利害調整能力2

宗家の源為義自身ヘマの連続だったようなイメージでしたので小さくなっていて、公卿社会の嫌がらせの矢面に立った経験がないので、頼みの摂関家が力を失うとどこの国にもある宮廷内の複雑な争いに自分で関わるようになりましたが、うまく立ち回れなかったのでしょう。
こうした時間経過と、摂関家の弱体化目的で動いていた白河〜後白河の流れの中で源氏に対する当て馬として平家贔屓されてきたことに対する摂関家の冷ややかな目の中で台頭した伊勢平氏に比べれば、源氏一門は宮中での陰湿な嫌がらせの経験が少なかったでしょう。
平氏の方が宮廷工作では一日の長・有利に立ち回る能力が磨かれていたと思われます。
清盛が播磨守〜安芸の守など行政職を歴任していくのに対して義朝は左馬頭といういわば軍事部門に登用されたのも実は適材適所だったように見えます。
昨日紹介した通り、子供の頃の頼朝の官位も兵衛系です。
物語しか読んだことがなく史実か否か不明ですが、悪源太義平にしろ、為朝にしろなんとなく地方で粗野に?跋扈するにふさわしい猛者で、都人相手に虚々実々のな駆け引きになじまないイメージです。
木曽義仲が京都に出たときに都人の笑い者にされる場面・・人の良さが出ていますが、一方で「木曽殿最後」で見えるように主従の誓いの美しさ・・武士社会では心の通う善き人であったに違いないでしょう。
武士とはこういうものだ・貴族の真似をする必要がないと開き直り、(新しい時代到来の明らかにし、)官位を受けなかった上に武家の棟梁として鎌倉に本拠を構えた頼朝の偉大さです。
清盛に戻しますと、保元平治の乱の処し方の大成功によって都での揉め事の解決には清盛の武力に頼るしかない状態になった以降、ちょっとした政変のたびに「〇〇の守」等の官職を平氏一門がほぼ独占的に就任した上に、旧公卿勢力もなお侮れないので彼らにも(和歌を習うなど)気を使わねばならないので、貴族化する一方で地方武士にとっては裏切られた気持ちでナオのこと不満です。
この恨み節の代表的表現が地下人の代表ではなくなったという「平家の公達」という呼称でしょう。
韓国文在寅大統領の弱みは、労組支持にたよるためにその期待を裏切れない(労組の場合、次世代ホープではなくかげり行く勢力ですが・・)のと同じで贔屓の引き倒しになってきたのです。
不満武士層を支持勢力にして挙兵した頼朝は、政権を事実上掌握すると真っ先に?問注所を作ったのは、この塩梅がうまくいかないと政権がもたないことを知っていたからでしょう。
これまで何回も書いてきましたが、政治とは利害調整が本務です。
政権批判だけで政権を運よく奪いとっても、その後の利害調整能力がないと政権を維持出来ません。
日本野党や韓国の与野党は、あちら立てればこちら立たずの利害調整能力がないのが欠点です。
自社2大政党・55年体制のころには、水と油の二大政党では、いつまでたっても政権交代ができない・・英米並みの方向性が同じ与野党が必要という議論が一般的でした。理念が違うから政権交代できないのではなく、一方は批判だけで具体的な利害調整をしたことがないからいざ政権をとってもどうして良いか判らず右往左往するのが目に見えていたので、国民は怖くて任せられません。
民主主義を守れ、平和主義・国民を大事にする政党というお題目だけで具体的政治をできるはずがないのです。
韓国の場合、国民が成熟していないので大統領を選んでもすぐに不満で我慢ができなくなるのが難点です。
韓国歴代大統領は、任期満了近くになるとどうにもならない不人気穴埋めのために反日を煽るしかなくなるのが、任期満了直前の常套手段になっていました。
日本は困った国だと思いながらも仕方ないか!と相手にしないできたのですが、大統領が変わる都度前大統領より一歩ずつ過激化しないと国民への訴求力がないので、過激化の限界がきたので、李明博元大統領がついに竹島上陸の他に禁じ手の天皇攻撃まで始めたので、さすがに日本が騒然としました。
その大騒ぎを起こして任期満了になったあとを継いだ前朴大統領はさらに一歩進めて慰安婦騒動を国際問題に拡大・告げ口外交を繰り返したので、戦後初めて日本も反撃を開始したことにより国際世論動向では日本優勢になってきました。
米国が仲介に乗り出したので、(せっかく日本優勢になっていたのに・・不満な人が多かったので?)日本は「不可逆的」という修飾語付きであれば合意しても良いという条件を出して韓国も不名誉な条件をつけられても(完敗よりは良い?ということで)ようやく日韓合意となりました。

