あいちトリエンナーレ不自由展に関する専門家意見と民意乖離8(表現の自由市場論17と世論軽視論の矛盾9)

ウイキペデイア引用続きです

表現の不自由展」展示中止に関する論説[編集]
新聞各紙はテロや脅迫で表現の自由を奪う行為に対しては厳しい批判で一致していたが、主催者側の落ち度については論点が分かれた。
いちトリエンナーレを後援している朝日新聞[123] は、8月6日に社説で「一連の事態は、社会がまさに「不自由」で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい。」と掲載し、不自由展に否定的な世論への批判を行った[
産経新聞から「非常識な展示会に批判が相次いだことは、国民の常識感覚の表れである。それを「『不自由』で息苦しい状態」といい、「病理」とまで断じる感覚はおかしい。」[125]。「慰安婦像などに対して芸術作品としての妥当性には踏み込まず、表現の自由の議論に持ち込むことを避けている」[126] などの批判が行われた。
読売新聞は「展示作品が物議を醸すことが予想されたのに、反発を感じる人への配慮や作品の見せ方の工夫について、検討が尽くされたとは言い難い。」「結果的に、脅迫を受けて展覧会を中止する前例を作ったとも言える。その事実は重く受け止めなければならない。」[129]、企画者は「表現(本来的に謙虚な営みであって、最初から表現相手に対する敬意を前提にしている)」と「主張(一種の自己拡張の行為であって、根本的に相手に影響を与えて変えようとする動機に基づいている)」という言葉を取り違えている[130] などの批判を行った。

朝日、産経、読売それぞれの日常的スタンスを反映する主張になっています。

「表現の不自由展」に対する評価[編集]
日本美術家連盟は・・実行委員会の運営手法を批判し、『対立を避け、平穏でフラットな空間を「公共」に求める流れに対し、愛知県が一歩踏み込んで、受け入れる「表現」の幅を広げようとした姿勢は評価できるものです。しかし、この展示に対する反応の大きさを見誤り、足元をすくわれ、結果的に「表現」の側に立つことの困難を印象づけることになりました。』と評した
日本共産党はあいちトリエンナーレ2019を「いまの日本に横たわるゆがんだ歴史認識、憎しみや差別をあおる勢力をあぶり出すとともに、それに抗し内外で連帯する姿を示した意義は大きい」と評した[182]。
林道郎上智大学教授は「表現の自由という概念が人々に内面化されていないことを痛感した」と述べ、欧米式の自己主張を重視する教育が行われていないことに原因を求めた。また、抗議の背景には「日本が経済大国でなくなりつつあること」を指摘し、「自己と国を重ねている人には耐えがたいのだろう。だから国の方針に反する存在に不満をぶつける」と分析した[

美術家連盟は運営手法に問題があったという程度でお茶を濁し、共産党はいつもの通りであり林道郎上智大学教授は昭和40年代まで一般的だった「欧米に比べて日本の民度のが低い」という決まり文句での評価です。
こういう決まり文句しか言えない人が大学教授をしているとは不思議ですが、他にもいろんな意見があるはずですが、この程度にまとめるのはウイキペデイア編集者のレベルなのでしょうか?
ところで、この騒動で誰が得したかの分析が重要です。
この騒動の結果、韓国の立場を代弁する運動家が今後公的(制作費)補助を受けて自由に使えるようになったのか?
ウイキペデイア引用続きです。

