅しに一々屈しているようなら、「表現の自由」も何もあったものではない。せっかくの「芸術監督」制度なら、全責任は自分が負うとした上で 補助金カットをちらつかせながら恫喝してくる政治家や、「テロ」を仄めかす脅迫者=犯罪者に対して戦い続けるべきでした。

ここには、津田氏の覚悟のなさ、格好付けの表現の不自由展に過ぎない・・戦う覚悟のない芸術監督ってなんだ?という批判ですが、その中に共産党の過去の公式政治主張を紹介しています。
左翼系は芸術や思想界を支配する長期戦略で行なっている実態・・芸術界憲法学会思想界や報道界を支配してしまえば、学会の審査を通しさえすればどんな一方的な政治主張でも芸術発表とか思想討論会を名乗れば公的助成を受けて・・税を使って宣伝し放題という戦略を野放しにして良いかの視点がありません。
現在国際政治問題になっているユネスコや ILOやWHO国連人権委員会等が、特定国が事実上牛耳ってしまっている弊害が大きな問題に浮上していて、米国はすでにユネスコへ分担金拠出を停止しているしWHOもその対象になっています。
日本も国際捕鯨〇〇からの脱退を決めました。
日本の報道機関の多くが中韓等の事実上支配下に入っていると言う右翼系ネット批判が激しいですが、彼らの主張によれば言わば、日本の思想界学会、報道界教育界が根こそぎ左翼系の牙城になってきたような状況らしいです。
共産党の思想教育・得意の洗脳教育は、早ければ早いほど良い・子供の教育から・・と言う長期計画通りに戦後すぐに、日教組が左翼系の牙城になったのでしょうか?

言論政治活動の自由 3(テロ計画も自由か?3)

平和主義とか表現の自由というナイーブな原理論だけでその具体化の議論がほとんどない風土になっているのがふしぎです。
我が国では「羹に懲りて膾を吹く」というか、自由を守るためには許される限界論が必要なのに、自由といえば何でも自由、平和と言えばどんな不当な要求・侵略にも抵抗しない平和・「軍備を持たない平和」という短絡的発想のイメージ報道が多すぎるように思えます。
現実の必要から各種人権思想が生まれたのではなく輸入思想であるから原理原則の強調に関心が行き、実際に運用すると起きてくる不都合にどうやって対処するかに目が届きにくいのかも知れません。
車の普及.金融取引であれ貿易の自由化であれ表現の自由であれ、活発化を図るには逆に管理しながらより一層の普及を図るのが一般的ですが、日本では平和論や思想表現の自由を守るための具体論をタブー視している結果、却って健全な議論を妨げているように見えます。
敗戦ショックの直後には、具体論よりも平和を守ろうという理念に感激しているだけで良かったし、実際的に世界大戦が終わり国際連合発足など世界平和に向けた世界新秩序構築が動き出したばかり・・しかも当時世界ダントツの米軍が守ってくれている安心感もありましたので心情だけではない合理性にも裏うちされていました。
私も数十年前までは世界平和を守るには民族別戦力強化ではなく、国連の(国連軍?)強化を期待する方向で何となく考えてきたのは、敗戦ショック+国連への期待感と合わせた戦後教育にどっぷり浸かった育ったせいです。
ところが、世界連邦のようなものは実現性が乏しく、しかも1国1票の平等性の場合民度レベル差が厳然として存在する結果、(我が国で思っているような公正な公務員や公正な政府など滅多にない・・西欧でも革命などの命がけの反抗をしないとまともな政治が期待できなかった社会であることを証明しています)公正な議論よりも買収工作等に長けたずるい国が多数支持を握る現実の醜悪さが出てくる実態が明らかになってきました。
日本人の考える政府の公正さの基準からすると米国も自分勝手なところがありますが、イキナリ北朝鮮が南の韓国侵略を始めた朝鮮戦争が起き、米ソの角逐が始まると世界はまだ無防備での平和は存在しないと知るようになりました。
以後の平和論は抽象的平和論ではなく、源平時代の武士のように米ソどちらについた方が自国の安全を守れるかの平和論に変わっていった事になります。
どちらについても応分の軍事協力を求められる点は源平時代の武士団同じでした。
その頃から西側の核実験や公害等だけ非難する革新勢力の偏頗性が際立ってきたので、(両方非難していれば私もそのママついていったように思います)私のようなノンポリは彼らの主張はおかしいと疑問を持つようになって支持離れを起こしてきたのです。
ソ連崩壊後世界一強になったはずの米軍の国際的警察力の陰りが(対テロ戦の脆弱性と中国の台頭により)却って明らかに見えてきたので、米軍に頼っていれば安心と言えなくなり一定の自衛力の必要が生じてかなり経つのに、具体論に行くのをいまだに拒否する人がメデイア界で幅を利かしているのは不思議です。
日本で抽象論が隆盛と言っても、それは憲法学者やいわゆる文化人等の一部職種でこだわっている人が多いにすぎないのにこれをメデイアが国民の代表のように大宣伝しているだけで、実は人口の2〜3%しかいないのです。
日本では共謀罪法案でも秘密保護法案でも、反対論者は「近代法の法理を守れ」と言いっ放しでその先の具体的な議論をまったく報道しません。
(私は先進国に存在する共謀罪やスパイ防止法と比べて我が国の規定がどう言う点で問題があるのかの具体的議論を知りたいのに、法律専門家であるはずの弁護士会主催のビラでさえもこれが全くないと批判してきましたが・・)
思想表園の自由といっても、強盗や殺人等が犯罪であるということは窃盗や強盗や殺人傷害等が正しいからどんどんやりましょうと煽動する思想や表現も本来道義的に許されないものですが、思想そのものの事実認定証拠収集が難しいので、そういう法律がないだけ・どんな思想を持とうと勝手ではなく、処罰する方法がないだけです。
近隣国の反日感情を煽り対日侵略意図を高める程度であれば、内乱予備罪や外患誘致罪にならないとはいえ、道義的に許される行動ではありません。
およそ、刑法で処罰されない限りスレスレ行為をしても良いという生き方・・犯罪すれすれ行為・・証拠さえ残さなければ良いという生き方を日常的に行うのは、人のあり方として褒められた行為ではありません。

