貧困連鎖論批判6

能力競争に負けた人が富裕層になれないまでも格差が大きくなり過ぎないように下支え・・各種社会保障制度で修正されていることは周知のとおりです。
地域格差については、EUと違って地方交付金などの補填があります。
我が国は米国や中国その他諸国に比べて、元々所得格差が少ない上にその修正も大きいので、格差社会と言うには、結果的平等が維持されている稀な社会です。
日経新聞の「経済教室」には、12月28日と29日に、「貧困の連鎖」のテーマの論文を連載しています。
その論文では、貧困連鎖が存在していることから補助金・・高校授業料無償化・課外授業の公費負担などの補助金の提言をしていますが、補助金等を拡充すれば何故解決になるのかの説明もなく論理飛躍があって意味不明です。
昔から血筋は争えないと言い、犬でも、馬でも血統を重んじているようにDNAなどと言う言葉が普及する前から、「子の素質は親兄弟に似る」のは誰でも知っているとおりです。
学者ならばこの辺の解明・・血統によらずに貧困によると言う実証研究結果を発表してから論を進めるべきではないでしょうか?
アメリカの黒人等では教育の機会均等が保障されていない・・・西洋では移民2世に同様の問題があることは昨日も書いたとおりに当然の議論ですが、我が国にこの研究成果を漫然と当てはめて公理のごとく高校授業料無償化等を提案するのでは意味がありません。
12月28日論文によれば、格差水準の有無は所得・収入によるのではなく、消費水準によってみるべきと書いていますが、この点は私も同感です。
所得が低くとも補助金や借入金・・祖父母が出してくれても、(収入源はいろいろでも結果的に)学校や塾へ行けていれば結果は同じです。
まして、低所得層にとってはいろんな減額免除制度がありますから、実質消費水準が統計よりも高い結果になっているように見えます。
生活保護所帯では、医療費等が無料であるばかりか、身障者や難病者では公的料金も各種減免制度があるので、仮に正規雇用者と同じ額の貨幣,消費支出があった場合でいえば、各種保護のない正規雇用所帯よりも、実質消費内容が豊かになっていることになります。
高所得があっても自分で消費しない限り何ら良い思いをしていないのですから、公平な課税のためには、消費した時点で良い思いをしているに過ぎないから、所得税と消費税のあり方について消費税が合理的であるし、(財政赤字との関係や景気にどう作用するかは別として)公平であることを繰り返し書いて来たところです。
ジニ係数を大げさに騒ぐことについての批判でも書いていましたが、高齢化するとフローの収入(所得)は減少し(最後はゼロになり)ますが、高齢者の多くは自宅があるしローンも終わっているので家賃もいらない、洋服も滅多に買わなくて良いし、子育ても終わっている・・宝石絵画類も充分に買ってあるし豊富な金融資産(世界に冠たる個人金融資産の大部分は高齢者が保有していることも知られています)で余裕の生活が出来ますので、収入ゼロかどうかの議論=所得格差が広がりますが、政策議論としては意味がありません。
日本の場合、所得ゼロの高齢世帯が豊富な金融資産や不動産等を持っているので、次世代が困っていると所得ゼロの高齢者からの次世代への所得移転・贈与などがしょっ中行なわれています。
実際にこれを応援するために、高齢者からの贈与減税政策が年々拡充される一方であることからも、この動き(個人的に親子間で行なわれているので、統計に現れません)が推測されます。
相続税が大幅に上がりましたが、これは生前贈与を早くやらせる・一種の駆け込み贈与をせき立てる政策の一環とも言えます。
格差を放置出来ないとして社会政策を決めるには、実際の消費量の格差(親からの援助や公的補助金等々の結果)を基準に決めて行くべきです。 
そこまでは日経掲載論文と同じ意見ですが、以上を基準にして12月28日論文の掲載表をみると驚きます。
以下のとおりです。
 
    形態    平均消費支出   貧困所帯割合
  正規労働者   25万1840   1、25%
  非正規     22万250    8、47
  自営      25万2610   1、63
  無職・失業   23万8500   4、55