8月26日、韓国のソウル大学校日本研究所のキム・ヒョジン教授は慰安婦像を再展示するための戦略として「日本の少女像に対する反発を指摘するよりは、『表現の自由』の問題を浮き彫りにすることが、さらに訴求力のある戦略」と分析した。「少女像を強調すれば強調するほど、むしろ平和の少女像を口実に展示会を攻撃する日本国内の嫌韓論者に反対根拠を提供するのではないか、熟慮する必要がある。」「日本の市民社会は依然として『検閲』に対して強い反感を持っていて、これは重要な連帯の根幹になりうる」と報告を行った[
京都弁護士会は「公権力が、表現内容に異議を述べてその中止を求めることは、表現活動に多大な萎縮効果をもたらすものであり、到底許されるものではない。」と会長声明を発表[189]、同月29日には、東京弁護士会も「公権力が、表現内容に異議を述べてその中止を求めることは、表現活動に多大な萎縮効果をもたらすものであり、到底許されるものではない。」
愛知県弁護士会が「公共の場における多様な表現の保障は、民主主義の意見形成の過程を支えていくために不可欠であり、多数意見と異なる少数意見の表現、特に時の権力者の意見に反する少数意見であっても、多数派の意見と同様に最大限の保障がなされなければならない。」「河村市長の発言と行動は、行政庁の長である市長が企画展の展示物である表現の内容に対して異議を唱え出品者の表現行為を止めようとするものであり、憲法21条2項との関係において適切さを欠くものである」
河村は「名古屋市民の多くにとって、激しい嫌悪感・不快感を催し、国民感情に著しく反すると思われる作品群に対し「便宜を供与」(公共施設の使用許可等)し、公金(愛知県民税・名古屋市民税・国税)を使うことが著しく不適切であると考えられるがゆえに、その「(展示の)中止を含めた適切な対応」を求めたもので、「中止そのもの」を求めた訳ではありませんし、個々の作品の「表現の規制」を目的とした行為ではありません」と反論を行った。

韓国側は今後検閲論の土俵で(親韓派系とは書いていないですが、)弁護士会等が頑張れば、今後日本政府資金で慰安婦像製作し展示する道が開けたと期待しているようです。

アメリカンファーストと都民ファーストの違い

以上見てきたように内政重視・・正攻法の政治をするには政治家に利害調整能力が必要であるほか国民の方も妥協できる能力・よほど民度が高くないと難しいことが分かります。
日本は奈良〜平安〜江戸時代を通じて外敵を求めずに内部完結政治をして国民も満足してモラルを高め独自文化を発展させてきましたが、このような真似をできる国はそれほど多くありません。
アメリカは世界最強のイギリスを退けた独立戦争直後から今の中国のようにアメリカの強引な行動が目立つようになり(うまく行かないとモンロー宣言でアメリカ大陸に引きこもる)事実上どこの国も文句言えない状態が続きました。
第二次世界戦後西側諸国では名実ともに一強になり、さらにソ連崩壊で世界の一強になりましたので第一次イラク戦争を初め国外でやりたい放題でしたが、IT~AI技術の発展に象徴されるように大規模設備不要の少数者の威力・・ネット発信力を無視できなくなってきました。