朱子学原理主義(白石)→現実主義(吉宗)1

吉宗大抜擢の背景を見ていきます。
本来世襲に関して(今の天皇制継承順を見てもあるように)最も重視されるべき序列順位を大きくをひっくり返し吉宗に将軍位が転げ込んだには、それなりの政治背景があったと見るべきでしょう
私の想像ではない・一般化している事情として、外様大名の支持が吉宗に集まったことが知られています。
吉宗に関するウイキペデイアの記事です。

御三家の中では尾張家の当主、4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太は、相次いで死去した[注釈 3]。そのため吉通の異母弟継友が6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛安己[注釈 4]と婚約し、しかも間部詮房や新井白石らによって引き立てられており[注釈 5]、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母・月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反白石の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。

序列的に実はかなりの後順位であった点については以下の通りです。
同じウイキペデイアです

注 秀忠の男系子孫には他に保科正之に始まる会津松平家があり、松平容衆まで6世代が男系で続いており、清武の死後も秀忠の血筋を伝えていた。

吉宗は家康まで遡らねばならない遠い血縁でしかないし、そこまで遡れば数え切れないほどの?血筋がいます。
御三家としても筆頭ではなかったのですが、家宣・家継政権中枢(間部・新井に受けのよかった尾張家がどんでん返しで排除されたのは、なぜか?を見るべきでしょう。
家宣は、私の主観イメージですが相応のまともな政治をしてきたように思われますが、頼りないとはいえ実子がいる限り、紀州家が気に入らなくとも尾張家などから養子を入れる余地がないまま死亡してしまいました。
綱吉も家宣も世子となる前に時の将軍の養嗣子になっているように、家光の子・4代将軍の弟というだけでは家督相続できない仕組みだったのです。
家継は幼少で死亡(予定?)したので、綱吉のように次世代指名がないまま死亡する予定で家継将軍就任時から適格者同士で後継争いにしのぎを削っていた状況でした。
ちなみに年長養子禁止制度は現民法でも維持されています。
そうなると4〜5歳以下の子供では実績もなくあらかじめ養子にすることは不可能だったでしょう。

民法
(養親となる者の年齢)
第七百九十二条 成年に達した者は、養子をすることができる。
(尊属又は年長者を養子とすることの禁止)
第七百九十三条 尊属又は年長者は、これを養子とすることができない。