刑法
第三章 外患に関する罪
(外患誘致)
第八一条 外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。
(外患援助)
第八二条 日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者は、死刑又は無期若しくは二年以上の懲役に処する。
(わいせつ物頒布等)
第一七五条 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
《改正》平23法074
2 有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。
(名誉毀損)
第二三〇条 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。

道義違反と法的規制可能かとは別問題です。
刑事処罰されなければ正しいわけではありません。
外国の介入を招く目的の政治意見が民族国家的には重大利敵行為ですが、これを直接刑事処罰するには冤罪を防ぐための構成要件明確化に無理があるので、現在たまたま不問にされているにすぎません。
「人の生命を奪え」というような意見流布宣伝が政治意見だとしても道義的に許されることはありません。
しかし上記のようなはっきりした主張は少なく「戦う前に相手に屈服したほうが良い」と言うのも、あるいは戦争途中で早めに降伏した方がいいかの判断も国を守るための一つの意見ですし、利敵行為とは言い切れません。
ポツダム宣言受諾をもっと早くすべきだったかの問題と同じです。
無抵抗で相手の軍門に下るかの判断は圧倒的に相手が強い場合無駄な抵抗をしないほうが良いのは、暗闇で暴漢数人に襲われた時の身の処し方と同じですが、ほぼ国力均衡あるいは自国より圧倒駅に弱小国相手でも、「無防備でされるままにしたほうが良い」と言い出すと、その思想の不自然さ・明白性が出てきます。
北朝鮮の場合には相応の反撃力があるので米国が安易に総攻撃をかけられないジレンマに悩んでいることからも、(100対1でも)相応の防衛力があれば相手が安易に攻撃を仕掛けられないことが証明されています。
このように自衛戦力は攻撃相手国の何分の1でもよい・・侵略目的でなければ、自衛力保持は安上がりでしかも安全です。

言論政治活動の自由 2(テロ計画も自由か?2)