日本で言えば、マスメデイアの情報独占が崩れ個々人のネット発信力が強まりましたが、これが物理的側面に出たのがテロの威力増大です。
サイバーテロが象徴的ですが、正規軍の強大さだけでは対抗できなくなりました。
言論世界でもマスメデイアさえ押さえれば、好きなように世論誘導できる社会ではなく個々人のツイッターその他ネット発信威力を無視できません。
世界政治が軍事力や資金力だけを背景に自己主張を押し通せるような単純なものではなくなってきました。
国際政治も内政並みの複雑さになると、内政経験の蓄積がないまま・複雑な利害調整不要な単純社会であるからこそ図体が大きくなれているという面もあります・・超大国になったアメリカ〜ロシア〜中国など領域の大きさに頼る大国政治家には手に負えなくなってきました。
地形を見ても複雑な地形では大きな国になりにくいし、大平原地帯等では利害が単純ですから広大な領域支配が可能です。
中国が数千年単位の大国経営の経験があると思う人が多いでしょうが、日本のように自然に出来上がった集落が近隣集落と意見のすり合わせ・利害調整を経て大きくなったのではありません。
中国大陸の政治支配の内実は点々とした飛び地に出先砦を作り上げた飛び地経営・都市国家連合形態ですから、砦と砦の間の広大な空間に住む原住民の攻撃を防ぐための城壁に守られた都市国家・点と点を支配して来たにすぎません。
これが現在の「都市戸籍」と「農村戸籍」二分の源流と見れば歴史を無視できないことが分かるでしょう。
日本の城下町は地元住民の出入りが自由な仕組みですが、中国の場合には都市そのものが都市外の地元住民を敵視して大規模な城壁で囲まれているし、原住民の襲撃を防ぐために鶏鳴狗盗の故事で知られるように夜間は厳重に閉じられて兵が守るのが原則です。
近代〜現在においても、華僑が人口の大多数を占めるシンガポールでうまくいっているし香港、深セン特区や上海租界などの「点」としての都市を治める政治をしている限りうまくいく社会です。
アメリカの自治体のあり方を紹介している途中ですが、アメリカの場合も広大な空間の広がりの周囲に旗を立てて支配空間を決めただけで、内容がスカスカの状態・・飛び地支配で始まっています。
広域テーマが増えてきて共同して対処するための自治体間協議が全くまとまらない状態についても、Oct 15, 2017「アメリカの自治体4(自然発生的集落の未発達→内政経験未熟1)」に紹介したばかりです。
アメリカの政党・共和党は経済を含めた外交とセットの戦争のためにある政党と言われていますし、民主党・リベラル系は庶民の味方と称してバラマキだけで利害調整型政治はできません。
日本の民主党政権も韓国の文在寅政権も同様で、単純に「無駄を省けばバラマキ資金が出てくる(日本民主党政権)」「仕分け」など韓国文在寅大統領も内部留保を吐き出せとか、公務員を80万人?(正確な数字は忘れました)の大量雇用するとか、最低賃金引き上げなど強権的決定で押し切ろうとするやり方が基本であって、利害調整で何とかしようとする姿勢がありません。
以下は、https://ameblo.jp/katsumatahisayoshi/page-3.htmlから「文在寅大統領」のキーワードで拾った検索データの一部です。