当時の養子制度を検索すると江戸時代中後期以降の研究論文があっても家の維持を前提にした研究・末期養子禁止や養子適格の範囲がどのように変遷したか、養子の破談・離縁が意外に多かったなどのほか「内分」などの非公式処理の実態・制度が後追いで緩やかに変えていくなどの紹介ばかりで年長者養子禁止のデータは見当たりません。
動物の掟として「当然のことで資料に当たるまでもない」と学者らは理解しているのでしょう。
養子制度の論文をみたついでに横道ですが、以下感想を紹介しておくと、日本では制度があっても内分(関係者間では了承されているが公式手続きに乗せず内分に止める)運用が一般化していたようです。
税務申告で言えば、1種の2重帳簿?的道義に反することではなく、私の想像ですがよく知られているところでは、死後養子を生前養子にする他、一定の近親外の養子でも仮親を利用するなど不都合なことは内々にすますなどの便宜扱いが公然化し、幕府や大名家ではこれら実態を後追い的に追認的に、徐々に要件緩和をしていたようです。
今の社会でこういうのが発覚すると、関係者を処分せよとメデイアは大騒ぎですが、現場の裁量の利く社会だったようです。
・・村役人の私利私欲のためではなく、実態からしてやむを得ないと現場判断する事例が増えれば、社会変化をそのまま反映し、正義が行われる社会・ダム決壊・革命まで待つ必要がない・・変化阻害要因にならず、社会変化と制度が同時並行的に変化していくので庶民の政府に対する不満がたまりません。
幕府や大名家がこの変化を追認していく展開のようです。
このシリーズで強調している融通のきく緩やかな社会が養子縁組制度の運用でも維持されていたように思われます。
ドイツのユダヤ迫害に関し杉浦千畝大使が、本国訓令に反して?最大限時間の許すかぎり日本国への出国許可の文書発給し続けた人道的行為が今になって賛美されていますが、日本では現場価値判断・正義を自己責任で遂行すべきという価値観が基礎にあったからできたことでしょう。
日本では緩やかに社会変化しこれを最初に受け止める現場で柔軟対応していくので、少し遅れて公式制度も緩やかに変わっていくので、ダムの決壊のような暴力的革命不要でやってこられた基礎です。
江戸時代にも年長者養子禁止の倫理があったとすれば、家継が7代将軍になったのが3〜4歳くらいで死亡7歳(満年齢では6歳)の家継より年少養子を迎えることができなかった・政権中枢の意見(尾張家の方が良いと思っても尾張家を養子にできなかった点が隘路だったのでしょうか。
側近が幅を利かせるのは主君の意向を伝える立場を利用できる・・・老中会議で決まっても「上様の御意」ですと拒否できるのが強みでしたが、その主人が世子決定することなく死亡すれば、老中合議が最高意思決定機関になります。
この権力空白をなくすためには、将軍生前に綱吉のように世子 を決定し養子にしておくべきでしたが 、家継が幼児すぎてできなかった以上は、老中会議(閣議)に権力が戻ってしまうことが事前にわかっていたはずです。
家継死亡後は、誰の側近でもない・・いわば失職状態で軽輩の彼らが次の世子を決めるべき重要協議・・幕閣協議に参加できないし、幕閣が事情聴取すべき徳川御一門でもありません。
すなわち何の影響力もない状態におかれました。
尾張家が現政権中枢(幼児=後見?間部/新井連合)に取り入り、彼らに気に入られていても世子指名権がないどころか意見も聞かれない側用人等側近に食い込んだのは愚策だったことになります。
軽輩の側用人が本来の権限もないのに公式機関を無視して幕政を壟断していることに対する幕閣の不満派や新井白石の厳しすぎる政策に対して不満を抱く諸大名支持を失った戦略ミスが想定されます。

融通むげ・知恵伊豆と大和心4

松平伊豆守信綱に関するhttps://ja.wikipedia.の記述です。

行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ・・・・・信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である[27]

政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『名将言行録』)

数百年続く徳川体制確立に成功した稀代の政治家であったという評価の高い所以です。
彼の死亡後数十年そこらで、仁慈の実現として綱吉の生類哀れみの令になります。
(生き物すべて大切にせよというのは仁慈の実現には違いないですが、そこまでやると「〇〇キチガイ」の一種と評価されるのが日本社会の良識です)
欧米でPCの行き過ぎに対する反発が広がっているように、何かの主張が首尾一貫するように隅々までいき渡るように目を光らせると洋の東西を問わずに息苦しい世の中にするのはまちがっています。
ITが便利な時代が来てもアナログ的生活をする人がいても良いように、グローバル化やIT利用で成功する人や企業が多数としてもそれを強制する権利があるか・政治としてそこまでやって良いかは別問題です。
隅々まで厳しくやってはいけないと諭していた信綱は寛文2年(1662年)3月の死亡ですから、綱吉の生類憐みの令(1687年)までホンの短期間で細部まで徹底する政治・秀才政治・窮屈な社会が始まっていたことがわかります。
生類憐れみの令に関するウイキペデイアの記述です。

貞享4年(1687年)10月10日の町触では、綱吉が「人々が仁心を育むように」と思って生類憐れみの政策を打ち出していると説明されている[9]。また元禄4年には老中が諸役人に対して同じ説明を行っている[10]。儒教を尊んだ綱吉は将軍襲位直後から、仁政を理由として鷹狩に関する儀礼を大幅に縮小し、自らも鷹狩を行わないことを決めている[11]。