同論文は正規非正規の格差よりも非正規内格差が大きいと言う主張を書くためにこの表を出しているのですが、この表によれば、所得格差と実際の生活水準は比例していない・社会保障等で大幅に修正されていて結果的に消費生活水準では約1割しか差のない社会になっていることが分ります。
実際の消費格差が、1割前後を格差拡大していると騒ぐのがが正しいと見るかどうかです。
非正規に多い母子家庭を例にすれば、母子家庭であることによる公営住宅優遇枠があって実際の家賃消費金額(千葉市で言えば、民間相場7〜8万円のところ1〜2万円になるなど)が少なくて済んでいますから家賃だけ見ても実質正規労働者所帯よりも豊かな消費生活をしていることになります。

差異化社会6と多様な生き方5

親は「子供のため」と言うのでしょうが、悪く言えば奴隷労働にマンツーマンの監視がつくような悪循環です。
マンツーマン教育が効力を発揮するのは,浅田真央や羽生弓弦君のようなスケート選手あるいは音楽教育その他、全て一定レベル以上の飛び抜けて優秀な生徒の場合です。
平均授業について行けない子は、その分野に向いていないことが多いのですから、目一杯の訓練を受けるのは苦痛を倍加するだけです。
私自身の例で言うと、いろんな能力が生まれつき低いことは子供のころから十二分知っていましたので、不向きなことを人の2倍練習しても意味がない・・苦痛になるだけであると痛感しています。
たまたま日経朝刊には1月1日から小倉桂の「私の履歴書」が始まっています。
小倉桂の1月6〜7日の記載にも出て来ますが、個人教育・特訓は却って苦痛だけです・・彼の場合素質があったのに気が付かずに遊んでいただけですから、この特訓の成果が後に出て来たようですが、元々の素質のない子供の場合地獄の特訓で終わるのが普通です。
私の子供の頃には普通科中心ではなく、農業高や商業高校などが一定の評価を受けていたような記憶ですが、いつの間にか普通高校全盛時代になってしまいました。
この数十年各種専門学校が発達していますが、いずれも高卒を対象にしています・・社会全体のレベルアップの必要性も分りますが、高卒程度のレベルに専門性をつける程度が適当なレベルの子供もいるでしょうし、中卒程度が限界の子供を放置してぐれさせるよりは、そのレベルに応じた専門教育を施せばある程度何とかなるレベルの子供もいるでしょう・・。
どんなに勉強させても、知育方面での基礎能力がなくてついて行けない中学を出ても9x9が出来ない子供もいるのですから、高卒に限定せずにそれぞれのレベルに応じて少しでも現場作業レベルを上げるための訓練設備が必要です。
私が知っている事例では、授業だとサボってばかりいる子が、アルバイトやペンキ屋や鳶職・中古車修理見習いなどならば、よく働く子が一杯います。
私が弁護士業務上で見て来た少年事件や私自身の経験によると、人には向き不向きがあるのですから、能力方向に合わないことを強制しない方が良いのが第1の印象です。
これ以上勉強したくない子を夜遅くまで予備校へ行かせても、(親はこれだけあなたにお金をかけているのに・・と恩を着せても)子供が可愛いそうです。
子供は自分の向き不向きを子供自身が小さいころから一番良く知っています。
親は子供がちょっと音楽やスポーツが出来ると直ぐに一流プロになるかも!と夢を抱きますが、(これ自体親のありがたいところですが・・)子供自身は練習仲間との実力差を良く知っていて、自分の限界も良く知っています。
運動に限らず子供自身が同級生に比べて自分がどの程度よく出来ないか・・塾に行っても友人より出来るようにならないことも良く知っているのです。
親は、塾へ行きさえすれば友人より良く出来るようなると期待しているの(かな?出来るだけのことはしてやったと言うアリバイ証明意識もあるように見えます)ですが、結果は行かないときと変わりません。
子供自身は、クラスメイトより出来ない結果をそのまま受入れる能力があって、別の道に進めば能力が低ければ低いなりに生活の場が決まるのですが、親がありのまま受入れられないからややこしいことになっているように見える事件が結構あります。
私自身いろんな分野で人並みの能力を持ち合わせていないことを子供のころから良く知っているのですが、もしもこれを是正するために◯◯に行かせられて特訓を受けた場合を考えると、その時間は苦痛であっただけで何の役にも立たなかったに違いありません。
タマタマ戦後で、みんな食べるのに忙しい時代だったので周りにそんな余裕が無かったので放っといてくれたので助かりましたが・・。
自分に合わないスポーツの特訓でなく、勉強だっていやな子が強制されるのは、イヤなことに違いないし教育成果としては多分何の効果も生まないで、逆に子供のやりたいことをやらせない・・虐待効果を生み出しているように思えます。
これに対する不適合の限界・・反抗が、不良行為誘発の大きな原因になっているように見えました。
言わば、子供が自分の能力限界を悟っているのに親が覚っていない・悟りたくないミスマッチを放置するのは問題です。