法人犯罪(不正経理や贈収賄や談合など)やヤクザなど一定組織で原則連座制にすれば、共犯認定が不要になり訴訟も簡単です。
証拠収集が不可能に近い時代には、一定範囲の親族や隣組等の連座制が発達した所以です。
連座制の問題点は個人責任の原理に反する・本当に事件に関係ない人までで牢獄に繋がれる団体責任論につながりますから、文字通り近代法の原理に反します。
そこで刑事罰には簡単に使えないので、現在では資格制限等に使っているのですが、元はといえば証拠認定の困難さに由来するものです。
このように見ると共謀罪法は、証拠がなくとも責任を問われる連座制に比べれば、共謀の証拠認定がいる点で近代法そのものです。
この法律では証拠認定の必要性がこれまでと何ら変わらないので、捜査機関の証拠収集能力(科学技術の発達)のアップがない限り実際には法ができても運用実績が挙がらないはずです。
連座制のように事実認定なしに実質的に共犯とみなしてしまうのとは異なり、証拠が必要とされる点では近代法理・犯罪の認定は証拠によるという近代法の法理に反していません。
法律が出来ても証拠がない限り検挙もできませんから法を作る意味がないのですが、今はデジタル技術に始まって多様な証拠が生まれつつあることに応じられる法律になった・・テクノロジーの利用によってテロ等の企画段階で情報入手していてもテロ行為を起こすまで待っていなけばならない・事前に制止できない不都合は防げるようになったでしょう。
てもそれだけに反抗を企画して実行に加わらない「免れて恥なき徒」にとっては一歩進んだ脅威になるのでしょう。
大分ズレましたが、政治資金規制法に戻します。
規制対象も一般人まで広げるといろんな事情がありうるので、政治資金の取得先に限定しただけであり、政治家でなくとも外国政府から報酬をもらっていることを隠して中立的意見を言っても国民が納得しない点は同じです。
ただし、外国の立派な人と会位、一定期間修行して薫陶を受ける・・あるいは外国の優れた制度やシステムを学んで自国に導入しようと努力することは自国発展に望ましい事ですから、これを否定的に見るべきではありません。
本当に自国発展のためにグローバリズム(TPP)を推奨しているのか、国際資本の(戦前のコミンテルンによる世界共産主義化運動も20年ほど前から流行った新自由主義も)の手先として運動しているのかなどの判定基準がない(今のところ考案できない)ので、たまたま資金移動で区別するのが外形上わかり良い・外形的標識によって規制が容易であるという便宜によっているにすぎません。
国民主権国家においては、民意による政治=国民の意思による国民のための政治に最大価値を置く以上は、政治家は民意=国民の代表者であるべきで、外国人のための政治をするのは実質的憲法違反行為です。
ただ日本では、政治資金規正法程度しかない・その他は原則として野放しになっているように見えるのが不思議です。
ところで、アメリカで昨年の大統領選挙に関してトランプ陣営がロシアの助力を得ていたのではないか?ロシアが行なっていたとされるクリントン候補に対する大量のネガテイブキャンペイン等にトランプ陣営が関与していなかったかのテーマで、特別検察官まで任命され既に幾人ものトランプ政権中枢人物の辞任騒ぎになっている・・いわゆるロシアゲート疑惑で揺れているのはこうした価値観の表面化です。
1月24日にも特別検察官が司法長官の聴取(取り調べ?)まで行っていたことの外、大統領取り調べま?で予定されていることが報道されています。
http://www.sankei.com/world/news/180124/wor1801240019-n1.html

コミー氏解任めぐりトランプ氏から聴取か 米メディア、「司法妨害」に関心【ワシントン=加納宏幸】米紙ワシントン・ポスト(電子版)は23日、ロシアの米大統領選干渉疑惑を捜査するモラー特別検察官のチームが数週間以内に、トランプ大統領からフリン前大統領補佐官(国家安全保障問題担当)の辞任やコミー前連邦捜査局(FBI)長官の解任について聴取する意向だと伝えた。モラー氏は、トランプ氏に捜査を妨害する意図があったかに関心があるという。
モラー氏側は先週、セッションズ司法長官から聴取したことが明らかになっている。閣僚からの聴取は初めてとみられる。
ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)は23日、モラー氏側が昨年12月、コミー氏から聴取したと報じた。