綱吉は学問好きで知られ文治政治を推進したと言われます。
綱吉に関するウイキペデイアです

戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。

中国王朝的価値観一辺倒の始まりで、この価値観によれば立派な君主に位置付けられるのでしょうが、勉強好きなら良いというものではありません。
綱吉は生き物は全て生きる権利がある倫理観?これを突き詰めれば草木も食べてはいけないのか?となるように、もともと学問やルールは末端ではゆるくしないと論理に破綻を来すのが原則です。
これを戒めたのが、知恵伊豆と言われた松平伊豆守の知恵だったでしょう。
ところが綱吉は、これを強制力・処罰を伴う生類憐みの令を次々と布告したので、行き過ぎでみんな困りましたが、このように学問的論理が隅々まで行き渡ると結果的に無理が出てきます。
欧米の勝手な論理・・牛肉を食べるのは良いが、クジラは許さないという自分勝手な論理に納得している日本人が何%いるでしょうか?
大和心と言うより以前から日本人の心はこういうものです。
朱子学全盛の結果窮屈な社会がすでに始まっていた・・生類憐みの令こそが、が朱子学が末端まで浸透しすぎていた外形的徴憑だったでしょう。
自分の気に入った学問だからと湯島の聖堂を創設し(のちの)昌平坂学問所で朱子学だけを公式学問にして事実上強制するようになったのは綱吉の時代からです。
思想支配の道具として、聖武天皇が東大寺と国分寺を配置し、明治に東京帝大を作ったように、綱吉は中央に聖堂を作りのちの(全国藩校の指標となる)昌平坂学問所の基礎を作ります。
ひ弱なイメージの強い聖武天皇がその分教養・・時の流行思想である仏教に傾倒して僧侶の公認資格を求めて戒律僧鑑真の渡日を待ち望んだのと似ています。
一つの体制が続くと中央支配意思(綱吉以降朱子学)が末端に届き朱子学の価値観にあっているかどうかの基準が幅を利かすようになります。
これに反発する朱子学対民族派(国学や陽明学の勃興)の争い→民族主義者の尊皇思想と結びつき幕末の尊皇攘夷思想に発展していったように思われます。
綱吉死後、一連の生類憐れみの令はなし崩し的に消滅していきますが、その点の修正をしたのみでしたので、次は新井白石の政治・・正徳の治に見るように朱子学的純化・一辺倒の傾向がさらに増進していきます。
新井白石に関するウイキペデイアです。

白石の政策は、旧来の悪弊を正す理にかなったものではあったが、「東照神君以来の祖法変ずべからず」とする幕閣とは齟齬をきたし、やがて両者の間には深刻な軋轢が生じるようになる。自らが主張することに信念を抱き、誰が何を言って反対しても臆することなく、最後には「上様の御意」でその意見が通るので、白石は旧守派の幕臣からは「鬼」と呼ばれて恐れられるようになった。
様々な改革を行なう一方、通貨吹替えにおいては家康の言葉に従い、失敗をしている。

正徳の治とは、紀元前から言い古された「悪貨は良貨を駆逐する」教えにこだわり、貨幣改鋳をおこなった前政権の勘定奉行荻原を厳しく責めたり、 東照君以来の祖法にこだわるなど時代の変化ついていけないのが秀才の宿命でしょう。
論争の鬼と言われ人望がなかったので、吉宗が就任すると早速お祓い箱になります。

韓国移民熱と経済外指標2

一般的に行われている経済面からのアプローチの基礎になるべき韓国経済の推移は世界ネタ帳によれば以下の通りです

経済成長が上記のように右肩上がりで生活水準が上がる一方の国では、物質的側面だけで自殺率や脱出熱を測る基準でいえば、活気に満ち溢れて自殺者や国外脱出願望が上がる筈がないのですが、自殺増加や失業者増加や自営業者の大量廃業など暗いニュースが多くて、何が本当か真相を理解しにくい国です。
韓国が特殊なのではなく、なんでも経済側面中心に論じる現在の評論傾向に無理があるのでしょう。
経済関連のデータは重要な指標ですが、それは第一歩の指標に過ぎないでしょうから、例えば、部屋が寒過ぎれば、極寒の地か?とも言えますが、冷房がきつすぎる場合もあります。
最近連続した事象では、元次官が不肖の息子が世間に迷惑をかけないうちに・・息子を殺した事件、大手企業役員の息子が吹田市の交番の巡査を襲って拳銃を奪った事件など、経済政策の失敗によるとか親の育て方でどうなるものでもなく、こういう政治や不況が原因とか誰かの責任にして済むことではありません。
左翼系ならラバ、こう言う答えであるべきと言うような、何事も図式化してあんちょこに済ませる時代は終わっていると言うべきでしょう。
いまの時代には、経済データを前提にした報道や意見で終わりにしないで、さらに掘り下げた情報提供が必要です。
韓国の場合昨日紹介した地獄の?徴兵制逃れが、国民にとって重要関心事ですから、この要因を軽視できません。
この辺は一人っ子政策の結果子供が大事になってきた中国でも同じような問題が起きているようです。
まずは韓国で兵役逃れに知恵を絞る事情の一端を紹介しましょう。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/09/post-10955.php

