税と国債の違い3(擬制的民主主義)

今の政権党は民主党・・大きな政府志向の党ですから、政権を民主党に委ねた以上は資金運用者も民から官への動きになるのは仕方がないと言うべきでしょうか?
2〜3日前には、ついに郵政民営化に逆行する法案が成立しました。
原発事故・東電に対する怒りを利用して東電の経営を事実上政府管理に移行するようですし、いろんな分野で大きな政府志向が激しい政権です。
そこで民意と民主主義の関係ですが、税や法律が如何に民主「的」に決められても、少数意見の人は強制される不都合あります。
国債による民間資金吸収の場合、反対している国民が仮に100分の1に過ぎなくともその国民は政府に運用を任せたくないと思えば、一人でも海外投資に逃げたりタンス預金しておくことも可能ですから、その時々の国民個々人の意識次第であって税(多数意見で)で強制するよりは合理的です。
まして政治の世界は、特定争点で政権を取るのではなくいろんな争点の結果政権を取って、いろんな分野の妥協の結果法の成立が決まるので、支持者多数が仮に増税反対でも他分野の妥協との絡みで増税法案が成立してしまうことがあってとても不透明です。
前回総選挙で民主党に投票した人の何割が消費税増税に賛成していたかすら分らない状態ですが、それでも国会の多数党と野党の妥協で自由に決めてしまえるところが、擬制(フィクション)的民主主義の怖いところです。
現在の民主制度は、個別テーマごとの民意を聞かないで政権を運営出来るのでフィクション的民主主義と私が言うのですが、そこが怖いところです。
郵政民営化の場合そのテーマでズバリ選挙したのですから、民意そのものですが、これに逆行する政策転換するときには少なくとも、そのテーマで民意を聞くべきです。
野田総理が消費税率アップに政治生命をかけると言うならば、消費税だけをテーマに民意を問う総選挙をすべきでしょう。
総選挙を避けるのが野田政権の第一目標でありながら、野田総理が消費税率アップに政治生命をかけると言うのは冗談または背理でしょう。
民意はレベルが低いので民意を聞いていたらいつまでたっても増税出来ない・・そこで自分は犠牲になって、増税だけして身を引きたいと言うのであれば、民意をバカにしているもので民主主義制度を根底から否定してい
ることになります。
ただし、ここでのブログのテーマは、増税の可否を直接テーマにして選挙して民意を聞いたとしても増税の場合、国債と違って反対者に強制できる点を問題にしています。
消費税増税について仮に国民多数(6〜7割)の支持を得ていたとしても、反対している残り3〜4割の人まで強制されるところが税の怖いところですが、国債の場合は買いたくない人は買わなければいいので国債で政府資金を賄うのは個人の意思を最も尊重する制度になります。
政府の運営資金を寄付による場合には、個々人の意思がそのまま貫徹出来るメリットがあることについては、10/26/03「教育改革22・・・・・寄付と所得税法2(税制の直接民主主義6)」前後で連載しました。
ですから、政府資金や会費等の資金源としては、寄付→国債→税の順に民意重視制度になります。

国債破綻シナリオ1

東電は社債の金利だけは払っていくのが最低の義務・本来ですが・・これも国債のように借換債発行額を金利上乗せで徐々に増額して行く・利息支払用の小額社債発行をして増やして行けば東電自体の負担(持ち出し)はゼロです。
この賠償スキームは関係者が誰も負担せず(際限ない借り換えで)に最初から踏み倒す予定で、投資家から資金を集めているのと結果が変わりません。
(社債発行手数料だけは業界に入りますが、この手数料は発行額に上乗せするのが普通ですから東電は1銭も負担しません)
借り換えを前提にしていつまでも元利金を返済しない点で共通する国債に話題を移します。
国民は税負担増を嫌がる一方で何かあれば政府負担拡大を求める傾向が続いている現状では、国債発行額を減らして行くのは絶望的です。
財政の規律さえしっかりしていれば・・・臨時に紙幣の増刷や借金で凌ぐのは賢明な方策ですし、臨時に限定し直ぐに返済してしまうならば有益・意味があるのですが、これが返さないままで次々と今回は特別だからと赤字国債や紙幣増発を繰り返して累増して行くと紙幣や国債は狐の葉っぱに似てきます。
今のように元金を少しずつでも減らして行くどころか借り増を繰り返している状態になれば、将来的に破綻するのが目に見えています。
今回の大震災被害の復興資金が必要だという以上は、臨時増税して賄うのが本来です。
赤字国債で賄う場合、償還期限を形式上決めても期限が来れば借り換えを繰り返して行き、次世代も借り換えでその次の世代に送って行くとすれば最後の破綻まで誰も負担しない無責任なことになります。
こうして膨らみ切ったところで破綻することになりますが、それが何時のことか誰も分らない・遠い先のことだから良いだろうという無責任政治です。
本当に被災者を可哀想だと心から思ってるならば、自腹を切って負担してこそ、その同情心は本物です。
自分のお金を一銭も負担しないで、可哀想だから「あれをしてやれこれをしてやれ」というのは勝手ですが、「その分の増税はいや」というのではその費用負担を自分はしたくないと言うのと同義です。
こういう場合「その前に政府の節約・無駄遣いを減らすなど増税の前にするべきことがある筈」という決まり文句が出て来るのですが、そんなことを言ってると永久に増税出来ないので結局赤字国債に頼ることになります。
「削るべき冗費がある筈」と長年主張していた民主党が政権を取って事業仕分けしてもなお、税収が不足する結果が出た以上は、今回の大震災がなくとも不足分を増税するしかなかった筈です。
事業仕分けをしても財源が不足していて赤字国債発行をせざるを得ないということは、ともかく現在の政府努力では節約どころではどうにもならない、経常経費さえ財源が不足する結果ですから、その結果を認める以上は本当に可哀想だと思うならば「その分みんなでお金を出し合う」・・臨時増税しかない筈です。
それなのに誰もが復興資金用の増税に反対する今回の事態は、如何に国民みんなが無責任体質にどっぷり浸かっているかの証明です。
増税=自分が負担するのに反対しながら「何とかしてやるべきだ」というきれいごとばかりをマスコミを賑わす・・偽善社会ではいつかは咎めが来る・・紙幣が狐の葉っぱになってしまう時期が来るのは当然です。
考えようによれば、今回任意で集まった寄付金総額が国民の善意の総額であり、それ以上のことはないという現実を直視すべきです。
あるいは税で出せないならもう少し寄付しようかという人もいるでしょうが・・。
増税は嫌だと言うことは、国民は寄付した以上にはびた一文も自分の金を出したくないということでしょう。
復興のための増税しない・・寄付金だけでやりますと言うならば、予めそのようにアナウンスすれば、国民はもっと寄付したかも知れません。
増税しないけれども赤字国債で賄うと言われると国民はその借金支払責任が将来自分にも来るかもしれないと思うと追加寄付して良いかどうかに迷うでしょう。
税も取らない・借金しないで寄付金だけでやると言ってくれた方が、国民はどこまで自分が負担するか、寄付するかの腹を決め易くなると思います。
ちなみに、寄付金総額を調べようとネット上で探しましたが、6月24日現在の赤十字の発表では、2,542億3,171万9,174円となっていますが全体の数字統計が出ていません。
私は千葉県弁護士会の寄付口座に地震直後に送金しましたが、弁護士会では集まった寄付金の内何割を日本赤十字に送って何割をどこへ送ったなどの報告がありましたが、忘れてしまいました。
それぞれ業界団体ごとの寄付口座があって、一部を赤十字に一部を被災地地方自治他や同業者への直接寄付などに分配しているものと思われますが、日本全国全体でどれだけ集まったのかの集計がネットでは見つかりません。