韓国、「最低賃金」大幅引上で零細企業に財政援助の「間違い」
韓国、「原発廃止表明」原理主義と独善で唖然「電力対策」欠く
「社会的大妥協」という強制
『ハンギョレ』(6月11日付)は、「文在寅大統領、働き口解決法として『社会的大妥協』を提示」と題して次のように伝えた。
文氏の選挙公約では、次のような点が上がっていた。
(1)公的機関で81万人、民間で50万人の雇用創出(潜在失業者を除く実数で135万人であるから、これを吸収する人数)
(2)最低賃金を時給1万ウォンに引き上げる(労組の要求通り。現在は約7000ウォンであるから20年までに実現するためには年率15%の引き上げが必要)
(3)4大財閥を中心とする財閥改革(労組の経営への参加)などを掲げた。一言で言えば、韓国経済を成長させ、その果実で分配を改善するのではなく、現在のパイの中で分配を変えるということであろう。」

韓国新大統領の政権運営を見ると平成10年代始めの日本の民主党政権の運営と似ているのに驚くばかりです。
「草の根の意見を大事にして・・」というのが決まり文句ですし、自分たちだけが民意の代表という決めつけをしていますが、実際に政権を取ると国民意見吸い上げ・利害調整能力がないので、八ッ場ダム工事中止決定や強権的にできることばかりに精出していた印象でした。
権力的決定はどうにもならない・権力の及ばない利害調整の必要な沖縄基地移転問題ではアメリカ相手に為すすべもなく大恥を書いたのは、強権決定に頼っている民主党政権の本質的矛盾によるものでした。
文在寅が、就任直後サード配備工事中止を命じたものの、対米関係上無理があって結果的に配備せざるを得なくなったのは鳩山政権の基地移転問題と同じです。
政治家・政党が「〇〇をやる」という以上は、何事も反対意見があることを前提に利害調整を自分ならばうまくやってみせるという意味であって、「アメリカに反対されたのでできません」というのでは、当初からできる見込みもない公約・・虚偽公約になります。
上記原発ゼロが問題視されているのはゼロにした場合に穴埋めの電力をどうするかの総合政策がないまままの発表だからです・中国の大躍進政策のように、決めた以上は権威に関わるので電気不足で国民が困ってもやるというならば別ですが・・。
同様のことは、蓮舫氏の30年までの原発ゼロ政策発表が無責任として民進党内で総スカン受けて引っ込めざるを得なくなったのと同じことを文在寅が繰り返しています。
こういう稚拙な政治家が国内批判もなく5年間もトップに君臨する・・人材不足・引いては民度の低さが韓国の不幸です。
アメリカの自治体紹介を年内から来年初ころに再開したいと思っていますが、アメリカは気がつくと国内政治・利害調整をうまくやる能力がない・・自国内で利害調整能力のない民族が国際政治の利害調整者を務めるのは無理があると気がついた状態です。
国際政治のヘゲモニー争いに執心して国富をつぎ込むのは国民福利に関係のないことだと気がついたのが、トランプ氏の唱える「アメリカンファースト」との意気込みとすれば時宜を得ていることになります。
アメリカも今後はロシア的外延拡張政策より自分達のために・・「内部の充実が重要・・先ずは利害調整できる程度まで民度を引き上げることが先決」という意味の方針転換とすれば歴史必然であり、正しい方向性というべきです。
ちなみに昨春以来の小池都知事の「都民ファースト」のフレーズは、都民無視の対外支出が都政で続けられてきたのならばこれを改めるのは当たっていますが、小池知事は過去の何が都民ファーストでなかったのかについて何も言いません。
小池都知事は都政で前任者がしていたことの何が都民ファーストでなかったのか明らかにしてこれをやめて今後何にファーストの焦点をあてるかの説明がないまま、1年以上過ぎてしまいました。

司法権の限界17(異議手続改正の必要性1・行政不服審査法改正)