2018年9月13日(木)18時00分
肥満になって兵役逃れ 兵役で人生を無駄にしたくない若者の増加に手を焼く韓国
<徴兵制を敷く韓国では兵役に就きたくない男性たちがあの手この手で兵役逃れを画策>
韓国兵務庁は9月11日、兵役義務を逃れるために意図的に体重を増やした大学生12人に対して厳しい処分を下す方針を明らかにした。
CNNは「兵務庁は兵役逃れの犯罪を根絶するために徹底した調査を実施する構えだ。公平かつ公正な兵役文化が根づくよう、兵役逃れをした者には見せしめとして厳しい処罰を科す所存だ」という当局者の発言を報じている。
問題の12人はいずれもソウル市内の同じ大学に通う音楽専攻の学生。兵役によってキャリアが中断されるのが嫌で、体重オーバーを理由に兵役検査で不合格になるために、急激に体重を増やす方法についてメッセージアプリで情報交換をしていたという。
肉やピザの食事を1日5回摂るほか、体重を増やすためのプロテインパウダーを摂取したり、アロエを含むジュースを飲んだりした。アロエは粒があるので水より排泄されにくいから、と本人たちは言っているという。最終的に、半年で30~100キロも体重を増やして入隊検査で不合格になることに成功。兵役の代わりに公的機関での任務を与えられていた。

北の思想統制に入るのが怖いという移住動機も経済面の客観データだけから推し量れないマイナス要因でしょうが、北の浸透度に関する公式データがないので憶測の域を出ません。
国外移住が不自由になる前に逃げておこうという・・香港の中国返還直前にブームになったような動機も無視できません。
自分の国がダメならば良くするために努力するのが普通ですが、韓国では逃げ出したい人の方が多いのが不思議・・工作員が浸透しているのでやる気をなくしているのでしょうか。
みんなで自分たちの社会を良くするために前向きに頑張ろうと言う雰囲気があって競争するのは楽しいしやりがいがあるでしょうが、ガンバって成功しても財閥オーナーの親族が贅沢するだけで国民みんなのためになるわけではなし、工作員の工作で冤罪をでっち上げられるリスクがあるとすればやる気を失うでしょう。
そんな危険を冒すくらいならば逃げた方が良いという人が増えます。
老朽化マンション修繕や建て替えに骨折るくらいなら、近隣新築マンションに移り住む方が簡単というのが今の風潮です。
店舗で苦情受けつけが整備されても苦情を言うよりサービスの良いすぐ近くの店に買い物に行く方が簡単でしょう。
ナチス台頭になぜ抵抗しなかったのだと批判は容易いですが、恐怖政治が確立してしまうと亡命(国外逃亡・任意団体の場合脱退してしまう)か権力への迎合しかないのが現実です。

中朝・修正装置なしの体制5(脱北者)

今では、小金がなくとも、先進国へ行く片道のお金さえあれば、若者であれば現場労働など3K職場を嫌わなければ、いくらでも外国人向けの職のある時代ですから、出国後の生活不安は昔ほどではありません。
移動コストが安くなった現在国民を大事にしない政府になると、政権に結びついて利権のある人以外の裕福な、有能な国民から順に逃げていくし最下層労働者も少しでも労賃の良い国に逃げていきます。
こうしてみると取り立てた能力のない事務系中間層(国内でも転職能力の最も低いグループです)が逃げ遅れる印象です。
明治以降、(戦後高度成長期も同じですが)地主層子弟が、(太宰など)東京の大学に学び、一方で小脳自作農の次三男や貧農層から工場労働者や商店の小僧として農村を出て都会人になっていったのと似ています。
今や世界中で出国の自由があるのが原則ですが、これを制限する国は国民のための政治をする気持ちがないかあるいは、大事にする気持ちはあるがうまくいっていない自覚がある国だけでしょう。
将軍様の統治権世襲維持が第一で内政が酷すぎる自覚のある北朝鮮では人民に逃げられる危機感が強いので、国外脱出を厳しく制限している結果、いわゆる脱北者が生まれるのです。
規制のない国外脱出でも流れ着いた先での生活手段確保の予定・展望のないリスクの高い行為ですが、脱北者の場合見つかれば銃撃される危険を冒して国境の川を泳いで渡るなどするのですから、さらにリスクの高い行為です。
脱出成功してもその先での生活補償がありません。
女性の場合ほとんどが売春婦になるしか生き残れない実態のようです。
北朝鮮の国外脱出の現状です。
女性の人身売買の実態は悲惨ですが、引用しませんのでご自分で読んでください。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-46914958