一般的には政治の帰趨がきになるから大きなニュースになっているのでしょうが、私の関心は外国の意向に左右されてはならないと言う基本的思想がアメリカでもひどく強いと言うことと、日本のように資金が動かない限り問題にしないと言う形式処理の社会ではない・・・外国勢力との繋がりに対する外形的規制法が自由主義の本場アメリカで制定されているのか?の点にあります。
単なる政治責任問題ではなくFBIが捜査に乗り出し特別検察官が選任されたということは、なんらかの刑事処罰制度があるからでしょうが、何の犯罪に対する刑事捜査なのかメデイアははっきり報道しません。
トランプ政権がロシアによるハッカー攻撃に関わったとすれば、ハッカー関連規制法(日本語でいえば刑法の「電磁的記録不正作出及び供用罪」の変形版みたいなもの?)違反の共犯にすぎないかもしれません。
これだけ日本でも大きく報道しているにも関わらず、何の法令違反で捜査が始まっているのかの紹介が全くありません。
単に仮称サイバーテロ防止法違反行為に加担しただけなのか、外国勢力と一定条件下(大統領候補者になった者が)で接触して一定の行為をした場合に、法で処罰対象になっているのか・そんな規制は滅多にないかを知りたいものです。
資本主義、自由経済主義の本家でこれを守るために独占禁止法が制定されているように、思想表現の自由を守る本家アメリカで逆に外国との通謀に対する規制があったとすれば、(単にサイバーテロの共犯程度か?)驚く日本人が多いでしょう。
このコラムでは車の例をよく出しますが、車がより気持ちよく走り回るにはスピード制限や歩車道の区別をつけたり道路状況に応じた各種規制が必要なように、「自由その他の人権を守るにはかえって人権を行使するに際してのきめ細かな規制やルールが必要」というあたり前の原理がわが国では無視されているように思われます。
選挙が重要だから「勝手にやらせろ」と言うのではなく相応のきめ細かな規制が必要ですし、思想表現の自由に関してもこれが尊重され有用であればあるほど、乱用的利用者が増えるので過剰な表現に対する規制(誇大広告規制等がありますが)の必要が生じます。
物事は発達すればするほど交通法規や証券取引金融商品のように規制も増えて行く必要がある・・その方向に向けた具体論が発達するのが普通です。
ところがわが国では、表現の自由論や平和主義が喧伝されているわりに、アメリカでの表現そのものを取り締まる違憲判例ばかり麗々しく紹介され、表現の自由行使に関する交通ルールみたいな外形規制をどのように工夫しているかの方向では、全く紹介されていないのが不思議です。
(私が勉強不足なだけでしょうが、それにしても勉強不足の弁護士には届かない程度のマイナーな紹介論文しかないのでしょう)

言論政治活動の自由 2(テロ計画も自由か?1)

内乱罪などを処罰する規程を我が国の刑法で明記していても、これを憲法違反という主張を聞いたことがありません。
このことは、国家権力を民主的手続き外で転覆することが許されないという思想の現れです。
民主的とは民意・国民意思によるという意味ですから、国民外の意思によって内乱に限らず、個々の法律であれ、国家のあり方や国家形態を変えようとするのは実質的違法です。
国民の自由意思を尊重するとは、国外の意思によって国民を一定方向へ誘導する自由ではあり得ません。
騙されたり強迫されて表示した意思表示は、真意と違うことを理由に取り消せることが民法に書いてありますが、医師と亜gkせんsく自由な表現や自由な行動とは、古代ローマ法の時代から自分が自由に考えた結果による意思です。
民法

(錯誤)
第九五条
意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない。
(詐欺又は強迫)
第九六条 詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。

外国のための意見であるのに、国民のための意見であるかのように国民を騙す行為は、実質的意味の国民主権主義違反です。
このために国外意思の影響力を遮断するために、政治資金規制法では外国人等からの寄付を禁止しています。
1月23日現在のウイキペデイアからです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E8%B3%87%E9%87%91%E8%A6%8F%E6%AD%A3%E6%B3%95

外国人からの寄付の禁止
「政治資金規正法第二十二条の五により、外国人、外国法人、主たる構成員が外国人若しくは外国法人その他の組織からの政治活動に関する寄付を禁止されている。しかし、2006年の改正で規制緩和された。会社法124条1項に規定する基準日が1年以内にあった株式会社は、その基準日に外国人または外国法人が過半数の株式を保有する会社だけが規制される。このときにも規制を受けない例外が設けられている。2011年には、韓国人から献金を受けたことについて国会で追及された前原誠司外務大臣が辞職する事件が起きている。」