ところで運転手が急病でイキナリ意識不明になってバスなど暴走すると危険なので自動制御装置の導入が検討されています。
仮処分手続は本格的立証でなく疎明で足りるし、本案手続と違って簡単軽易な手続で決定が出されるのに逆に効力がすぐに出てしまって、多数法律家が見て明白におかしいテロ的乱用の場合でもすぐに効力停止出来ない難点・自動制御装置がない点をどうするかです。
異議申し立ての制度は、仮処分が簡便な手続で効力が出る代わりに重厚な高裁への上訴ではなく、同一組織内で簡便に不服を受け付けて迅速修正出来るようにしたものですが、異議手続があると却って、異議審が終わるまで高裁へ上訴したくても出来ない・・結果的に間違った仮処分がでも長く維持される仕組みになっているのが背理です。
異議審では仮処分の取り消し・・即時効の発効停止を求めることが出来ますが、仮処分決定をした同じ合議体がこの異議を審理する仕組みですので、同じ人間が突然考えが変わって仮処分の効力停止を命じることが滅多にありませんので,この制度はお飾りになっています。
表向き上訴する手間を省かせると言う制度設計ですが、実際には異議手続があるのは安直簡便な決定効果を長びかせるためにあるようなシステムになっています。
「異議」と言う手続は、民事執行手続あるいは各種行政処分に対する不満がある場合行政訴訟をする前に簡易即決するために処分庁の内部手続として法定されています。
政府にすれば「裁判するのは大変だろう」からと言う親心で?、(若い者が間違っている場合に)上司に文句を言うチャンスを先に与えてやると言う仕組みですが、結果的に裁判するチャンスを先延ばしする制度になっています。
大津地裁の仮処分決定で異議審を経過しないと高裁に出せない・・高裁に移行し全く別の観点からの判断を得るまで長期間かかってしまうリスクが浮き彫りにされました。
従来行政不服申し立てでは、特定決定(処分)に関してその所属の上司に異議申し立ててみて再審理の結果、当初処分が正しいとして異議が退けられてから初めて上級庁に審査請求出来る異議前置主義でした。
同じ行政庁に異議を出しても多くが(行政庁では上司の決裁を受けて処分するのが普通ですから上司の知るところとなっても)異議を出しても退けられる運命ですから、無駄な制度だと思っていましたが、こういう苦情が多かったらしく直截(第三者機関に)審査請求出来る制度が16年の4月から施行されました。
「行政不服審査法
(平成二十六年六月十三日法律第六十八号)
 行政不服審査法 (昭和三十七年法律第百六十号)の全部を改正する。
処分についての審査請求)
第二条  行政庁の処分に不服がある者は、第四条及び第五条第二項の定めるところにより、審査請求をすることができる。
千葉県総務部政策法務課政策法務班中庁舎7F
不服申立ての手続を審査請求に一元化
【図2】
現行は上級行政庁がない場合は処分庁に「異議申立て」をするが、「異議申立て」をなくし「審査請求」に一元化。」
上記は千葉県情報からの引用です。
(総務省http://www.gov-online.go.jp/useful/article/201605/1.htmlには詳細説明がありますが簡潔引用には向かないので、千葉県の解説の引用にしましたので、詳細を知りたい方は上記総務省にはいってください。)
改正法の審査請求の場合には異議と違って第三者委員による審査になる点も公正と言うか当たり前(これまで内部の同じ行政官が審査していた点を改めたのです)の制度設計です。
タマタマ昨年4月から「異議制度」の不都合が改正されたのですが、このコラム原稿を書いた昨年3月時点では、まだ施行されていない事前情報として引用したものです・・今ではネット検索で現行法として出て来る筈です。
行政に限らず司法手続においても異議などの半端な中2階を整理して行くべきです。
ところで一般の個人間の争い・・軽い仮処分仮差し押えの場合には、原則として単独判事(補)の職分です。
しかも、裁判は独立性保障のために、他の裁判官に相談せずに単独で決定するのが原則ですから、軽率な間違いがあり得ると言う前提で、大げさな高裁提訴よりは、同じ裁判所内の熟達したしかも3人による見直しチャンスを与える・・早期是正チャンスを与えると言う制度設計です。
例えば宇都宮地裁の決定に不服な人が、常に東京高裁まで出掛けて行って上訴するのは大変な手間ひまですしコストも大変です。
特に法制度が出来た明治大正時代の交通事情を想定すれば、先ず内部上司で見直しをしてやる・恩恵的制度設計もあながち不当な制度だったとは言えないでしょう。 
宇都宮の事件を例にすると今でも数十万〜百万円程度の個人係争事件では、手間ひまと弁護士費用を掛けて東京高裁に出掛けるのは大変なコストですから債務者保護のために役立っている面もあります。
でも債務者保護のためならば上訴するか、異議を出すかの選択制にすれば良いことです。
単独裁判官が仮処分決定した場合には、異議が出てから単独判事より20年くらい年長者の裁判長を交えた合議体で新たに審理し直すのは意味があります・・これが異議手続の存在意義ですが、原発のように大きな事件では初めから合議体で審理するのが原則です。
一般仮処分は債務者の意見を聞かない一方的資料による決定が原則ですから、債務者の意見や証拠提出される異議審では同じ裁判官でもこんな証拠があるならば・・と決定変更の可能性があります。
ところが、原発決定等断行仮処分では債務者(電力会社)に対して期日呼び出しをして相互審問あるいは口頭弁論を開くのが原則です。
事実上本案訴訟(今は本案訴訟でも複雑な事件では準備手続に入るのが普通)とほぼ(証人調べはないものの)同じ手続が行なわれて「これ以上双方が出す主張や証拠がないですね」となってから決定するのが一般的運用です。

サイレントマジョリティ18(投票率7)

ところで立候補者一人の場合、自動当選にしないで不信任投票制にした場合には、実務的不合理性があります。
最高裁判事のように15人もいてその内の一人二人の適格性審査の場合、仮に不信任になっても裁判実務にそれほどの影響がありません・・。
裁判官の選任(欠員補充)は内閣の任命で足り、選挙がいりませんし、しかも15人の内数人が数日程度欠けても実務は回って行きます。