政体と民度6(新興国5・中国1)

日本では、公正無私な人が多い・党派性によって、相手が正しいことを言っても受け付けないと言う不公正な現象は滅多にありません。
コネでこう言うこう言う不正なことをしている・・政権が変われば、自分たちのグループに有利な政策になると言う決まり文句のような単純な主張が成り立たない社会です。
これが日本の野党やマスコミ意見の存在意義を小さくしている・・政権交代が出来ない原因です。
マスコミは事実報道に徹して、国民の公正な判断の材料提供者になるならば存在意義がありますが、政策実現可能性も分らないのに各種の審議会等で、誰も相手にしないような少数意見を取り上げて、さもこれが正しいかのように煽るのは国民を惑わすものです。
言論の自由の必要性・・野党の必要性は、本当に日本のためになる主張してもらうためにあるのです。
日本の文化人・・マスコミ、野党は、衆知を尽くした政府施策に対する批判が合理的に出来ないためか?現実の日本のためになるかどうかよりは存在意義をひけらかすために空理空論・・あるいは、ありもしない慰安婦報道などを過激化することによって、日本政府・ひいては日本国を窮地に追い込み困らせる目的しかないように見えます。
現実離れをした主張を合理化するために、国民はレベルが低くて理解出来ないので、自分たちが「世界水準を教えてやる「前衛」と言うエリートの位置づけです。
ジッサイ政治をどうするかの議論に関して「憲法学者がこういっている」と大宣伝するのも同じ流れです。
NGoに関するシリーズの途中で話題がそれていますが、NGO・国連報告問題も、NGOが自分がエリートのつもりで、(現実的に日本のためになるかどうかよりは、政権批判することのみを目的で)「国連報告」と言うお墨付きを得て自分の主張の正しさを箔付けするつもりだったのでしょう・・が、野党の空理空論を国際化して権威付けしているに過ぎないと言う視点でここでは書いています。
国民は利口ですから「頭のいい人の言うことは難しくって分らない」と言って逃げますが・・本当は実態理解能力のない人がエリ−トぶっているだけで頭が悪いのは、一流大学を出たエリート?集団の方です。
この発想の延長上に、連合赤軍その他革マル派中核派等の自己中心的思い込み・・過激派の活動があります。
書いてあることの理解・・数字や他人の論文や歴史年表を理解する程度の能力と、文字化出来ない無数の経験値や情報=実態把握能力と比べれば、文字以前の情報総合力のある方がレベルが上です。
その結果一流学者の拮抗している合理的意見の中から、政府がどれを選択して行くかに任せているのです。
今風のエリートである学者らから見れば、東大を出ていない安倍総理をバカ扱いしているように見えますが、エリートの集まる財務省が消費税増税を求めていたのに対して、安倍総理は延期を決めましたが、どちらの選択が正しかったかは、結果が証明しています。中国がやることなすこと全て裏目に出てるのは、アメリカ留学返りのエリート集団が思いつきで安直に一石二鳥の政策をやるからです。
国外からよその国の社会実態を無視して「人権」と言う基準を錦の御旗にして後進国の内政に介入して混乱させようとする彼らの運動批判の視点でこのシリーズを書いていますが、同様に国連の名で日本社会を混乱させようとする彼らの運動批判でもあります。
新興国の運営に戻りますと、民度レベルを越えた意見を聞く政治体制になると、意見がまとまらず内政運営が難しくなります。
中学生や高校生が学校運営能力もないのに、自主的な学校運営をすると無理が出るのは当然です。
民度を越えた政治発言を許容する社会になると、内政矛盾・利害調整がうまく行かないことが頻発しますので、これを誤摩化すためには、外敵があるとさしあたり内政の利害対立・矛盾を棚上げして「先ずは、外敵にあたりましょう」となるので、国民の目をそらすのには好都合です。
赤ちゃんが泣いてると、がらがらと音を立てて一時的にびっくりさせて泣き止むのを待つようなものです。
赤ちゃんが泣いている理由が空腹であったりどこか痛いのであれば、その原因を解決しない限り、びっくりさせても一時しのぎであって抜本的解決にはなりません。