脱北するも人身売買で性労働に、女性2人が助け出されるまで
2019年01月30日
ウォン・スミン、BBC韓国語編集長
・・北朝鮮では、政府の許可なく国を離れることは違法だ。それでも、大勢が命を賭けて脱北しようとする。
南側の韓国には安全な避難施設があるが、国境地帯は厳重な軍備が敷かれ、あちこちに地雷が埋まっている。韓国へ直接逃げるのはほぼ不可能だ。
そのため、多くの脱北者は中国国境を目指して北へ向かう。
しかし中国では脱北者は「違法移民」と見なされ、当局に見つかれば送還される。ひとたび送還されれば、脱北者は「祖国への反逆」の罪で拷問され、投獄される。
1990年代の「苦難の行軍」と呼ばれた飢きんの間に、多くの国民が脱北した。この飢きんでは少なくとも100万人が犠牲となった。
しかし2011年に金正恩(キム・ジョンウン)氏が最高指導者に就いて以降、脱北者の数は年々減り、当時の半分以下となった。
国境警備の強化に加え、ブローカーたちが値段を釣り上げたことが、減少の原因だという。
本日現在の脱北者に関するウイキペデイアによると以下の通りです。
中国東北部に潜伏する脱北者は、30万人〜40万人と見積もられている。2009年の中国への脱北者は2万5千人〜3万人。4割は中国にとどまるが、6割はベトナムやモンゴルなどの第三国に渡り、うち女性の大半は売春婦になる。人身売買に関する2009年の米国務省報告書によると、脱北者の8割が人身売買の犠牲になり、大半が売春させられたり中国人の妻となる。妻が不要になった夫が別の男性に転売する事例も起きている。脱北を商売にする仲介業者は少なくとも150人ほど存在しており、ほとんどが朝鮮族とされる
中国政府は脱北者を難民(保護を義務づけられる)とは認定せず、不法入国者としている。本来は国連の難民条約33条には、「難民を迫害の待つ国に送還してはならない」という規定があるが、中国は「中朝間に難民問題は存在しない」、「経済難から国境を越えたごく少数の朝鮮の不法越境者がいる」という立場である。これは長年の友好国である北朝鮮との関係も考慮した措置である。
中国警察に摘発された脱北者は北朝鮮へ強制送還されている。北朝鮮では許可のない出国は厳しく禁じられており、強制送還された人々は死刑を含む厳しい処罰を課せられる。拷問など非人道的行為が数多く伝えられており、脱北者を強制送還する中国政府に対して国際社会から厳しい非難が寄せられているが、中国政府は脱北者に対する姿勢を改めていない。難民と認定して脱北者が急増すると中国東北部に混乱が生じかねないことと、北朝鮮の体制を揺るがしかねないためである。

中国が脱北者送還に協力しているのは中国も近い将来国外移住禁止強化(米ソ冷戦時代の東側諸国では国外移住禁止が原則でしたから、ソ連とは独自路線主張の中国の場合(制度的には北朝鮮同様であるが開放政策以降、出国許可の運用を緩くしているだけかもしれません)に転じた時のために「お互い協力し合いましょう」という実績作りが本音でしょうか。
韓国の場合も、兵役義務を果たしていないものには、国籍離脱の自由を認めない法律があると(真偽不明ですが)聞きます。
子供の頃から日本にいる在日は当然徴兵されていないので、結果的に国籍離脱をできない・・子供の頃から日本にいる在日に、ある日韓国から徴兵招集命令が来ると韓国へ行って兵役に服さねばならないという説明です。
これでは韓国が日本攻撃要員として在日を仕立てると、日本国内の在日がある日突如韓国兵として、日本攻撃・テロを始めるのか?
在日は危なくて仕方ないというイメージ主張がされていました。
要はそんなに日本が嫌いなら出て行ってくれという主張の一環です。
国籍離脱の自由が憲法に明記されている日本でも、合理的範囲の離脱条件を付することは憲法上可能でしょう。
いろんな組織脱退の場合、会費未納その他の義務を果たしてからの脱退を認めるのと同じで「国民の重要な義務である兵役の義務を果たしてからにしろ」という条件づけは不合理とは言えないでしょう。
組織秩序違反行為で懲罰対象になっている最中に任意脱退や退職申し出があってもその審理期間中の脱退や辞職を認めないのが一般的です。
このように国籍離脱に条件があること自体は先進国でもありうることでしょう。

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