憲法
第七十九条  最高裁判所は、その長たる裁判官及び法律の定める員数のその他の裁判官でこれを構成し、その長たる裁判官以外の裁判官は、内閣でこれを任命する。
○2  最高裁判所の裁判官の任命は、その任命後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際国民の審査に付し、その後十年を経過した後初めて行はれる衆議院議員総選挙の際更に審査に付し、その後も同様とする。
○3  前項の場合において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は、罷免される。

ところが、国会議員や市長県知事選挙の場合、選挙区でたった一人の候補者が不信任となった場合、どうなるの?と言う問題が起きます。
再選挙の繰り返しと言う訳に行かないし・・その選挙区は代議士や市長のないままになるのでしょうか?(後任が決まるまで前任者が居座り続ける?)
代議士の場合国会議員の何百人の一人でしかないので、少しの選挙区で決まらなくとも、他に一杯当選した議員がいるならば、)何とかなるでしょうが、知事・市長等の選挙ではどうなるのでしょうか?
選挙は文字どおり選挙する=選んで挙げることであって、引きずりおろす制度ではありません。
不信任制度は、一旦選んだ市長等のリコール・・裁判官の審査など後の判断行為に限定されるべきであって、選ぶべき選挙に用いるのは現実制度的に無理があることが分ります。
有権者の過半数の得票がないと不信任=落選とした場合、これをクリアー出来るのは、談合がない限り・・全国で多くても数人〜10人前後しか当選して来ないとすれば、国会制度は機能するのでしょうか?
国会議員が過半数でなければ内閣を組織出来ませんので、事実上の寡頭政体か、無政府状態を予定するしかありません。
憲法はこう言う状態を予定しているのでしょうか?
 
憲法
第六十八条  内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。

第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3  公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。

第四十七条  選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。

憲法で定めているのは、「成年者による普通選挙」とある以外は、法に委任しているのであって、それ以外の規定がありません。
中野教授のいうとおり、法律で全有権者の過半数の得票がないと不信任・当選させないと言うことまで選挙法で決めないと憲法違反と言えるかですが、この点についてはこの条項だけからは分りません。
法律に一任しているとすれば、得票数の比較多数を当選とする現行法を国会が制定しているのは、憲法違反ではありません。
どう言う制度設計が正しいか法・・国民意思で決めるべき・・思想の自由競争の世界です。
中野教授は棄権者を不信任と決める制度にすべきと言う意見・・立法論を言うのは勝手ですが、現行制度下で棄権者を不信任と決めつけて現内閣の正統性がない講演したとすれば立法論と現行制度の解釈論とを混同しているものになります。
こう言う(誰も支持しない)「変わった考え方もあり得ます」と言う程度の意見を聞いた会員が、過剰な思い込みしただけかも知れませんが・・・。

サイレントマジョリティ17(投票率6)