NGO6(説明責任否定1)

日本が児童買春を取り締まっていないのではなく、どの程度取り締まるかの程度問題の政治論争でしかないのですから、言わば純粋な国内政治問題です。
こういう問題について人権侵害だからと言う理由で、自分の政治的意見を通すために日本に調査に来てくれと国連で招致運動をする運動体がある事自体が驚きです。
「憶測ばかりでモノを言うな」と言う意見も当然ですが、特別調査官の記者会見前後に同弁護士が開示していたツイッターによれば、同弁護士または周辺関係者が同調査官に何らかの影響力を行使したかのように読むのが普通ですから、説明責任を果たすのが普通です。
だれがこう言う運動をしたのか?議論対象になった途端に「犯人探しになる」と言う理屈でシャットアウトするのって身勝手過ぎませんか?
法律上国民に対する説明義務がないと言うのは、法律違反かどうかの最低の基準に反していないと言っているに過ぎません。
11月1日以降、同弁護士個人ツイーターの入れ替えをしているのか、私の能力では、見つからなくなってしまいましたが、国民理解を気にして入れ替えたのか、全容を伏せてしまえば国民疑惑が収まると言う正面突破の戦術かも知れません。
この戦術は、過去のツイッターのコピーを誰もコピーしていないし、仮にしていても細切れだろうと言う読みで行なったと思われます。
仮にそっくりコピーしていた人がいて公開した場合、同ベンゴシガ削除してしまった意図が問われることになります。
削除してしまうと言うことは自分のやって来たことに自信がない・・裏付けがあるのかと言う問題提起が起きたことに対して事実上根拠がないことも認めるような印象を受けます。
同ベンゴシガ事務局長をしているNGOの活動歴も10月末ころにコピーしておいたのと若干違っています。
後に英文をコピーしておいた国連提言の一部を後に紹介しますが、同NGOは「Japan’s Military Sexual Slavery」(日本軍性奴隷)の表題で提言をしています。
国際NGOは、国家を離れて独立して活動すべきものですから、日本国民に対する説明責任もないし、日本のために活動する必要はない・・何をしようと勝手だと言う論理を展開すればそのとおりだと思われます。
しかし、諸外国カラ見れば日本のNGOは政府とは独立してはいるものの日本のために活動していると言う目で見ているのが普通です。
どうせ中韓が日本の悪口を言っても・・と色目でみんな見るのに対して、日本のNGOを利用して「日本軍の性奴隷」と言うテーマで国連で毎回のように提言し続けると世界中が信用してしまうリスクがもの凄く高まります。
同じ慰安婦の主張でも韓国が主張するのと日本のNGOが主張するのとでは、影響力が大違いです。
従来公開していた活動ツイッターでさえも不都合と思う部分だけを削除しているようでは(私が探せなくなっただけかも知れませんが・・)、何をしているかも日本人に知られたくないことは秘密にする・・活動内容の内国民にあたりさわりのないことだけ公開する・・その他は秘密です」と言う宣言をしたのと同じです。
これでは、本当は何をしているのか国民には分りません・・「知る権利がない」と言われれば法的にはそのとおりですが・・。
連合赤軍やオーム真理教みたいになりたいならば・・日常何をしているか公開する必要もない・・国民無視でも一貫しますが・・NGOは元々公共のために活動していると言う以上は、独善ではなく国民理解を必要としている筈です・・従来のツイッター等の書きぶりから見ると相応の国民支持を目的にしていたように思うのですが、残念なことです。
ま、お里がバレたならば仕方がないか・・と店を畳むのも一案です・・また別の日本本拠のNGOを立ち上げて、新規に中立っぽく宣伝開始した方が効果が高いでしょう。
特定国にとっては、資金を新たなNGOに振り向ければ良いでしょう。
ヒューマンライツ・ナウの理事等の名簿をコピーしておかないと、その内、都合が悪くなって削除されてしまうと、同じメンバーで別組織を立ち上げていても分りません。