親族制度4(身分法・強行法規)

近代法の原則は「身分から契約へ」の標語で示されるようになったことを、12/24/03「刑罰の種類6「公事方御定書4」(身分とは?1)」以下で連載しました。
財産法の分野はまさに自由な契約の精神(前回紹介したように当事者の特約が優先)ですが、親族相続法は、私たちが司法試験を勉強していた頃には、「身分法」として括られていました。
(今では身分法と言う呼称をあまり聞かなくなったように思いますが・・・事務所に行って修習生に聞けば直ぐに分るでしょう)
身分法と言う講学上の概念が成立していたのは、個人の努力ではどうにもならない「生まれによってすべて決定されてしまう」近代法以前の身分・・親族相続法では血縁が原則です・・・としての理解だったからです。
親族か否かあるいは相続させるか否か相続人としてもどの割合で相続出来るか・相続分を決める基準は、血縁を唯一の基準(例外的に養子制度によって血縁の親子に擬制する仕組み)にしており、親族編では、まず嫡出子か非嫡出子かが大きなテーマであり、あるいは認知制度が整備されているのは、この血縁重視の結果と見ることが可能です。
近代法の血縁重視精神が浸透して来た結果、アメリカで盛んな子育てのための養子もなくなったし、(今ではせいぜい相続税対策や先妻・後妻の子間の対立や、相続分の比率変更のための養子が中心です)兄弟の契りを交わして、これを終生守るような話は三国志や任侠伝の世界でしか存在しなくなりました。
ちなみにアメリカでは、親族制度の強化(限られた範囲ではあるけれども身分制の復活)に向かわず血縁に関係なく孤児を引き取って育てたり,寄付をする慣習が広がった(・・すべて主体的個人の判断によることになります・・・)のは、元々新開地であって近隣相互扶助の長い歴史がなかっただけではなく,上記のように自立心の旺盛な人たちが多かったからではないでしょうか?
アメリカ移民の開拓をつぶさには知りませんが,我が国の北海道への開拓の歴史では,内地並みの集団移住方式でした。
(映画北の零年が正しいとは限りませんが・・・)
これに対して映画などで見るアメリカ移民は一人一人自分の力で自然を開拓して行く方式であまり集団を頼っていない感じです。
アメリカ移民は伊達藩家老一族,あるいは蜂須賀家家老一族が北海道に追いやられたような集団疎開ではなく、個人の意志で「こんな国はオレの方から見捨ててやらあ・・」と言う意志の強い人が祖国を捨てて主体的に移民して行った人が多かったことによるのでしょうか?
元々我が国で子育てを主目的(跡継ぎ目的で養子をとれば結果として養育もしたでしょうが・・・)にする孤児を引き取る養子制度が存在していなかったように思いますが,正確には知りません。
どの水準で子供を扶養するかの程度問題も関係者だけで決めても、その妥当性に不満があれば、別途裁判所に訴え出れば妥当な金額に変更してしまえるようになっています。
すべて国家が決める仕組みです。
すべて、生まれによって大枠が決まっている(例外的に遺言や養子などで修正出来るだけの)制度とすれば、これを学者が「身分法」としてまとめていたのは,(江戸時代だって身分を超えるのに養子制度が多用されていました)至極当然の結果と言えます。

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