各種売れに売れている大ヒット商品についても、大ヒットテレビ放送等でも国民の過半数が視聴したり買っていることは滅多にありません。
映画も野球もベストセラーも全て国民の過半数が見に行ったり買ったりしないと、国民がその映画や本が嫌われている・・失敗作とは言わないでしょう・・国民の一割でも見たり、買ったりすれば大成功ではないでしょうか?
特定のチョコレートを国民の1割も買うようになればヒットどころかホームランです。
国民の9割が否定しているのではなく、何万と言う似たような商品がそれぞれ0、00何%しか支持されていないのに対して、その商品だけが10%もの人から支持されていると言う見方をするのが普通です。
ある店で作ったお菓子が10個しか売れないのに、別の店で作ったお菓子が100個売れれば、多く売れた方が成功していると評価出来る・・人口比何%しか買っていないかではなく、比較多数に価値基準をおくのが人類共通の基準です。
上智大学教養学部教授中野晃一氏(政治学)の意見では、政党別の得票率を言うだけであって個々の候補者の得票率は有権者の半分以下でも良いんだと言うのかも知れません。
しかし、政党は選挙区で当選した・信任を受けた代議士の集合体として国政に影響力を持っているのであって、政党と言う抽象的なものは、制度上直接(比例代表制によって顔を出している程度ですし、これも個々の代議士の小選挙区での得票率・・惜敗率によることになっています。)予定されていません。
また政党別得票率と言われているものも、多分各選挙区の得票合計=各候補者の得票数によっている筈です。
政党の力は、個々の代議士が選挙区で国民の信任をどれだけ受けているかの集積ですから、選挙制度論は、個々の代議士の当落に関係させる議論でないと意味がありません。
あるいは政権批判しているだけで、野党の得票の場合には、こんなに批判票があったと、得票数だけを取り出すのが正しいとすれば、御都合主義過ぎてこれもおかしな議論です。
安保法制反対デモでは、人口一億数千万のうち(主催者発表で)数万人も参加したと大いばりですが・・・。
この学者の意見だとデモに参加しないその他国民全員が、安保法制反対運動を支持していないことになるのでしょうか?
投票率に話を戻しますと、選挙の都度、有権者の過半数を得た場合だけが信任されている→当選とした場合、昨日紹介したように石原氏でさえ僅か3割の得票率にしかなりませんので、適格者が全国でゼロ名〜7〜8名しかいない可能性が大ですが、そうすると日本全国殆どの選挙区では地元選出代議士がいない状態になります。
それでは困るので共倒れ防止のために選挙前の談合がはやって、実際には各選挙区では一人しか立候補しないようになるのでしょうか?
事実上の絞り込みの結果、選挙が事実上なくなって地方ボスの話し合いで村長さんを選んでいた時代に逆戻りになりそうです。
実際に千葉県弁護士会は未だにそう言う状態で、選挙らしい選挙したことがないことをこのシリーズで紹介しました。
気心の知れた少人数組織でしかも元々政治的な意見対立課題がない・・日常的同業組合的事務処理が中心だった時代・・例えば総称手続運営についての裁判所や検察庁との話し合いなどでは、プロの委員会主導で検討して、会長そのとおり発言して行けば良い・・適当な年功でなって行く・・言わば政治的立場は誰でも良かった・・日教組との政治対立のないときの小中学校の校長先生が名誉職だったのと同じです。
現在のように弁護士会が政治意見をしょっ中発表し行動するようになって来ると、(従来型お任せ意識の会員にとっては話が違うじゃん・・潜在的な会内意見対立・・)不満が蓄積して行きます。
運動体的な各種委員会はこの動きを早めに制して、従来名誉職的地域代表だった常議員会に委員会推薦立候補をさせるようになって来ていることを以前のコラムで書きました。
この結果「政治運動まで任せていないよ!」と不満が出るようになると、直ちに「正当な会内手続を踏んでいる」と言う反論が出て来ます。
こう言う正当化論が中国の全人代(地方から順次上がって来た民主的意見によって運営していると言う独裁正当化論)が民主的であると言う論理の基礎です。
弁護士会の場合、一人しか立候補しないと選挙すら実施しないのですが、立候補者が一人の場合こそ、信任・不信任の投票をしたら本当にみんなの意思で候補を絞ったのかの判定が明らかとなります。
公職選挙法の場合はどうなるのでしょうか?
候補者を一人に絞っても選挙・・信任投票を実施するとした場合、有権者の5割以上の投票率がないとこの理屈では不信任になります。
22日に紹介した上智大学教授の意見はこの段階を言うのかも知れません。
この場合でも棄権者を不信任に数えるといつまでも決まりせんから、(競争相手のない選挙・・信任だけの投票になると投票率が5割を超えるのは難しいでしょう)信任・不信任のどちらかの投票が出来るようにしておいて、有効投票の比較多数だけで決めるのが現実的でしょう。
結局棄権者を不信任と評価する考えはこの段階で破綻します。

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