政治資金規正法は、形式的に見ればお金さえ貰わなければ外国政府の手先になっても良いかのようですが、資金規制法の本質は、お金さえもらわなければ外国の手先になって政治活動しても良いという意味ではなく規制対象にしないというだけです。
日本国が損をしても良い・外国のために意見を言い政治行動するのは困るが、その規制方法がないので、さしあたりお金をもらっていると怪しまれても仕方ない・・しかし怪しいだけですから処罰が緩くするという国民合意のもとで、規制できる限度で規制したに過ぎない・・という法精神の表れと見るべきでしょう。
証明方法が未発達なのに思想を処罰すると自白強要になりかねない・ひいては人権侵害の害が大きい・・証拠方法未発達を前提に近代法では思想を直接処罰しないことにした背景原理です。
これが防犯カメラ電磁記録その他客観性のある証明方法が出てくると元は完全犯罪であったものが、そうでは無くなります。
パク大統領の国政秘密を友人に送信していた事件では、友人が海外転居のために受送信記録をパソコンから消去した上で、パソコンのハードを廃棄しようとしたので、それを入手した政敵関係者?が復元を試みて成功したところから始まったものです。
この頃は意思表示の多くはデータ通信で行われるので内容が記録に残るようになっていますから、共謀段階で多くの記録が残るので自白に頼る時代ではなくなっています。
内心の思想にとどまらず(秘密結社内で)外部表出した記録が残る時代です。
たまたま事務所で大分県教員選考試験で、基準に達しない受験生に対する加点が行われた結果の合格処分取り消し事件の高裁判例を読んでいると、受験記録は廃棄されてしまっていても不正加点するためにパソコン処理した記録が残っていたので、これが信用できるので、選考基準に達していなかったことが認定できるという事実認定が行われていました。
「共謀だけで犯罪にして処罰するのは近代法の法理に反する」といって満足している人は、近代法で「思想が処罰されない」のは証拠上無理があったので除外していたに過ぎない点を無視して、「どんな思想を語らっても構わない」テロ計画支援ソフトを流布させも実行に関係なければいいという原理主義に飛躍させているのです。
殺人の醍醐味やその他社会破壊計画を宣伝して、これを広めても具体的事件の実行に参画していなければ良いという意味ではなく、社会破壊計画はそれ自体社会に対する背信行為です。
特に最近のテロは瞬時に大量殺傷が可能ですから、実行に着手するまで取り締まれないのでは社会防衛には限界があります。
近代では証拠の種類がほとんどなかった・仲間の密告や自白しかなかったので冤罪等を防ぐために不処罰が人権擁護上で重要だったのです。
しかもいろんな思想の間で何が良い思想かどうかの判定が恣意的になるリスクもありました。
今や上記の通り、証拠方法が飛躍的に拡大している上に政府の気に入らなない思想だけ処罰するリスクがないように、一定の既存犯罪行為の中で一定の法定刑以上の重大犯罪の共謀だけ処罰すると言うのですから、元々の近代法思想の射程範囲内というべきです。
反対論者の頭の中が近代科学技術段階で止まっている人の集まりかというとそうではないでしょう。
証拠収集が容易になるシステム発達にいつも反対(・・例えば九州弁連の防犯カメラ設置反対論者を招いた集会を開催していることを紹介しました・・最近の著名事件ではCPS機能を利用した窃盗集団に対する捜査が違法であるという最高裁判例が出ましたが・・)してきたことを見ると、(科学技術発達によって、従来基準では証拠不十分ですれすれ無罪になりそうな事案が「証拠あり」になってしまうのが困るのを「プライバシー侵害」等を理由に反対している(私の人権意識不足の批判があるでしょうが)イメージです。
昭和30年代から共謀共同正犯論の発達があっても、命じられた部下が兄貴分の指示を暴露しない限り証拠がないという考えでした・鉄砲玉として末端配下を使うやり方が有効)が、それでもたまに裏切る部下がいるので、共犯者の自白の証拠能力というテーマで長い間法曹界では争われてきました。
この隘路を打開するために暴力団組織の命令ステムを前提にした(配下組員が親分から命じられたと言う自白がなくとも)共謀認定する実務運用がこの20年くらい前から進んでいました。
選挙法関連では、政治家本人が知らなかったでは許されない連座性が早くから採用されています。
連座制は、共犯認定が困難・・「一定の関係があれば、責任を持つ」のは(知らぬわけがないが)「知らぬ」と口裏を合わされるとどうにもならない・実質不正がまかり通るので、こういう場合には「証拠がなくとも共犯認定します」と言得ないので、連座責任と言い換えているだけですから、本質的には証拠認定の困難性に由来するものです。
この延長での共謀罪法案提出ですから、実はこの法律では証拠認定の必要性が変わらないので、捜査機関の証拠収集能力(科学技術の発達)のアップがない限り実際には法ができても運用実績が挙がらないはず。
連座制のように事実認定なしに実質的に共犯とみなしてしまうのとは異なり、証拠が必要とされる点では近代法理・犯罪の認定は証拠によるという近代法の法理に反していません。
法律が出来ても証拠がない限り検挙もできませんから意味がないのですが、今は多様な証拠が生まれつつあることに応じた法律になった・・それだけに「免れて恥なき徒」にとっては一歩進んだ脅威になるのでしょう。