サイレントマジョリティ18(投票率7)

ところで立候補者一人の場合、自動当選にしないで不信任投票制にした場合には、実務的不合理性があります。
最高裁判事のように15人もいてその内の一人二人の適格性審査の場合、仮に不信任になっても裁判実務にそれほどの影響がありません・・。
裁判官の選任(欠員補充)は内閣の任命で足り、選挙がいりませんし、しかも15人の内数人が数日程度欠けても実務は回って行きます。

憲法
第七十九条  最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
○2  最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
○3  前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。

ところが、国会議員や市長県知事選挙の場合、選挙区でたった一人の候補者が不信任となった場合、どうなるの?と言う問題が起きます。
再選挙の繰り返しと言う訳に行かないし・・その選挙区は代議士や市長のないままになるのでしょうか?(後任が決まるまで前任者が居座り続ける?)
代議士の場合国会議員の何百人の一人でしかないので、少しの選挙区で決まらなくとも、他に一杯当選した議員がいるならば、)何とかなるでしょうが、知事・市長等の選挙ではどうなるのでしょうか?
選挙は文字どおり選挙する=選んで挙げることであって、引きずりおろす制度ではありません。
不信任制度は、一旦選んだ市長等のリコール・・裁判官の審査など後の判断行為に限定されるべきであって、選ぶべき選挙に用いるのは現実制度的に無理があることが分ります。
有権者の過半数の得票がないと不信任=落選とした場合、これをクリアー出来るのは、談合がない限り・・全国で多くても数人〜10人前後しか当選して来ないとすれば、国会制度は機能するのでしょうか?
国会議員が過半数でなければ内閣を組織出来ませんので、事実上の寡頭政体か、無政府状態を予定するしかありません。
憲法はこう言う状態を予定しているのでしょうか?
 
憲法
第六十八条  内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。

第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

第四十七条  選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。

憲法で定めているのは、「成年者による普通選挙」とある以外は、法に委任しているのであって、それ以外の規定がありません。
中野教授のいうとおり、法律で全有権者の過半数の得票がないと不信任・当選させないと言うことまで選挙法で決めないと憲法違反と言えるかですが、この点についてはこの条項だけからは分りません。
法律に一任しているとすれば、得票数の比較多数を当選とする現行法を国会が制定しているのは、憲法違反ではありません。
どう言う制度設計が正しいか法・・国民意思で決めるべき・・思想の自由競争の世界です。
中野教授は棄権者を不信任と決める制度にすべきと言う意見・・立法論を言うのは勝手ですが、現行制度下で棄権者を不信任と決めつけて現内閣の正統性がない講演したとすれば立法論と現行制度の解釈論とを混同しているものになります。
こう言う(誰も支持しない)「変わった考え方もあり得ます」と言う程度の意見を聞いた会員が、過剰な思い込みしただけかも知れませんが・・・。

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