言論政治活動の自由1

非武装平和論をそのまま実行すれば、結果的に日本が中韓等の占領下に簡単に入ってしまうのを理想とするようなイメージが強くなると、このような意見を述べる人々は、どう言う人の集まりか?と疑問に思う人が増えてきます。
慰安婦騒動で大きな役割を果たしたとしてネット上で糾弾されている社民党党首であった福島瑞穂氏(ただし私は彼女がどういう役割を果たしたかについてはネット風聞しか知りません)を例にすると、護憲・非武装論者の中でも有力政治家として知られているように、非武装論支持層と慰安婦批判層/外国人参政権拡大主張論者の多くは(護憲論者でも慰安婦強制性を否定する人もいるでしょうが、ここでは大方の傾向を書いています)共通性があると想定されます。
福島瑞穂氏に関する1月22日現在のhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%91%9E%E7%A9%82からの引用です。

弁護士時代から慰安婦問題に積極的に取り組む。アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件を担当した弁護士の一人であり、慰安婦問題については早期から問題の周知に大きな役割を担った[2]。高木健一らと共に韓国で賠償訴訟の原告となる元慰安婦を募集した。[3]
1992年8月にソウルのYMCA会館で開かれた『アジア連帯会議』は、松井やよりと福島瑞穂が仕切り元慰安婦の女性たちは会議の席上、事前に日本人と韓国人のスタッフから指導された通りに自身の体験と語って日本政府を非難した[4]。
慰安婦募集の強制性を認めた1993年(平成5年)8月の河野談話の根拠となった日本政府による韓国での元慰安婦16人の聞き取り調査にオブザーバー参加している[5]。
2015年1月14日の在日本大韓民国民団新年会に出席し「慰安婦問題は性的暴力の問題、(外国人)地方参政権も含め、共生社会として作っていく」「統一地方選、来年の参院選、どうか手を貸してください」などと語った[14]。
2014年4月21日、元行政刷新担当大臣の蓮舫や社会民主党党首の吉田忠智と連名で、第2次安倍内閣が目指す憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認を支持しないようアメリカ大統領のバラク・オバマに求める文書を在日米大使館に提出した。

心底から事実と信じて慰安婦騒動等日本軍の蛮行を主張していた人達にとっては、非武装の結果中韓の日本占領支配意欲を誘発し、日本が占領支配されて何をやられても「日本があれだけの迷惑をかけた以上それは仕方ないでしょう」という考えが基礎にあってもおかしくありません。
日本人が数百年程度は、かなり酷い目ににあってこそ「頑固に慰安婦を認めない」日本人の目が覚めて心からの反省につながり、長期的には日本人のために良いことだという意見を持っているのかもしれません。
千年許してくれなくとも仕方ないじゃないかということでしょう。
親は子供を愛しいと思うからこそ厳しい試練を課すこともありますから、民族に苦難を与えることが千年単位で見れば日本民族がより良心的で立派な民族になる元になるという考えもあり得ます。
日本民族を中韓に売り渡そうとしているように一見見えても、日本民族に対する深い愛情に裏打ちされているかもしれません。
「人それぞれにいろんな(短期〜長期の違い)事実認識があり、いろんな意見があっても良い」というのが現在社会の到達した基本価値観でしょう。
どんなおかしな意見であってもそれを国民が支持するかどうかで、その意見が効果を持つかどうかを決めればいいことです。
影響力があって困ると言う意見もあるでしょうが、困るのは相応の共感者がいるからです。
日本を悪く言う意見は社会に害があると思う人がいるでしょうが、共感者が少なければ、日本社会に対する影響力もありません。
こんな意見がはびこると日本社会に害があると思えば、反対論を展開して国民の選択に委ねれば良いのです。
困るのは国外で日本のしてもいない悪事をいかにもあったかのごとく吹聴することでしょう。
国内言論は共感者の実数次第・思想の自由市場が働きますし、今ではメデイアに頼らずともネットが発達しているので反論も簡単ですが、国外での吹聴は国内にいる人には気がつきにくいので反論が遅れるし、国外で日本擁護の反論が自由(言語の壁もあるし)にできる訳ではありません・思想の自由市場が保証されていません。
国内支持者少数でも、これを悪用したい敵対国にとって大きな利用価値があります。
現在ではこれが一番困るように思われます。
企業でも何の組織でも内部で異論をいうのは構わないが、外で社内の陰口を垂れ流されるのが一番困るでしょう。
個人間でいえば、陰口/告げ口の類いです。
ところで、言論や学問の自由は時の権力に不都合な研究発表でも、何を内心で考えるかは個人の本源的自由権であるほかに、中長期的に見ればその社会の発展になることもあるし、社会の仕組みが変わると、前の時代に無視されていた意見が有用になる場合もあります。
各種基本的人権といっても、社会に害をなす行為は許されない・・通行の自由があっても相手の通行妨害権がない・・交通法規遵守義務があるのと同様に、最重要とされる表現の自由も(二重の基準論と言いながらも)結果的に公共の福祉に反する行為は許されない制約があります。
自由に思い考え自由にこれを外部表現する権利はとても重要ですが、相手を中傷して傷付けたり虚偽表現等で相手を陥れるのは許されません。
その民族が敵対民族の支配下に入るように画策したり、その社会破壊目的の発言表現の自由があるのでしょうか?
日本への「愛がある」結果としても、異民族支配下になるように運動する意見になると行き過ぎではないか?と思う人が多いでしょう。
仮に日本民族破壊目的の意見表明は許されないとしても、表向きは「こうした方が自民族のために良い」と言う意見で表現されるので、実際には本音まで認定できません。
しかも短期的に見れば日本のために悪そうでも長期的には逆に良い面もあり一概に言えません。
だから具体的実害が起きるほどの一見明白な危険発言以外の思想表現の規制は実際上不可能となり注意深く発言している限り結果的に野放しになります。
以下は法規制の必要性ではなく道義を書いているのですが、例えば、日本国内でのテロ行為の煽動・・誰彼なしに皆殺しにするように煽動する表現は道義的に違反でしょう。
すでに性風俗を守るために猥褻表現や名誉毀損表現が刑事処罰されるようになっていることからしても、それよりも法益的に重要な生命侵害の煽動することを少なくとも道義的に賞賛するわけには行かないでしょう。
日本政府による統治よりも外国政府による統治の方が良いと考えるのは思想の自由であるとしても、それを実行に移すのは内乱罪または外患罪で刑事処罰されることになっています。
すなわち、外国支配を希望していてそれを実行すれば処罰される法体系になっているということは、外国支配を望む思想表現は国家社会内の思想の自由市場で競争に勝って(国民多数の支持を得て)、民主的に実現すべきという思想が前提になっています。
国内での思想競争に勝てない・国民支持を受けられない場合に、暴力で政府を転覆したり外国軍事力の導入を実行することが許されません。
同じく、思想表現の自由・「思想の自由市場に委ねるべき」とは、国内市場を言うことが明らかです。
相手の知らぬ間に国外で相手を一方的に批判するのはルール違反です。

©2002-2016 稲垣法律事務所 All Right Reserved. ©Designed By Pear Computing LLC